16. 2015年3月17日 12:00:17
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三原じゅん子「夢前案内人」 http://ameblo.jp/juncomihara/2015年03月17日(火) 06時42分11秒 「八紘一宇」とは テーマ:ブログ 「八紘一宇」というのは、『日本書紀』において、初代神武天皇が即位の折りに「掩八紘而爲宇」(あまのしたおおひていえとなさむ)とおっしゃったことに由来する言葉です。 (※2月11日の建国記念日が、神武天皇が即位したとされる日)。 この「八紘一宇」とは、簡単に言えば、「ひとつの家族のように仲良く暮らして行ける国にしていこうではないか」ということなのですが、昭和13年に書かれた「建国」という書物によりますと、 『八紘一宇とは、世界が一家族のように睦(むつ)み合うこと。一宇、即ち一家の秩序は一番強い家長が弱い家族を搾取するのではない。一番強いものが弱いもののために働いてやる制度が家である。これは国際秩序の根本原理をお示しになったものであろうか。現在までの国際秩序は弱肉強食である。強い国が弱い国を搾取する。力によって無理を通す。強い国はびこって弱い民族をしいたげている。世界中で一番強い国が、弱い国、弱い民族のために働いてやる制度が出来た時、初めて世界は平和になる。日本は一番強くなって、そして天地の万物を生じた心に合一し、弱い民族のために働いてやらねばならぬぞと仰せられたのであろう。』ということです。 __________________________________ 呉竹会アジアフォーラム 頭山精神の顕彰 頭山満という巨人 http://www.kuretakekai.jp/sengo60.html __________________________________ 大天使ミカエルとミカエルの仲間たち 頭山満と玄洋社 http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38275430.html ロス疑惑 http://blogs.yahoo.co.jp/mikaeru0628/38347790.html __________________________________ 野田俊作の補正項 http://jalsha.cside8.com/diary/2014/09/06.html ●幻想の神道(9)
2014年09月06日(土)
本日の読書 悠仁親王殿下のお誕生日だ。すめらぎいやさかをお祈り申し上げます。
●極端な天皇崇拝と極端な国粋思想が国策を誤らせたと書いた。天皇崇拝は、明治維新のときに政治的な統合を作り出すために強調されたもので、もともとは宗教的な概念ではなくて、まったく世俗政治的な概念だった。 ●それが次第に宗教的な色彩を帯びるようになって、明治末期に、何人かのファナティックな人物によって、「現人神」と呼ばれる神聖天皇が発明された。さらにそれが、昭和12(1937)に『國軆の本義』が発行されることで、政府の公認イデオロギーになった。
津田左右吉博士が、 軍部及びそれに附随した官僚が、(中略)政治は天皇の親政であるべきことを主張し、(中略)天皇は専制君主としての権威をもたれねばならぬとし、あるいは現にもっていられる如くいいなし、(中略)戦争及びそれに関するあらゆることはみな天皇の御意志から出たものであり、国民がその生命をも財産をもすてるのはすべて天皇のおんためである、ということを、ことばをかえ方法をかえて断えまなく宣伝した。そうしてこの宣伝には、天皇を神としてそれを神秘化すると共に、そこに国体の本質があるように考える頑冥固陋にして現代人の知性に適合しない思想が伴っていた。 と書くのは、昭和10年から昭和20年の間のことについてであって、それ以前には、天皇親政でもなく、専制君主でもなく、まして天皇は神でもなかった。つまり、明治日本国家は、天皇を元首とした立憲君主制の、頭のまともな民主国家であった。このことは、しっかり思いだしておいた方がいい。 また、国粋思想は、『神皇正統記』に萌芽的に描かれていたものを、江戸時代の儒学者や国学者が拡大し、明治末期になってファナティックな宗教家が「八紘一宇」という標語を発明し、昭和に入って近衛内閣の時代にこれが国家公認のイデオロギーになった。 ●具体的な文献を言うなら、昭和12(1937)年の『八紘一宇の精神』という文部省のパンフレットが最初で、昭和15(1940)年に発行された、「大東亜共栄圏」を宣言した『基本国策要綱』や、日独伊三国同盟の詔書でもって、誰でも知っているスローガンになった。マルクス主義の影響を受けた国家社会主義者たちがこれを利用してアジア進出の口実に使い、ついには石原完爾のように、天皇を世界の帝王にするというようなタワケたことを言うバカ者まであらわれた。 ●つまりこれも昭和10年代の産物なのだ。明治国家に遡って考えると、西洋世界に対して強い劣等感はもっていたものの、日本文明の優越だの、それを世界に普及するだのとは、まったく考えていなかった。自主独立のために「追いつき追い越せ」でがんばるので精一杯で、それ以上のことはとても考えられなかったということだ。 ●神聖天皇も国粋主義も、神道の本質と関係のない概念だ。 ●だって、昭和10年代まで存在しなかったのだもの。 ●もうひとつ、神道の本質とかならずしも関係のない概念がある。 ●それは、『古事記』や『日本書紀』に描かれた神話との関係だ。 ●中世神道は『古事記』とも『日本書紀』とも、あまり関係がない。 ●一昨日、『類聚神祇本源』の創造神話を引用したが、 ●そこではインドの2人の神から日本の神々が誕生する話が書かれていた。 別の例として、『中臣祓訓解』には、次のようなものがある。 神は天然不動の理であって、すなわち法性身です。ですから虚空の神をもって実相として、大元尊神と名づけます。それが形を現わされたのを照皇天と申します。それが太陽になり月になって、永く空にかかって落ちてくることはありません。またこれが神々となり天皇となられます。しかし常に(本質は)不変です。(そのうち)業によって衆生ができたので、(世界の基礎である)宝基と須弥山の磐を創られ、三界を照らし、すべてのものに便利なようにされました。ですから遍照尊と申し、または大日霊尊(天照大神)と申します。豊葦原中津国に降りてくらされました。その名を決めて形を言葉にされ、天照坐二所皇大神(伊勢神宮)と名づけます。 神是天然不動之理。即法性身也。故以虚空神為実相。名大元尊神。所現曰照皇天。為日為月。永懸而不落。為神為皇。常以而不変矣。為衆生業起。樹于宝基須弥磐境。而照三界利万品。故曰遍照尊。亦曰大日霊尊矣。豊葦原中津国降居。点其名。談其形。名天照二所皇大神。/SPAN>
明治神道から考えたら荒唐無稽な創造神話が書かれている。他の文献も、おおむねこんなものだと思ってもらってよい。しかし、神話は、当時の神道家にとっては、比較的どうでもいいものだった。『類聚神祇本源 神道玄義篇』に、次のような記載がある。 ●神祇関係の書籍に中には、多くは天地開闢をもっとも大切なこととしていますが、神道の家風としてはそれをもって究極のものとはいたしません。精神的には機前(天地開闢よりも前の空の境地)を法としますし、生活上は清浄を先とします。 神祇書典之中。多以天地開闢雖為最。神道門風以之不為極歟。所志者。以機前為法。所行者。以清浄為先。
●つまり、神話の中身にこだわるよりも、空性を知ることの方が重要であるし、毎日の生活を清浄に保つことが実践上大切だと言っている。もっとも、これは伊勢神道の文献なので、仏教臭い「空性」という言葉を、わざわざ「機前」という見慣れない言葉に置き換えている。忌言葉かもしれない。 ●『古事記』や『日本書紀』を重視したのは、江戸時代の国学だ。ちなみに、本居宣長が『古事記伝』を発表するまで、そもそも『古事記』は読解することができなかった。国学は、外国思想である仏教や儒教を遠ざけて『古事記』や『日本書紀』を読み、そこから「やまとごころ」という新しい概念を作り出そうとした。国学がいう「やまとごころ」は、江戸時代の新発明なのだ。 ●神聖天皇と国粋主義と神話重視は明治以後に作られた幻想であった。新田均博士が明治から昭和にかけての小学校教科書を調べて、日本史の教え方の変遷をまとめてくださっているが、これはその論拠になると思う。 ●まず、第一段階の明治37年(それ以前は国定教科書ではなかった)以降における説明は、天皇は天照大神の子孫であるという天皇「神孫」論と、天皇の徳と臣民の忠義によってこの国の歴史は続いてきたのだという君臣「徳義」論からなっている。(中略) ●次に第二段階になると、天皇「神孫」論と君臣「徳義」論の他に、皇室はいわば本家で臣民は分家のようなものである、天皇は親で臣民は子のようなものであるといった「家族国家」論が付け加わってくる。それは大正10年以降のことである。(中略) ●さらに、最後の第三段階になると、天皇「神孫」論、君臣「徳義」論、「家族国家」論の他に、さらに天皇「現人神」論と「八紘一宇」論が付け加えられた。それは昭和14年以降のことである。(新田均『「現人神」「国家神道」という幻想』PHP,pp.23-26) ●第一段階は、『神皇正統記』と同じ立場で、それはかならずしも中世神道の多数説ではないのだが、江戸時代に『神皇正統記』が高く評価されたために、明治神道ははじめからそういう偏りを持っていた。 ●第二段階以下は、日本の伝統ではなくて、新発明だ。 _____________________________________ |