74. けろりん 2015年3月16日 22:05:18
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韓国では、「 反共 」の名の下に、白色テロ大量虐殺が繰り返される。 ベトナムでのライダイハンや、済州島での大量虐殺の白色テロが起こる。 このクニでは、特高の拷問で終わるが、未だに人体実験のような鬼畜が産業界に潜んでいる。 未だに、だ。 過去のミドリ十字薬害エイズ事件などは、完全な確信犯的な人体実験ともいうべきもの・・・。 「 劣性遺伝は処分する必要がある 」/ミドリ十字幹部 731部隊の思想的残党研究者が、アメリカ辺りでワクチンの開発に精を出している・・・ ココは、未だにエグイ世界なんだ・・・ ゲンパツ事故を、見るまでもない またまた、長文メイワク投稿だ・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ < 人体実験 > 731部隊では、生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていた。石井四郎自身、医学研究において「 内地でできないこと 」があり、それを実行するために作ったのがハルビンの研究施設であった、と戦後に語っており、この「 内地でできないこと 」とは主に 人体実験 を指していると考えられる。 元陸軍軍医学校防疫研究室の責任者で、石井四郎の右腕といわれた内藤良一( のちの「ミドリ十字」の設立者 )は、戦後のニール・スミス中尉による尋問で次のように証言している。「 石井がハルビンに実験室を設けたのは捕虜が手に入るからだったのです。(中略)石井はハルビンで秘密裏に実験することを選んだのです。ハルビンでは何の妨害もなく捕虜を入手することが可能でした。」さらに、細菌部隊のアイデアは石井ひとりのものだったとし、「日本の細菌学者のほとんどは何らかの形で石井の研究に関わっていました。(中略)石井はほとんどの大学を動員して部隊の研究に協力させていたのです。」と供述している。 < 「マルタ」と呼ばれた人々 >
人体実験の被験者とされたのは主に捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称されていた。マルタの中には、一般市民、女性(中国人女性やロシア人女性など)や、子供(モンゴル人少年やロシア人少女など)が多数含まれていただけでなく、731部隊の少年隊員も人体実験の犠牲になった。これは、731部隊が性別、年齢層、人種を超えた、幅広い実験データを必要としたためであると考えられるが、女性マルタは主に性病治療実験の材料になったという。 「 マルタ 」として捕えられた人々は、その瞬間から人格や名前を剥奪され、「 マルタ(丸太)」、つまり実験材料として扱われたため、マルタには名前の代わりに3桁の番号が割り当てられ、重い足かせが取り付けられた。高い外壁で囲まれ、コンクリート造りの特設監獄(「マルタ小屋」と呼ばれた)に一度収容されると、マルタがそこから出られる可能性はほぼゼロに近く、人体実験の犠牲者として死亡する運命にあった。 マルタが容易に逃げ出せないことについては、野外での実験においても同じであった。石井四郎付き運転手であった越定男は、野外の安達細菌爆弾実験場で脱出を試みたマルタたちの様子について次のように回想している。 一度、縛られていたマルタおよそ40人が、お互いに縄をほどき合って、散り散りになって逃げたことがあります。しかし、遠隔地の空港ですから、逃げおおせる場所はありません。トラックで次々に彼らを轢き殺しました。前輪でひっかけたり(中略)、轢いた時は衝撃を感じました。
--- ハル・ゴールド「証言・731部隊の真相―生体実験の全貌と戦後謀略の軌跡」 廣済堂出版、2002年、271頁 --- 元731部隊少年隊の篠塚良雄は、「マルタ」の実態について次のように説明している。「「マルタ」というのは、ここ(特設監獄)に監禁され、やがて生体実験、生体解剖される人たちのことです。私もあとで生体実験などにかかわるようになったのですが、隊員たちが夜おそく風呂に入りながら、「 今日おまえンとこで何本倒した 」「 おれンとこ3本だよ 」「 おれンとこ2本だよ 」と、まるで丸太のようないい方をするのをききました。人間の命を奪うのに……材木の丸太を倒したような感覚で……「 何本倒した? 」と……。731部隊の中で私たちは、人間としての感覚をなくしていたのだろうと思います。」 マルタの人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされる。731部隊の「ロ号棟」で衛生伍長をしていた大川福松は2007年4月8日、大阪市で開かれた国際シンポジウム「戦争と医の倫理」に出席し、「 毎日2〜3体、生きた人を解剖し(中略)多い時は1日5体を解剖した。」と証言している。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 「 やがて特別出入口から、その日の「演習」に使用される「丸太」たちが、特別班の看守に護衛されて出てきた。一列に数珠つなぎにされている。だいたい、1回に2、30人だった。中国人、ロシア人、ときおり女性の「 丸太 」も混じっていた。服装は私服のままだった。(中略)覆面トラックから降ろされた「 丸太 」たちは、いましめを解かれ、一人ひとりベニヤ板を背に立たせられた。後ろ手に縛られ、ベニヤ板にさらに縛りつけられる。足は鎖で繋がれていたように思う。胸にはられた番号と位置とが確認されていく。「丸太」たちの表情はまったく動かず、抵抗もなかった。なかには、目隠しを拒否する「 丸太 」もいた。毅然と胸を張ってベニヤ板を背に立っている「 丸太 」の水色の中国服の色が、いまだに瞼にやきついている。(中略)「 標的 」と化した一団の「 丸太 」たちを、幾人かが双眼鏡を目にあてて観察している。まもなく鈍い爆音とともに黒点があらわれ、みるみるうちに大きくなってきた。低空で近づいてくる双発の九九式軽爆撃機だ。爆撃機は「 標的 」の中心の棒をめがけて、20キロ爆弾、30キロ爆弾を投下した。「ドカーン」という爆発音が、黒煙を追いかけるように、自分たちの耳にひびいてきた。爆撃機が飛び去り、黒煙が収まると、すぐに現場にかけつける。防毒衣、防毒マスクで完全に防護された自分たちが見た現場は、むごたらしいものだった。 そこは、「 丸太 」の地獄だった。「 丸太 」は、例外なく吹きとばされていた。爆撃で即死した者、片腕をとばされた物、顔といわず身体のあちこちからおびただしい血を流している者‐あたりは、苦痛のうめき声と生臭い血の匂いとで、気分が悪くなるほどだった。そんななかで、記録班は冷静に写真や映画を撮り続けていた。爆弾の破片の分布や爆風の強度、土壌の情態を調べている隊員もいた。自分たちもまた、てきぱきと「丸太」を収容した。あとかたづけは、実験内容の痕跡を残さないように、ていねいに行われた。「 丸太 」は死んだ者もまだ生きている者も一緒にトラックに積みこまれた」 --- 群司陽子『【証言】七三一石井部隊 今初めて明かす女子隊員の記録』 (1983年8月31日初版、徳間書店、94-97頁 ---
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