10. 2015年8月10日 12:05:21
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>>09 どうやら知られたくない話らしいので、削除の可能性を考え全文掲載させていただきます。 木本とは、苗字からしてそもそも本当に日本人かどうかも疑わしい人物ではありませんか。 米田剛三にしてもしかりです。2009年11月7日 尾崎秀実・ゾルゲ墓前祭講演会、﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽﷽究﷽﷽﷽﷽尾家の回想』という本あげられ、全部itukaiiju記録 (日露歴史研究センター『ゾルゲ事件外国語文献翻訳集』第25号、2010年3月)掲載。ただし、同誌に掲載された入江昭ハーバード大学名誉教授の発言部分は、著作権の問題もあり、省略している) 「ゾルゲ事件の新資料─米国陸軍諜報部『木元伝一ファイル』から」
一橋大学大学院教授 加藤哲郎 司会 日露歴史研究センター代表(白井久也)それではこれから、一橋大学大学院教授加藤哲郎先生(政治学専攻)を講師にお招きして、「ゾルゲ・尾崎墓参会記念講演会」を開きます。 本日は、ソ連軍事諜報員リヒアルト・ゾルゲとその日本人協力者尾崎秀実が1944年11月7日に東京拘置所で処刑されてから、ちょうど65周年になる記念すべき日になります。私たちはさきほど、多磨霊園(東京・府中市)にあるゾルゲと尾崎の墓参りをしてきたばかりであります。皆さん、少しお疲れかと思いますが、1時間ほど加藤先生の特別報告を聞くことにしましょう。きっと面白い話が聞けると思います。 宮城与徳を日本に送り込んだ「ロイ」は「木元伝一」では 加藤先生がきょうお話になるテーマは、「ゾルゲ事件の新資料─米国陸軍諜報部『木元伝一ファイル』から」です。木元伝一というのは、皆さんにとっては余り聞き慣れない名前だと思いますが、ゾルゲ事件の研究のためには、大変重要な人物であります。ゾルゲ諜報団の有力メンバーに、沖縄出身の画家宮城与徳がいたことは皆さんもよくご存知のことと思います。米国ロサンゼルス在住の米国共産党員でした。宮城はコミンテルン(共産主義インターナショナル)の要請で日本に派遣されて、東京で結成されたゾルゲ諜報団「ラムゼイ機関」の主要メンバーになるのですが、宮城を対日派遣したのは、かねてから「ロイ」と呼ばれる謎の人物であったことは分っていました。だが、それが一体誰なのか? 長い間不明でした。加藤先生は今夏(2009年)米国へ行かれ、ワシントンの米国国立公文書館(NARA)などで調査した結果、このロイなる人物がハワイ出身の米国共産党員「木元伝一Kimoto Denichi」であることを推定できる米国側資料を入手されました。ゾルゲ事件にはいろいろな人物が登場しますが、木元伝一は、その中でもキーパーソン的な地位を占める人物の一人です。先年、ゾルゲ事件研究者の渡部富哉さんが、ロイが木元伝一であることをソ連側資料から特定され、その研究成果の詳細を雑誌『諸君』に発表しましたが、ロイが木元伝一であることが今回米国側の資料によっても傍証されたことは、今後のゾルゲ事件研究に当たって重要な調査成果、と言うことができます。加藤先生の調査結果によって、図らずも米ソ両国の資料に基づいて、ロイ=木元伝一であることが裏付けられたわけで、誠に喜ばしい限りであります。 入江昭米ハーバード大名誉教授が参会者に挨拶(省略) 司会 入江先生、どうもありがとうございます。それではこれから、加藤先生の講演に移ることにします。その前に、事務局の方からちょっとお知らせがあります。この会場を借りているのは、午後5時までです。加藤先生に最初、1時間ほど講演をしていただき、そのあとで質疑応答に入り、5時まで終ることにしたいと思います。それでは加藤先生、ご講演をお願いします。 加藤哲郎(一橋大学大学院教授)私は今風邪を引いております。ただし新型インフルエンザではありません。大きい声を出せないので、お聞き取りにくい場合は、言っていただければ対応します。実は今年(2009年)3月から6月まで、メキシコの大学院大学で日本の政治・経済の客員講義をすることになり、現地へ行っていましたが、4月末にメキシコで新型インフルエンザが発生、在メキシコ日本大使館と日本の大学から緊急帰国命令が出て、5月に1度日本に緊急帰国しました。日本で総選挙中の8月になって、残った講義を行なうため、再度メキシコに渡り、講義と国際会議を終えて帰国しました。このため新型インフルエンザには免疫ができているはずで、大丈夫だと思っております。 私は元々ゾルゲ事件研究の専門家ではありません。ゾルゲ事件について報告するのは、この会に呼ばれた時だけでありまして(笑い)、すでにこの会で3回ほど外野からお話をし本にも入れております(加藤『情報戦と現代史』花伝社、2007年)。そんな関係で、ゾルゲ事件については皆さんとのつながりで、多少とも研究を進めてきたわけですが、本日は、白井さんから先ほどご紹介のあったハワイ出身の米国共産党員、ジャック・キモト(木元伝一)の記録をもとにして、お話をすることにします。メキシコに行って帰る途中、前後それぞれ1週間ほどワシントンに滞在して、米国国立公文書館(NARA)に通って調査・収集した資料のうち、ゾルゲ事件に関係する資料がいくつかあります。きょうはそれを紹介しながら、とくにハワイ出身のコミュニストであったジャック・キモトすなわち木元伝一の記録を中心に、お話しすることに致します。 米議会がナチス・ドイツと大日本帝国の戦犯関係資料の機密解除 これから本論に入りますが、みなさんにお配りした5枚の資料のうち、1枚目のレジュメの入った資料を見ていただければ、基本的には、話が通ずるようになっています。他の4枚はその関連資料で、適宜紹介する形で使うことにします。 私がなぜ米国の公文書館に通うかというと、数年前からアジア太平洋戦争の戦争犯罪と占領期日米関係についての新資料が公開され、ゾルゲ事件に関しても未公開だった資料が機密解除されているからです。 2年前の墓前祭の日に、ここでお話しましたが(「ゾルゲ事件の残された謎」、日露歴史研究センター『ゾルゲ事件外国語文献翻訳集』第19号、2008年6月)、チャルマーズ・ジョンソン(注 米国の政治学者)の著書(注 ・An Instance of Treason:Ozaki Hotsumi and the Sorge Spy Ring〞 Stanford University Press California,1961、邦訳書は萩原実訳『尾崎・ゾルゲ事件』弘文堂、1966年)の英文増補改訂版が1990年に出ていて、増補された部分は非常に意味のある新しい研究が入っていることを指摘しました。最近岩波書店が新版での翻訳権を申請中で、それが出版されれば、米国の冷戦崩壊後の研究状況が分かることになります。 ただし2年前は、私は『ワイマール期ベルリンの日本人』(岩波書店、2008年10月)の執筆中で、日独関係の研究に忙しく、米国で集めたゾルゲ事件資料のいくつかを、渡部富哉さん、五月書房を通して、この会に提供しました。なぜ2年前かと言いますと、2007年1月に、ワシントンの米国国立公文書館で、ナチス・ドイツと大日本帝国の戦犯関係資料が機密解除され読めるようになったという記者発表がありました。インターネット上でも英語・日本語で出ておりますが、1998年のクリントン政権末期に、米国でナチスの戦争犯罪についての資料が、当事者もほとんど亡くなったため個人情報保護の問題もなくなって、米議会で機密解除する法律ができました。これにならった形で、2000年の米国議会で、大日本帝国の戦犯資料についても機密解除・情報公開の法律が成立しました。 米国が第2次大戦中及び戦後占領期に集め持ち帰ったナチス・ドイツと大日本帝国の基本的な資料は、これまでもいろんな形で部分的に見ることはできましたが、今度はそれらを網羅的に整理して、全面的に機密解除し公開することになったのです。そのための作業に、米国の大学や図書館関係者が多数動員されまして、その結果、2005年ぐらいからナチス関係、それから2007年から日本関係の資料が、全部公開されるようになったのです。ただし実際に中身を見ると、例えば昭和天皇や岸信介の戦犯ファイルについては、トップ・シークリットとして非公開のものが残っているようです。 細菌戦研究を遂行した関東軍731部隊の資料も解禁 全体としてはナチス・ドイツ関係の文書が圧倒的に多く、日本関係はその一部ということになりますが、それでも全体の10−20パーセントしかない日本関係の文書だけで、約10万ページにのぼる厖大なものです。このことについては、日本でもいくつか新聞報道があります。 例えば満州での細菌戦研究、すなわち石井四郎の731部隊(注 旧日本陸軍が細菌戦の研究・遂行のために1973年、ハルビン郊外の平房に設置した特殊部隊の略称。正式名は関東軍防疫給水本部。部隊長は石井四郎。中国で細菌戦を行なうとともに、生体実験や生体解剖を行ない、多くの捕虜がその犠牲となった)について、米国側が集めた関係資料が全面公開されており、現在はインターネット上で文書そのものも画像で見ることができるようになりました。このことは、サンケイ新聞2007年1月19日付けが、いち早く報道しています。 旧陸軍情報関係グループが吉田首相の暗殺計画を作る マスコミが注目したのは、このほかに、戦後すぐの時期の旧日本軍関係者、とりわけ服部卓四郎、河辺虎四郎、有末精三、辰巳栄一ら旧陸軍情報将校たちが、マッカーサー元帥の幕僚で、連合軍総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)ウィロビー部長の下で庇護されながら秘かに計画していた「日本地下政府」の関連資料です。下山事件、三鷹事件、松川事件の直接資料は出ていないのですが、米国が日本の旧陸軍情報将校の陰謀をどう見ていたかを示すCIA資料が公開されました。 これによって、日本が1952年4月にサンフランシスコ条約に調印して独立する前後に、旧陸軍の情報関係グループ、とりわけ服部卓四郎らが、吉田首相を暗殺して第3次世界大戦をおこし、宇垣一成(注 元陸軍大将、陸大卒、陸、外、拓相、朝鮮総督府を歴任した旧陸軍のボス。戦後参議院議員)を首相にかつぐクーデター計画があって、そのための日本の地下政府を密かに1948年ごろから準備していたという話があります。これは、共同通信2006年8月20日や時事通信2007年2月26日配信などで報道されています。これらのニュースは、今でもインターネットで読めます。 緒方竹虎が首相となれば、米国の利害で日本を動かせる 何しろ日本関係だけで、10万ページも新たに機密解除されたわけですから、いろんなものが入っています。私自身その中の一つを使って、この夏、早稲田大学で行なわれた公開研究会で、吉田茂のあとに緒方竹虎を首相にすれば、米国の利害で日本を動かすことができるとして、米中央情報局(CIA)が対日政治工作を行なった事実を、CIA「緒方竹虎ファイル」から報告しました。 それは、お配りした資料の1枚目の裏側にあるように、毎日新聞2009年7月26日朝刊で「CIA 緒方竹虎を通じ政治工作、50年代の米公文書分析」という1面トップ記事に取り上げられ、英文でも紹介されました(そう言って、毎日新聞の記事をコピーした配布資料・を揚げて見せた)。そう言えば、この夏の「緒方竹虎とCIA」報告会に出席された方が、本日は多数お見えです。ありがとうございました。 そのほかに、日本の戦後政治史にからむものでは、私は岸信介(注 元首相)、賀屋興宣(注 元蔵相)、佐藤栄作(注 元首相)らにつながる線の方を、主に追いかけております。ただし、先ほど言ったように、資料そのものがきわめて厖大ですので、一つ追いかけると、そこからいろいろ周辺の新しい資料と事実が出てきているのです。 個人ファイル、問題別ファイル、ビジネスファイル 10万ページの機密解除資料にどういうものがあるかは、英語ですが、米国国立公文書館ホームページで知ることができます。 一つは「個人ファイル」があります。パーソナル・ネーム・ファイルと言って、CIA、MIS(米国陸軍情報部)、FBI(連邦捜査局)関係の人名ごとにファイルになっていて、その人に関する資料がまとまった形で保存されております。CIAの個人ファイルの「緒方竹虎ファイル」を分析したら、さっき申し上げたような日米関係の重要な事実が出てきたわけです。 もう一つは、サブジェクト・ファイル、すなわち「問題別ファイル」で、日本の中国大陸における諜報活動とか細菌戦とか、テーマに即してまとめたファイルがあります。 第3番目が、「ビジネス・ファイル」と言って、これが結構面白いのです。CIAとか、OSS(米戦略情報局)とかMIS(米陸軍情報部)の情報機関に関係した人たちが、何年何月からどこで勤め始めて、どういう部署についたか、サラリーはいくらであったかという米国情報機関内部の個人情報記録が出ているのです。私が今一番注目しているのはこちらの方で、戦時中のOSS、今のCIAの前身ですが、そこにはW・W・ロストウ(注 経済学者、ケネディ、ジョンソン両大統領の特別顧問を務めた。マルクス主義に対抗して社会は5段階の経済発展を辿り高度消費社会になるという理論を唱えた)やアーサー・シュレジンジャー(注 歴史学、ハーバード大学教授、ケネディ大統領の特別補佐官を務めた)ら学者の戦時動員の記録があります。当時のハーバード大学歴史学部長ランガーが人材集めの中心なのですが、歴史学、人類学、社会学、経済学、心理学等々の最高の頭脳が集められ、「敵国」ドイツ・日本の分析にあたっていました。しかもそこにはポール・スウィージー、ポール・バラン(共にアメリカの左翼雑誌『マンスリー・レビュー』編集者)のようなマルクス主義者まで入っていて、ファシズムに勝つために米国の戦略を立てるための調査と分析を行なっておりました。その関係の記録が全面的に公開されるようになったのです。いわば社会科学版マンハッタン計画です。 それらについて、事前にインターネットで索引を調べ、ある程度目途をつけてワシントンに行って現物を見ることが、ここ数年、私の夏の仕事になっております。インターネット上でどういうファイルを見ることができるかは、日本からでも米国国立公文書館のホーム・ページ(英語)に入って人名索引で見ることができます。そこで面白そうだと思ったら、現地に行って中身を見ることになります。 CIAの個人ファイルが第1次、2次と相次いで発表 中身はどうかと言いますと、国家機関毎に公開されます。お配りした資料・のように、戦略情報局、すなわちOSS関係(CIAの前身で、第二次世界大戦中の1940年に設置された米国の情報機関)、中央情報局、皆さんお馴染みのCIAです。それからG2、MIS=陸軍諜報部の資料、FBI(連邦捜査局)等々の資料が出ています。FBIは出入国管理をやっていたので、米国にだれがいつごろどうやって入国したか、あるいは外国人の密入国取締関係の資料があります。賀川豊彦とか藤井周而(米国共産党日本人部指導者、カルフォルニアの日系左翼新聞『同胞』編集長)らの記録が残っています。きょうはこの話は省略します。 この7月に早稲田で行なわれた20世紀メディア研究所での記者会見で発表したのは、CIAの個人ファイルです。これは、マスコミの方々から非常に注目されています。CIAの個人ファイルは、第1次、第2次と分けて機密解除されていまして、その圧倒的部分はナチス・ドイツ関係のものです。 第1次公開は788人分、そのうち日本人名と思われるのは、土肥原賢二(注 陸軍大将、ハルビン機関長となり、満州国建国に活躍,清朝皇帝溥儀を天津から満州に脱出させた。戦後A級戦犯として処刑)、今村均(注 陸軍大将、第23軍、第16軍、第8面方軍司令官を歴任、戦後戦犯として服役後釈放)石井四郎(注 陸軍中将、細菌戦を研究・推進した関東軍731部隊長、戦中、囚人やロシア人捕虜に生体実験や生体解剖を行ない、戦後その資料を米軍に渡して追訴を免れた)、大川周明(注 国家主義者、昭和維新を目指した、戦後A級戦犯として訴追されたが、精神異常になり免訴・釈放、著書「米英東亜侵略史」など)の4人のみです。 もともと私がこういう記録を見始めたのは、ドイツ関係からです。去年岩波書店から出版した『ワイマール期ベルリンの日本人──洋行知識人の反帝ネットワーク』という本の関係と、2年前に中間報告を発表した、在独日本大使館に勤めていて連合軍側に連絡しスウェーデンに亡命した崎村茂樹という日本人の記録を探していたためです。この関係で、ナチスのヒトラーHitlerの記録を探しに行ったら、アルファベット順でドイツ人のも日本人のも一緒に入っていました。ヒトラーと同じボックスに、裕仁Hirohito(注 昭和天皇)とか東久邇Higashikuni(注 稔彦、旧皇族、戦後、首相として終戦処理に当たった)のファイルがあったのです。「あれ日本人のファイルもあるのか」と思って見始めたら、なかなか面白いものが出てきたので、日本人の方も追いかけることになったのです。 第1期公開分788人分の中には日本人は4人しかいなかったのですが、第2期公開分では1100人分のCIA個人ファイルが公開され、日本人と思われるファイルが30人分42冊含まれていました。これらが、戦後CIAが特別に注目して監視し情報を集めていたドイツ人と日本人の記録です。CIAとつながりのあるドイツ人や日本人の記録も含まれています。 NTV開局に当たって、CIAに取り入った正力松太郎 第2次公開の日本人と思われる記録は30人分、42冊です。石井四郎・今村均・大川周明は1次と2次の両方にあります。有末精三、服部卓四郎、河辺虎四郎、辻政信とか旧軍人のみではなく、岸信介、賀屋興宣のようなA級戦犯容疑者でCIAが関心をもった政治家もいます。児玉誉志夫、笹川良平等右翼・国家主義者のファイルもあります。 第2次で公開された日本人30人の中で、一番厚くて一番中味のあったファイルが緒方竹虎(注 戦前朝日新聞主筆・情報局総裁、戦後吉田内閣の副総理)だったので、この1年間緒方竹虎を中心に解読してきて、それが先ほど申したように毎日新聞の一面トップ記事になったものです。これは、私と早稲田大学の山本武利教授、立教大吉田則昭講師のチームで解読してきたのですが、緒方のCIAコードネームはPOCAPONでした。 その他に、早稲田大学の有馬哲夫教授が、正力松太郎(注 新聞経営者、後藤新平の薦めで読売新聞社社長となり、思い切った大衆新聞化によって5万部だった同紙を朝日、毎日新聞と並ぶ3大全国紙の一つに育て上げた。戦後A級戦犯として逮捕、釈放後テレビの将来性に着目して日本テレビを設立した。鳩山・岸内閣で国務大臣を務めた)のファイルを解読し、すでに3冊の本にしています(有馬『日本テレビとCIA』新潮社、2006年、『原発・正力・CIA』新潮新書、2008年、『昭和史を動かしたアメリカ情報機関』平凡社新書、2009年)。正力ファイルも3冊あって中身が充実しており、なかなか面白いものです。CIAコードネームPODAMの正力が、日本テレビを開局するに当たって、いかにVOA(米国の声)など米国の国際反共諜報電波網に取り入りテレビの放映権を独占したのか、それから第5福龍丸被爆事件の時、日本の原子力開発を推進するために、正力が米国の命を受けてアトム・フォー・ピース(平和のための原子力)というキャンペーンを読売新聞で展開する背後にCIAがいたことが、この記録で見えてくるのです。 緒方がPOCAPONで正力がPODAMですから、CIA文書ではPOは日本の国名を示す暗号だろうという暗号解読もできました。 中味がつまらないCIAの裕仁=昭和天皇ファイル ただし、昭和天皇=裕仁ファイルは、CIAの記録ですから画期的なものと思われがちですが、中味はつまらないもので、英語がどれくらいできるとか、フランス料理が好きだとか、生物学を研究しているといった、箸にも棒にも掛からない代物です。緒方竹虎ファイルは1000ページ近くありますが、昭和天皇は20ページ程度のもので、大きな記事になるようなものではありません。 岸信介のファイルもあります。岸信介とCIAのつながりは、ティム・ワイナーの本(注 ・Legacy of Ashes: The History of the CIA〞が、邦訳書名『CIA秘録 その誕生から今日まで』文藝春秋、2008年)で大きなセールス・ポイントになっています。しかし、岸についての公表されたCIAファイルは、あまり面白くありません。戦後、岸が首相になってからの英字新聞記事の抜粋など既知の資料だけで、余り意味のある資料とは言えません。私は天皇や岸信介を狙ったのですが、そちらの方では成果がなくて、その副産物というか、ついでに集めた緒方竹虎とか正力松太郎とかに歴史的発見があったのです。昭和天皇や岸信介の戦犯容疑に直接関わるファイルは、未だ機密扱いのようです。 CIAファイルで一番面白いのは、服部卓四郎ファイルの中に、1945年から51年にかけて、日本の旧軍幹部がいかにして日本の再軍備を図ったかの詳しい総括的データがあります。これを有末精三、河辺虎四郎、辻政信、辰巳栄一らのファイルとクロスさせて、米側の記録を読み解いているところです。以上が、CIAファイルの主な中身です。 きょうこれからお話をするのは、MIS、つまりミリタリィ・インテリジョンス・サービス、陸軍諜報部の日本人監視記録です。日本ではウィロビーが指揮したGHQのG2の下に、キャノン機関(注 日本占領下で「Z機関」とよばれた米国の諜報機関、責任者はジャック・Y・キャノン大佐。東京文京区竜岡町の旧岩崎邸に本部があり、主として日本や中国の共産党に関する情報を収集した。下山、三鷹、松川事件との関係が噂され、1952年鹿地亘誘拐事件でその存在が知られるようになった)があったことは、皆様もご存知でしょう。 対日占領期にマッカーサーから嫌われたCIA 詳しいことは省きますが、CIAは、占領期にマッカーサー(注 連合国軍最高司令官)やウィロビーから嫌われていたこともあって、1952年の日本独立まで、日本国内では十分な活動ができませんでした。この辺は、春名幹男さんの『秘密のファイル』(新潮文庫)をお読み下さい。しかし、陸軍諜報部=MISは、ずっと活動を続けていたわけで、日本の政治に関わる、米国側が日本で何らかの意味で重要と思った人たちの膨大な情報を集め、監視対象者リスト(watch lists)にもとづき個人ファイルを作っていました。 MIS個人ファイルには、CIAとも重複する裕仁、岸信介、児玉誉志夫、有末精三らから、日本共産党の野坂参三(注 元日本共産党議長)、中野重治(注 プロレタリア文学作家)まで、実に約2500人分あります。その一端は、皆さんにお配りした資料の3枚目の人名リスト(アルファベット順)がこれに該当します。A項だけでも、何10人にのぼります。ときどき、秋田雨雀(注 作家)、有田八郎(注 元外相)、赤尾敏(注 右翼活動家)、有末精三(注 元陸軍参謀本部第2部長)、浅原正基(注 元シベリア抑留活動家)といった有名人が出てきます。でも、その圧倒的多数は、皆さんがご存知ないような無名の日本人です。しかし、その多くが1937年から1970年代まで、戦前・戦中は敵国の要注意人物として、戦後は日本各地にある米軍基地内の陸軍課報部隊が監視対象として情報収集し、それをワシントンのペンタゴン(国防総省)、国務省、0SS/CIAなどに送っていた記録です。 きょうは木元伝一の話をするので、アルファベットの人名索引A項とK項のところだけをコピーしてきたのですが、実はこういう形で、日本人名がずらっと並んでいるのは、NARAのホームページから私が拾い集めて編集した自家製リストです。実際は、この間にドイツ人の人名が膨大に入っていて、要するに日本人らしい人名を判断してアルファベット順に並べるとこういうリストになるわけです。11月末に、私は同志社大学人文科学研究所でこのテーマで報告を行なうことになっており、それに向けて作った人名リストの一部を皆さんにコピーしてお持ちしたわけです。あとで関心のある方は、虫眼鏡で見て下さい。 木元伝一があるKの項にはなぜか、特高に虐殺されて戦時・戦後はいなかったはずの小林多喜二(注 プロレタリア文学作家)が入っていたり、近衛文麿(注 元首相)、秀麿(注 文麿の実弟、オーケストラ指揮官)も出ていますし、久保山愛吉(注 第5福竜丸事件の被災者)や、毛沢東(注 元中国共産党主席)など中国人・朝鮮人でも日本の戦争に関わりのあった人の個人リストが入っています。毛沢東については、彼の秘密の使者が朝鮮戦争前に野坂参三に会いに来たという神奈川県警の報告書が載っています。 そんな感じで、MISファイルというのは、内容的にはCIAのファイルよりはるかに充実しています。きょうはドイツの専門家の三宅正樹先生もお見えになっていますが、ドイツ現代史の研究、戦時日独同盟研究、あるいはドイツと他の国々との関係の研究、日本とアジアの国々との関係で米側が日独同盟をどう見ていたかということを研究するためにも、これらは非常に役に立つでしょう。 MIS個人ファイルは在日米軍基地諜報部隊による要注意日本人監視記録 ゾルゲ事件に関して言えば、ドイツの駐日大使であったオイゲン・オットの個人ファイルが結構充実していて、数100ページあります。アメリカ人が解読したものなので、日本人名がときどき間違っています。索引に「オザキ・ヒデミ」とあったので、ワシントンで請求し読んでみましたら、案の定、オザキ・ホヅミ(尾崎秀実)でした。米側の表記はいい加減ですので、これは尾崎秀実ではないかと見当をつけて読んでみて、初めてそうだったことが分かるわけです。ホリエとあるので、これは堀江邑一ではないかと思い請求したら別人で、徒労に終わったこともあります。ゾルゲ事件関係者では、尾崎秀実のほか、川合貞吉、宮西義雄(注 元満鉄調査部員)、木元伝一、オイゲン・オットのファイルがあります。 戦後の政治家では、吉田茂や岸信介はありますが、鳩山一郎や石橋湛山、佐藤栄作は見あたらず、代わりに比較的新しい中曽根康弘(注 元首相)や大平正芳(注 元首相)のファイルがあります。中曽根は、戦後の右翼国家主義者時代について「憲法改正の歌」の英訳なんかが入っていて、「要注意人物」になっています。大平については、日韓条約関係ではなく日中国交回復時のものが中心です。 そういうわけで、MIS個人ファイルは、基本的には日本にある米軍基地の諜報部が集めた日本人に対する監視情報の記録です。つまり、今でも私たちは秘かに監視され、ファイルされている可能性がある、そんな記録です。今回機密解除されたもののなかで、圧倒的に多いのは、シベリア抑留帰りの人たちです。中国からの抑留帰りも、多くの記録が残されています。彼らが舞鶴港に引き揚げてきたとき、一問一答形式のマニュアルでさまざまなことが尋問され、どう答えたのかが分かるようになっています。 最後に、OSSビジネス・ファイルと言って、CIAの前身の戦時中の戦略情報局の事務関係のファイルがありまして、そこに先ほど言いましたポール・スウィージー、W・W・ロストウらが出てきます。日本人関係ではジョー小出(注 野坂参三が1930年代に米カリフォルニア州で地下活動をやっていたときの協力者)とか藤井周而ら、在米日系人で野坂参三が関係した『国際通信』等に関わった人たちが出てきます。春名幹男『秘密のファイル』に詳しいですが、彼らが戦時中日本軍国主義打倒の立場から米国情報機関に協力したことが、資料として明らかになっています。 ゾルゲ事件─真実は1つだが、3つのストーリーがある そもそもゾルゲ事件については、真実は一つですが、それが世に出るにあたっては、大きく分けて3つの物語があります。一つは、ゾルゲ事件が1941年に発覚、戦後日本で作られた、みすず書房の『現代史資料 ゾルゲ事件』(全4巻)に裁判記録として収録されている日本でのソ連スパイの物語、これが第一です。2つ目の物語は、戦後になって、主としてGHQのG2、ウィロビーの下で作られた「ウィロビー報告」で公表されたゾルゲ事件のストーリー、これは上海が主舞台で、アメリカ共産党の関わる第2の物語です。第3の物語は、1964年にソ連で、ゾルゲが突如として名誉回復し、ソ連邦英雄の称号を贈られわけですけども、その下で作られたソ連社会主義流の愛国英雄ゾルゲ物語、この3つがあるわけです。 きょう私がお話するのは、このうちの2つ目の物語、つまり日本の尾崎やゾルゲを国賊として裁く裁判記録とは別に、戦後になって米国がゾルゲ事件の本格的な追求を行なった膨大な記録の一部です。戦後冷戦のさなか、マッカーシズムをあおるために公表されたウィロビー報告には、これら第一次資料のうちのほんの少ししか使われていません。 米国では「赤狩り」に利用されたゾルゲ事件 ただしそれらは、「ゾルゲ事件」という問題別ファイルにまとめられているわけではありません。MISの個人ファイルなどの中に、先ほど申し上げたように、散らばって入っているのです。一言で言えば、1949年に中国革命が成就、50年から朝鮮戦争が始まります。それをマッカーサーやウィロビーが、マーシャル国務長官すなわち国務省の失策として告発し、中国派のオーエン・ラティモア(注 著名な東洋学者)やジョン・フェアバンク(注 ハーバード大学の中国史家)らをマッカーシズムで告発する材料を、ゾルゲ事件の関連で収集し見つけてきた記録が、きょうお話するMISのゾルゲ事件関係者の記録ということになります。チャールズ・ウィロビーの作意、軍部による国務省の中国政策批判、マッカーシズムへの材料提供という、きわめて政治的な性格の強い資料です。 ゲティスバーク大学で「ウィロビー文庫」を見る MIS資料のほかに、「ウィロビー文庫」も見てきました。ワシントン郊外メリーランドの米国国立公文書館別館から車で3時間ぐらい行ったところに、南北戦争の戦場となったことで有名なゲティスバークという町があり、そこにゲティスバーク大学という小さな大学があります。実はこれがウィロビーの母校でして、この大学が生んだ偉人の1人として、ウィロビーの遺族から寄贈された「ウィロビー文庫」があります。日本人はめったに行かないらしく、大学側の記録によると、ゾルゲ事件関係文書は、私が3人目の閲覧者でした。ほとんど利用されていないためか、コピーは全部無料にしてくれるという大サービスで、そこで集めてきた資料によると、本題で述べるMISのゾルゲ事件資料の性格がよく見えてきます。 ウィロビー文庫のなかに、松平康昌宗秩寮長官が昭和天皇の独白に基づき記述し、ウィロビーに提出した手記「天皇陛下と終戦」という論文のオリジナルがあります(The Emperor and the End of the War、勝田龍夫『「昭和」の履歴書』文藝春秋、1991所収)。昭和天皇『独白録』のもとになったものです。昭和天皇は戦時中いかに苦悩されたか、また、東条英機(注 元首相、A級戦犯として処刑)をいかに嫌っていたかについて書いた天皇制を守るための記録があって、その原文がなぜかウィロビーに私蔵され、残っています。ここにあるウィロビー・ペーパーの中でこれまで日本に紹介されたのは、おそらくこれだけでしょう。 ちなみにウィロビーの資料そのものは、マッカーサー記念館やスタンファード大学フーバー研究所など、いろいろなところに散らばって保管されています。私が見たのはウィロビーの遺族が最後に寄贈したものです。このゲティスバーク大学のウィロビー文庫の重要な点は、ウィロビーがゾルゲ事件の報告書を作るために彼が集めた資料が、大量に残されていることです。 ウィロビー文庫はゾルゲ事件関係資料の宝庫 では、それはいかなるものなのか? 米国国立公文書館に入っている Records of the Shanghai Municipal Police(上海租界工部局警務処文書)、平たく言えば上海租界警察の記録で、1894年から1949年までの分があります。その中に出てくるアメリカ人、ドイツ人、日本人の政治活動、共産主義や労働組合に関する記述を抜き書きしたうえで英訳し、こんな分厚い資料にまとめたものがあります(そう言って、両手で30−40センチぐらいの厚さを示す)。これは「ウィロビー報告」(注 ・Shanghai Conspiracy〞:日本語版は福田太郎訳『赤色スパイ団の全貌─ゾルゲ事件』東西南北社、1953年)をお読みになった方々はご存知だと思いますが、ウィロビー報告の中で引用され、彼にとって都合のよいところが使われています。 その他に、日本の司法省刑事局資料があって、アグネス・スメドレー(注 米国の女性ジャーナリスト、邦訳に『中国紅軍は前進する』など)、エドガー・スノー(注 米国のジャーナリスト、邦訳書に『中国の赤い星』)、鬼頭銀一(注 三重県出身のアメリカ共産党日本人部指導者、上海でゾルゲと尾崎を最初に結びつけた)といった米国共産党員が出てくる記録が、抜き書きされて英訳されています。どれも厖大なものです。 ウィロビーが集めたゾルゲ事件資料をケナンやニクソン、マッカーシーが利用 それからこの時期、つまり1950年前後ですが、ウィロビーがジョージ・ケナン(注 外交官出身の米国国務省ロシア・ソ連問題の専門家、「対ソ封じ込め対策」の発案者)、リチャード・ニクソン(注 元米国大統領)、ジョセフ・マッカーシー(注 元米上院議員、1950年代全米を吹き荒れた「赤狩り」の張本人)ら、当時の「マッカーシズム」の仕掛け人たちに送ったり、もらったりした往復書簡が、ウィロビー文庫の中に入っています。 お配りした資料・をご覧ください。一番最後のページです。そこに、ジョージ・ケナンのウィロビー宛手紙が載っています。ウィロビーからケナンがもらった手紙に対する礼状です。その中に、こんなことが書いてあります。国務省極東担当の中の怪しい人物を追及せねばならない。そのためにはその根拠となるファクト(事実)が必要である。あなたがゾルゲ事件について集めた資料を提出してもらえば、大きな力になる。ゾルゲは中国にいたアメリカ人を使っていたようだから、アメリカに忠誠心を持たないアメリカ人をあぶりだせる。つまり、非米活動の名目でマッカーシズムを進めて行くうえで、ウィロビーの集めたゾルゲ事件の資料は大変役に立つということを、国務省のケナンが言っているのです。 逆にウィロビーは、ケナン宛手紙でこんなことを言っています。「中国革命は米国国務省のコミンテルン(注 共産主義インターナショナル)工作監視の失敗の産物である、ゾルゲ事件は東京で始まり東京で終る物語ではない。ソ連および国際共産主義の世界戦略の一断片である」と強調しています。ジョージ・ケナンは、米国務省随一のソ連通でいわゆる冷戦の「仕掛け人」でしたが、そこにウィロビーが食い入って、ゾルゲ事件資料が重要な役割を果たしたのです。 そういうことで、ウィロビー・ペーパーを検討しますと、ウィロビーが狙っていたのは、米国での共産主義者の非米活動の追及、中国革命や朝鮮革命を国務省の失敗として政治責任を追及するためにゾルゲ事件を使おうとしていたことが分かるのです。 米国MIS資料中には尾崎秀実ファイルも そのことを具体的に示すのが、MIS(米陸軍諜報部)のゾルゲ事件に関わる様々なファイルです。最後に、「木元伝一ファイル」に入ることにします(このあと腕時計を見て「あと20分ありますね」と確認したうえで、話を続ける)。この「木元伝一ファイル」は、2009年9月に集めてきたものです。そのほかに、これまで尾崎秀実ファイル、川合貞吉ファイル、宮西義雄ファイルを集めていまして、渡部さんと五月書房を通して、英語資料として皆さんにお渡ししました。そのときは僕自身、これらのファイルの分析や研究を本格的にする気持ちはなくて、皆さんにやっていただけないだろうかと思って期待し提供したのですが、なかなか翻訳も進まないようなので、敢えて今日、改めて紹介することに致します。 2007年の夏、ワシントンへ行ったとき、国立公文書館で尾崎秀実、川合貞吉、宮西義雄のファイルをコピーしてきました。ご覧になりたい方もいらっしゃるかと思いますので、回覧します。尾崎秀実は1944年に死刑になって、皆さんも先ほどお墓参りをされてきました。戦後米軍が日本を占領するにあたって、なぜすでに故人の尾崎秀実の個人ファイルを作って保管しているのかと疑問を持つ方は、これを研究していただくとよく分かります(と言って手元にある資料の中から、尾崎の資料を取り出して回覧に供した)。 米国にとって好都合な雑誌『うら・おもて』のゾルゲ事件特集 1947-49年 に日本で出ていた『うら・おもて』という怪しげな雑誌、いわゆるカストリ雑誌があります。当時の旧情報関係者が出していたものと思われるものですけれども、「ゾルゲ事件の真相─尾崎秀実は国を売った」という記事が、1949年9月号に掲載されまして、MISの「尾崎秀実ファイル」には、日本文とその英訳文が全部入っています。このセンセーショナルな売国奴尾崎秀実という記事は、米国にとって都合の良いストーリーらしく、米国陸軍諜報部は、それに基づいて「尾崎・ゾルゲ事件」を解釈しようとした節がうかがえるのです。そのほかに、戦後『愛情はふる星のごとく』がベストセラーになっていることが新聞に載ります。それらの新聞記事は、逐次英文に翻訳されて尾崎ファイルに閉じ込まれます。要するに、尾崎秀実に関する情報を次々とファイルに収録していったわけです。 お配りした資料・に、尾崎秀実ファイルの主なものを、いくつか入れておきました。全部英語ですが、尾崎に関心がある方は後で読んでいただければ良いのですが、尾崎が1930年に米国共産党員の鬼頭銀一とスメドレーを介して上海でゾルゲと会ったという話から始まって、「尾崎はゾルゲ事件で非常に重要な関係者である」と書かれています。近衛内閣の顧問で、風見章のブレイン、犬養健・西園寺公一・田中慎次郎・後藤憲章との関係が注目されています。軍事情報は、川合貞吉・水野成・篠塚虎雄から得たとあります。 尾崎秀実ファイルに出てくる友人たちの名前 重要なのは、その隣にある尾崎秀実履歴の中に「アソシェイト」(友人)として、尾崎の友人たちの名前があがっていることです。小さい英文活字のため、原文は大変読みにくいのですが、ざっと見ていただくと、名前の末尾に(IPR)と記された人たちがいます。全部で5人です。IPRというのは「太平洋問題調査会」(注 日本、中国、米国、英国、カナダ、オーストラリアなど太平洋地域に利害関係を持っている国との民間有識者によって組織された調査団体。1925年9月に発足、61年まで存続した。本部はホノルルに置かれ、33年からニューヨークに移った。日本支部に26年4月6日に創立され、井上準之助や新渡戸稲造が理事長を務めた)で、米国国務省の中国派の人たち、オーウェン・ラティモア(注 著名な中国学者)らの活動の拠点でした。したがってIPRの日本人メンバーと米国中国派は近い関係にありました。従って、このリストは、彼らが日本の警察によってゾルゲ事件の関係者として訴追されたかどうかに関係なく、米国としては徹底的に追及する必要があるという当局の意思表明なのです。つまり、ゾルゲ事件の関係者とアメリカ人がつながるとすればIPRを通じてであろうと意識して、アソシエート(友人)の中のIPR関係者として、西園寺公一(注 昭和の元老西園寺公望の孫)、平貞蔵(注 南満州鉄道調査部経済分析担当)、佐々弘雄(注 朝日新聞論説委員)、笠信太郎(注 朝日新聞論説員、のちに論説主幹)、細川嘉六(注 評論家)の名前をあげています。この中にはもちろん、西園寺公一のように、司直によって追及された人たちもいますが、それ以外の人も入っています。資料・の中でコンフィデンシャル(秘)とかいたものの中に、平貞蔵についての米国側資料をあげておきました。彼は、昭和研究会(注 後藤隆之介によって設立された民間の国策研究団体)の有力メンバーであり、同時に尾崎秀実の親友であり、かつ太平洋問題調査会とも関係のあった人物です。平貞蔵の記録は、尾崎ファイルの中で、相当の比重を占めております。これが1つの特徴です。ですから、尾崎の関係者の中に、米国国務省や共産党の中国政策に関わるような人がいるかいないかを徹底的に調べたのが、この尾崎ファイルの中身です。ただし中西功や堀江邑一の名は挙げられていません。 MISが注目した宮西義雄の日本の石油備蓄報告 次に、MISの宮西義雄(注 南満州鉄道調査部)ファイルですが、平貞蔵の記録の隣に入れておきました。これは見にくいものですが、現物そのものがこういう感じのカードです。これを見ますと、ゾルゲ事件発覚直前、1941年に宮西が日本の石油備蓄について満鉄で報告を行ないました。その報告の中味は、石油備蓄の面から見て日本はとても戦争に勝てるはずはないということですけれども、その報告が尾崎に渡り、ゾルゲを介してソ連側に伝わったということについて、米国側は非常に重視したのです。宮西義雄は、ゾルゲ事件の被告の中では傍流の方に置かれていますが、米国にとっては宮西義雄という人物は極めて重要な人物であったことが分かるわけです。 GHQに情報提供をしていた川合貞吉 それ以上に重要なのは、お配りした資料・にある、MISの川合貞吉ファイルです。川合貞吉ファイルは全部で60枚くらいになりますが、これは、ゾルゲ事件についてのウィロビー報告や米国側研究を見る場合、極めて重要な資料になると思います。川合貞吉ファイルには、1947年9月12日から51年7月31日までのものが入っています。川合が「本郷ハウス」(注 東京・本郷にある旧岩崎別邸)で「キャノン機関」に情報を提供していた記録が、川合貞吉ファイルに収録されています。そのときの川合の相方、G2の担当官は、戦後、八ケ岳山麓清里を開発し、アメリカンフットボールの日本への紹介者としても知られる、ポール・ラッシュ(注 元GHQ情報将校)です。資料・の写真が、ポール・ラッシュと川合貞吉のツーショットです。 川合貞吉は伊藤律と松本三益の名を挙げ、ウィロビーは伊藤律端緒説を採用 この川合貞吉ファイルは、全体として非常に重要です。要するに川合貞吉は、戦後米国側に様々な形で情報を提供しておりました。どちらから言いだしたかは、渡部さん(注 富哉、社会運動資料センター代表)がかねてから追求している問題ですが、それは必ずしも分かりません。でも、少なくとも以下のようなことが言えます。 川合貞吉は、中国で諜報活動していたとき、アグネス・スメドレーと会ったことになっていて、しかも、尾崎とゾルゲ、スメドレーの関係を知って生き残っている唯一の日本人でした。スメドレーを遠くから見たひとはいるかもしれませんが、ゾルゲ事件にからんでスメドレーに直接会ったことがある現存者は、尾崎処刑の後は川合だけでした。川合貞吉の証言は、スメドレーはコミュニストであると米軍が告発し、スメドレー以下上海にいた多くのアメリカ人は非米活動者つまり米国にとっての国賊であったとデッチあげる際に、決定的に重要な役割を果たします。その川合貞吉の記録がこれです。 その中に、伊藤律(注 元日本共産党政治局長)から情報が流れたはずだというような証言もあります。ところが、川合自身の49年2月の供述記録を見ますと、レジュメ(資料・)の方に入れておきましたけれども、伊藤律とともに松本三益(注 日本共産党員)という共産党指導者の名前をあげていて、どちらかというと松本三益の方がゾルゲ事件の摘発にとっては重要であったかもしれないというようなことを言っています。 しかし、米国側にとっては、戦後伊藤律はすでに共産党農民部長になって重要な役割を果たしています。日本共産党に打撃を与えるには、松本三益よりも伊藤律を事件発覚の主人公にして、共産党を攪乱したいわけです。事実そういうことになりました。 GHQ/G2が川合貞吉に渡した情報提供謝礼は月額55ドル 米側に入った情報を、川合の証言で裏付けて使おうとしたものもあります。その一つに、1937年に新潟でゾルゲ諜報団の無線技士マクス・クラウゼンとアグネス・スメドレーが会ったという情報が、占領軍に入っていたようです。そこで、スメドレーのことを直接知っているのは川合だから、これを川合の証言として何とかして使えないものかと検討した記録を、資料・に出しておきました。 この記録の中でもっと重要なのは、1949年3月ごろになりますと、米軍にとって川合情報はどうも疑わしいので、「川合情報を利用するのはどうだろうか」という疑念が生まれてきました。川合に対しては、月55ドル、当時の円換算で2万円渡しているけれども、「どうも払い過ぎだと思われる、差し当たり1万円に減らして、彼から情報提供を受ける線を切った方がいい」と川合担当の情報将校が言い出す始末になりました。川合は、毎月2万円の情報提供料を米軍からもらいながら、このころ尾崎秀樹と一緒になってゾルゲ事件真相究明研究会を立ち上げ、特高がゾルゲ事件を摘発したのは「伊藤律が売ったのだ」と「伊藤律=ユダ=スパイ説」を流布しておりました。この研究会のバックに、GHQの諜報関係の総元締めのウィロビーがいて、その下部機構の「キャノン機関」から月に2万円、川合に情報提供料が渡っていたのです。 川合貞吉証言は、彼の『或る革命家の回想』の徳間文庫版(そう言って実物を手に掲げながら)の「解説」に、尾崎秀樹は、川合貞吉を中心にして1948 年にゾルゲ事件真相究明会を作ったと書いていますが、そのほとんどが、こういうバックの下に作られたストーリーであると言えます。川合はおそらく、あることないこといろんなことを言ったのでしょうが、その中から川合が認めた都合のよいことを並べて「ウィロビー報告」が作られているという証拠が、この文書ということになります。1940年代後半から朝鮮戦争が始まるまでの川合発言は全部割り引いて考えないと、われわれは真実を見誤ることになるという証拠が、こういう形で残っているわけです。 ゾルゲ事件の生き証人である川合貞吉に対する米側の主たる関心は、上海におけるスメドレーに関する彼の個人的な知識と記憶でした。それに関心を持って川合に接触して金も渡したのですが、しかし、その情報は月2万円の価値に値しない。それからもう一つは、どうも日本共産党は彼を信用していないらしく日本共産党の内部情報が入ってこない、だから2万円を減額して1万円にすることにしたという記録です。こういう具体的な情報提供の金額まで出てくるMISファイルは、そんなにたくさんありません。貴重です。 米国と情報提供契約を結んだ鹿地亘 実はもう一つ、金銭授受の出てくるファイルをみつけました。鹿地亘(注 瀬口貢、作家、戦争中、中国へ渡って反日陣営に身を投じ、桂林で日本人民反戦同盟を結成して、日本兵の投降工作や捕虜尋問を担当した)のMISファイルがありまして、1945年7月12日に中国にいた米国の情報機関OSS(戦略情報局、現在のCIAの前身)の出先との間で、月200ドルの情報提供契約を結びました。川合貞吉の4倍にもなる、高額なカネです。その契約書をきょう持参しております。情報提供契約書の相手は、出先のOSSではなくて「米国政府と契約する」ことになっていて、その対価は月200ドルで、その見返りに日本やドイツや中国における日本人捕虜の情報を渡すことになっています。これが、MISの鹿地亘ファイルの中に入っています。この契約違反が、鹿地がのちに米国に拉致される「鹿地亘事件」(注 戦後、帰国した鹿地亘が1951年にキャノン機関に身柄を拉致されて、スパイを強要された事件)の素地になったものです。米国側にしてみれば、あくまで契約違反・任務不履行なんですね。「鹿地は最近、在日ソ連大使館に出入りしているが、これはわれわれとの約束とは違う」ということが、鹿地ファイルに書かれております。 元駐日ドイツ大使、オイゲン・オットを半年間監禁して尋問 MIS個人ファイルには、アグネス・スメドレーはありません。しかし、ゾルゲ事件摘発当時日本にいた駐日ドイツ大使オイゲン・オットのファイルがありました。ゾルゲ事件発覚後の1942年2月、オットは駐日大使を解任されて、北京に渡ったのですが、戦後、MISがオットを北京から東京に連行して、東京・日比谷の第一生命ビルに半年間監禁して、尋問を行なった。その厖大な尋問記録(一問一答形式)が残されていました。ただしMISの取り調官は、ゾルゲ事件よりも、戦前・戦中の日独同盟やドイツのリッベントロップ外相やヒットラー総統の動静、ドイツにおけるナチスの活動等々を聞き取る形になっていて、46年2月からの尋問記録では、ほとんどゾルゲ事件には触れておりません。ところが、50年になって、オイゲン・オットの記録をMISが持っているはずだとの問い合わせがあって、ゾルゲ事件に使おうとするのですが、そのころすでにオットは本国ドイツに帰っていて、結局、オットのゾルゲ事件についての証言は取れませんでした。私はオットの証言記録を通読したのですが、ゾルゲ事件の証言はほとんどなく、物足りなく思いました。その代り、日独関係や日独同盟などについては、大変有意義な情報を得ることができました。 木元伝一ファイルの大部分は米軍の「ロイ」探求記録 最後に、木元伝一の問題に入ります。さきほど白井さんが司会の挨拶の中で、ゾルゲ諜報団の有力メンバーである宮城与徳を日本に送り込んだ「ロイ」なる人物は、ハワイ在住の米国共産党員「木元伝一」であることを突き止めた画期的な研究報告になるという紹介をされました。だが、残念ながらと言いますか、いやそれでも意味があるということになるかもしれませんが、MISの「木元伝一ファイル」には、本人に関する記録は、ほとんどありません。ただし、不思議なことに、「木元伝一ファイル」の中に出てくるのは、お配りした資料・・・で、これは池田豊耕(秀雄)という米国カリファルニアにいた日本人が、1948年に同地で連邦捜査局(FBI)の尋問を受けた記録です。しかもそのあとで日本にやってきて、再び尋問されます。ゾルゲ事件の「ロイ」についてです。 そのときの池田豊耕の動静については、資料・の一番下に関連新聞記事を載せておきました。カリフォルニアに長く住んでいた賀川豊彦(注 社会運動家、若いころキリスト教に入信、牧師として伝道生活を送った。平和主義者として日米開戦に反対、戦後日本社会党結成を協力、世界連邦運動を推進した)の信奉者である池田豊耕、池田秀雄とも言い、正確には「とよやす」と読むそうで、その紹介記事です。さっきここにおられる武田(注 大典、元会社社長)さんに池田豊耕のことを聞いたら、「ある程度知っている」という返事がありました。MISで池田が尋問された日本語記録は、一節ごとに判子が押してある物々しいもので、あとでお読みいただければよいので、ここでは詳しい中味は省略致します。池田豊耕の尋問記録が「木元伝一ファイル」中の8割を占めています。英文、日本文、その下書き、質問書等々厖大な池田豊耕尋問記録が入っているのが、MIS「木元伝一ファイル」であります。 木元伝一自身は、1952年3月に「ハワイの7人」と言って、ハワイの7人の共産主義者を告発するマッカーシズムの被告となった1人です。ところが、この裁判記録は、有吉(注 幸治、米国共産党員で米国ディキシー・ミッションの一員として中国延安に入り野坂参三にインタビュー)の書いた米国で刊行されている本の中にその記録が出ていますが、MIS「木元伝一ファイル」には、不思議なことに裁判記録はほとんどありません。そうではなくて、「木元伝一ファイル」とは、ジャック・ダニエル・キモト=木元伝一はゾルゲ・スパイ事件で宮城与徳を日本に派遣するさい重要な役割を果たした「米国共産党員ロイ」と同一人物であるかどうかについて、米軍諜報機関が懸命に探索した記録でした。つまり米軍は、「ウィロビー報告」作成過程で、木元伝一がロイである可能性が一番高いことをつきとめていた、だから「木元伝一ファイル」にその資料を入れた、しかし確証までは得られず、ウィロビーの作ったマッカーシズム用ストーリーにうまく入らなかったので公表しなかった、それを示唆する記録になるのです。なぜならば、ということで、今度は池田豊耕との関係に移ります。 FBI池田豊耕供述中の米国共産党日本人部「3人のロイ」 「木元伝一ファイル」には、1952年3月の「ハワイの7人」裁判のことは記していますが、裁判資料は入っていなくて、約100ページの9割は、ジャック・ダニエル・キモトが宮城与徳の対日派遣に関わったロイであるかどうかの可能性の探求記録です。そのために使われたのが、池田豊耕の48年11月にカリフォルニアでFBIに供述した記録、それから52年3月に池田が来日したときにCIC(在日陸軍諜報部)が行なった尋問記録です。1問1答形式のものがありますが、きょうは皆さんに資料・・・という、一番長いまとまったものの全文をお配りしています。この長い供述記録の英文表紙には、「ゾルゲ事件のロイについて」とメモしてあります。 では、なぜ池田豊耕は尋問され、何を喋ったのか? 池田豊耕は、実は自分もロイ・イケダと名乗っていた。カリフォルニアの共産主義者にはロイと言う名前の者が一杯いる。だから、宮城与徳を日本に送ったロイはだれであるか分からないと、48年にFBIに尋問されたときに答えております。ところが、52年に「そんなことはない。お前は知っているだろう」と再び追及されて書くことになったのが、この尋問記録なのです。 その中で、池田は、「そんなに追及されるのならば、ソ連とつながっていたかもしれないロイが3人います、でも自分ではない」と自供するのです。 その1人が、「アラタ・ロイ」、あるいは「ヤマト・ロイ」「アサト・ロイ」といって、ハワイ出身の共産主義者であったことを明かすのです。これが「ロイ」が木元伝一と推定されることにつながる第1の可能性です。第2の可能性が、「アリマ・ロイ」これは鹿児島出身のやはりアメリカ共産党員です。第3の可能性が、「ロイ・タイラ」ないし「ロイ・スミ」といって、沖縄出身だったが中国に渡った。この三つの可能性について詳しく聞かれたのが、皆さんにお配りした資料・・・の池田豊耕の尋問記録になります。で、関心のある方に読んでいただければよいのですが、この中に宮城与徳の供述とか岡繁樹の尋問記録とか、カール・ヨネダの本などに出てきた米国共産党員の名前が、ほぼ全部出てきます。ジョー小出、ジャック・ヤマダ、藤井寮一、それからカール米田、有吉幸治等々いろんなアメリカ共産党員についての池田の供述が出ています。終りの時間も迫ってきたので、結論だけを申し上げます。 ハワイ出身の「ロイ」は木元伝一にちがいない 要するに一番大きな可能性は、最初にあげた3人の「ロイ」のうち、第2・第3の可能性は薄い。したがって第1番目のロイ、つまりハワイ出身のロイの可能性が強い。ロイがハワイ出身であるとすれば、それは現在ハワイで裁判中の木元伝一である可能性が強い、というのが、池田豊耕の尋問結果から出てきた米国側の結論です。だから、「木元伝一ファイル」の中に、池田豊耕の述べたアメリカ共産党日本人部についてのすべての関連記録が挟み込まれているわけです。木元伝一のほか、松井周二、ニシ・ヒロシ、ジョー小出、ナカムラ・シンギ、藤井寮一など池田豊耕が知っている限りでの米国共産党員らしい名前が出てきます。そして、実際木元伝一は、ジョー・コイデや藤井周而と一緒になって『太平洋労働者』や『国際通信』発行とか、サンフランシスコの汎太平洋労働組合書記局の秘密活動(背後に野坂参三がいる)に携わっていた。それで池田の供述には、木元伝一はどうやらモスクワへ行ったようだという話が出てきます。事実、木元はモスクワに派遣されていました。 それからもう一つ、池田供述の中で皆さんの関心のありそうなことについて言えば、寺田武雄という画家をご存知の方もいらっしゃると思いますが、彼はカリファルニア美術学校の出身でして、同じく画家でアメリカ共産党員の野田英夫の親友でした。野田英夫は1935年から38年まで日本に一時帰国し、そのあと米国に戻って死んでしまう有名な画家ですが、野田英夫はコミンテルンの日本との連絡業務に携わっていたのではないか、それは寺田武雄が知っているはずだ、と池田豊耕は供述しています。それらがおそらく全部、ゾルゲ事件の「ロイ」と関係する可能性があるとして調べられたのです。ただし、池田豊耕自身は「自分はロイを名乗っていたけれども、ゾルゲ事件に出てくるロイではないし、ゾルゲ事件のロイがだれであるかは確定できないからこの3人のロイのことを述べます。このことを証明します」と、最後に自筆サインと判子まで押して証言しているわけです。 重要なのは、池田豊耕が述べた2番目、3番目のロイの関連で、どうもゾルゲ事件のロイではなさそうだとなっているにもかかわらず、3番目のロイ・タイラの関係で、戦時中に米国に協力して中国大陸に渡ったカリフォルニアの日系人のほとんどが名前をあげられ、1人1人チェックされているのです。それはロイ・タイラの可能性ということでやっているのですけれども、実際にはカール米田やジェームズ小田らも含めカリフォルニアの日系人左翼のなかにだれかゾルゲ事件に関係した奴はいないかと徹底的に調べた、これが「木元伝一ファイル」の内容ということになります。 ウィロビーも、ロイ=木元伝一とほぼ特定 結論です。ウィロビーは、まだ確証はないが、1950年頃には「ロイ=木元伝一」をほぼ突き止めていました。このことは、ここにおられる渡部富哉さんが、雑誌『諸君』1998年7月号に、旧ソ連秘密資料の方から発表しています。それまで「ロイ」は野坂参三(注 元日本共産党議長)だとかいろいろな説があったのですが、重要なのは「Shanghai Conspiracy」すなわち「ウィロビー報告」には「このロイという男は、東印度のコミンテルン要員で、1927年、中国でブローニンと一緒に働いた男と同一人物であると思われる」とあることです。52年に発行されたウィロビーの本にはこう書いてある。しかし、MISは、その頃には明らかにジャック木元がロイである可能性が一番高いことまで調べ上げていたのです。だけど公式報告のときはこれを書かずに偽装情報を流し、おそらくその後も木元伝一の監視を行なっていたことが、この「木元伝一ファイル」を見れば分かるのです。 すべてを知っていた米国共産党日本人部指導者、矢野務こと豊田令助 それから面白いのは、ウィロビー報告には、池田豊耕の名前は一言も出てきません。最も重要な報告をした情報源は、公式記録には入れないという形になっています。 もう一つ「木元伝一」ファイルで重要なのは、こういうことのすべてを知っているのは、「矢野務」という、1930年代半ばの米国共産党日本人部指導者のはずだ、と池田豊耕が述べています。カール米田の資料ほかにも出てきますが、「矢野務」の本名は豊田令助です。彼は戦後日本に帰ってきたはずです。それでMIS個人ファイルの索引を見ていたら、なんと「豊田令助ファイル」があったのです。それで喜び勇んで米国国立公文書館で請求したら、たった1枚だけ出てきました。報告末尾の資料・に、それを載せておきました。「閲覧制限」とあり、まだ機密解除されず、非公開なのです。MIS資料の全体はせっかく公開されたのに、「豊田令助」は1枚しか出てこない。野田英夫のことも豊田令助が知っているはずだと、池田豊耕は述べています。だが豊田令助が何を語ったかは、これらMISの公開記録では分からないのが現状です。これは私の推測ですが、米国情報機関は、豊田令助から米国共産党日本人部について詳しい事情を聞いて、ゾルゲ事件についても彼らなりに全容を摑んでいたのではないかと思われます。 同じようなことは、実はさっき紹介しました「尾崎秀実ファイル」でも、一番最後のページは「閲覧制限」で、今なお未公開です。その部分は何ページか、どんなものがあるのか、一切分からないのです。その意味では、ようやく米国側の記録は公開されたけれども、昭和天皇や岸信介のCIA記録と同じように、最も重要な国家機密に関わる部分は残念ながら未だに機密扱いで公開されていない。しかしながら、現在公開されているものでも、この程度のことは分かるというのが、本日の私の報告であります。一応、時間となりましたので、これをもちまして私の報告を終ることにします。(拍手) 旧ソ連も日本人個人ファイルを600人分作成 一点だけ、補足があります。きょうは米国側個人ファイルのことを申し上げましたけれども、同じような日本人個人単位での監視と情報ファイル作りは、旧ソ連もやっておりました。そこで最近入手した、「旧ソ連日本人個人ファイル」リストの一部を、資料・に入れておきました。これは約600人分あります。こちらも保守政治家から共産党・社会党まで、幅広いものです。この間緒方竹虎CIAファイルについて早大で報告しましたが、緒方竹虎のファイルは、ソ連側にもありました。同じ時期、1950年代の「米ソ冷戦」華やかなりし頃のものです。ところが、ソ連側の緒方竹虎ファイルは、タス通信や英字新聞の切り抜き記事など、おおむね二次資料でつまらないものでした。しかし、日ソ国交回復に関わった鳩山一郎(元首相)や河野一郎(元農相)のソ連側ファイルがあるようですから、それらを見ると、今までの冷戦史と違って、米国とソ連の両側から見た政治家の人物像が浮かび上がってくる構図になります。きょうはソ連の方は、リストだけを一部公開して終ることにします。どうもご静聴ありがとうございました(拍手) 司会 加藤先生、とても興味深いお話をされてありがとうございました。加藤先生の本日の講演は全部記録を取っておりますので、後日そのテープ起しをして、当センター発行の「ゾルゲ事件関係外国語文献翻訳集」No.25に全文収録します。ご関心のある方は是非、それをお読みください。それではきょうはこれで散会します。皆さんどうもありがとうございました。(拍手)
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