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アパルトヘイト発言が問題となっている曽野氏(『曽野綾子 天駈けるほどの軽やかな魂の自由』日本図書センター)
また作家タブー! 曽野綾子のアパルトヘイト発言を出版社系週刊誌が全面擁護
http://lite-ra.com/2015/02/post-900.html
2015.02.26. リテラ
産経新聞のコラムでアパルトヘイト導入を提唱し、大炎上した曽野綾子氏。その後、曽野氏のコラムには、南アフリカの駐日大使やNPO法人「アフリカ日本協議会」が抗議文を出し、日本アフリカ学会有志も「学術的にみても、アパルトヘイト(人種隔離)を擁護する見解だ」として撤回を求める要望書を曽野氏と産経新聞社に提出するなど、国際問題に発展した。
もちろん国内でも曽野氏の見解には否定的な意見が圧倒的だが、当の曽野氏はいまだ強気の姿勢を崩さず、海外紙が曽野を安倍首相の元アドバイザーと書いたことにかみつき、事実でないと訂正を求める始末。この人、自分が「教育再生実行会議」の委員だったことを忘れているのだろうか。
ところが、マスメディアはこの曽野氏を一向に追及する気配がない。それどころか、「週刊文春」(文藝春秋)や「週刊ポスト」(小学館)、「FLASH」(光文社)といった週刊誌は曽野氏を擁護する記事まで掲載しているのだ。
まず、2月26日号の「週刊文春」は、「曽野綾子「移民政策」コラムで私が伝えたかったこと」と題して記事を掲載。このなかで曽野氏は、南アフリカ大使からの抗議に対し、このように反論している。
〈南アフリカ共和国大使が日本語に堪能な方だったら失礼ですが、私のエッセイの中の、『差別』と『区別』の差がきちんと伝えられていないと思います。(中略)日本国家も、日本人としての『自覚的・他覚的』区別の下に成り立っています。芸術家の個性も、一人一人の個性として区別されるからこそ、存在の意義があるのです。しかしそれは、どれが上というものではありません。それが個性というものの豊饒な味わいです〉
出た、差別主義者の常套句「差別ではない、区別だ」──この問題は後述するとして、曽野氏はこうも述べる。
〈差別というと、日本人は反射的に、自分が差別をする側だと思うのですね。私はそれがいつも不思議です。私はたびたび、差別されている自分を感じました。しかしそれは不幸でも幸福でもありませんでした。自分の精神が一応確立していれば、差別を常に意識することはありません〉
差別者というものは往々にして被差別者に鈍感なものだが、この曽野氏の発言はその最たる例だ。曽野氏は「差別されていると感じるのは精神が確立されていないから」「差別されても私は平気だから、あなたも差別を甘んじて受け入れるべき」と言っている。この期に及んで、まだこんな詭弁を弄しているとは呆れかえるほかない。
しかし、「週刊文春」もさすがに曽野氏の一方的な意見だけを取り上げるのはまずいと踏んだのか、曽野氏に否定的な森永卓郎氏(この人選はかなり謎だが)の見解も併記し、一見、中立を装っている。一方、「FLASH」3月10日号はインタビューというかたちで曽野氏の言い分を紹介。しかも、その論調は完全に曽野氏に丸乗りしている。
まず、曽野氏は、冒頭から〈作家の書くものなど、学問上も、政治上もなんら力を持つものではありません。(中略)作家の書くことなど、あまり重視なさらないことです。もっとほかに大切なことがあるでしょう〉と、完全に責任を放棄。自分が発表した文章に責任をもつことは作家として当然の話だが、曽野氏は「がたがた言うな」と逆ギレ状態だ。
それなら金輪際、政治的、社会的発言をするな、と言いたくなるが、曽野氏はその後も言い訳を並べつづける。そして「FLASH」編集部は、曽野氏が南アフリカに支援活動を行ってきたことを挙げて「これほど南アの事情に精通した曽野氏が、よもやアパルトヘイトを称賛するような意図を持って文章を書くはずがない」と断言するのである。曽野氏が日本財団などで取り組んできた途上国支援など、とうの昔に「差別主義者が自分の権威を見せつけるためのほどこしにすぎない」という批判にさらされているのに……。
しかし、もっとひどいのは「週刊ポスト」だ。曽根氏が同誌で20年以上連載していることもあって、4ページにわたり「この騒動には重大な誤解と飛躍がある」と徹底して曽野氏を擁護。「ポスト」編集部は、今回の曽野氏の騒動がネトウヨvs.ネトサヨの“対立構造”に利用され、「だから(曽野氏は)差別主義者だ」と印象づけられているといい、「そもそもコラムにはアパルトヘイトという言葉は一度も登場しない」と力説しているのだ。
そればかりか、「ポスト」の連載でも2011年に曽野氏は産経コラムで取り上げた例の南アフリカのマンションの話に触れており、〈学問の研究も教育も、政治も会社経営も、スポーツも娯楽も、すべていっしょにできる。しかし共に住むということだけはしないほうがいい、それが摩擦の元だ〉と書いていたと紹介。「この文章は単行本にも収録した」と述べ、まるで“これまで抗議がなかったのだから、いま問題になるのはおかしい”とでも言いたげだ。これは「曽野氏ご本人の意見として掲載しました」と掲載責任などないという態度をとった産経と同様に悪質である。
このように、「週刊ポスト」も「FLASH」も「週刊文春」も、なぜ“火中の栗を拾う”かのごとく曽野氏に肩入れするのか。それはもちろん、曽野氏が出版社にとって大事な作家センセイだからだ。文藝春秋はもちろん、光文社も多数の曽野氏の作品を出版しており、もっといえば新潮社の「週刊新潮」も講談社の「週刊現代」も、曽野氏の批判は書けないだけでなく、いつ擁護にまわってもおかしくない。これは、百田尚樹の『殉愛』(幻冬舎)をめぐる騒動で、「文春」「新潮」が露骨な百田擁護にまわったのと同じ構図だ。
このように、文藝春秋や小学館、光文社が、事実上の“アパルトヘイト”発言擁護というジャーナリズムにあるまじき態度をとるなか、唯一、メディアの使命に立って取材を行ったのが、TBSラジオ「荻上チキ・Sasyuracom-22」だ。同番組では、2月17日の放送で曽野氏へのインタビューを敢行、荻上氏が曽野氏の真意を問いただした。
この放送でも、やはり曽野氏は「週刊文春」でも述べたように、「これは差別じゃない、区別なんですよ、能力のね。だから差別と区別を一緒にしないでいただきたい。私は区別をしつづける」と強調。この曽野氏の主張に対し荻上氏は、「差別と区別が違うと言ったときに、こうしたフレーズを、じつは差別者の側が意図的にというか狡猾に使うような場合もあってしまうわけですよね」と諭すように切り返した。だが、曽野氏はまったく怯まず、こう返答するのだ。
「でも、私は私の言葉の使い方をしつづけるだろうと思います。しょうがない。いま、ここで区別が差別になって、差別が区別になったって言われても、私の文学が成り立たない。ですから、私が死ぬのを待っていただきたい」
なんと見事な開き直りだろう。しかし、曽野氏が死ぬのは勝手だが、「差別でなく区別だ」という中学生のような言い訳はなんの意味もない。それこそ、差別主義者の常套句ではないか。
2009年から10年にかけて「在日特権を許さない市民の会」(以下、在特会)が京都の京都朝鮮第一初級学校近くで拡声器を使い「朝鮮学校を日本からたたき出せ」「スパイの子ども」と連呼し、授業を妨害したとして学校法人京都朝鮮学園が在特会を訴えるという訴訟が起こった。一審は「人種差別撤廃条約で禁じる人種差別に当たる」として在特会側に「学校の半径200メートル以内での街宣禁止と約1200万円の賠償」を命じたが、在特会はこれを不服として控訴。控訴審で在特会は「国籍による区別を主張しており、人種差別にも名誉毀損にも当たらない」と抗弁していた。「差別ではなく区別だ」と主張していたのだ。だが、大阪高裁は「差別意識を世間に訴える意図で行われ、公益目的は認められない」として控訴を棄却している。
曽野氏の主張は、この在特会の裁判での抗弁と同じだ。差別主義者はそうやって、差別を区別だと一方的に言い張る。だがそれは、たんなる言葉のすり替えにすぎない。
そもそも、あらゆる差別は区別することから生まれている。そして、区別することで優位に立つ人間はその正当性を説いて、あたかもそれが自明であるかのように信じこませる。そうした過去の権謀術策によってつくりあげられた区別という名の差別を崩していくことなくしては、社会的共生などあり得ない。
それでも、「差別ではなく区別」などとのたまう曽野氏を出版社は擁護し、文部科学省は曽野氏の文章を道徳教材にする。……この現実に、憂鬱な気分になるのは筆者だけではないはずだ。
(水井多賀子)
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