http://www.asyura2.com/15/senkyo181/msg/178.html
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昨夜8時からBSフジで放送された「プライムニュース」の前半で、介護人手不足を緩和するために移民を受け入れる必要性を説くとともに、移民の日本における居住の人種に基づく区別(分離)を産経新聞掲載のコラムで主張した曾野綾子さんが、そのコラムの内容を批判した在日南アフリカ大使モハウ・ペコさん(女性)と対話した。
少し話が飛んで恐縮だが、番組内での曾野さんの発言で面白かったのは、後半の終末期医療に関するパートで、「私はいつ死んでもいいと思っているが、レントゲンもあまり浴びず健康診断も受けていないことを話すと、医者は「そうひとのほうが長生きするものですよ」と言う」という内容だった。
ガン検診を中心に定期的な健康診断を奨めるキャンペーンが繰り返されているが、見つけてどんな治療をしようともダメなものはそれほど遠くない未来に死をもたらし、見つけなくても(手術したり抗がん剤を投与しなくとも)長らえることができるものもあると考えているガンに関する検診は、無用どころか、百害あって一利なしだと思っている。(ガン検診を行うことで転移を促進し死期を早めることさえある)
認知症も、脳内の血管損傷などに起因するものは対処法があるが、アルツハイマー型は老化現象とも言えるもので、現在のところエヴィデンスに支えられた治療方法はなく、認知症症状の進行を遅らせる対処法は、認知症を防ぐ(遅らせる)効果があるとされるものと同じ生活行動の継続だから、検診がそれほど有効と言えるわけではない。
検診を受けない人のほうが長生きすると考えている医者が健康診断を推奨するのは詐欺行為だと言っておく。
本論に移る。
曾野さんの産経新聞掲載のコラムについてはこれまで2回ほど投稿し、そのなかで、「曾野さんは“やっぱり世間知らず”のようである」とまとめ、
「 曾野さんは、自分のコラムが、南アフリカのアパルトヘイト撤廃派や世界の“リベラル派”から人種差別的言動と評価される“性質のもの”と理解できていないところがイタイいのである。
「表現の自由」はできるだけ尊重されるべきだと思っているので、曾野さんも在日南アフリカ大使も思うところを発言し、多くの人がいろいろ考えたことで一件落着だと思っている。
曾野さんの反論がちょっとヘタレだったのは残念だった...」
という感想を書いた。
しかし、昨夜の曾野綾子さんの言動を見て、まだまだ“一件落着”ではないという感想を抱いた。
昨夜の「プライムニュース」を見た印象を一言でまとめるなら、日本のメディア関係者や文化人(知識人)と言われるひとたちはあまりにレベルが低いことを示す好事例というものである。
曾野綾子さんとの公開対話に応じられた在日南アフリカ大使モハウ・ペコさんは、曾野さんに敬意をはらわれ、論理で説明することに徹し、批判や非難を抑制していたことで好印象であったが、曾野さんやプライムニュースのMCであるフジテレビの反町氏(政治部編集委員兼報道局解説委員)の言動は、こんなレベルなのかとがっかりさせられるものだった。
曾野さんと反町氏の弁明や説明は、論理的思考力が欠如しているか、コラムに基づく曾野さんへの非難を躱すためにデタラメな理屈で“人種差別者”という批判を無効化しようと踏ん張っているかのいずれかだとしか思えないものだった。
最初に断っておくと、“人種区別”でも「人種差別」でもが呼び方はかまわないが、非政府の立場にある個人がそのような施策の必要性や有効性を主張することを非難する気はない。
曾野綾子さんのコラムが問題になっているので、ここでは曾野さんが主張する“人種区別”という用語にするが、“人種区別”(「人種差別」でも)の主張そのものを非難の対象にするのは行き過ぎであり、“人種区別”の必要性や有効性の議論を通じて、“人種区別”に反対か同意かをそれぞれの人が決めればいい問題だと考えているからである。(その議論の過程で人種で区別しないことの必要性や有効性も考えられるはず)
そういう意味で、南ア大使との対話に臨んだ曾野さんには、“人種区別”政策の必要性や有効性をより具体的に積極的に説明して貰いたかった。
しかし、曾野さんは、「差別」と「区別」は違うという説明は良とするも、それを踏切板として、問題になっているコラムで展開した論旨とは違う考えを披瀝することで、我が身に降りかかっている非難を躱すことに終始していた。
番組内容から勝手にジャッジをさせてもらうと、「差別」と「区別」を使い分けた弁明はコラムとの関係で論理的に破綻しており、たぶんわかったうえで“自己弁護”に汲々としていたと見受けられる曾野さんは、政治的コラムの執筆者として不適確だと言いたい。
また、フジテレビの反町氏も、根拠になっていない説明で、曾野さんを擁護する一方、曾野さんを非難したNPOを咎めたことからジャーナリストとして不適確であるという恥をさらしたと言えるだろう。
そのように判断した根拠を簡単に説明させていただく。
まず、曾野さんは、「差別」は政治的概念だが、「区別」は一人ひとりの違いをきちんと見て尊重していくことだと説明した。
産経新聞掲載コラムの論旨をとりあえず脇に置くと、南ア大使との対話で説明した内容は、一人ひとりの幸福を重視し、それが実現できるようにすることが大切だということはあった。
そのような考えに異論はないが、曾野さんがそう言うのなら、その前に、コラムの内容を謝罪するかコラムを撤回するかしなければならないはずである。
産経新聞掲載のコラムでは(末尾に全文引用)、「移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない」・「近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和する」・「居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい」という考えを表明し、その“必要性”や“有効性”を補強するものとして、「もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった」と切り出し、白人専用だったマンションが「人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した」という例を取り上げた。
※ 番組での発言で驚いたが、“人種区分”という主張を補強する唯一の事例として持ち出した南アのマンションは、伝聞レベルでしかなく、曾野さん自身は、どこにあるものなか、なんという名前なのかさえ知らないのだと言う。(念のため、確認したことであっても、主張の補給として用をなしえないもの)
すぐ上で引用したパートからでもわかるように、産経新聞掲載のコラムでは、個人の趣味趣向で居住地を区分けすべきといった説明はみじんも出ていない。
それはあくまでも人種による区分であり、曾野さんを少しだけ擁護するなら、個人の趣味趣向は人種によって偏りがあるから、人種という話にしても個人の趣味趣向を尊重するためという“牽強付会”が通用する可能性があるかもしれないといレベルのものでしかない。
曾野さんは番組の中で、「クサヤを食べたいと思っても建物じゅうに匂いが充満してまわりから受け入れられない。クサヤを食べることができる日本人村のようなところがあればそこに住むことで解決する」(趣旨)と語ったが、この例が、コラムで表明した“人種区別”政策の必要性につながらないことは明白である。
クサヤを食べることに馴染んだ伊豆の島々ならいざしらず、都市のどこかにあるであろう日本人村の人たちがこぞって、もうもうと匂いをさせながらクサヤを焼くことを受け容れるとは考えにくい。
(タイやマレーシアなどの外国人も宿泊するようなホテルではドリアンの持ち込みが禁止されている。匂いに関する好悪は人それぞれだが、クサヤに較べれば、ドリアンのほうが匂う度合いは低い)
個人の趣味趣向であっても、まわりのひとが耐えられない可能性が高いことは、控えるか、法で規制せざるをえない。逆に言えば、音楽や性的営みの声が漏れ伝わったりしても、あるレベル内であれば許容しなければならない。(それが我慢できないなら、イヤなひとがそこから離れるしかない)
このような規制と許容の境をどう決めるかということと、“人種区別”政策とはまったく次元が異なる話である。
(※ 先行する投稿で、「人種の違いだけでなく、同じアジア人・黒人・白人であっても歴史文化的価値観の違いや所得レベルの格差は自ずと棲み分けにつながっていくものなので、政策として人種区分で居住区を分ける必要はない。
棲み分けが経過的にうまくいかずぎくしゃくしても、そのようなことも生きていくなかのスパイスだと思い甘受するほうがいいだろう。
(曾野さんが人種間で居住区を分離したほうがいい理由として例示した南アのアパートも、落ち着くところに落ち着いたのである。白人が出て行ったという結末は、曾野さんには気に入らないものだったかもしれないが) 」と書いた)
曾野さんは、別の機会に、「私は、アパルトヘイトを称揚したことなどありませんが、「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在はいいものでしょう」とも語っているが、政府の明確な政策や法的制限で居住地を区分けすることと、経済的要因を基礎に自然発生的に形成されていった「チャイナ・タウン」や「リトル・東京」の存在を同列に置くことはできない。
曾野さんの言動で問題になっているのは、法律(強制力)で人種に基づく居住地の区分を行うことなのである。
「プライムニュース」のMCである反町氏は、曾野さんを擁護したいのか、南ア大使に対し、「曾野さんが言っていることは、人種によるものではなく、個人の選択の自由によるものということですが、どう思われますか?」と質問していた。
コラムを無視し、番組で行われた曾野さんの説明だけに依拠すればそういうことだが、曾野さんはコラムの内容を撤回したわけでなく、問題となっているメインテーマはコラムそのものなのだから、MCが、そのような仕切りをするのは異様である。
さすがに、南アの大使は「コラムの文脈からはそのようなことは通用しない」と応じていた。
反町氏は、対話が進んでいったあとのほうでも、「曾野さんの意見はアパルトヘイトを進めたいわけではないと思っていますが」とか、「南アに関係するNPOが曾野さんを非難しているのは、曾野さんの真意を理解しないで一方的に決めつけるかたちのもの」(趣旨)といった曾野擁護論を展開した。
これにも、南アの大使は、「NPOは、(日本への)移民に対し、アパルトヘイトと同じやり方をとったほうがいいと読み取ったから非難していると思う。NPOにも「言論の自由」があるから問題はないのでは」と応じていた。
反町氏がまともなジャーナリストなら、コラムとは異なる見解を表明している曾野さんの非や誤解を招いても当然のコラムの論旨を指摘し、曾野さんにコラム内容の撤回を奨めていと思われる。
南アフリカで91年まで続いたアパルトヘイト政策は、望まれたわけではないヨーロッパ人(オランダと英国が中心)が南アフリカの地に入り込んで武力で支配領域を広げ、少数者でありながら多数派である先住者を支配するための仕掛けとして推し進めたものである。侵略者として支配を続けるための必要悪とも言える政策であり制度であったと言える。
曾野さんが主張している内容は、介護人材不足を緩和するために望んで受け入れる移民を法律によって“人種区別”で居住地を分けることであり、少数派による抑圧統治の手段であった南アのアパルトヘイトよりも“悪質”という印象を持たれかねないものである。
※ 付記:
曾野さんは、「私はブログやツイッターなどと関係のない世界で生きて来て、今回、まちがった情報に基づいて興奮している人々を知りました。
私が安倍総理のアドヴァイザーであったことなど一度もありません。そのような記事を配信した新聞は、日本のであろうと、外国のであろうと、その根拠を示す責任があります。もし示せない時には記事の訂正をされるのがマスコミの良心というものでしょう」とも語っているが、13年の1月から10月まで、安倍政権の教育再生実行会議委員に就いているから、「私が安倍総理のアドヴァイザーであったことなど一度もありません。そのような記事を配信した新聞は、日本のであろうと、外国のであろうと、その根拠を示す責任があります。もし示せない時には記事の訂正をされるのがマスコミの良心というものでしょう」という箇所は、過剰反応と言うほかない。
※ 関連参照投稿
「曾野綾子さんのコラム 南ア大使が抗議:建前論のNYより白人と黒人に距離感があるアラバマのほうがいいという黒人女性の声「
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/890.html
「曾野綾子の「透明な歳月の光」:629 労働力不足と移民:「適度な距離」保ち受け入れを」
http://www.asyura2.com/15/senkyo180/msg/170.html
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[産経新聞2月11日朝刊]
曾野綾子の「透明な歳月の光」 ■629 労働力不足と移民 「適度な距離」保ち受け入れを
最近の「イスラム国」の問題など見ていると、つくづく他民族の心情や文化を理解するのはむずかしい、と思う。一方で若い世代の人口比率が減るばかりの日本では、労働力の補充のためにも、労働移民を認めねばならないという立場に追い込まれている。
特に高齢者の介護のための人手を補充する労働移民には、今よりもっと資格だの語学力だのいった分野のバリアは、取り除かなければならない。つまり高齢者の面倒を見るのに、ある程度の日本語ができなければならないとか、衛生上の知識がなければならないということはまったくないのだ。
どこの国にも、孫が祖母の面倒を見るという家族の構図はよくある。孫には衛生上の専門的な知識もない。しかし優しければそれでいいのだ。
「おばあちゃん、これ食べるか?」
という程度の日本語なら、語学の訓練などを全く受けていない外国人の娘さんでも、2.3日で覚えられる。日本に出稼ぎに来たい、という近隣国の若い女性たちに来てもらって、介護の分野の困難を緩和することだ。
しかし同時に、移民としての法的身分は厳重に守るように制度を作らなければならない条件を納得の上で日本に出稼ぎに来た人たちに、その契約を守らせることは、何ら非人道的なことではないのである。不法滞在という状態を避けなければ、移民の受け容れも、結局のところは長続きしない。
ここまで書いてきたことと矛盾するようだが、外国人を理解するために、居住をともにするということは至難の業だ。
もう20〜30年も前に南アフリカ共和国の実情を知って以来、私は、居住区だけは、白人、アジア人、黒人というふうに分けて住む方がいい、と思うようになった。
南アのヨハネスブルクに一軒のマンションがあった。以前それは白人だけが住んでいた集合住宅だった。人種差別の廃止以来、黒人も住むようになった。ところがこの共同生活は間もなく破綻した。
黒人は基本的に大家族主義だ。だから彼らは買ったマンションに、どんどん一族を呼び寄せた。白人やアジア人なら常識として夫婦と子供2人くらいが住むはずの1区画に、20〜30人が住みだしたのである。
住人がベッドではなく、床に寝てもそれは自由である。しかしマンションの水は、1戸あたり常識的な人数の使う水量しか確保されていない。
間もなくそのマンションはいつでも水栓から水の出ない建物になった。それと同時に白人は逃げ出し、住み続けているのは黒人だけになった。
爾来、私は言っている。
「人間は事業も研究も運動も何もかも一緒にやれる。しかし居住だけは別にした方がいい」
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