51. 2015年5月22日 16:33:50
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必読農と島のありんくりん http://arinkurin.cocolog-nifty.com/blog/2014/09/post-94c2.html 琉球王国は独立国ではなかった? わが国でいちばんにぎやかに「独立」を唱えているのは沖縄県です。県知事選でも下地幹郎氏がこんなことを言っていました。
「県知事選(10月30日告示、11月16日投開票)に出馬表明している元郵政民営化担当相の下地幹郎氏(53)が26日、石垣市のホテルで講演し、米軍普天間飛行場移設問題について県民投票で決着させる考えを改めて説明。 県民投票の結果を踏まえた日本政府との交渉が決裂した場合には「琉球独立を問う住民投票をやる」と表明した。 (八重山日報9月20日)
●下地氏はこのように「独立」の道筋も、その手段も一切示さずに、「独立」を単なる本土政府との交渉材料にしてしまっています。 ●同時期に起きていた唯一の先進国の独立事例であるスコットランドについて、真面目に調べた形跡すらありません。 ●そういえば、琉球民族独立総合研究学会代表の友知政樹研究理事が、わざわざスコットランドまで行って、こんなことをガーディアン紙に言っています。 中国に対して危険ではないのか、という質問に答えて ●「沖縄は既に、日本によってもっとずっとひどく侵略されているようなものだ。中国は琉球王国だった何世紀もの間、一度も我々を侵略しなかった」
●この中国に対する底抜けの無防備ぶりと、あまりに対照的な日本に対する底知れぬ「憎悪」は一体なんなのでしょうか。 アジアという見取り図の中で、「朝貢・冊封関係」という補助線を引いてみれば、この沖縄という複雑な存在が少し分かり易くなるかもしれません。 ●いや、ここでは「琉球」と言ってあげるべきかな。「琉球」と書いて、ふと、この「独立」を唱える人たちが「沖縄」を使用しないのにはきっと訳があるのかな、と思いました。 あまり区別されていないようですが、「琉球」と「沖縄」はちょっと違います。 ●「琉球」は中国呼称による国号で、「沖縄」は日本語呼称です。 ★「琉球」という呼称を自主独立のシンボルのように言う人がいますが、事実は「朝鮮」と一緒で、中華帝国の華夷秩序(※欄外参照)に属していた琉球王国が、中華帝国皇帝から賜った国名が「琉球」です。
この朝貢・冊封体制下に沖縄があったことが中国が、いまだに沖縄をかつての版図であったと考える遠因となっています。
もちろん近代以前の中華帝国の版図概念を持ち出すこと自体がおかしいのですが、中国にも沖縄にも、そのDNAのようなものが強く残っているのは確かです。 ●朝貢・冊封体制は、政治的に「王」として権威付けしてもらうだけではなく、大きな経済的利益を生み出しました。 琉球王国の14世紀から15世紀における輝ける大交易時代は、まさにこの中華帝国の版図内を舞台にしていたわけです。 (※交易路図と説明は欄外参照) 中華帝国は漢代からこのアジア全域で圧倒的な覇権力を持ったスーパーパワーでした。もちろん軍事力と経済力がその背景にあります。 ですから、この域内の国は、武力を背景とする安全保障を中華帝国から提供されて、皇帝に服従を誓うことによって恒常的な軍備の保持を免れて、交易路の安全も確保できたわけです。 中華帝国を米国と置き換えれば分かりやすいでしょう。あるいは参勤交替に例える人もいます。 ★琉球王国が非武装だったというのは戦後に生れた平和神話で、上里隆史氏の最近の研究では琉球王国はおそらく数百から数千の兵を有していたと考えられています。
1500年に起きた王府軍による八重山征服戦争では、軍船約100隻と3000人の兵が動員されたとあります。
同じ有事来援の約束は朝鮮ともあって、現に秀吉の文禄・慶長の役の時は、明軍が大軍を派兵してくれています。 ●朝鮮戦争時の毛沢東の軍隊の越境も、この歴史的な両国の間柄という文脈でみると違って見えると思います。 ●とまれ、琉球王国は元号も中華帝国のものを使っていましたし、那覇にある守礼の門も冊封使を迎えるものでした。 ●冊封使が来沖すると、琉球王はここまで出迎えて三跪九叩頭の礼をとったわけです。 ●その見返りに沖縄は、「琉球王」に封じられることで、朝貢貿易の利益を独占でき、これこそが先ほど述べた沖縄の貿易海洋国家としての経済的源泉だったといえます。 ●こんなことを500年もやってきたわけですから、大きく力あるものに仕えるという事大主義がDNAの中に深く刻まれてしまいました。 ★よく沖縄の知識人に、かつての琉球王国を輝かしく平和で自由な独立国とイメージする人が多くいますが、その「自由」とは中華帝国が保障していたわけです。 ● この中華帝国の下の「属国としての平和」を砕いたのが、アジアで唯一の朝貢・冊封関係から自由だった日本です。
中華帝国から見れば、日本は皇帝の支配にまつろわない「化外の地」ということになります。(※欄外 華夷秩序概念図参照) ●1609年の薩摩島津軍の侵攻に対して、琉球王府軍は4000人の軍隊で迎え撃ち、最新兵器の大砲まで使用していたことが記録されています。 ●惨敗したのは、相手が戦国最強の薩摩軍であったことに加え、安全保障を中華帝国に依存していたために自主防衛が手抜きであり、まともな作戦計画が立てられなかったからです。 ●しかしそれでも、局地的には薩摩軍を撃退して、「独立国」の意地を見せています。 ●薩摩藩、つまりは日本の「海外侵略」だったと言う人がいますが、17世紀とは大航海時代後期に当たっており、西欧勢力がアジア全域に登場する時期でした。 ●そのような時代に、いまの価値観を持ち出しても意味がありません。そのような時代であったとしかいいようがありません。 ●さて沖縄は薩摩藩の進攻によって、今風に言えば日本が実効支配したわけですが、ここでややっこしいトリックめいたことが行われました。 ●薩摩藩は朝貢貿易を維持するために幕府の許可を得て、琉球王国をそれまでと一緒の冊封国として見せかけて、裏から支配することをしました。 明はそれを知っていながら見て見ぬふりをしたようですが、ここに沖縄のふたつの国に臣従する「両属国」という琉球王国の基本性格ができます。 ●この両属性が解消されたのは、明治維新以後まで待たねばなりませんでした。 ●「沖縄」という国語呼称が定着したのは、正式に明治期に日本国に編入されて県名となってからです。 ●これがいわゆる「琉球処分」ですが、それは形式的には琉球王国の解体でしたが、沖縄にのみ適用されたわけではなく、廃藩置県のひとこまにすぎません。 ●これを先日NHKが、「独立を求める琉球と、それを暴力的に押しつぶした日本」というステレオタイプな描き方をして波紋を呼びました。 ※HHKはるかなる琉球王国 〜南の島の失われた記憶〜 ☜(削除) ●この時にも沖縄の支配階層は、黄龍旗を翻して清が日本を打ち破るために来援してくれることを熱望したそうです。 しかし、宗主国・清に救援を乞うた幸地朝常の願いも虚しく、黄龍旗はまたもや現れませんでした。 ★つまり、薩摩軍進攻に継いで二度に渡って、中華帝国は琉球王国を見放したのです。 ●NHKは、マルクス主義歴史観に沿って、「武器なき平和な島を武力で滅亡させた日本」という図式を描きたいようですが、中華帝国の都合によって切り捨てられ、日本のひとつの「地方」として近代化の道を辿ったのです。 ●このように琉球王国は、朝貢体制下の属国であったに過ぎず、近世においては二主に仕える二股国家だったのです。 ●この両属国家という性格が故に、東アジアのもうひとつの朝貢・冊封国である韓国とシンクロした動きが生れました。 ●それが今の沖縄で起きている「独立」という名を借りた「慕華思想」現象(※)なのです。冒頭に上げた下地氏や琉球独立学会の発想は、まさにここから来ています。 ●公平にみれは、スコットランドでさえ独立が無理だったわけですから、財政的にも経済的にも、いかなる意味でも不可能とかんがえるのが妥当です。 ●しかし、彼ら「琉球独立派」が、初めから自力での「独立」を視野に入れていないとしたらどうでしょうか。 ●彼らにはもとより自立する気などなく、弱体化した米国(日本)から離れて、隆盛するかに見える赤い中華帝国に「復帰」することを考えているとすれば・・・。 恐ろしい想像です。当たってほしくない想像です。 ●なお、「琉球民族」と日本民族は、そのヒトゲノム解析、あるいは習俗、言語から同一の日本民族に属します。念のため。(欄外参照) 長くなりましたのでもう一回、続けます。 :;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+:;;;:+*+ ※華夷秩序(かいちつじょ)の用語解説 - 中国の皇帝を頂点と する階層的な国際関係を指す。古来中国にある自分たちは優れた文明を持つ世界の 中心(中華)で、周囲は未開の野蛮人(夷)であるとの考え方に根ざす。
※華夷秩序概念図 http://www.kanekashi.com/blog/2011/06/001621.html ※交易路(上に同じ)
※琉球王国の大交易時代http://www.jsanet.or.jp/seminar/text/seminar_281.html 大航海時代に先駆ける14〜15世紀、琉球王国は東アジアの貿易の拠点として華々しい繁栄を謳歌していた。東は中国、南はフィリピン、ベトナム、タイ、北は九州や近畿地方、そして朝鮮半島に至る広大な地域を縦横に往来したその旺盛な活動の背景には、元を滅ぼして新たな王朝を築いた明の存在があった。 明は外国との国交・貿易に中国の伝統的なシステムである朝貢貿易という形態をとった。これは明へ朝貢を行う国とのみ貿易活動を行うというもので、朝貢国として認知されない国の船は中国の港に入港できない。ところが琉球は、明王朝成立直後の動乱期に、火薬原料の硫黄や軍馬を輸出したことから友好関係が生れ、朝貢国の中でも高いランクに位置づけられていた。 さらに明がとった海禁政策によって、中国の商人は海外に渡航することを禁じられた。こうして琉球王国は、東アジアにおける対明貿易をほぼ独占するようになったのである。 琉球の貿易活動はこれにとどまらず、さらに東南アジアや日本・朝鮮を結ぶ中継貿易に発展。「舟楫を以って万国の津梁となし、異産至宝は十方刹に充満せり(舟を操って世界の架け橋となり、国中に諸外国の至宝が満ち溢れている)」と自画自賛するほどの繁栄をもたらした。 この壮大な大交易時代は、16世紀以降のスペイン・ポルトガルの進出や明の弱体化、そして17世紀初頭の島津氏の侵入によって終わる。しかし大航海時代に先駆けた南海の王国・琉球の栄光の時代は、海の道を通じた交易活動が、国土や人口に関わりなく、一国の経済発展にいかに大きな力をもつかを示す好例といえるだろう。 ※現代沖縄人DNAの遺伝系統「日本本土に近い 琉球新報 」2014年9月17日 ●琉球大学大学院医学研究科の佐藤丈寛博士研究員、木村亮介准教授、北里大学、統計数理研究所の共同研究チームが、現在の琉球列島に住む人々の核ゲノムDNAを解析した結果、遺伝的に琉球列島の人々は台湾や大陸の人々とつながりがなく、日本本土により近いという研究成果を発表した。琉球大学が16日、発表した。また、沖縄本島から宮古、八重山諸島へ人々が移住した時期をコンピューターで計算した結果、古くても1万年前以降と推定。宮古のピンザアブ洞穴人(2万6千年前)や石垣の白保竿根田原(さおねたばる)洞穴人(2万年前)は、現代の宮古、八重山の人々の主要な祖先ではないと結論付けた。 ● これまで、骨や一部DNAの分析から、琉球列島の人々は中国や台湾より日本本土の人々と近いとする研究成果が発表されてきたが、今回、初めて全ゲノムを網羅した解析によって同様の結果が導かれた。今後の琉球列島の人々の起源を探る研究の一助として注目されそうだ。 研究チームは、現在の沖縄、宮古、八重山諸島出身者数百人からDNAを採取し、ヒトゲノム全域に分布する60万個の単一塩基多型(SNP)を解析した。その結果、琉球列島の人々と台湾先住民は別系統の集団で、地理的に近接する八重山諸島の人々も台湾先住民との間に直接の遺伝的つながりがないと結論付けた。 港川人についても同チームは「琉球列島の人々と漢族が分岐した年代が縄文時代以降であると推定されたことから、沖縄諸島の人々の主要な祖先ではない可能性が高いと思われる」と推測し、今後さらなる精査が必要としている。 ※慕華思想 中華帝国を慕い、その支配に復帰を願うこと。明朝滅亡後の朝鮮で使われた。 2014年9月26日 (金) |