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三原議員「八紘一宇」発言に違和感なし。言葉だけをあげつらっていては、事の本質が見えなくなる
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42576
2015年03月21日(土) 馬淵 澄夫 現代ビジネス
■私も所信表明で「八紘一宇」のルーツに触れたことがある
3月16日の参議院予算委員会質疑で、自民党の三原じゅん子議員が、神武天皇の橿原建都の詔(かしはらけんとのみことのり)の一節を引きながら「八紘一宇」という言葉に言及したことが、報道やネット上で大きな波紋を呼んでいる。
橿原神宮は、奈良県の橿原市にある。私も奈良選出の国会議員のひとりとして、この問題について、黙っているわけにはいかない。
実は、私自身も、この参議院予算委員会の模様は、国会内の中継でリアルタイムに見ていた。また、後に三原氏が説明を補足したブログ記事も拝見した。三原氏の発言に驚きこそすれ、違和感は覚えなかった。
私は毎年春に支援者の皆さんに対して、私の「所信表明」をお伝えすることにしているが、平成26年3月の「第10回まぶち会春の集い」で発表した所信表明演説で、私も橿原建都の詔を紹介しながら、価値観を分かち合う共生の理念を訴えさせて頂いた。少々長文になって恐縮だが、ここに再掲しておこう。
■「共生」の思想
『価値観を分かち合う…共生の概念と無窮の連続性』
昨年、私はこのまぶち会での所信表明で、この国は、人々が集いあう共同体としての絆を大切にする国であると申し上げました。
お互いが守らなければならない規範というものは、まず共に生きるためのさまざまな阻害要因を取り除くことから始まり、そこに根ざした価値観が、この国の長い歴史の中で培われたのだと申し上げました。
まさに、共に生きる社会の実現を目指してきた、「共生」の思想こそ、この国の力の源泉であり、「共生」の概念こそ、この国の原単位である家族の暮らしに根差した底力(そこぢから)なのです。
この価値観を私たちは、歴史に根差したものとして受け止めるべきであり、それを明らかにしている二つの史料を掲げたいと思います。
■『古事記』の共生の思想
一つは古事記であります。二年前に奈良では『古事記』撰録千三百年記念事業が行われました。この日本最古の神話には、西洋の神話にうたわれる「創造=つくる」とは真っ向から対立する思想である「なる=成る」という思想が記されています。
生まれ、変化し、実(み)に成る。これをすべて「なる」として、日本人は考えていました。外から手を加えて何かを「つくる」のではありません。
西洋の創造神は、超越して外からこの世界に手を加えて万物を創り、「さあ人間よ、万物を支配せよ」と言いました。これに対し日本の「なる」という思想は、人間が自然の支配者とはならず、人間も大きな自然の一部として、「なる」のサイクルに組み込まれた存在であると考えます。
日本神話では、すでに天地(あめつち)があるところに神々が現れます。日本政治思想史の学者・丸山眞男は、このことを「つぎつぎになりゆくいきほひ」という言葉で表現しました。すなわち「無窮(むきゅう)の連続性」です。命の一つひとつは、はかなく消えていくのかもしれません。しかし、それが「次々に」、連続性をもって、永遠につながっていく。その連続性を保つ「いきほい」こそまさに「徳」を表す言葉だと考えたのです。
燃えたぎるような「生命力」や母性に象徴される「生む力」……自らの存在の奥底から湧き上がってくるこの「生成のエネルギー」をみなぎらせることこそが、日本人にとっての徳である。日本人は本来、活力に満ちた民族だということを改めて感じます。
このように『古事記』の中には、日本古来の「生きる力=いきほい」の力強い思想が息づいています。混迷する現代を生きる我々に求められているのは、自らの身体の奥底から湧き上がる、この「いきほい」の力を自覚し、一人一人が自らの「生む力」を取り戻すことではないでしょうか。千三百年を経た今、『古事記』は古びるどころか、現代に対する重要なメッセージを投げかけています。
■「橿原建都の令」
そして、もう一つの共生の思想を示しているのが紀元前六百六十年の初代・神武天皇建国の詔(みことのり)「橿原建都の令」であります。そこには、「苟(いやしく)も民(おおみたから)に利(くぼさ)有らば、何ぞ聖造(ひじりのわざ)に妨(たが)はむ。」と記されています。
神武天皇は国民のことを「大御宝(おおみたから)」と呼び、国民を幸福にすることこそ為政者の務めと考えていました。以来二千六百年にわたり、この国は覇権ではなく徳をもって治めてこられたことから、我がこと以上に相手を思いやる、即ち「利他の精神」が国民の中に共有されてきたのです。
世界では、征服の歴史によって隷属を求めてきた為政者が常であり、国民を「たから」と称する国は我が国以外にありません。建国以来の精神として徳治がなされてきたのです。
さらに、詔には「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや。」と記され、天下に住む全てのものが、まるでひとつの家になったように温かい結びつきを実現させることの尊さを説いています。まさに、人々の心のつながりによって、一つの家、家族のような国を創り為(な)そうというのが神武建国の理想であったのです。
この国の長い歴史の中に、「家族宣言」という言葉で、私自身が語り続けてきた国家観が脈々と続く価値観として示されています。
私は、再び、挑戦します。見せかけの保守や、復古的国家主義が台頭しようとする危うい政治情勢に対し、そして、弱い立場に置かれ、途方に暮れた人を切り捨てるような冷たい政治に対して、日本の伝統・文化・価値観、すなわち日本人の「心」を正しく映した本当の保守政治とは何かを私は問い続けます。
たとえどのような厳しい状況に置かれようとも、どのような試練が待ち構えていようとも、人の心が通った一つの家族のような温かな国を創る政治を、私、馬淵澄夫は必ずや実現するべく挑戦し続けてまいります。
以上
■安倍総理や麻生財務大臣の残念な答弁
通常、国会質問というのは、用意周到に練られたものだ。もし仮に、三原氏が「橿原建都の詔」として質疑をしていれば問題視されることはなかっただろう。
それにもかかわらず三原氏は、「八紘一宇」という言葉を、今回あえて使ってきた。与党ながら、彼女が政治家として、時の総理や国民に対し何かを訴えかけようとする覚悟を感じさせた。
それとは対照的に、安倍総理や麻生財務大臣といったリーダーたちの答弁で、強欲なグローバル資本主義の矛盾に日本はどう対応していくのかという問題提起に正面から答えようとせず、はぐらかすような答弁に終始していたが、まったく残念だった。
■「八紘一宇」に侵略行為を肯定するような考え方はない
すでに述べたように、この「八紘一宇」という言葉のそもそもは、初代神武天皇が橿原の地で即位した折りの「橿原建都の詔」にさかのぼる。そこには、一つの家、家族のような国を創り為(な)そうという日本の建国の精神が示されている。
この「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(せ)むこと、亦可(またよ)からずや」という「八紘為宇」の考えは、時代が下った大正時代、「八紘一宇」という語句へと翻訳されることになる。後にこの思想が軍部に影響を与え、膨張主義的な対外政策を正当化するイデオロギーとして使われるようになったと言われる。
このように「八紘一宇」という言葉は、戦時中の日本で誤った使われ方をされたのは確かである。しかし「橿原建都の詔」、あるいは神武天皇「建国の詔」を、虚心坦懐に読んでみれば、そこには民を慈しむ御心が溢れており、侵略行為を肯定するような考え方はないことがわかる。
詔の「八紘為宇」にルーツをもつ「八紘一宇」という言葉が、戦前・戦中の軍国主義のスローガンに利用されたのは悲しむべきことだが、だからといってこの詔にある精神が誤っていた訳ではない。
そこを分けて考えずに、「八紘一宇」という言葉そのものをあげつらうのは、事の本質が見えなくなるのではないかと思っている。問題は、その内容にあるのではなく、当時の政府が、覇権主義的な対外政策を正当化するスローガンとしてその「言葉」を利用したこと、それによって戦前の日本が道を誤ってしまった点にある。
八紘為宇にしても、こころの「姿勢」やあり方が示されているだけである。それを、国家統制を至上命題とする国家主義的な政治が悪用することで、不幸な歴史が生じたのだ。
つまり、橿原建都の詔も、上から押し付けられてしぶしぶ従うようなものではない。思うに日本という国は、この橿原建都の詔の精神のもと、「民」つまり国民一人ひとりが自分の頭で考え、それぞれに努力することにより創り上げてきたのではないか。
今回の「八紘一宇」という言葉が、過去に誤った使い方をされたことをもって「穢れた言葉だ」というのであれば、禊祓(みそぎはらい)をして洗い浄めればよい話ではないのか。あの不幸な歴史を繰り返さないためにも、むしろ我が国建国の理念と言う意味で「原典」というべき「橿原建都の詔」に立ち戻るべきなのではないだろうか。
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