04. 2015年3月18日 06:32:13
: jXbiWWJBCA
【槇原稔】「これからも、日本の一番のモデルはアメリカ」 三菱商事の“宇宙人”が説く本当の「開国」 2015年3月18日(水) 大竹 剛 戦後70年となる今年、日経ビジネスオンラインでは特別企画として、戦後のリーダーたちが未来に託す「遺言」を連載していきます。この連載は、日経ビジネス本誌の特集「遺言 日本の未来へ」(2014年12月29日号)の連動企画(毎週水・金曜日掲載)です。 第20回は、三菱商事・元社長の槇原稔氏。三菱創業家である岩崎家の娘と結婚した槇原氏は、いわば「三菱のサラブレッド」。長い海外生活で身に付いた米国流の発想が社内外で注目され、かつては「宇宙人」と言われたこともありました。槇原氏は、これから日本がグローバル化を進めるには、一人ひとりが「第3の開国」をすることが欠かせないと説きます。 「宇宙人」と呼ばれた三菱のサラブレッド 槇原稔(まきはら・みのる) 英ロンドンで生まれて7歳で帰国。日米開戦の翌年、三菱商事に勤める父親が乗った「大洋丸」が、東シナ海で撃沈される。米ハーバード大学卒業後に三菱商事に入社し、三菱創業家の岩崎家の娘と結婚。1992年に社長。米国流の発想で総会屋問題などに対処。現在は特別顧問。岩崎家ゆかりの東洋文庫理事長。写真は米フォーチュン誌(44年4月号)。1930年1月生まれ。(写真:竹井俊晴、以下同) ちょっと、遺言はまだ早すぎると思うんだけどね。僕は少なくとも、まだ5〜6年は生きるつもりでいるから。 僕は、経歴的には非常に恵まれたといいますかね。最初の一番大きいショックは、父が1942年に亡くなったことです。三菱商事の社員として「大洋丸」に乗ってフィリピンに長期出張で向かう途中、東シナ海で米国の潜水艦によって沈められました。 それが、私にとって1つの契機になったと思うんです。父と親交があった(三菱創業家の)岩崎家にお世話になるようになりましたから。 亡くなった諸橋(晋六=三菱商事元社長)さんにもよく言われましたが、「おまえは自然体で、あまりものに逆らわず、結果的にはいいところに行くんだ」と。戦争に負けたからグローバリズムの先駆けになったとか、そういうことではなしに、自然とこういう風になってきたと思います。 振り返れば、父の死と共に、私の人生のもう1つの契機となっているのは、非常に運が良かったことに当時通っていた成蹊学園で、素晴らしい先生に巡り会えたことです。 清水護先生という、一生懸命、英語を教えてくれる方がいた。成蹊は戦争中でも、英語教育が非常に盛んだったんです。だから、英語力は結構みんなありましたよ。 父の死後、三菱創業家の岩崎家の屋敷に住んだ 終戦の詔勅は、小田急線の駅、なんて言う駅だったかは忘れてしまいましたが、そこで聴きました。正直、なんと言っているか分からなかったけど、何となく負けたのかなと、みんながそんなことを言っていたので、そうなんだろうなと思いましたね。 戦争に負けたのは、しょうがないなという感じでした。残念とか何とかというより、しょうがない。むしろ、終わってよかったと。 まあ、負けるとも勝つとも、あんまり関心がなかったということじゃないですかね。それから、成蹊にも軍隊から将校が来ていましたが、それこそ、清水先生は尊敬するけど、配属将校は何となくみんなでバカにする雰囲気があったんです。 戦後直後の日本の経済というのは、本当に無茶苦茶でね。僕はたまたま、(東京の)牛込の家が焼けちゃったので、国分寺にある岩崎さんの屋敷に住まわせてもらっていたんです。屋敷の隅っこにちっちゃな家があって、そこに私と母と2人で住んでいました。 母が背中を押した米国留学 岩崎家の母屋の方には、後に米国聖公会の司教になられる方が住んでおられた。彼がハーバード大学の卒業生だったんです。日本国内がとにかく乱れていたものだから、私は成蹊を卒業したら海外に行きたいと思っていて、1949年にその司教に留学したいという希望を伝えたんです。すると、「私は神様が後ろ盾にいるけれども、いくら頑張ってもハーバードには直接入ることはできない」と言うんです。 いくら英語が上手くても、ダメだと。しかしながら、「ハーバードには推薦できないが、ニューハンプシャー州にあるセント・ポールズ・スクールなら推薦できる。まずはそこに入って、そこでいい成績を修めればハーバードに行ける」と提案してくれました。 親父が死んで僕は、母と二人きりになっていましたから、母がどう思うか心配したんです。そしたら、母は、「もう、そりゃ行きなさいよ」と言ってくれた。背中を押してくれた母には、本当に感謝しています。それで、まずはセント・ポールズ・スクールに入り、1年後にハーバードにいくことになりました。 私がセント・ポールズに入ってから、セント・ポールズと成蹊とは関係ができて、今も毎年、成蹊の生徒がセントポールズに留学しているようです。私が第1号になったわけですが、第2号は(日本国政府代表などを歴任した)外務省の有馬龍夫くんです。来年、成蹊とセント・ポールズの関係ができて65周年になります。だから、それまでは死ねないなと思っているんです。 戦中に米フォーチュン誌が日本を特集 1949年だから終戦の4年後にセント・ポールズに入ったわけですが、今にして思えば、いじめられたとか悪いことを言われたとか、そういうことは一度もなかったです。金持ちのわがままな子供が多い学校なのですが、それはハーバードでも同じでした。アメリカの上流階級には、そういう寛容さがあったのですね。 感心してしまうのは、アメリカは戦争中から日本のことに実に詳しくてね。これ、アメリカの雑誌「フォーチュン」の1944年4月号です。日本を特集していて、日本のどういうところが強いとか、非常に詳しく書いてあります。
あの頃、日本でこういう雑誌を出したとしたら、もう鬼畜米英で絶対勝つぞ、とかそういうことばっかり書いたのではないでしょうか。異文化で、それが敵国だろうと、アメリカのリーダー層には懐深く受け入れる素地があったんでしょう。 そういう意味でも、アメリカには見習うべき点が多い。これからの日本も「第3の開国」をして、世界にもっと門戸を開くことが必要だと思います。実は2002年に、「第3の開国」を政府に提言したことがあるんです。伊藤元重さん(東京大学教授)やIBMの北城(恪太郎)さん、日産のカルロス・ゴーンさんなどと連名でね。 しかし、残念ながら第3の開国は遅れています。 日本はやはり、孤立していては成長していけません。とにかく、門戸を開くことが必要です。そのためには、まずは、10年、20年先を見据えて、どの国と本当にパートナーとして付き合うのかを見極める必要があると思います。 僕の場合には、それは間違いなくアメリカだと思うんです。私はもう引退する方向なので、将来のことはこれからの人たちが考えるべきことだと思います。それでも、日本が目指すべき一番のモデルは、今もアメリカだと思うんですね。
アメリカの復元力、やはりすごい もちろん、アメリカは様々な問題を抱えていますし、これからも問題はあるでしょう。所得格差はひどいもので、日本の方がよっぽどいいでしょう。 しかし、やはり基本的に個人の自由とか、困難に陥った時からの復元力とか、そういうものは僕は大したものだと思っています。 例えば、僕がセント・ポールズに通っていた頃は、黒人は1人もいなかったし、ハーバードに通った頃も、黒人は大きいクラスで数人しかいなかった。それが今では、もうガラッと変わっちゃいましたから。こうした変化を起こす力はすごいと思いますよ。 今回、遺言として残すメッセージに「第3の開国」を改めて選んだのは、日本の将来はやはり、グローバル化にありということを、次の世代に伝えたかったからです。絶対に、孤立してはいけないと。 あまり深く考えないで物を言うと、これから日本経済が爆発的に伸びるということは、もうないでしょうね。よく、日本の力は技術者が担っている、いや、むしろ職人といった方が適切かもしれませんが、そういう人たちが強いんだと言われます。その一方で、日本では画期的なイノベーションは出にくいとも言われています。 それでも僕はやっぱり、日本のこれからはイノベーションが牽引してくべきだと思うんです。そのためには、中小企業が大切なのはもちろんですが、やっぱり海外との協力が不可欠です。ノウハウを海外から取り入れるだけではなくて、出したり入れたり、すべての組み合わせを強化していく必要があるでしょう。 その場合、日本は他の国と比べると、一応、勤労意欲は残っていると思います。それから、比較的、質実剛健だと思うんですね。あまりお金を見せびらかさないとか、成金じゃないとかね。 こうした日本の基本的な部分は、非常に強いと思います。その上に、今度はグローバルな体制でアメリカやヨーロッパ、そして中国などと付き合っていくことが大切だと思います。 (1992年に)社長になった頃には、「宇宙人」と言われたこともありました。海外経験が長かったものだから、僕の言うことがあまり理解されなかったのでしょうね。あの頃は僕も、周りの人たちは分かってないからしょうがない、と思ってました(笑)。 英語の“社内公用語化”に先鞭をつける 英語を社内の第2公用語にしようと提案した時には、社内外から相当、反発されましたね。でもそれには誤解があって、僕は「バッドイングリッシュを公用語にしよう」と言ったんです。下手でもいいから自分の考えが通じないと、話になりませんから。でも最近になって僕が言っていたことが少しずつ理解されてきたのではないかな。 英語がビジネスの公用語として世界で使われているのは、単に普及しているという理由からではなく、英語そのものがビジネスに向いているからです。英語は適度に曖昧としていて、適度に正確だから。日本語がビジネスに向いているとは、誰も思っていないですよ。もう漠然としすぎていて。
でも、英語は必要条件ですが、それだけでは国際的には聞く耳を持たれません。大切なのは、自分のルーツをきちっと持っていることです。少なくともアメリカ人に「日本はどうだ?」と聞かれた時には、きちっと答えられる自分の考えを持っている必要がある。 三菱商事の社内を見回しても、非常にグローバル化した人と自分の寝ぐらに入っちゃっている人とに分かれますよね。しかも、それは若い人がグローバル化していて、昔の人がグローバル化していないというのでも、決してない。 「胆力」のある先輩たちに追いつこうとした 僕はよく例にあげるんだけど、うちの戦後3代目の藤野忠次郎(三菱商事・元社長)さんという方も、これは大変なグローバル人材だった。小柄な人でしたけど、大変なカリスマがあってね。しかも、慎重に将来のこと、日本のことを考えて動いていた。 それから、みんなの意見をよく取り入れていた。彼の有名な話で、「社長弾劾論」というのを出したんですね。反対することがあれば、俺を弾劾しろと。それほど、自分に対する批判にも積極的に耳を貸す人でした。 石橋泰三さん(東京芝浦電気=現東芝・元社長)とかも、ああいう人にはとても追いつけないと思います。個人的には時々、お目にかかったりしたけれど、そう思いましたね。日本的な表現でいえば、本当に「胆力」のある方たちだった。 自分なりの一つの“イズム”を養う教育を グローバル化で本当に必要なのは、結局は教育なんでしょうね。リベラルアーツ的な。世界で仕事をするには、自分でデータや知識を吸収し、自律的に判断する能力を養う必要があります。それを基に、相手の話を聞き、相手を説得し、というような海外との意思疎通をしていく。そういう姿勢は、これからの必要条件でしょう。 海外留学も、そうした姿勢を養うには効果的です。ご存知か分かりませんが、カルコン(CULCON=日米文化教育交流会議)という、日米の教育を論ずる場があり、僕はそこで過去7年、チェア(委員長)をやってきましてね。そこでも言ってきたんですが、大学での留学は大いに推進するべきだけど、やはり高校時代に本当は1年でもいいから留学するのが、一番効き目があるんじゃないかと思うんです。頭が新鮮なうちにね。
若いうちに、自分なりの一つの“イズム”を持って、言葉の違う相手と渡り合う力を身に付けてほしい。もう一度国を開くには、まずそこから始めてはどうでしょうか。私が言う「第3の開国」とは、単に移民がどうのとかそういう問題ではなくて、私たち日本人自身の問題なんです。 僕は、日本は将来を悲観することは全くないと思います。日本はそれだけの力を持っている。だからもう1回、私たち一人ひとりが、世界に門戸を開けばいいんですよ。 このコラムについて 戦後70年特別企画 遺言 日本の未来へ 2015年、日本は戦後70年の節目を迎えます。 日経ビジネスオンラインでは8月15日の終戦記念日に向けて、独白企画「戦後70年 未来の日本へ『遺言』」を長期連載します。 戦争を生き抜き、戦後日本を牽引した経営者や政治家、文化人などが、自らの経験に根差した「遺言」を未来の日本へ託します。 戦時の生々しい記憶や、復興の様子、高度成長期から現在に至る自らの人生を語ります。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/interview/20150317/278818/?ST=print
|