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岸田外相に“政治家”としての資質をほとんど感じない。
安倍首相はやらねばならないことをさっさとやり遂げたら即刻辞任すべきと考えているが、自民党のなかで後任にふさわしい人はだれかと考えてもなかなか思い浮かばない。
まあともかく安倍晋三氏が務まっているのだから誰でも...という見方もできるが、平気で嘘をつけ時代がかったパフォーマンスができる安倍氏はなかなかの“政治家”と言えるのかもしれない。
古賀誠氏の「加藤の乱後は、保守的な政治が続いている。小泉政権ができるきっかけとなった。自民党史、日本の政治に大きく響いた。あれを引き起こした一部の方々は今でも許せない」という感覚はそれなりに共有できる。
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[ザ・人事 決断とその後]
自民・宏池会会長に岸田氏(2012年) 背負う覚悟と、出る覚悟と
野党の自民党で安倍晋三がトップに返り咲いた総裁選翌日の2012年9月27日夜。元首相の池田勇人がつくった名門派閥、宏池会(古賀派)の議員2人が衆院第1議員会館で向かい合った。
会長代理の岸田文雄と事務総長の逢沢一郎。会長、古賀誠の後任を話し合うためだ。岸田が「宏池会に骨をうずめるつもりはあるのですか」と迫っても、逢沢から明確な答えはなかった。
古賀は昼の派閥会合で退任を明言。信頼する岸田と逢沢で後任を決めるよう伝えていた。「早く決めないと派閥が荷崩れする」。逢沢の反応を見ながら岸田は覚悟を決めていった。
派閥は分裂含みだった。古賀が前総裁、谷垣禎一の再選を支持せず出馬断念に事実上追い込んだ。反発した谷垣に近い議員が離脱の動きを表面化。谷垣側近の逢沢は宏池会への思いが強く仲間に理解を求めたが、溝を埋められていなかった。
古賀が「直系プリンス」といわれる岸田だけでなく逢沢を後任候補にあげたのは、逢沢を派閥から追い出す形にしたくないとの思いがあった。
古賀と谷垣の確執は根深い。2000年、当時会長の加藤紘一が野党提出の森内閣不信任決議案に同調しようとした「加藤の乱」を機に、翌01年に宏池会は古賀らのグループと、加藤、谷垣らのグループに分裂した。08年には合流したが、微妙な関係が続き、12年総裁選の対応で亀裂が決定的になった。
10月3日、派閥を離れた谷垣ら13人が都内のホテルで勉強会を立ち上げた。覚悟を決めた逢沢も姿をみせ代表世話人に就いた。古賀には断りの連絡を入れていた。翌4日、宏池会は会長に岸田が就き新体制に移行した。
党内で宏池会の立ち位置はリベラルだ。本来、保守色の強い安倍と距離があり、12年の総裁選で岸田らは安倍を支持しなかった。「しばらくは冷や飯食いだ」と覚悟していたが、同年12月の衆院選で政権を奪還した安倍は岸田を外相に就けた。
党内リベラルを主導するはずの岸田を取り込んだ「巧妙な人事」(自民幹部)といわれる。いまや岸田は安倍の安全保障政策や歴史認識を支える存在。今年3月で在任日数は800日を超えた。「ポスト安倍」の候補に名前があがる一方、党内で宏池会の存在感は必ずしも大きくない。
=肩書は当時、敬称略
(秋山裕之)
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「加藤の乱」 今も許せず
古賀誠・宏池会前会長「岸田さん、逢沢さんの2人しかないと思っていた。岸田さんに後を継いでもらえればいいと私の念頭にあった。(2人で)話し合ってもらえば、岸田さんに収まるかなと思った。逢沢さんは気の毒だった。(谷垣禎一自民党幹事長ら)加藤の乱を起こした一部の方々は今でも許せない」
[日経新聞3月29日朝刊P.4]
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古賀誠氏「秋の総裁選、無投票は無責任」
(3月29日付朝刊政界面関連インタビュー)
2015/3/29 3:30
自民党の名門派閥「宏池会」の古賀誠前会長は2012年に退任する際、当時の逢沢一郎事務総長と岸田文雄会長代理に後任を話し合って決めるように求めた。結果は側近の岸田氏が会長を継いだ。古賀氏にその経緯と今後の政局を聞いた。
――12年の党総裁選後に会長退任を表明しました。
「初当選した1980年に30年間、1回も落選しないように頑張ると決めた。2009年衆院選が終わった段階で次は出ないと決めていた。総裁選後、(次期会長を)決めておいたほうがいいと思った。私の意志だ。誰がいいかと議論したわけではない」
「(岸田、逢沢両氏と林芳正農相の)3人の(派閥内での)役割を分担し布石は打っていた。岸田さん、逢沢さんで話し合って決めていただくのがベストだと思った。それに参院を代表する林さんに加わってもらった」
「宏池会は、クーデターで会長が(前尾繁三郎さんから)大平正芳さんに代わった。(宮沢喜一氏と田中六助氏の)一・六戦争、加藤(紘一)さんと河野(洋平)さんの確執、俺と谷垣(禎一)さんの確執があった。ドタバタ劇にならないようにするのが大切だと思っていた。あのタイミングが一番いいかなと思った」
――岸田、逢沢両氏の話し合いを求めました。
「岸田さんに後を継いでもらえればいいと、私の念頭にはあった。話し合えば、岸田さんに収まるかなと思った。私が岸田さんにバトンタッチしたいという意識がそのまま反映された」
――谷垣グループは宏池会離脱の構えで、逢沢氏は悩んでいました。
「逢沢先生はお気の毒だった。(08年に旧古賀派と旧谷垣派が)合流してからはよくやってくれた。逢沢先生も根っからの宏池会だ。2000年の加藤の乱で派が分裂し、あっち(旧谷垣派)に行ったという経過はあっても、その前は一緒だった。僕は加藤の乱は宏池会にとって、いまの政治にとっても極めて不幸な出来事だったと思っている」
――宏池会会長の加藤氏や谷垣氏が森内閣への野党の不信任決議案に同調の構えをみせた加藤の乱ですね。いまも尾を引いているのですか。
「加藤の乱後は、保守的な政治が続いている。小泉政権ができるきっかけとなった。自民党史、日本の政治に大きく響いた。あれを引き起こした一部の方々は今でも許せない」
――谷垣氏の派閥とは08年に再合流しました。
「乗り越えることは大事だと思ってやってみたが、結局は一部の加藤の乱の人たちとの確執、不信感はぬぐえなかった。向こうもしっくりこなかったのだろう。常にミシン目が入っている感じだった。私の指導力不足は反省すべきだと思う」
――岸田さんは安倍政権で外相です。
「非常に難しい安倍外交をうまくバランスをとっている。平和外交の先頭に立ってくれている」
――宏池会の会長としての評価はどうですか。
「うん、まあ。なかなか難しいところもある。派閥をまとめていくのは難しい。岸田カラーが出てくるのはこれからだ」
――「自民党は自由にモノを言えない雰囲気」と警告しています。
「警告というか事実を言っている。自民党を支えてくれているコア層と、絶対に自民党には来ない共産党支持者のような層。この真ん中にある層を自民党は大事にしないといけない。右傾化が過ぎるのではないかという不安や不満は当然ある」
「安倍さんを倒閣すると言っているわけではない。ただ安倍さんのための党ではない。対抗勢力を大事にする必要がある。宏池会は先頭に立ってやるべきだ。岸田カラーはそういうところに着眼してもらいたいし、発信力を強めてもらいたい」
「岸田さんは、まだ外相をやっている。安倍さんと食い違いがあってはいけない。やっぱり俺が言うしかないかなと思う」
――今秋の自民党総裁選は無投票との見方があります。
「対抗勢力の中から、多様な意見の代表者として、誰かが出るのが一番わかりやすい。その環境をつくる責任も負わないといけない。無投票にするのは、批判するだけの無責任になっていく」
――岸田氏や(無派閥で古賀氏に近い)野田聖子氏が候補ですか。
「僕は固有名詞を言ったこともないし、まだ頭の中でまとめているわけでもない。すばらしい人が出てきて『俺の考えはこうなんだ』と言って、それが平和に合致すればいい。集団的自衛権をどう扱うのか。憲法改正はどうするのか。国民によく分かるようにやっていただきたい」
(聞き手は秋山裕之)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO84831710V20C15A3I10000/
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