http://www.asyura2.com/15/senkyo181/msg/110.html
Tweet |
「国境なき記者団」が発表した報道の自由度ランキング。日本は61位で「黄色」信号(HPより)
日本に報道の自由はあるのか? おそらく、ない。しかし特定秘密保護法のせいでも安倍政権のせいでも、ない
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42381
2015年03月06日(金) 長谷川 幸洋「ニュースの深層」 現代ビジネス
国際的なジャーナリスト組織である「国境なき記者団」が2月に発表した2015年版の世界報道自由度ランキングで日本が61位に後退した(http://index.rsf.org/#!/)。日本の報道自由度はいまや先進国で最低水準という。これをどうみるか。
■「おい、おい大丈夫か」日本のジャーナリストは
国境なき記者団は1985年にパリで設立されたNGOだ。言論や報道の自由を守るために、世界のジャーナリストを支援している。活動の一環として02年からメディアの独立性や政府の規制などを数値化して、各国の報道自由度ランキングを作って公開している。
日本は当初、26位からスタートした。民主党政権時代の2010年に11位まで順位を上げたが、その後は年々、下げた。東日本大震災と福島原発事故があった後の2012年、一連の情報隠しが批判された影響もあって、一挙に53位まで順位を落とした。それ以降、韓国よりも下位に甘んじている。
日本に関することしの講評を見ると、特定秘密保護法の影響が大きいようだ(http://en.rsf.org/japan-rwb-supports-legal-action-against-15-12-2014,47379.html)。その中で「国境なき記者団は日本政府が憲法に違反し、報道の自由に制限を加えた国家機密に関する厳しい法律を成立させたことを憂慮する」と表明している。
国境なき記者団がこうした評価を下した背景には、日本人ジャーナリストたちが起こした特定秘密保護法の廃止を求める訴訟がある。講評に添付されているジャーナリストたちの声明をみると、彼らはかなり極端なグループであるようだ。
特定秘密保護法を「憲法違反」と断じているだけでなく、安倍晋三政権について「日本を取り戻せ」というスローガンと集団的自衛権の下で「特定秘密保護法が戦争をできる体制を作るための鍵になる」と述べている。これは意見の表明だからまだいいとしても、驚いたのはこの次だ。
安倍政権が「かつてのドイツ・ナチ体制下における授権法のように、安倍政権が憲法の枠の外で独裁体制を築く可能性さえある」とまで述べている。こうなると「おい、おい大丈夫か」と言いたくなる。
■つまらぬ三文芝居
特定秘密保護法をめぐってマスコミが大騒ぎしていたころ、一部に「戦争をするための独裁体制への一歩」といったような極端な声があったのはたしかだ。だが、いまではすっかり熱が冷めてしまった。国会でも特定秘密保護法をめぐる議論は引き潮のように消えてしまった。
代わりに民主党は国会で安倍政権を「政治とカネ」問題で追及したが、それもブーメランのように岡田克也代表に火の粉が飛んできたら、あっという間に手打ちになりつつある。まったくばかばかしい。つまらぬ三文芝居を見せられたかのようだ。
それはともかく、報道自由度ランキングで日本が順位を下げたという話には、裏に安倍政権をナチ体制になぞらえるような極端論があった、という事情は理解しておくべきだ。
私自身が特定秘密保護法をどう考えるかといえば、13年11月29日公開コラム(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/37671)で書いたように、法不在の下、官僚が国民に見えないところで何を秘密にするか裁量で決めているより、法律できちんと法定したほうがいいと思う。
問題があれば法改正すれば修正できるが、官僚が水面下ですべてを決めていたら、国民はまったく知る由もなくお手上げ状態になってしまう。
■特定秘密保護法など関係ない!
さて、ここからが本論だ。日本に報道、言論の自由はあるか。私は国境なき記者団とはまったく別の理由で、きわめて怪しいと思っている。それは特定秘密保護法などとは全然、関係ない。肝心の記者たちが独立したジャーナリストというより、単なる「大企業のサラリーマン」であるからだ。
彼らは取材現場にいるときは、まだ記者らしい仕事をしている。記者クラブ依存の取材は役所の発表モノばかり追っていて、それ自体が問題という側面はある。それでも本当の問題はそこにあるのではない。記者の横並びと出世志向である。
記者が少し経験を積んで、特派員やデスクを目指すころになると、社内の評判を悪くしないように立ち回る。デスクや部長に「あいつはダメだ」と烙印を押されれば、次のポストなどどこかに消えてしまうからだ。
デスクになれば次は部長、部長になると次は局次長、局長、局長になっても次は役員とみんな上を向いて歩く。記者たちがヒラメ集団になっているのだ。
取材現場はどうかといえば、新人の支局時代から警察や役所の発表をいち早く抜くのが特ダネと染みこまされているから、東京に来て永田町や霞が関を回るようになっても、取材相手に食い込もうと、ごますりのポチになる。
そのくせ記者クラブではどうかといえば、同業他社と仲良くしていないと仲間外れにされるから、横並びの取材に甘んじる。政治記者たちが政治家との懇談で互いに「メモ合わせ」するのは公然の秘密である。共有したメモにない話は書かないのが暗黙のルールなのだ。
■サラリーマン記者に「報道の自由」が議論できるか
報道の現場だけではなく、意見を表明する論説でも似たようなものだ。編集の記者や論説委員たちが本当に自分の意見を自由に表明しているかといえば、こちらも首をひねらざるをえない。これには証拠がある。
たとえば、左に傾いた朝日新聞や東京新聞に右に傾いた記者の記事が載っているか。逆に右に傾いた(世界標準で言えば中立に近いが)産経新聞や読売新聞に左に傾いた記者の記事があるか。ない。
例外は憲法改正にも集団的自衛権行使にも賛成でありながら、東京新聞にときどき小さなコラムを書いている私くらいと思うが、それでも細々と息をつないでいる程度である。
つまり右であれ左であれ、ほとんどの記者は自由な考えに基づいて記事を書いているのではなく、自分が給料をもらっている新聞の論調に合わせているのである。所詮、サラリーマンなのだ。そんなサラリーマンが「言論の自由」だの「報道の自由」だの、大上段にふりかぶって議論できるか。私に言わせれば、チャンチャラおかしい。
報道、言論の自由を言うなら、まず1人ひとりの記者自身が組織から自由にならなければならない。組織も記者を解き放って自由にしなければならない。そんな記者も組織も残念ながら、日本のジャーナリズムにはほとんどない。それが現状である。
私がなぜ東京新聞で生息できているか? 関心がある読者は『月刊WILL』の3月号(http://web-wac.co.jp/magazine/will/?y=2015)をお読みいただきたい(ただしバックナンバーが残っているかどうかは知らない。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK181掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。