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ルポルタージュでもあり、時評集の側面もある。一種のメディア論でもある。まるでキメラのような作品だが、昨年末に『抵抗の拠点から 朝日新聞「慰安婦報道」の核心』を緊急出版して以降、多くの方々から高い評価をいただき、時をおかず重版もした。世の中がほぼ一色に染まった朝日新聞バッシングの風潮に真っ向から喧嘩を売るような内容だったから、ネットなどでは「反日」「国賊」などという罵声が私にも浴びせられたが、これはまあ予想どおりの反応だったので、むしろ褒め言葉と受け止めている。
ただ、このような作品を上梓することになるとは想定もしていなかった。朝日が昨年8月、過去の慰安婦問題報道にかんする検証記事を掲載し、すさまじい朝日批判が起きてからも、この現象にかんする書籍を世に放とうとは考えなかった。学者でも評論家でもない私が、自らの仕事場であるメディアについてうんぬん論じるなど、そもそも趣味ではないと思っていた。
心境と状況に変化が生じたのは、主にふたつの理由があった。ひとつめは、ひどく現実的な話である。
朝日バッシングの中で
私は昨年春から『サンデー毎日』(毎日新聞社)で「抵抗の拠点から」と題するコラムを連載している。そのときどきの社会事象についてつづる時評コラムだが、連載開始から半年も経たぬうちに起きた朝日バッシングに違和感を抱き、コラムでも触れる機会が増えていった。一時は毎週のように取りあげ、同誌以外でも何本も原稿を書いた。
そうこうするうち、連載の担当編集者であるM君から、コラムや関連原稿をまとめ、書籍として刊行すべきではないか、と提案された。本書のタイトルが『抵抗の拠点から』となったのはそのためである。
聞けばM君も、「売国」「国賊」などという論外の言辞が飛び交う朝日バッシングの異様さに憤っていた。また、大半の雑誌がバッシング一色に傾き、それに連なる論者や出版社が歴史歪曲的な言説を振りまき、果ては「嫌韓・嫌中」に類する書籍が量産されている現状を憂え、これに抗う本を世に放ちたいという出版人としての想いもあったらしい。
そのM君が講談社のI君に相談し、I君も即応し、計画は現実化した。ふたりの提案に、私の心も動いた。これがひとつめの理由である。ただ、連載は開始からさほど時が経っておらず、他の原稿と合わせても分量的に物足りない。加えて私自身、単にコラムをまとめるだけでは不十分だと考えた。その理由については、本書で率直にこう記した。
〈その時々に多少の異議申し立てをしたとはいっても、所詮ほとんどはコラムや論考、論文の類にすぎない。あくまでも取材者である私は、現場に足を運んで当事者の話に耳を傾け、それをルポルタージュやノンフィクションの作品として紡ぐことを本業として生きている。
なのに、それができていない。しかも、今回の事態をめぐっては、一方の当事者たちの声がほとんど外部に伝えられていない。猛烈な朝日バッシングばかりが横行する中、朝日を叩く者たちの声や主張は過剰なほど喧伝され、あふれかえり、その論調に沿った形で朝日側の人びとの「言い訳じみた声」や「みじめな姿」はいくどとなく紹介されたものの、当の朝日幹部や現役記者、有力OBたちの声や反論は、まったくといっていいほど伝えられていないのである。(中略)
これは断じて好ましくない、と私は思う。世の大勢がひとつの方向に雪崩を打って流れた時、それに疑義をつきつけたり別の視点からの考察材料を提供したりするのもメディアとジャーナリズムの役割であると考えれば、ひたすら叩かれている側の言い分もきちんと記録され、広く伝えておかなければならない。
だから私は、今回の朝日バッシングの中、徹底的かつ一方的に叩かれまくった人びとを訪ね歩き、せめてその話に耳を傾け、記録し、伝えようと考えた。誰もそうした作業をしない中、叩かれた者たちの声を伝えることは、なんだか私の責務のような気分にもなっていた〉(『抵抗の拠点から』より)
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そんな“使命感”と同時に、激しいいらだちと危機感が私の背を押した。M君と同様、歴史歪曲的な風潮にもいらだっていたのだが、何よりこの仕事をしてきた者として許しがたい状況が立ち現れていることに私は心底いらだち、かつてない危機感を覚えていた。これが本作を書こうと思うに至ったふたつめの理由である。
「常識」と「矜持」
私がメディアの世界に足を踏み入れたのは1990年。通信社に記者として潜り込み、後にフリーランスの立場に転じたものの、振り返れば25年、つまりは四半世紀もメディアとジャーナリズムの仕事にかかわりつづけてきたことになる。
この間、さまざまなメディアで活動し、原稿を書き、時には発言してきた。また、さまざまな先輩ジャーナリストや編集者と出逢い、メディアとジャーナリズムの作法を学んだ。当然ながらメディアの歪みというべき部分も数々見聞きしたし、実際に私自身が歪みの一端に足を突っ込んだこともあったが、一方でこの国のメディアが辛うじて堅持したジャーナリズムの原則もたしかにあった。
それはいわば、メディアとジャーナリズムにかかわる者が最低限共有する「常識」や「矜持」というべきものである。しかし、このたびの朝日バッシングの中、それが次々となぎ倒されていった。なのに誰も異議を唱えない。いったいどうなってるのか。まるでこちらが失見当識に陥ったのかと疑ったのも一度や二度ではない。
そのいらだちと危機感はいま、一層強まっている。本書の出版後も含め、いくつかの具体例を書き留めておきたい。
最初に唖然としたのは昨年9月11日、朝日の木村伊量社長(当時)らの会見だった。これは本書でも触れたが、原発事故をめぐる「吉田調書」報道に加え、慰安婦問題をめぐる「吉田証言」報道の誤りを認めて謝罪する木村社長に、Y社の記者を名乗る男性が次々質問を浴びせ、こう問いつめた。
「御社には、自浄能力がないのではないかと感じる。そのことを社長はどうお考えか」
正直、ひっくり返りそうになった。政界フィクサー紛いの独裁的経営者に社論を牛耳られ、社内言論の自由すらおぼつかない社の記者が、ライバル社のトップに向かって「自浄能力」を問う三文芝居のような光景。
いや、いいのである。Y社にだって尊敬すべき記者はいるし、朝日にも阿呆な記者はいる。そもそも自分のことを棚に上げて他者を論評するのがメディアという生業の醜き一面であり、会見であれこれ問いつめ、時には食ってかかるのも仕事ではある。
だが、なんの恥じらいもないらしき質問者の態度には「ちょっと待てよ」と叫びたくなる。朝日がそれほど立派なメディアだとは思わないし、根本のところで組織などというものをまったく信じていない私だが、メディア組織としての朝日はY社よりマシである。政権の応援団と化したかのようなメディアに比べ、一応は政権にファイティングポーズを取っている朝日は、メディアの使命である「権力の監視」という建前を辛うじて掲げている。なのに正義面をして朝日を叩き、水面下ではここぞとばかり拡販に躍起となる様を目の当たりにすると、こちらの「常識」が溶融したようで頭がクラクラしてくる。しかも9・11会見の翌日、S社は一面の大型論説に次のような見出しを掲げた。
「国益損ねた朝日、反省なし」
眼を疑った。どのような場面であれ、「国益」を持ち出してメディアがメディアを批判するのは論外の禁じ手であり、メディアとジャーナリズムの自殺行為ではないか、と。
ジャーナリズムの大原則
先に記したとおり、メディアは「正確な事実を早く、広く伝える」ことを第一の役割とする一方、「権力の監視」も使命とする。少なくとも私は、尊敬する先輩ジャーナリストたちからそう叩き込まれてきた。
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政治家や官僚の不正であれ、時代や社会の歪みであれ、自国の恥ずかしい過去であれ、在野のメディアは取材でつかんだ事実を報じて問題提起する。当然、こうした報道は時に人を傷つけ、時に「国益」なるものを毀損する。だから慎重に、そして謙虚でなければならないのだが、果敢なメディア報道が社会の不正や歪みを顕在化させ、さまざまな議論を活性化させ、問題解決に向けた動きを後押しする。
中長期的に見れば、これが“市民益”や“国民益”につながる。一方、政治家や官僚といった権力を行使する側は、メディアの監視で緊張感と責任感が生まれる。これが民主主義社会におけるメディアとジャーナリズムの役割にかんする大原則であり、そのためにこそ報道の自由は保障されている。
もちろん、現実は理想からほど遠い。メディア批判が高まる理由もそこにあると自戒する。この国のメディアが権力監視の役割を果たしてきたのかと問いつめられれば、四半世紀もこの世界で禄を食んだ私も深く頭を垂れるしかない。
だが、原則は原則であり、理想は理想である。飽くことなく掲げ、追求されなければならない。
そのメディアを批判する際に「国益」などという基準を持ち出すべきではない。ましてやメディアがメディアを批判するのに「国益」を振りかざすのは狂気の沙汰である。メディアは国家機関ではなく、時には国家と対峙する在野の存在でなくてはならず、「国益を考えよ」などという物差しを突きつければ、ジャーナリズムはナショナリズムに屈するしかない。
しかし、朝日バッシングの最中には大手メディアが「国益」を公然と掲げ、それに誰も異議を唱えず、あたりまえのようにやりすごされた。そればかりか雑誌メディアには「売国」「国賊」などという戦時を想起させる禁断の言辞が飛び交った。私の頭はクラクラしっぱなしだった。
「取り消し」が残す禍根
まだある。朝日が記事の「取り消し」を表明した「吉田調書」報道である。
記事の「取り消し」とは、私が知るメディア界の「常識」に照らせば、当該記事が捏造、あるいは虚報だったことを意味する。朝日の例を振り返れば、古くは伊藤律・架空会見記(1950年)にせよ、サンゴ事件(1989年)にせよ、報じられた事実自体が虚偽、あるいは捏造だったのだから、記事が「取り消し」とされるのは当然だろう。
しかし、「吉田調書」報道は違う。福島第一原発の故・吉田昌郎元所長に対する政府事故調の聴取記録―いわゆる「吉田調書」は存在し、朝日記者は政府が非公開としていたそれを見事に入手した。その中身は人類史でも未曾有の惨事となった原発事故の実相を浮かび上がらせる一級資料だった。
これを特ダネとして紙面化した昨年5月20日朝刊の記事「所長命令に違反 原発撤退」には、正直にいって私もやや首を傾げた。なぜここに焦点をあてたのか、批判を含めて議論されるべきだろうとも思う。
だが、猛バッシングを浴びたことも作用したのか、木村社長はこの特ダネに「調書を読み解く過程での誤り」があったとして「取り消し」処分にすると表明してしまった。
記事のどこが問題か、詳細に踏み込む紙幅はないが、木村社長のいう「調書を読み解く過程での誤り」があったなら、それは本来、修正や訂正で対応するべき種類のものであり、捏造や虚報と同様の扱いにまでおとしめてしまうのは重大な過ちだと私は思う。
このようなことがまかりとおれば、この国のメディアとジャーナリズムの将来に重大な禍根を残す。政府が隠す情報を必死の取材であぶり出し、それを市民に提示する仕事ーいわゆる「調査報道」は地道でしんどく、時には強烈な政治的圧力を受ける危険な作業である。そのような仕事に取り組み、貴重な資料の入手に成功した記者たちが、仮に「調書を読み解く過程での重大な誤り」があったにせよ、虚報や捏造を犯したかのような処断を受けるなら、記者クラブで発表ものを右から左に処理していた方が遥かに楽で安全だーそんなムードが蔓延し、「権力の監視」を任とすべきメディアとジャーナリズムは失速する。つまるところそれは、私たちの社会に流れる情報の幅と質が劣化することにつながる。
だが、これに疑義を突きつける声もほとんど上がらず、朝日バッシングの格好の材料に矮小化されてしまう始末だった。
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壊死状態の一断面を描く
本書の出版直後にも、こんなことがあった。昨年12月22日、慰安婦問題報道をめぐる朝日第三者委の記者会見。ネットメディアの記者を名乗る男性は、委員のひとりだった元外務官僚の岡本行夫氏に次のような質問を投げかけた。
「岡本さんが報告書の中で指摘されている『角度をつける』とは驚くような話だ。これが偏向報道と感じる理由になっている。日本や国民が不利益を受ける」
質問にもあるとおり、第三者委の報告書で岡本氏は、「個別意見」としてこう記した。
〈当委員会のヒアリングを含め、何人もの朝日社員から「角度をつける」という言葉を聞いた。「事実を伝えるだけでは報道にならない、朝日新聞としての方向性をつけて、初めて見出しがつく」と。事実だけでは記事にならないという認識に驚いた〉
朝日の記者たちによれば、「角度をつける」とは朝日社内の隠語で、記事の「切り口」を定めて「意義づけ」するといった意味であり、どのメディアでも普通に行われている。したがってこの記述は誤解を招きかねない面があったのだが、質問を受けた岡本氏は概略次のように回答した。
「私は官僚をやっていた時間が長い。官僚は事実を事実のまま提示し、脚色をつけてはいけないという中で育つ。私が担当したのは安保や防衛問題など朝日が好んで取りあげる話題だったが、なんでもないことでもセンセーショナルに報道する姿勢にかねがね問題意識を持っていた。今後、そういうものが払拭され、もう少し公正な報道に戻ってくれるかどうかがポイントだ」
愕然とした。メディアがしばしばセンセーショナリズムに陥るのは否定しないが、官僚が事実を事実のまま提示せず、都合の悪いことは平気で隠したりねじ曲げたりするのは歴史が証明している。また、官の側が「なんでもないこと」と言い張っても、見過ごしにすべきでないことは山のようにある。むしろ、そうした部分にこそ光を当て、あえていえば「角度をつけ」て問題提起するのがメディアの役割ではないか。官のいう「事実」を「公正」に伝えるだけなら国営メディアとなんら変わらない。
だが、質問者はフンフンと満足げに頷いていた。私はふたたびクラクラし、正気を保つのがやっとだった。
最後にお断りしておくが、誤報が批判されるのは一向に構わない。つねひごろ他者のミスを声高に批判するのがメディアである以上、むしろ誤報というミスが批判されるのは当然だろう。ましてや朝日は「日本を代表する新聞」を自称し、おそらくは多くの人がそれを認めてきたのだから、他メディアより激しい批判にさらされるのはやむを得ない。メディアの相互批判は言論を活発化させる面もある。
だが、批判のためにメディアとジャーナリズムの作法や矜持まで殺してはならない。それは言論・報道の自由を殺し、果ては民主主義を殺す。残念だが、私が見るところ、この国のメディアとジャーナリズムはなかば壊死状態に入りつつある。本書はその一断面を描いた記録だと思っている。
(あおき・おさむ ジャーナリスト)
読書人の雑誌「本」2015年3月号より
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42215
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