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「産経新聞、今度は「南京虐殺はなかった」キャンペーン開始!:山崎 雅弘氏」
http://www.asyura2.com/15/senkyo180/msg/138.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 2 月 16 日 23:30:05: igsppGRN/E9PQ
 

「産経新聞、今度は「南京虐殺はなかった」キャンペーン開始!:山崎 雅弘氏」
http://sun.ap.teacup.com/souun/16660.html
2015/2/16 晴耕雨読


https://twitter.com/mas__yamazaki


>東日本大震災のとき、さんざん政権批判を展開したのは自民党とマスコミでした。今も復興は遅々としているにもかかわらず、自公政権になった途端、誰も批判しなくなったのは異様です。


私がツイッターを始めたのは、3.11の直前でしたが、当時の管首相や枝野官房長官の事故対応への批判があっても「非常時だから政権批判するな」などという言説は皆無でした。


第二次安倍政権になってから突然、そのような方向の「見識」が社会に出てきたのは不可解ですね。


>「おまえ、安倍に変なことを吹き込むんじゃないよ。岸の影響を心配しているんだ。おまえには岸信介の恐ろしさがわかっていない」(後藤田正晴:2001年,当時官房副長官だった安倍晋三に自衛隊の海外貢献について進言したに佐々淳行に対して。)  http://t.co/3JOdQ6TWNm


>産経が朝刊一面で堂々と歴史捏造! これ朝日の吉田証言なみのスキャンダルだぞ、これ。



> 赤旗政治記者 産経は南京虐殺否定キャンペーンを始めたようだ。1面「歴史戦 兵士たちの証言」で、南京城に入城した当時の獣医務曹長の男性(98)は「虐殺があるはずがなか」と断言していると紹介している。「70年新談話」の地盤固めを兼ねてのことか。(津)



今日付産経朝刊の南京虐殺否定の記事、ツイッターに出ている一面トップの見出し画像を見ると「南京『人おらん以上、虐殺ない』」と「城内空っぽ。兵隊どころか住民も」の二種類ある模様だが、版や地域によって変えているのか? 変える理由は何だろう?



よく見ると「人おらん以上、虐殺あるはずない」というのもある。


一体、何パターンあるんだ? 


> 柳原滋雄 南京城に入る門が幾つもあって、南方から入った日本軍が虐殺に接してないことは関係者の間では常識的な事柄。産経は意図的に南門から入った兵隊にだけ「都合のいい事実」を語らせている。「報道機関」なら北門から入った生存者にも聞かないと、フェアじゃないでしょ。


産経新聞、今度は「南京虐殺はなかった」キャンペーン開始!1面で「虐殺ない」と断言!(Togetter)http://bit.ly/1FcsVqG


従来の「虐殺否定論」の主流は「人は殺したが全員便衣兵(軍服を脱いだ敵兵)だ」というものだったが、産経は「全否定」にエスカレートした。


昨年12月28日付の産経朝刊には、日本会議の加瀬英明氏と協力しながら「日本の戦争責任や戦争犯罪を否定」する著作を書いている英国人ヘンリー・ストークス氏の「証言」を掲載していた。


「中国軍が軍服を脱いで(民間人に偽装して)便衣兵や不良捕虜となったため、日本兵は処断を余儀なくされた。こうした捕虜の処断は国際法に準じて行われたが、大量に処断された。このことは悲惨だった」


「(事態を招いた)責任は第一義的に敵前逃亡した国民政府にある。日本にだけ責任を問わせるのは非道で、蒋介石の責任が問われるべきだ」



ストークス氏は、戦前生まれの日本人でもないのに、殺害を「処断」と言い換えたり「不良捕虜」などの当時の日本軍側から見た主観的用語を多用しているが、本人がそう言っているのか、産経が「翻訳」しているのかは定かでない。


「大量」の「不良捕虜」を「処断」しただけだから「虐殺ではない」という。


「南京大虐殺」に対しての見解(外務省)http://bit.ly/1A9ooAX


「日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています」 


非戦闘員の殺害を認めている。



「便衣兵処断」などの言葉は、一般にはあまり使われないが、「南京虐殺否定論」の世界では常套句で、当時の国際法ではこれを禁じる項目がない(日中戦争=支那事変は宣戦布告の無い戦いだったので「捕虜」と見なさなくていい)等の理由で、私服を着た中国人の大量殺害は「問題なかった」と結論づける。


当時の南京は中華民国の首都で、首都の陥落直前に政府指導者が脱出する状況は、第二次大戦期のヨーロッパでも各地で発生した。


だが政府が首都を脱出したから「残った私服の人間をいくら殺してもいい」「その責任は逃げた敵国政府にある」という論理は成立しない。


私服の人間を大勢殺害した事実は重い。


今日付産経朝刊の南京虐殺否定の記事、ツイッターに出ている一面トップの見出し画像を見ると「南京『人おらん以上、虐殺ない』」と「城内空っぽ。兵隊どころか住民も」の二種類ある模様だが、版や地域によって変えているのか? 変える理由は何だろう?


慰安婦問題では、証言者の信憑性を執拗に攻撃した産経新聞だが、この「人おらん」証言の信憑性は裏取りしたのか。


陥落後の南京城内の様子について、惨状を伝える記録は多い。


>《南京虐殺事件》「上海から来信、南京に於ける我軍の暴状を詳報し来る。掠奪、強姦、目もあてられぬ惨状とある。嗚呼これが皇軍か。日本国民民心の退廃であろう。大きな社会問題だ。」(外交官・石射猪太郎『石射猪太郎日記』1938年1月6日)


> 犬丸治 「記者(重光葵)は日本民族を信じ(略)武士道を奉じて居たものであった。(略)然し駐支大使として南京に赴任(一九四二、一)して南京事件の実相を知るに及んで、我軍隊の素質、日本民族の堕落に憤りを発せざるを得なかった」昭和二十年十二月「続手記」P366


> 犬丸治 「続重光葵手記」東京裁判逮捕前昭和二十年十月P294。「進駐当初は南京でも香港でもシンガポールでもマニラでも虐殺、殺戮、強盗、略奪、強姦、暴行、収賄、不正等、殆ど悪魔の軍隊であった(略)。日本人が何時如何にして斯程迄堕落したか(略)戦争に依る一時の昂奮として片付ける訳には行かぬ」


> 犬丸治 重光葵の昭和20年10月の手記。「南京に於いては何とかして南京占領当時の罪科を償ふ為支那に善政を布くことを極力努めた」(「続重光葵手記」P295)。駐華大使だった重光は東京裁判での立証以前から、南京大虐殺の事実を熟知していた。



 

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コメント
 
01. 2015年2月16日 23:39:36 : FNk4jsoZSk
ついでに言わせていただくとドイツのユダヤ人大虐殺も大嘘だな。

戦勝国の敗戦国に負い目をおわせるためのねつ造話で嘘も1000回いえば本当になるという彼らの考え方で続けているプロパガンダである。教科書を書き換えるなどはそのいい例である。


02. 2015年2月16日 23:57:14 : KzvqvqZdMU
もぉそろそろ中国の嘘つき体質に気が付かねばならん

南京大虐殺とか、まったくの作りごとだょ

[32削除理由]:削除人:アラシ

03. 2015年2月17日 00:26:05 : HMGveY9L62
>>01,02

ウヨは死んでもたわごとをうめいておれ。

ウヨ仲間以外、聞く人はだれもおらんから。


04. 2015年2月17日 00:52:18 : wd4Xfwg9io
朝鮮の慰安婦の言うことを信じる人は日本軍兵隊の言うことを信じ、
朝鮮慰安婦を信じない人は日本具兵隊も信じない、でいいじゃないか

これだと朝鮮人しかも淫売と日本人しかも兵隊の嘘つきレベルを同一視する、という非難が出るかもしれないが。


ところで昔は>>01が阿修羅サイトの基本テーゼで、>>03はユダヤ手先扱いだったのに、今はすっかりユダヤ侵入で乗っ取られてしまったのか?


05. 2015年2月17日 01:01:38 : b5JdkWvGxs

大将の松井石根自身が南京大虐殺を認めてるんだけどwwwwwww


「南京事件ではお恥しい限りです。南京入城の後、慰霊祭の時に、シナ人の死者も
一しょにと私が申したところ、参謀長以下何も分らんから、日本軍の士気に関するでしょうといって、師団長はじめあんなことをしたのだ。

 私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシヤ人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。

政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。

 慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は朝香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にしてそれを落してしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。 甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。

 従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている」
http://www.geocities.jp/yu77799/gunjin.html#matuiiwane


06. 2015年2月17日 01:07:21 : b5JdkWvGxs
・日本軍文書:南京大虐殺で南京の人口が80万人近く減少

・吉林省公文書館で最近、南京大虐殺の記録を含む日本軍の中国侵略に関する文書が見つかった。同文書によると南京大虐殺前後の2カ月半で南京地区の人口は113万人から34万5000人へと78万5000人減少していた。人民日報海外版が伝えた。

・同文書は1938年2月19日と同28日に日本軍華中派遣憲兵隊の大木繁司令官が関東軍司令部に報告した2件の「南京憲兵管轄区内の治安回復状況に関する報告」。報告の「事変前後の人口対比」によると、「事変前」に南京の人口(下関を含まず)は100万人で、2月28日までに33万5000人が帰還し(戻り)、下関の人口は13万人で、後に1万人が帰還した。
http://j.people.com.cn/94474/8507124.html


07. 2015年2月17日 01:32:43 : Fce701GxUs
 
南京事件、初歩の初歩講座@ 産経ウヨク・戦争美化派らの初歩的なウソ
http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/news4plusd/1424097449/

南京事件、初歩の初歩講座@

「南京の人口は20万だから30万人も虐殺はあり得ない」→ 笑われるレベルの素人論。

陥落前の南京に20万人しか存在しなかったというのは戦争美化派が作り出したウソ。
20万人という数字が出てくるのは、陥落2ヶ月後に南京安全区の人口を調べた時が最初です。 

これを戦争美化派は「陥落直前に”南京市全体”の人口が20万人だった」とすり替えるわけですが、
学術的見地を無視した非常に悪質なやり方でしょう。ネットの落書きレベルで学術論文にはなりません。


まず、前提知識として中国の行政区分概念は日本と異なります。
中国の「市」、「市街区分域」は、日本でいう県並の面積があります。

また、南京といっても「南京市」「南京安全区」「南京城」「南京城区」と色々あります。


以下、日本が調査した「南京城区」の人口を提示します↓

市来義道編『南京』(南京日本商工会議所、1941年8月) に掲載された南京人口統計(警察庁及市政府調査)の数字

南京城区
1936年末  1,006,968 人
1938年8月  308,546 人
1937年3月末 101万9667人(南京市政概況)
1938年10月末 329,488人 80,219戸(南京自治会委員会)
 


08. 2015年2月17日 02:33:13 : dDobAjQQJA
減税日本の河村も南京虐殺否定論者だけど、この阿修羅では賞賛されているよね。

09. 2015年2月17日 03:10:56 : bjtvtZjDak
困ったときのネトウヨのいつもの手段だな

10. 2015年2月17日 07:13:06 : YxpFguEt7k
この見解を変えようという動きなのかな?

1.日本政府としては、日本軍の南京入城(1937年)後、非戦闘員の殺害や略奪行為等があったことは否定できないと考えています。

2.しかしながら、被害者の具体的な人数については諸説あり、政府としてどれが正しい数かを認定することは困難であると考えています。

3・日本は、過去の一時期、植民地支配と侵略により、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えたことを率直に認識し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、戦争を二度と繰り返さず、平和国家としての道を歩んでいく決意です。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/08.html

南京事件はあった。一般人を殺害し、泥棒もした。もちろん侵略はした。
人数は不明と。


11. 2015年2月17日 07:23:40 : YxpFguEt7k
産経は自分たちが東スポ並みだということに自覚し始めたのではないか?
所詮、イエローペーパーなのだと。

次は「雪男は実在した!」が1面になる気が…


12. 2015年2月17日 09:43:09 : QmyrjoZuIs
トウトウ産経新聞も赤新聞になったわけだ。

13. 2015年2月17日 10:21:42 : 38xqq7xWok
イスラエル建国当初の政治家が、そこに住んでたはずのパレスチナ人をイナゴ呼ばわりしてなかったっけ。
ヒトなんかいなかった、いたのはイナゴ。イナゴなら殺しても虐殺ではない。

14. 2015年2月17日 11:01:02 : QISk3Exk6Q
http://www.asyura2.com/15/senkyo179/msg/701.html

南京事件は世界の歴史上の大捏造事件だ。

今となっては日本としては全否定するしかないな。

中国人の嘘つきは朝鮮人とともに今や世界的に評価(笑い)されているところだ。

自分のやった事を相手のやったことにすり替える。典型が南京の虐殺や従軍慰安婦だ。

これらは客観的証拠は何もない。

国民党蒋介石の捏造プロパガンダにアメリカやドイツが乗って、戦後まで世界と日本人に捏造の歴史を刷り込んだ。

共産匪賊が国民党軍に処刑されている画像・映像などが多用されている。

 国民党軍は南京から壊滅遁走し南京市民に乱暴狼藉を働いた。元々盗賊のような連中や拉致された雑兵のような連中で中国人に愛国心などありようもなかった連中だろう。
逃走の過程でお互いに殺し合い日本軍にも追撃され多数殺された。


便衣兵は一般住民と区別がつかないゲリラだ。ゲリラは裁判なしに”
処断”されても戦時国際法には違反しないという。
<(捕虜となった者を)便衣兵と間違えて民間人を処断したことはなかった。<
と元軍人が”処断”という言葉を使っている。

南京攻防をお花畑的に描いたプロパガンダ映画が最近上映されているようだが
日本軍が南京に入った時は城内はもぬけの空だったようだな。

<【京大虐殺】「いわゆる“南京大虐殺”というのは、主として住民婦女子を虐殺したものだ。ところが住民婦女子は(全部)「難民区」内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はこの中にあって、取材活動をしていた」(特派員・前田雄二<

と、あるように一般人は国際的な保護区に非難していた。

また日本軍は略奪などの行為は死刑になるほどの厳しい軍律だったから
略奪暴行は概ね有り得ないことだ。

国民党軍は壊滅的逃亡をした後、中国共産党軍とも殺戮を繰り返し、毛沢東赤軍を敗北遁走させた。(長征とはこのことだ)
張学良の息子に騙されて蒋介石は毛沢東の捕虜となり殺されるところをスターリンのコミンテルンの指示で日本軍との代理戦闘の手先にされた。

どちらにしても大東亜戦争、日中戦争の勝者、戦勝国は彼ら
ではない。

引用部分 南京の嘘bot より



15. 2015年2月17日 12:01:18 : b5JdkWvGxs
便衣兵はいなかったというのが定説だよ


南京城内の「便衣兵」とは、一般の兵士が逃げ場を失い、日本軍に捕獲されても殺されると考えて、軍服を脱いで、市民に紛れ込もうとしたものであった。ひとまずは命が助かりたいための処置であり、計画的に実行された形跡はない。また、実際に「便衣隊」としての交戦行為が行われた記録もない。

南京城内には「便衣の兵士」はいたが、「便衣隊の隊員である兵士」はいなかったと考えられる。


16. 2015年2月17日 12:04:59 : QISk3Exk6Q
シナと日本在住の村山・河野のような共匪の仲間・被洗脳非国民に告ぐ。

取り敢えず初歩的な投稿を見ておきな。
丁度いいレベルだろ。ネトシナサヨ君達。

http://www.youtube.com/watch?v=GfrRyLmP-1Q

国民党軍も共匪も中国民衆の天敵だったのだよ。

正しい歴史認識を持とうね。


17. 2015年2月17日 12:21:11 : b5JdkWvGxs
またアホ右翼が見当外れの誤解してるけど

そもそも当時は中国という国は存在しなかったよ

漢民族というのは遺伝子も言葉も全く異なる何千という民族の総称だからね

漢文自体が何千という民族がコミュニケートする為の共通語として開発された人工語だしね


18. 大和狼 2015年2月17日 17:25:01 : 4bXKnGQAUaNEQ : QISk3Exk6Q
南京事件なんてウソに決まってるだろ。80年も世界がダマされているなんて信じられない。どういう脳内空間のお花畑満開なんだ。


南京の嘘botから
@ Lie_of_Nanjing<<<
南京市・安全区
捏造された歴史に騙されてはいけません

【南京大虐殺】南京を脱出した蒋介石は書き記した。「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。
 戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。 撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。
・中国の軍隊は共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というよりルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。司令官は、ある土地を占領すると最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。】

「この(中国軍の)元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(1938年1月3日NYT)
・安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとで匿われた。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。

Lie_of_Nanjing
【南京大虐殺】「私は(中国軍の)一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(NYT 1937年12月22日付・ダーディン記者)

」南京脱出用の列車に乗り込もうとした民衆に対して、国民党軍はこれを排除すべく銃撃した。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って一斉射撃を命じたの日本軍が危惧したように、安全区委員会が安全区の中立性を守るためにそこからの中国軍の撤退を繰り返し要求したにもかかわらず撤退しなかったばかりか、中国軍将兵の多くは市民に偽装し、武器を携行して安全区に逃げ込んだ。いわゆる「便衣兵」である。だ。

あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。(鳴霞) 督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型けん銃を構え、約4歩間隔で横に並んで中国兵の後ろにいました。中国兵の突撃部隊を日本軍の方向へと押し出すのが彼らの任務で、後ろへ逃げ出そうとする中国兵は容赦なく撃ち殺されていました。

(第6師団45連隊第11中隊山砲砲兵指揮官・高橋義彦)唐生智南京防衛軍司令長官の逃走後、残された国民党軍は十二日夜に主に3つに分かれて敗走した。1)城外東方向、これは第十六師団が追撃・掃討。2)城外西方の揚子江方向、これは第六師団第四十五聯隊が遭遇し、ほぼ全滅させた。3)残りは軍服を脱ぎ捨て、安全区に潜伏した。
 ・大砲の弾がある限り零距離射撃を行いました。パチンコ弾のようなバラ弾を200発を1コの砲弾で打ち出します。1回に100名位の敵兵が空中に吹き飛ばされますが、敵はここ新河鎮を切り抜けないと逃げ道がないので死にもの狂いの戦闘になりました(第6師団45連隊第11中隊山砲指揮官・高橋義彦)

「民間人の死体はいたるところに見られた。その死体には私が調べたところ、背中に撃たれた傷があった。逃げるところを背後から撃たれたらしい」(ジョン・ラーベ)
 しかし、中国兵の多くは逃げる際に、軍服を脱ぎ捨てて民間人の服に着替えており、これらの死体は実際には民間人ではなく、中国兵だった。
「この中には非戦闘員も含まれていたことと思うが、武器を持って退却する敵を攻撃することは当然の軍事行動である。住民が混在しておれば被害は免れ得ない。なぜ中国軍は整斉と組織を保ち、白旗を掲げて降伏しなかったのか。」(上海派遣軍参謀・大西一) 揚子江岸にあった数千の中国兵死体について。

 「その日(14日)の夕方から夜にかけて、掃蕩洩れの敗残兵が苦し紛れに放火しだした。これにはさすがの勇士たちも東奔西走、消火にヘトヘトになった。12時すぎ、やっと一段落して寝ようとしたところへ、また情報が入った。『敗残兵が薪炭倉庫に放火、燃焼中』」(歩兵三十五聯隊中隊長・清水貞信)

 ・京都の第9連隊の野田・向井の2人の少尉に、上官がどちらが早く百人を斬ることが出来るか競争せよ、と命じたというが全くのウソです。野田少尉は大隊副官、向井少尉は大隊砲小隊長であり、両方とも部下が銃剣を持って敵陣に突入する部隊の指揮官ではありません。

「十三日に、中山門から城内に入りました。もうこの日は、難民区の近くの通りでラーメン屋が開いていて、日本兵が十銭払って、食べていました。それと、中国人の略奪が続いて、中山路で机を運んでいる中国人や、店の戸をこじ開け盗んでいる者もいました」(東京日日新聞カメラマン・佐藤振寿)

「『当方面の戦闘はこれで終わった。日本軍は捕虜に対しては乱暴は加えぬ。生命は助けてやるから、揚子江を渡って郷里に帰れ』と言った。
 ところが、『大人は揚子江を渡って帰れと言われるが、船がないではないか。船はどうしてくれるか』と申し出たので大笑いとなった」(第二大隊長・成友藤夫)

 南京城陥落後、日本軍は紅卍字会に中国側遺体の埋葬事業を委託した。埋葬記録では手数料搾取のための数字水増しを含めて4万3千体(戦死を含む)。紅卍字会の埋葬能力と作業期間から算出すると実数1万体前後と推測される。この数字には中国側の戦死を含む。30万人とは桁違い。

Follow「南京市の戦前の人口はちょうど100万であったが、爆撃が繰り返され、後には南京攻撃が近づいて中国政府機関が全部疎開したためにかなり減少した。市の陥落当時(12月12日〜13日)の人口は20万から25万であった」(南京地区における戦争被害1937年12月―1938年3月)

「日本兵の屍体は撮ってはいけないと言われていましたが、私は何でも撮りました。日本兵が残虐なことをやっている写真なんか一枚もありません。
 この中には日本兵が慰問袋を中国人にわけてやってるのがありますが、たくさんの中国人が群がっている、そんなものもあります」(東京日日新聞・佐藤振寿)

 「日本軍は人道上の誓約を守り通して、一発の砲弾も打ち込まなかったため、抗日的態度をとるものもなかった。私の永い支那生活中、今度くらい日本軍が正義の軍であることを痛感したことはありません」(昭和12年8月、上海の難民区で30万人のシナ人を保護していたフランスのジャキノー神父) 】

「ここ(南京)には1ヶ月ほどいましたが、戦後言われているような事は何も見ていなければ、聞いてもいません。ですから虐殺があったと言われていますが、あり得ないことです。松井大将が絞首刑になったのも不思議でしょうがないのです」(東京日々新聞カメラマン・金沢善雄)】

「私の中隊、私の見た限りでは、残虐行為など一切なかったことを声を大にして申したい。光華門から北に通ずる道路、飛行場付近で、日本軍が不法な行動をしたかのように報道されているが、そのようなことはなかったと断言する」(独立軽装甲車第七中隊上等兵・渡辺末蔵)】

「掃蕩隊は残敵掃蕩を任とし、必ず将校(准尉を含む)の指揮する部隊をもって実施し、下士官以下各個の行動を絶対に禁ずる」「家屋内に侵入し掠奪に類する行動を厳に戒め、必要以外の物品を濫用廃棄してはならない」(城内進入に関する旅団命令/歩兵第六旅団)北山与・歩兵第20連隊第3機関銃中隊。

 「12月13日西山麓で捕虜を火刑に処す」と証言。これは私が第3大隊長代行として指揮した部隊の兵士です。こんな命令を出したこともありませんし、これほど重要な事を指揮官である私が知らないはずがありません。(森王琢中隊長

南京虐殺ということが言われていますが?「南京にいる間見たことがありません。戦後、よく人から聞かれて、当時のことを思い出しますが、どういう虐殺なのか私が聞きたいくらいです」(第47連隊と共に入城した報知新聞の二村次郎カメラマン)】
ウソの証言をする者たち: 太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった。

 南京陥落当時の貴重な映像です。 bit.ly/zSQohf bit.ly/19eS2qh bit.ly/13PoLQU bit.ly/11VJFxK bit.ly/16cR5gr)

 これまで南京「虐殺」の重要な証拠と高く評価されてきた史料のひとつ、ティンパーリ編『戦争とは何か』が、実は日本を貶めるために中国国民党中央宣伝部が中国共産党系の知識人とともに作った「宣伝本」であったという衝撃的な事実が判明したのである。

】「実際にはアメリカの世論を操るために私は雇われていたのである。日本軍に対するアメリカの支援こそが、この政府が生き残るための唯一の望みであった。アメリカの印刷物・出版物を支配することが死活問題であった。」(中国国民党中央宣伝部に雇われたセオドア・ホワイト)】

「余が虐殺事件なるものを始めて耳にしたるは、終戦後米国側の放送なり。予は此事を聞きたるを以て当時の旧部下をして其の真否を調査せしめたるも(中略)其詳細不明にして、而(し)かも予は之を確言する事能はず」(松井大将による意見/東京裁判)
<<
皇軍と従軍記者の真摯な姿勢がよく伝わって来る。捕虜になって中共に洗脳された
軍人以外は、南京事件を否定している。

よくもこんなウソ捏造が80年もまかり通って来たものだ。


19. 2015年2月17日 18:45:06 : b5JdkWvGxs

多数の元日本兵が虐殺の詳細を書き残しているからね。

悔しかったらこの資料を一つづつ全部否定してみろよ:


南京事件資料集
http://www.geocities.jp/kk_nanking/


20. 2015年2月17日 19:30:39 : hy55y1MCkU
↑ こいつらは中国共産党の思想教育と言う名の洗脳を受けたあんたと同じ婢洗脳脳内花畑ゾンビの 妄想夢なんだよ。
分かるかい?中国ファシスト共産党工作員さんよ。
金正恩さんのような首領サマは誰だい?
マオさんかい?ソンテジャクさんか、田布施の宮本賢二さんかね?

21. 2015年2月18日 16:32:12 : uMcHfTnA4o
産経が真実ならなぜ70年も世界が認めないんだろうかねぇ

単なる日本いじめとは考えられない


22. 大和狼 2015年2月19日 09:48:50 : 4bXKnGQAUaNEQ : QISk3Exk6Q
南京兵士の虐殺証言、日記には怪しいこと夥しい。本人の個発的証言以外の客観的
証拠、傍証が全くない事が特徴だ。
19>のドキュメントは以前にも見たことがあるが、真偽不明の日記なるもの以外は無関係な関係づけ映像のオンパレードでドキュメンタリーというより刷り込み
洗脳フィルムというべきものだ。繰り返し南京虐殺の存在を主張する捏造的番組として見ないと、南京虐殺存在を信じる過去70年の被洗脳反戦(笑い)国民で一生を終えてしまう無知な日本人を続けることになる。


もう日本人はダマされないよ。中共工作員中川君とお仲間たちよ。もうすぐ
中国諜報宣伝機関からクビになるだろうよ。(笑い)


→元日本軍人の南京事件は無かった証言集(重要)
http://hosyusokuhou.jp/archives/31096534.html

http://hosyusokuhou.jp/archives/31096534.htmlから)

『南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る ― 謹(つつし)んで英霊に捧(ささ)ぐ― 』
「南京大虐殺」はなかった

私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。
ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。

いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、その場所にいて、
当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、この身体で体験している者であります。

私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、
本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、
1人でも多くの人に真相を語り伝えて世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。
http://www.history.gr.jp/~nanking/moriou.html←アクセス不能となっています。

656:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 13:49:46.63 ID:pzbcCilJ0
南京の話題がある様なので、私の伝聞。

もう大分前、趣味で史跡を探索中と仰るお爺さんと調布の多摩川沿いで
話をする機会があった。調布飛行場の話から戦時中の話になり、
この方が南京郊外の航空隊に整備兵として勤務されていたと知る。

私はかねて疑念の南京虐殺の話をふってみたところ、お爺さんキョトンとして、
「どこの話?南京じゃないでしょ」と仰られた。

そして「あんたがた若い人達はモウバイ(と聞き取れた)って知らないだろうなぁ」
と言うので、「なんですか?」と私。

「客の選り好みをしないように目を潰された売春婦だよ。」

「南京には歳とって商売できなくなったモウバイがいっぱい居てね、
それが道端で乞食をしてるんだ」

「日本の軍隊が入城してね、司令官がこれはいかんと施設を作り彼女達を
収容して面倒をみたの。そして、そのような売春婦の禁止令を出したんだよ。
大陸の習慣だったんだろうが哀れでね。」

世に流布される南京虐殺とは真逆な話を時にニコニコとして淡々と話される。
日本人の感性から妙にすんなりと納得してしまう話だった。
むしろこれが南京の普通の話なんだと無理なく聞けた。

「あと衛生班を作ってね、不衛生で病気の人達なんかの簡単な治療もして
皆から喜ばれたし、いろんな改革もしたんだよ」

整備兵という環境がそうなのか、およそ悲惨な話など出てこない。
若かった爺さんが外出で訪れた南京市内の話は妙に開放感ある明るい思い出話だった。

657:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 13:50:30.88 ID:pzbcCilJ0
「あんな事してたらね、日本は戦争には勝てっこないよ」とお爺さん。

「えっ?」「日本軍はね、市街地の軍事拠点を爆撃する場合、
前もって飛行機からビラを撒くんだ」

「何日に爆撃するから一般人は避難しろってビラをね」
「あんた一般人て言たってね、兵隊も逃げるよ。だからぜんぜん効果ないんだなハハハ。」

後に知った事だが戦争協定を真面目に守ろうとした日本人らしい実話だったのだなと思い返す。

「航空隊が出撃するよね、すると必ず未帰還機が出るの」
「その日の夕飯は出撃前の全員分の食事を出すのが慣わしでね。
未帰還の搭乗員の分だけ席が空いて余るの」

「それをね基地の近所の民家の人たちに配るんだけど皆よろこんでね」
「戦争が終わって引き上げる時ね、皆がまた来てねと言って手を振って別れてきたんだよ」

また来てね・・・か。
そんな交流が普通の日本人の感覚だろうなと、すんなりと得心した話だった。

当時も今も日本人の感覚はそうは変わらない。
我々の感性を超えた非道で残虐な話は疑ってかかった方が良い。

あのお爺さんは今もご存命だろうか。
縁者に本当の現実だった事を語り伝えていて呉てるだろうか。

この話を心ある人に伝えたくて、誰かと共有したくて書き込みました。
むか〜しのことなんだけど。
戦争で行ってた場所のツアーチラシを見たので予約しに来たお爺ちゃん。

確か…昆明麗江?方面。
ニコニコしながら楽しそうに『綺麗ないい所でね〜もう一度行きたい』って。

殺戮したような場所なら二度と行きたくないよね。と、今思った。


707:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:46:14.33 ID:pzbcCilJ0
確かに中共を中国と呼ぶ最近になって誤解が定着した。

日本軍は中共とはゲリラの局地戦でしか戦っていない。
近代戦の空戦まで交えた中国軍とは国民党軍であって、中共ではない。

おもしろい事に日本は徹底的に戦った米英連合軍、国民党の台湾とは
恩讐を超えて現在は仲が良い。

戦うどころか庇護した朝鮮とゲリラで逃げ回っていた中共、
ほとんど戦わなかった相手が戦勝国のような気分でイチャモン付ける破廉恥さ。


23. 2015年2月22日 03:37:50 : w3M1BHSquE
南京虐殺が、「実際に有った」 という事は、旧陸軍の親睦団体である 偕行社が公式に認めています

80年代に偕行社は、実際に元軍人達から聞き取り調査を実施しております
そしてそれは、あくまで 南京虐殺は虚構であった という立場から始めた調査だったのです

旧軍人の立場に立って活動する偕行社だからこそ、軍人達は重い口をようやく開いたそうで
偕行社の当初の思惑とは裏腹に、実際に残虐行為に加わったという証言が 次から次に出てきて
ついには偕行社も、南京虐殺を実際に有った事と認めざるを得ませんでした

http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shougen_kaikosha.html

http://1000nichi.blog73.fc2.com/blog-entry-6480.html

http://www.geocities.jp/yu77799/kaikou.html

ただし、言われているような30万人という数字ではなく、その規模はもっと少人数であった
というのが、偕行社の公式見解であります。


24. 2015年2月23日 14:50:40 : LLYCsrH0fA
↑ 懲りない共産党員どもだな。やっと数千人程度だと?!
本多勝一や赤匪が記事を捏造していたように、旧軍部に逆怨みのある軍人や朝鮮兵などが適当な手紙を旧軍人の親睦団体にでっち上げ事件の補強材として送りつけたりしたのじゃないかねー。
戦争だからな、何でもありかも知れないが、何万人でさえあり得ないだろう。
こういう証言、手紙等は傍証や複数の証言が無いのが特徴だ。
偕行社を持ち出すのも中国工作員の典型的やり口だし、執拗に反論してスレが終われば反論の投稿で洗脳工作完了とする。
オタクの投稿もそうだな、、
何と言っても 中国人と朝鮮人は世界的にも知れ渡って来た嘘つきだ。
また日本の降服後、捕虜が中国の撫順だかの収容所で
中国共産党の徹底した洗脳が行われた。
微に入り細に入りk仮想脳内空間での゛記憶゛を゛証言゛していた可能性も高い。
共産党の特徴は洗脳手法を多用することだ。
強化された催眠術と言っても良い。
多くのカルト組織が採用している手口だ。
日本のバカで無知なサヨクも多くはこのカルトの信者だ。
誰か集団洗脳ヒステリーを溶ける人間はいないものかね。
南京については蒋介石が中国敗残兵の悪行につき慨嘆していたことは何処かに紹介しておいた。
松井司令の巣鴨での処刑の報を聞いて松井少将には気の毒なことをした と落涙したとも何処かで読んだことがある。
当時の主だった孫文その他中国の人物は殆どは
日本に滞在私淑し日本人の支援を受けていた。
蒋介石は日本軍で軍事訓練でも受けたのだったか?
南京は一方的なでっち上げ証拠で日本軍に報復するためのアメリカの報復似非裁判だからな、

25. 2015年2月24日 03:08:12 : w3M1BHSquE
キチガイウヨには 何を言っても聞く耳持たずなようですね
都合の良い事だけをこれ見よがしに取り上げ、都合の悪い事だけ でっち上げだと言い張る蒙昧ぶり

でっち上げであるのなら何故 偕行社がその証言を取り上げるのだ?
あくまでも偕行社は、「南京虐殺は虚構である」 という立場から始めた調査であるぞ

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南京事件の犠牲者数(南京事件−日中戦争 小さな資料集)の"『偕行』編集部(執筆責任者 加登川幸太郎) 1985年"

 三千はもとより六千とは途方もない数字である。(中略)

 そしてこの同じ史料を使用して推測した別の集計がわれわれ編集部の手許にある。板倉由明氏の集計されたものである。(中略)

 従って南京の不法殺害は計一万三千人である。板倉氏はこれが「現時点での」推定概数であるとする。これまた、途方もなく大きな数字である。

 畝本君の三千乃六千、板倉氏の一万三千、共に両氏それぞれの推定概数であって、当編集部としてこれに異論を立てる余地は何もない。これを併記して本稿の結論とする。

 中国国民に深く詫びる

 重ねて言う。一万三千人はもちろん、少なくとも三千人とは途方もなく大きな数である。

 日本軍が「シロ」ではないのだと覚悟しつつも、この戦史の修史作業を始めてきたわれわれだが、この膨大な数字を前にしては暗然たらざるを得ない。戦場の実相がいかようであれ、戦場心理がどうであろうが、この大量の不法処理には弁解の言葉はない。

 旧日本軍の縁につながる者として、中国人民に深く詫びるしかない。まことに相すまぬ、むごいことであった。

(「証言による南京戦史」(最終回) <その総括的考察> = 「偕行」1985年3月号 P17〜P18) 


26. 2015年2月24日 12:28:57 : QISk3Exk6Q
被洗脳基地外サヨクには何を言ってもムダらしいが、中国共産党員
の工作員かお仲間さんよ。
蔣介石が寄せ集めルンペン中国兵がやったと認めて
いるだろうが。蔣介石はあんたら中国共匪賊の恩人だろ?
蔣介石より日本軍人のOBの親睦団体を信じるのか?
笑っていまうな。
情けない共匪どもだな。

日本軍は連合国アメリカに降伏受諾し、ソ連軍が満州に積年の念願として侵入した。
日本軍と戦ってもいない中国赤軍など大分後になってからのこのこと
ハイエナのようにやって来て日本人を連行したり洗脳したりしただろうが。

盗人猛々しいんだよ、中国。あんたらに
何の功績もなければ、被害者を演じる資格もない。
毛沢東より蔣介石の方がまだ人間らしいな。
自国民を数千万人殺害した国が言えることか。あき○くら。
○→日本人ならひらがな入れてみろ。

<<

南京を脱出した蒋介石は書き記した。「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。
 戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。 撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。
・中国の軍隊は共産軍でも国民党軍でも、基本的に軍隊というよりルンペンを寄せ集めたような集団にすぎなかったのです。彼らが軍隊に入ったのは占領地区で略奪が出来るため、食いっぱぐれがなかったからです。司令官は、ある土地を占領すると最低一週間は兵士たちの好きなように略奪や強姦をさせました。】

「この(中国軍の)元将校たちは、南京で掠奪したことと、ある晩などは避難民キャンプから少女たちを暗闇に引きずり込んで、その翌日には犯人は日本兵だと言いふらしていたことを、アメリカ人たちや他の外国人たちのいる前で自白した」(1938年1月3日NYT)
・安全区に逃げ込んだ中国将兵らはアメリカ人教授らのもとで匿われた。彼らは南京で、略奪や、少女たちの強姦などを行ない、それを日本兵がやったと、うそぶいていたのです。この教授たちとは、マイナー・ベイツ、ルイス・スマイス、ミニー・ヴォートリン、ロバート・ウィルソンらです。

Lie_of_Nanjing
【南京大虐殺】「私は(中国軍の)一部隊全員が軍服を脱ぐのを目撃したが、それは滑稽といってよいほどの光景であった。多くの兵士は下関へ向かって進む途中で軍服を脱いだ。中には素っ裸になって一般市民の衣服をはぎ取っている兵士もいた」(NYT 1937年12月22日付・ダーディン記者)

」南京脱出用の列車に乗り込もうとした民衆に対して、国民党軍はこれを排除すべく銃撃した。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って一斉射撃を命じたの日本軍が危惧したように、安全区委員会が安全区の中立性を守るためにそこからの中国軍の撤退を繰り返し要求したにもかかわらず撤退しなかったばかりか、中国軍将兵の多くは市民に偽装し、武器を携行して安全区に逃げ込んだ。いわゆる「便衣兵」である。だ。

あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まった。(鳴霞) 督戦隊は「督戦」という腕章をつけ、大型けん銃を構え、約4歩間隔で横に並んで中国兵の後ろにいました。中国兵の突撃部隊を日本軍の方向へと押し出すのが彼らの任務で、後ろへ逃げ出そうとする中国兵は容赦なく撃ち殺されていました。
<<
妄想共匪とそのお仲間さんたちよ。
やったのはあんたら自身だよ。


27. 2015年2月24日 16:42:44 : w3M1BHSquE
            第3部 証言
1 南京陥落直後──揚子江一帯での集団虐殺

陸上から我々が、軍艦からは大砲で、揚子江は血の色になった

                             平山仁三郎
                          1914年10月生まれ
           南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第三大隊
                            1998年2月取材
 昭和九年兵です。4月に大阪から船に乗って朝鮮に渡り、そこから陸つづきで満州に入って北上しチチハルに到着、さらに鉄道に乗って泰安鎮までいった。ハイラルまでも行ったことがある。満州のあとは中支やった。あの時はまだ独身やった。

 わしはずっと第一線ばかりで(軽)機関銃の射手でな。しかし不思議なことに怪我一つしなかった。
 上海付近に上陸してから南京に向かったけど、上海では戦争らしい戦争はしてないな。夜も昼も歩いた。機関銃も担いだし、背嚢とは別に、後ろに240発、前に60発、計300発の機関銃の弾をぶらさげて歩いた。重かったな。きつかった。南京にたどりつくまでたいへにやった。食料がない。小行李〔弾などを運ぶ部隊。太行李は食料を運んだ〕もようついてこなんだ。兵隊には食料と水がないと一番困る。菜っ葉や大根、鶏や豚も近くの民家から盗ってきたな。村の人は抵抗せなんだ。日本兵がこわいから。紫金山の戦闘はすごかった。なにしろ相手は南京の精鋭やからな。紫金山から下りるとき野砲がどんどん撃っていたな。

 南京の下関では、日本兵がいっぱいいて、二大隊も三大隊もいたわ。揚子江を河いっぱいに中国人が筏や戸板につかまって流れていく。大きいのには60人くらいかな、数人のものもあったな。目の前を通る度に、バリバリ撃つんや。よく当たって、舟の人が倒れて河にもんどりうって落ちるんや。次々とな、河いっぱいに下って来るんや。筏に乗っている人には黒い服をきているのもいたから、城内から逃げていった支那兵やろ。揚子江には日本の軍艦もいて撃っていたな。我々が陸上からバリバリ撃つし、軍艦からは砲撃するし、2、3時間は撃っていたかな。流れる血で揚子江は血の色やった。

 南京が陥落して、すぐに掃蕩に入った。13日、14日と城内掃蕩をやった。挹江門から入った時、死体をようけ〔たくさん〕見た。死体が5,6尺〔1尺は約30センチ〕に重なっていて、重砲を積んだ馬車がその上を通る。わしら兵隊も死体をグシャっと踏んで城内へはいった。城壁には中国兵が逃げようとしたんやろな、紐がいっぱいぶら下がっていたわ。入るとな、あちこちの道路にも死体がばらばら転がっていた。

 城内に入ったら、掃蕩するんやで。捜索隊と誘導隊に分かれてやるんや。わしらは捜索隊やった。敗残兵が次々と手を上げて出てきよる。白い旗をもってなんだ。家の中に入っての掃蕩もしたけど、相手が勝手に出てくるんや。私らの一個分隊だけで、1日目の掃蕩戦で支那兵3個中隊ぐらい、つまり700人ぐらい捕まえたな。縛ってはおらなんだ。ぎょうさんやで。すごい数や。そのあとどうなったか分からん。誘導隊が連れていきよったからな。外国人のところは入るなといわれた。相手は抵抗せんけどな。民間人はほとんど逃げておらなんだな。

 その後、城外の掃蕩もやった。第一線部隊は女の人に悪いことしやなんだ。明日死ぬかもしれんので。忙しゅうてどうにもならん。悪いことしようにも憲兵隊〔陸軍兵科の一つ。

主として軍事警察を受けもつ部隊〕が入ってくるとどうにもならん。城内外の掃蕩が終わってから、わしらの部隊は南京の南方に移った。一か月ほどいたな。その間、私らの部隊は南京には入れさせなかった。兵隊が悪いことするんでな。駐屯地では支那兵とは仲良くなった。支那人の洗濯のばあさんを雇ったな(笑い)。憲兵隊はおらへん。大体戦争中はおらへんなんだな。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

元日本兵の証言である お望みならば 他にいくらでも持って来るがいかがかな?。


28. 大和狼 2015年2月25日 11:32:27 : 4bXKnGQAUaNEQ : QISk3Exk6Q
↑ 洗脳されその上挙句の果てに認知症になった爺さんの妄想記憶世界の証言って
感じだな。

 あんたとどっこいどっこいだよ。

 他の証言では南京城内には死体が散乱していたというより、もぬけの殻に
近いという証言が多いな。

 揚子江に軍艦ねえ?

 城内を掃討したという話も聞かないなあ。

 みんな逃げて、国民党軍が日本軍から
逃げるために駅舎のあたりで同士討ちと南京市民を大量殺戮したのが真相
だろう。

 最近の中国のクロアチアかスターリングラードのような市街戦があったという捏造映画の状況でもなかったようだしな。反日映画の見過ぎじゃないのか27番の
じいさんよ。

 このボケ爺さんの証言は同じ部隊なり複数の兵隊の同じ証言がないやらせ
証言の特徴、典型例だ。

 ウソ証言に特有の信憑性に欠けるものと言わざるをえない。

 村山、河野談話と同じだよ。

 27番、あんたもだが、確証もない妄碌妄執で歴史を認識している妄想空間をさまよって地獄の業火に燃え尽きることだな。

ご苦労なこった。

 私は80年も前のことには何のかかわりもない。南京虐殺があったとしても
何ら痛痒は感じない。
 事実ならそれも由としよう。

 戦争は国家的組織的残虐行為の積分値だ。

 現在でもISILの妄想ゲリラもウクライナもシリアの人間も大量に殺害され続けている。毛沢東の文化大革命、天安門事件、チベット、ウイグルでは過去
数千万人がファシスト赤匪中国似非共産党に殺されている。

 王なんとかという中国外務大臣が偉そうな面して日本を非難する資格など
まったく無い。


 南京で数千の戦闘行為や処刑、誤認逮捕殺や不届き者の逸脱があったとしても
皇軍の軍規軍律統制はルンペンの寄せ集め国民党(笑い)軍などと比べることすら
出来ないものだったろう。
 どこの組織にも倫理観の低い盗人強盗はいる。
 戦争では狂気の沙汰も無くすることも出来ない。

再度引用しておこう。

<<蒋介石は書き記した。「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。
 戦争前には思いもよらなかった事態だ。敗れた時の計画を先に立てるべきだった。 撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱のすさまじさにつき、世の軍事家が予防を考えるよう望むのみだ。<<

 中国兵は寄せ集めルンペン、拉致され強制徴募された若者を主体とした無理矢理兵士にされたような連中だ。

 古参の兵隊はまあならず者だろう。中国人など虫けらのように残虐な殺戮
をほしいままにしてきたような連中だ。
 中国の軍閥は山賊、盗賊集団で略奪がその生業にして来たような連中だ。

 国家の存亡をかけて戦う日本軍とは雲泥の差のある無法者集団だ。

 どっちが虐殺集団かくらいバカでもわかることだ。

 日本人ならばこの21世紀を生きる者として、南京事件にいつまでも拘って
いてなんの世界の平和と安寧に寄与しようというのか。

 中国が南京と歴史史観を押し付け、反日捏造歴史教育を続け、日本人の中にもそれに組する者がいる限り
誇りある大和民族としては反論し続けるだろう。

卑しい詐話、虚言で歴史を捏造するなと言うことだ。

 国民党に戦わせ、その後蔣介石のルンペン軍隊を台湾に追いやり、殺戮の限りを尽したファシスト似非(偽物の)共産党政権は戦勝国を騙る資格は何もない。

 先の戦争で迷惑と被害を蒙ったと思っている被害妄想日本国民は、
東条英機と関東軍の軍事政権への恨みで戦争を総括しているが、それらを認容し生んだのも結局は日本国民だ。

 自ら反省することなく自らを否定し罵倒することは今も同じことを
していることに等しい。

 日本国は覇権侵略国家ファシスト似非中国共産党がシナ海を欲しいがままに
占有し、尖閣や沖縄島與、本島、九州に侵攻する場合は徹底的に
排除するしかない。
 日本国の存亡をかけて、命を賭して戦うしかない。

 毛沢東の支配は虐殺殺戮、臓器売買の歴史だからだ。理の当然の帰結だ。

 日本の(似非)左派勢力には日本国に対する愛国的歴史認識が欠落している。
(大陸にでてゆけー!笑い)

 似非右派朝鮮長州はポーズなりに歴史を正しく修正しようとしているところが
日本国民の支持を受けるところとなっている。

 安倍清和会自民党さんよ。自衛隊はアラブにも朝鮮半島にも行かせないぞ。

 国民から生血を搾り取るシロアリのパシリは止めろ!

27番の妄執じいさんよ、いつまでもみっともないマネ
してんじゃねーよ。

中国共産党かぶれの反日工作員なら話もわかるがよう。


29. 2015年2月25日 12:29:53 : w3M1BHSquE
揚子江に逃げる兵を重機関銃で撃った

                             大川俊介
                          1913年3月生まれ
        南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
                          2006年6月取材
 現役の時は両親が健在で、家の仕事は百姓やったけど、私は手伝いはほとんどしてませんでした。私は(昭和)八年兵で昭和9年の1月に33聯隊の第1機関銃中隊に入隊しました。久居には1年間いた。久居にいる間にいじめとかはあってね。下士官に箒で叩かれたことがありました。満州には予備兵として行って2年間いてね、初年兵の訓練もしました。1期検閲をすんで昭和11年、12年は予備役でした。満州から帰ってきてから伍長になった。

 始めは北支に行き、そして南京へ行った。紫金山は頂上まで上がって機関銃を撃ったな。紫金山の攻略は2日以上かかった。そこで私の機関銃中隊は消耗があんまりなかった。たてこもっている支那兵を撃った。そして逃げている兵隊に向けても撃ったね。苦労はなかったけれど撃った……南京のこと……あんまりおぼえてませんわ。

 揚子江を渡って逃げている支那兵を重機関銃で撃ったな。揚子江は大きかった。皆逃げていった。その後ろで撃っとったんだ。私は当時射手だった、戦争だから撃ったよ。揚子江を渡る時に援護射撃をしたが、援護射撃といっても向こうが撃ってくることはない。こっちがダーと追って行って撃ったね。こっちばかり撃ってた。

 城外に駐屯した。城内では戦争はなかった。勝ち戦のわけで、南京の南の方も戦争はほとんど終わってた。掃蕩戦に参加したね。城外、城内と掃蕩した。

 死体処理には行ってない。激戦で支那人の死体が転がってたが。
 駐屯してから徴発に行った。1ヶ月もいたので食わなければならないので、泥棒みたいに徴発に行った。豚や鶏などを捕まえて来た。
 私は行っていないけれど、隠れてした人もいた。クーニャン〔娘〕を捕まえるのを見たことがある。そしたら、逃げるわけ、逃げるのも早い。南京が治まった後もクーニャンを捕まえる人がいたね……。南京のことはね。あんまりね……。

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河辺で逃げ切れない数千人を九二式重機で連続射撃
                              佐藤睦郎
                          1914年2月生まれ
            南京戦当時 第16師団歩兵第33聯隊第1機関銃中隊
                            1999年1月取材 
 久居の33聯隊の(昭和)九年兵です。すぐ満州のチチハルに行きました。満期除隊してからは、おじに仕込んでもらい魚屋をしました。町には魚屋がなくてな、繁盛しました。月給とりとは比べ物にならんくらい儲かりましたよ。
 そうしているうちに、支那事変です。23歳の時でした。

 上海は覚えてますよ。機関銃中隊は戦闘が収まってから上陸しました。兵站〔後方にあって、食料や軍需品の供給や輸送にあたる場所〕の糧秣〔食料〕を取りにいったのを覚えています。

 句容の飛行場を33聯隊は一大隊で攻めたんですわ。重機関銃はね、銃手が4人、弾薬手が4人、銃馬が4人、弾薬馬が4人、5、6貫目ある弾薬の箱8箱積むんでな。それを山地になると馬が使えんで、人間が自力で担ぎました。そやから、紫金山はえらかったですわ。 
 紫金山へは、第1機関銃は登らず、二、三大隊が攻撃したんですわ。わしらは、紫金山第一峰の右手にある何百メートルかの山を攻撃しました。中国側は手榴弾と迫撃砲で反撃してきましたわ。戦いが終わって見ると、16師団と同じような大砲がまっさらで使っていないようなものが放棄してありましたわ。

 ●──下関の手前で中国人を撃ち殺し
  下関でさらに数千の男女を撃ち殺した 南京が落ちてすぐですわ。下関に向かえということでね、下関の手前まで来た時は、もう鎮江やら紫金山やらから逃げてきた中国兵が右往左往していました。中隊長の「掃蕩にかかれ!」で数人で組になってな、歩兵も機関銃も砲兵も小銃やごんぼ剣〔銃剣〕持って大きな道を通って下関に向かうんですわ。攻め込んでいくと、大きな道路に飛び出してきた中国兵が群れになってまた逃げて行くんです。わしら、日本兵は撃たなしゃあない。逃げるのは兵隊だけやない、男の子もおれば女の人もおる。若い衆もおる。そんなものお構いなしにめくらめっぽうに連続発射で流すんやから、角度を決めて左右にスーと流すんやから。もう前方で人間を見たら、重機をバッと組み立てて全部殺すんや。
 
 その日下関に着いたら、もう勝った勢いでな、向こうに敵ということで撃ちまくった。エンジンのないような、櫓でこぐような舟が揚子江をドンドン流れていくんや。いっぱい人が乗っててね、それを撃つんですわ。中には普通の服着てる良民もいる、それを全部ダダーと撃った。下関にいる歩兵のさまざまな部隊もここかしこで撃っている。

 同時に揚子江の河岸にも大勢の押し合いへし合いの人がなだれ込んできてな、人はドンドン増えてきた。向こう岸へ逃げ切れなくて人間のかたまりとなって岸壁に集まってきていますんや。もう何千という人の数や、そこに向けて今度は、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです。機関銃中隊一個小隊で二銃、一個中隊で八銃の重機関銃です。押しまくりました〔押すと弾丸が出る〕。港にぎっしりと集まった大勢の人は、女も子どもも年寄りもいましたわ。4百〜5百メートル向こうにいる中国人たちに射撃の角度を考えて、範囲を決めて撃ちました。人の固まりが崩れていくんですわ。せめて白い布でも掲げてくれたらとな、かわいそうと思ってたら戦争するんもんやないと思う。我々はただちに小隊長から「撃て」との命令を受けたけど、(中国人ならだれでも殺すという)命令は、師団長が出したんですやろな。

 次の日も、同じように下関で重機関銃を撃ち、大勢の人を殺しました。機関銃中隊は、歩兵といっしょに行動することは少なかったけど、掃蕩には参加しました。逃げ遅れた兵は白い布を立てていてね。ほとんどが兵の服装をしていました。みな集めて軍司令部へ連れて行くんです。中国軍の服装はまちまちで普通の服を着てました。
 捕まえた捕虜を揚子江で処分するために、また、機関銃を撃ちました。

 その次の日、松井司令官が来るというので、こんなに殺したらあかんという規則があるのか、たくさんの死体を今度は隠さないとあかんようになりましたんや。死体を埋めることになりました。焼くということもありました。

 南京陥落の次の日でしたけど、南京城内の倉庫がいっぱいある所でした。兵隊が中国兵をいっぱい連れてきてね、倉庫に詰め込んでるんです。中国人を殺すのに「もう弾が足りない」言うてね、ぐるりに燃える物持ってきて積み上げて火をつけたんです。煙が充満してきてね。中国兵が屋根を突き破って必死になってる。それをまた、日本兵が撃ち殺すんですわ。そんなのを見ました。

 今新聞でいろんなこと載ってますがな、事実南京はえらい目にあってます。そんなこと言うと、政治に関係するので、うかつに言えんが、それはかわいそうなことしました。

 ●──地獄とは地獄 赤ちゃんに小便かけ
 南京の手前で、母親が逃げるのにじゃまになったんか、親がどっかへ連れて行かれたんか、捨て子の赤ちゃんが田んぼの中でおぎゃーおぎゃーと泣いていました。日本兵が赤ちゃんの口の中へ小便をかけててね。ひどいことする。戦争に行って人を殺すのがいやでね。そんなひどいことをするのを見ていても、「そんなことするなや」と言うのが精一杯でな。絶対止めることはできなかったですな。地獄とは地獄、本当に無体なことやった。兵隊やったからな。笑われて馬鹿にされるから何も言えなかった。

 自分と同じ年頃の中国人2人捕まえて、苦力(クーリー)〔人足・力仕事をする労働者〕として働かせたけど、1人がどうしても帰らせてくれ言うてね。治安がよくなってきたので良民証を持たせて帰しましたが、自分の隊を離れるとすぐ殺される。うまくいったらいいが、持っていてもやられる。無事に帰れたかどうか。かわいそうやった。助かった人は少ないですよ。治安ができてくると、憲兵とか入って強姦とか暴行とかも少なくなるんやけど。憲兵が入るのが早ければ、だいぶ犠牲が少なかったと思う。規則があるんやから、命令を早く出していたら、そんな無体なことをせずにすんだんや、子どもまで殺すことなかった。ほんとうにそれまで、無茶苦茶なことしてた。各部隊がそれぞれえげつないことやってました。目の前で見ていて、戦争に負けたらこうなるのは仕方がないことだと当時は思っていました。本当にかわいそうなことしました。

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まだまだ こんなのは、序の口ですからね 楽しみにしててな^^


30. 2015年2月25日 14:41:21 : XEGVq0GsNw
↑ なんだ、只の中国人の餓鬼か。

よく見てみるべきだな自分達の正体を。

http://sound.jp/sodaigomi/ch/syokujin/syokujin.htm

http://matome.naver.jp/m/odai/2135787897960005901

まだまだあるぞ。楽しみにしたいか?


31. 2015年2月25日 15:59:57 : w3M1BHSquE
 2 南京陥落前後──城内や城門付近での虐殺

太平門で敗残兵を処分せよと言われた

                                                    大東真一
                                                1906年7月生まれ
                                南京戦当時 第16師団歩兵三十三聯隊第二大隊
                                                 1998年5月取材

 昭和3年1月10日久居33聯隊に入隊。鳥羽から奉天駐箚。昭和5年1月10日除隊。以後6年間青年学校の指導員をし、初年兵の指導の功績を認められて表彰されました。

 昭和12年8月30日に県下で一番大きい第5動員〔26日から開始〕の召集を受けました。わたしは砲兵でしたが、村から近い久居に変えてもらい、第33聯隊に行きました。うちの村で50人くらいが召集を受け、歩兵は久居に、砲兵、輜重は京都の16師団の各聯隊へ入営しました。ずっと百姓や土方仕事をしていたので体は丈夫でした。

 南京攻略の時、紫金山へは登り降りしました。中国人百姓の鍋でご飯を炊き、分隊全員の分を飯盒につめて糧秣を運んだり、戦死者を運び降ろしたりしました。斥候にでて分隊の者が戦功により5級をもらいました。六中隊長の辻四五郎は、工兵の援護射撃を断り、独断で夜襲をかけました。激戦で夜明けに天文台の方からチェッコ銃の側射を受けて、山の中腹で一歩も動けず、岩山で身を隠す穴も掘れず難儀しました。自分の分隊12人のうち3、4人が戦死。うちの中隊だけでかなりの戦死者が出ました。

 夜が明けてから太平門に攻め下りる時、敵の工兵を捕まえました。地雷を撤去させながら、道案内をさせ紫金山から太平門まに進んだんです。太平門では、敗残兵がかなりいてね。

 あそこで虐殺があったと言うが、わしは行かなんだけれど、好きな人は見に行ったな。太平門で虐殺したかもしれん。太平門で敗残兵を何したかもしれない。しっかり覚えてないが、そこで中隊長が処分せいと言ったのを聞いていました。でも、わしはそんな所へ立ち合わなかったですよ。中国人を切ったり突いたりするのが好きな人はやりました。捕虜は次々捕まえ太平門の外にいました。あんまり覚えてません。

 その後、わしらは下関に向かい残敵掃蕩しました。掃蕩のことも覚えてないなあ……。六中隊には第二機関銃がついていました。私の初年兵の教官だった重機関銃の隊長がいた。

 入城式には参加しました。各聯隊からたくさんの聯隊旗が立っていて、あんなにたくさんの軍旗を見たのは初めてでした。中隊は玄武湖の近く太平門の警備に一週間ほどいました。あたりに手榴弾がいくつも落ちていて玄武湖に放りこむと爆発して魚が浮いてきて、いっぱい取りました。

 掃蕩もあったけど、城外に出かけるだけで、部落部落を回ってくるだけで敵はいなかったです。女がおるくらいでほとんどからっぽでした。分隊で難民久区に入った時、塔の中にひっぱり込まれたクーニャン〔娘〕2人を救けてくれと中国人に頼まれ救けだしたことがありましたな。
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> 私は80年も前のことには何のかかわりもない。南京虐殺があったとしても
>何ら痛痒は感じない。
> 事実ならそれも由としよう。

↑↑↑ これは、貴方の言った事ですからね (≧∇≦)ノ彡 バンバン!


32. 2015年2月25日 16:13:15 : XEGVq0GsNw
http://news.ameba.jp/20130626-222/

はいどうぞ


33. 2015年2月25日 18:56:43 : w3M1BHSquE
敗残兵に石油をかけて焼き殺した

                                                   大沢一男
                                               1916年12月生まれ
                                   南京戦当時 第16師団三十三聯隊第二大隊
                                                 2000年12月取材
●──紫金山ではえらかった
 家は百姓で、両親がいて、3人兄弟の長男でした。甲種合格だったので、もう諦めてますわな。親に元気でやってこいと言われました。昭和12年1月10日、現役で久居の33聯隊に入営しました。昭和11年兵です。
 私らの中隊長は志願して上がってきた人で、歩く歩兵操典といわれた人でしたな。

 12年8月、私らの中隊が編成されました。聯隊本部を出て大阪で2泊、それから北支に行きました。子牙河というところで戦闘がありました。また大連に戻ってから上海ですわ。敵前上陸といっても第一戦やないからもう落ち着いておって、銃の音も聞こえませんでしたよ。南京行くまで道路道路で敵にあって、うちの中隊も戦死者がありました。

 紫金山では、3日ほど攻撃しましたかなあ。うちの中隊が第一戦となってそれはえらかったですわ。五中隊と先陣を争っていました。紫金山は、私らは正面から登ったんで、上から手榴弾をぽんぽんぽんぽん投げてくるんですわ。大きな石の山で手榴弾が跳ねますねん。中隊長が自分らの小隊に「突撃せい」と、言うたんですわ。それで、代理小隊長が、「突撃、突撃」言うて進んでも、上から石がごろごろ落ちてくるわ、人間が落ちてくるし、小隊長の声が聞こえんようになりましてな。またしばらくしたら、「上がっていくんや」の怒鳴り声がしましてな。ダーと行きましてん。そしたら、てっぺんにずうっと壕が掘ってあって兵隊がいる、そこへ飛び込んで、銃剣で敵を突きましたよ。紫金山の時は、擲弾筒を使いませんでしたよ。トーチかには、逃げやんように足を鎖で繋がれているのもいて、死ぬまで闘ってるのやね。びっくりした。大勢の中国兵はやられてるし、素早いのは逃げて、もう山の上には中国兵はおらへんの。山から見た南京は大きな街でそれはきれいやった。

●──城内に入ると、焼殺、強姦、掠奪
 夜明けに突撃して、紫金山からまっすぐ下りて、太平門に向かいました。大きな門は開いていて門を入ったところに敗残兵がたくさんおりました。敗残兵はあかんと思ってかどんどん手を上げて出てくるんですわ。次の日ぐらい、それは大勢の敗残兵を城壁の角っこに全部集めてぐるりを鉄条網で囲みました。城内の防空壕、要塞の中にはなにやらいっぱいありますねん。石油をとってきて城壁の上から敗残兵の頭にぶっかけました。支那人ちゅうのはあきらめがいいんやね。じっとしている、火をつけたら逃げた者もおりましたで。それでもくすぶって人間なんて燃えませんで。死体はそのままでほっていました。

 正月は南京城内で過ごしました。城内は荒れていました。家はどこも荒らされていました。支那人というのは道具をあまり持ってなくて、鍋釜ぐらい持って逃げてたようですな。駐屯は小隊単位でしたが、分隊で一軒家に固まりになって民家に駐屯していました。城内へ入っても危ないので、2人や3人ではぶらぶら歩けないでな。なにがおるかわからないから。掃蕩は分隊単位で行きました。

 揚子江の集団虐殺は、中隊長の命令でやったんや。「敗残兵は揚子江のふちに立たせて機関銃で殺せ」というのを聞いたことがある。私らの分隊は実際にはやってないけどな。揚子江に行ったとき、汚い河で渦が巻いとった。

 城内の死体は臭いにおいがするので、向こうの中国人を使って死体処理をしました。おかしな形でな、木の一輪車というのかそんなのに乗せて運ばせて、穴を掘って埋めました。私らは一日だけやったので、後は他の部隊がやったようですな。

 兵隊が南京の女学校に入ってそうとう悪いことしたと聞いてますな。駐屯するとな、一週間ぐらいもせんうちに慰安所ができますねん。韓国人がやってきます。支那人は支那人でそうゆう遊商売人がおりますねん。外からの慰安所ができる前は、部隊で女の子を何人か捕まえて連れこんで慰安所にするのもあります。駐屯してると、いつの間にか准尉さんが気をきかせて、女の子にお金を払って兵隊にあてがう。それは仕方ないわな。言うにいえんことやってる。敗残兵が隠れておったりした家をそのまま火をつけて焼いたりして、南京ではたいがい悪いことしたな。

 兵隊かどうかは目つきでわかるな。びくびくしたら兵隊や。20歳前後の人はまあ兵隊にとられとるからあやしい。怖がってびくびくしてるのは運が悪いんやね。あやしいと思った男という男は引っ張っていった。南京では、ほとんどの兵隊が虐殺をやってますやろ。

 今夜はここで一泊すると命令が出ますやろ、そしたら、みんな散らばって徴発に出かけて、家をバーと開けて、鶏盗ったり、卵盗ったり鍋やら釜、野菜を盗ったり、そういうことをするんですわ。どこの部隊もやります。略奪やわな。だせへんかったら殺してしまう。ほとんどの人は逃げてますわな。怖がってわらの中でごそごそ隠れてるのもいます。娘さんなんかは墨で顔を真っ黒に塗ってな。だれも鍋の墨塗って化けとるねん。若い女ってすぐわかるから捕まえて悪いことする兵隊はほとんどや。支那事変ではほとんどやっていた。風紀を乱したらあかんと言うのは、南京を出発する前のころはありましたで。それまでは、(戦闘状態で)こちらの兵隊が倒れたりやられたりすると、お互いワーとケンが立ってきますやろ。それでやられるとやりますがな。中国人だから殺す。酷いことしました。

●──戦争は負けてよかった
 昭和13年ごろ、大別山の戦闘では、聯隊で一個中隊のガス中隊をつくった。各中隊から何名かいきなり呼び出され、洗面器に顔をつけろと言われました。若いわしらは洗面器のなかに顔をつけて息を止めて長い時間できたので、お前はガス中隊に行けと言われた。それで、マスクつけてガスを撒きに行った。ガスはボンベを持ってガスマスクと手袋をつけてシューと播きました。風向きが大事で、撒くとすぐに逃げました。この時も第一戦でしたわ。ガス中隊には、中隊長がいてその下にすぐ分隊が5つありました。そのうちマラリアにかかって入院していました。

 中国、フィリピン、ビルマと外地ばかり戦争に行きました。今から見ると、あの戦争に勝っておったらもっと苦しいやろ。若い者が内地におらんやろ、外へ出ていかなならんで、負けてよかった。この戦争は東条さんに騙されとったんや。軍部が権力をもったらあかんのや。天皇陛下も言いなりやったな。天皇陛下万歳なんていう人おらんで。ビルマ行くときなんて木の大砲つんで、7歳下の弟も一緒だった。負けることはわかってた。こんなことは二度と繰り返してほしくない。私らで十分経験してるんでな、こんなことはあかん。

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まだまだ有りますぜ、なにせ 元日本軍人の証言は102人もおりますから。


34. 2015年2月25日 21:12:51 : j68MtzGqc2
ちょっと前まで南京大虐殺は、30万人はいかないにしてもかなり多くの人が虐殺されたんだろうと思ってたが、ほんとにそうなのかと疑問がわいてきた。

1.南京に居た軍隊や役人は日本軍が総攻撃をかける前に逃げていた。
2.日本軍は民間人を丁寧に扱った資料もある。

日本軍が南京城に入ったとき相手が降伏したわけでは無くまだ戦闘状態だと思うがどうなんだろう?
殺害された多くが敗残兵だと思ってるんだけど、敗残兵ってどれくらい居たんだろう?

民間人は殺していないなどとは言わないけれど、無意味に大量に殺す必要があるのだろうか?人の居ない南京城に価値があるとは思えない。
南方のほうでは住民とけっこううまくやってたよねー?


35. 2015年2月25日 21:21:35 : hy55y1MCkU
http://www.epochtimes.jp/editorial/9ping-7.html

6000万人、8000万人という中国人を殺し続けて来た中国共産党。
いくらでもあるぞ。

なあ、中国共産党員


36. 2015年2月26日 05:24:42 : qQ1Pal0iVM
102人のウソの証言集。
中国人はウソが大好きで真実は嫌いって人種だな。しかも恥という感情もない。普通の中国の人がそうだってことも無いだろうが。tz
日中国民の友誼を阻もうとする奴らこそ日中国民の敵だろう。
そう言う意味では日本人が同意出来ない捏造史観を強要する村山、河野も日本国民の裏切り者、国民の敵と言うべきだ。似非良心を振り撒く妄執に取り憑かれたファシスト中国共産党員、コミンテルンの生きる亡霊と言うべきだ。

偽造資料、ニセ証言者たち
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page049.html

田所耕三
秦賢介
中山重夫
曽根一夫
東史郎
船橋照吉
『南京戦・元兵士102人の証言』に登場する102人の元兵士

など、多数…

これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。

東史郎…一番有名な捏造者。原本が存在しない創作をバラまいた。支那じゃ未だに真実扱い

中山重夫…戦車段列から処刑を見たと吹聴していたが場所時間がコロコロ変わったのでうそがばれた

永富博道…当時は学生だったのに自分は南京戦に参加し虐殺したと証言。経歴照会であっさり嘘判明

舟橋照吉…東の懺悔屋成功に載せられて日記捏造。輜重兵の自分が1人で敵陣突撃し勇戦するというカッコつけかました仮想戦記な内容であっさり×

曾根一夫…野砲連隊の二等兵だったのに、歩兵で下士官だと経歴と日記を捏造。やっぱり経歴を調べられて嘘と判明。懺悔屋の代表格で、秦郁彦も騙された

田所耕三…強姦と虐殺を証言していたが、所属部隊が当該日時南京を離れていた事が判明。後に「普通の話だと記者が興味を示さないから…」と捏造を白状

太田壽男…死体大量埋葬を供述書に書く。が、梶谷日記(捏造物の数々と違って原本確認できる)により当時証言場所にいなかった事がバレる。撫順収容所での洗脳後に書いた捏造だった

富沢孝夫…海軍の暗号兵で、「南京発の松井軍司令官の虐殺を戒(いまし)める暗号を傍受・解読した」と証言(だから逆説的に虐殺があったという主張)。だが陸軍の暗号を海軍の知識しかない彼が解読するのは不可能で、おまけに証言日時には松井司令官は蘇州で入院していた

上羽武一郎…「上官の命令で強姦虐殺放火をした」と証言。しかし彼は「(後方で担架運びの)衛生兵」でしかもそんな命令が出たという史料は一切無し

匿名・仮名証言の嘘の例
『南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて――元兵士102人の証言』というトンデモ本は匿名(仮名)の証言集だが、バレバレの嘘だらけ。
例えば、南京で強姦しまくったと証言した鬼頭久二(第16師団歩兵第33連隊 第1大隊)(仮名)は、計算すると南京戦当時11歳だったことになるが、帝国陸軍に11歳の少年兵は居なかった。

いくら102人のウソをコピペしてもウソは真実にはならないんだよ中国人。あんたはもうすぐ首だ。臓器を抜かれて中国共産党に売られるだけだ。


37. 2015年2月26日 16:28:38 : w3M1BHSquE
>>36
おいおい、貴方の示したリンクですよ こうも書いてあるじゃないですか

↓↓↓

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信頼できる資料集とは?


 南京事件に関する日本側資料集で一番有名なのは偕行社の『南京戦史』(非売品)です。虐殺があったという証言も隠蔽することなく公平に提示していますし、史料として掲載する際には所属部隊の確認などを行っています。上で紹介した船橋氏は、当初南京戦史に(虐殺の光景がない)日記を送ってきましたが、所属部隊がアヤフヤな為に掲載にならなかった方です(後に虐殺日記を捏造した)。


 『南京戦史』ではほとんどが実名で登場していますし、仮名の人物も戦友会などで実在が確認されています。つまり学術的な価値が高い史料集ということができます。

 次に有名なのは『「南京事件」日本人48人の証言』小学館文庫です。これは全員実名で登場しています。当時南京にいた報道関係者の証言も掲載されています。インタビュー形式で、質問の内容と回答が併記されており(当たり前ですが)、学術的な価値は高いと言えます。


 この両資料を比較すると大きな矛盾点はほとんどありませんから、互いに支えあって互いの史料価値を高めているということができます。便衣兵の摘出や処刑については、一次資料(同時代資料)と、戦後に聞き取りを行った証言とが概ね一致するわけです。写真も残っています。軍人の証言と新聞記者の証言が一致するということは、事実関係を検証する上では重要な意味を持ちます。
 私服で安全区に潜伏した中国兵が摘発し処刑されたのは史実と考えて問題ないでしょう。しかし、万単位の民間人を無意味に殺害したという事件については、史料の整合性を考えれば「なかった」と言ってよいわけです。

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↑ 偕行社の調査資料は認めているじゃないですか貴方と違って
都合の良いとこだけ取り上げてるんですねぇ 

しかも最後の一文、「万単位を殺害という事件については 無かったといってよい」
と言う事はつまり、万単位でなければ 有ったと言う事じゃないですか
結局、偕行社の結論と見解は そのまま肯定しているじゃないですか

102人の証言が 怪しいと言う事は理解しました それは勉強になりましたよ

しかし、偕行社の調査の正当性は あらためて確認できたと言う意味で 礼を言いますよ
結局、墓穴を掘ったのは貴方の方ですねぇ。


38. 2015年2月27日 14:51:12 : rEjP5y7vJU
相変わらずウソと強弁が好きだねえ。

戦争だからねえ。ゲリラは処刑されるだろう。復讐心で殺したこともあるだろうね。

中国兵の同士討ち、渡河の途中で溺れたとか、強奪、凌辱、殺害行為は殆どが中国兵であったことは蒋介石が認めている通りだ。

死者は10万人くらいか。戦闘死亡、中国兵督戦隊による逃亡兵殺害、国民党軍による南京市民殺害が主たるものだろう。

無差別の一般市民殺害などあり得ない。

捕虜については一部処分説、面倒だから河を渡らせたら対岸から撃って来たとか、いろいろあっただろう。

人を殺さない戦争などゲーム以外では無いからな。


39. 2015年2月27日 14:59:19 : rEjP5y7vJU
10万人20万人40万人は無い、という事でいいんだな、中国紅衛兵。

40. 2015年2月27日 17:44:42 : QISk3Exk6Q
http://www.youtube.com/watch?v=FMKZzZREqh8&feature=player_embedded

しかし南京城内はもぬけの殻だったなあ。捏造中国南京映画では尤もらしく市街戦のような描き方をして。

実際には中国兵は先を争って逃げて行った
んだな。


41. 2015年2月27日 17:58:26 : QISk3Exk6Q
3連投になるが。
捏造ウソ証言を日本軍人捕虜に洗脳する。
中国共産党はやはりひどいものだ。
<<<<

http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu_d_3.html
質問:
南京大虐殺の証言の多くは戦後かなり後になって作られたものですか?

回答:
そのとおりです。

証言は、それが『いつ記録されたものか、本当かどうかの検討ができるか』という2点がとても大事です。
 日本人の中にも南京大虐殺を目撃したとか虐殺したという証言をした人もいました。
 しかし、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されています。
 例えば、元軍人であれば同じ部隊の人がまだ生きていたりしたので、周囲の人の証言や記録を調査すれば、彼は南京にいなかったとか作り話であるということなどが判明します。

 そのため、最近では日本人に関しては匿名の証言が作られるようになりました。
 
 また、中国人の証言の多くは中国政府(中国共産党)が南京大虐殺の宣伝に力を入れ始めた以後に作られた(記録された)ものです。

 しかも、証言はその証人が本物か、証人は実際に当時の南京にいたのか、内容は真実かなどの検討が可能であって初めて意味を持つのです。

 みなさんも本や被害者だという人の証言をうのみにするのはやめて、自分が裁判官になったような気持ちで自分の目で証拠(当時の記録)を確実に検討してみてください。
 そうするといわゆる南京大虐殺は、実体のないものだということがわかります。

 証言については、その証言がいつ記録されたのかをまず確認しなければなりません。
 例えば、もしあなたが、匿名やその場にいたかどうかも証明できない人の、しかも事件から何十年後にされた証言だけで、犯罪者とみなされたら納得できるでしょうか。


上記のように、南京大虐殺や731部隊などについて、これまで本名で証言をした人は例外なくすべて嘘であったことが確認されている。

和久希世さんのご主人に懺悔話をした南京帰還兵は所属部隊や名前が不明なため、その証言は嘘を確認することすらできない検証不可能な証言(しかも伝聞)だ。

このように所属部隊も名前も不明な元日本軍将兵の証言を真に受けて「残念ながら、日本兵が相当の悪事をやったのは、確かだったと思います。」などと言ってはいけない。

ニセ証言者たちが現れる理由にはいろいろと考えられる。

6年前に私は「Yahoo!掲示板」で「反日日本人の種類」について投稿したが、今でも大筋で合っていると思うので次に掲載する。
バカさよ・反日日本人の種類
馬鹿サヨや反日左翼は、被洗脳者、共産主義者、成りすまし日本人、カルト信者など
http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3517.html
━━━━━━━━━━
●バカさよ(反日日本人)の種類

1.電波本を売りまくって荒稼ぎする連中(本多勝一、東史郎、森村誠一、吉田清治、千田 夏光、吉見義明、家永三郎など)

2.賠償訴訟が増えれば増えるほど仕事が増えたり買収されたりして収入が増える弁護士や判事など。

3.洗脳された人達。

「洗脳」、「認罪運動」
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo7.html

中国帰還者連絡会(中帰連)とホラ話「三光」
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo8.html

米軍捕虜19名も洗脳されて嘘の供述書を書いた
http://www.asahi-net.or.jp/~ku3n-kym/doyoyon/doyoyo9.html

4.支那人や朝鮮人が言うことに反論などせず、反省することが善人になることだと勘違いしている単なる馬鹿。

5.学校の先生やテレビや新聞が言っているのだから嘘の筈がないと思い込んでいる未熟な連中。

6.共産革命を夢見る共産主義者(ただし、この連中は1や2や3に分類された連中とダブることが多い)。
日本は残虐な侵略者だったと日本人の脳に刷り込むことによって憲法9条の改正や核武装を阻止し、二度と戦争が出来ない国にしておくことが目的。
チベットや東トルキスタンのように、人民解放軍による開放を受け入れ易い状態にしておくため。

7.強制連行があったことにしておかないと日本に住み難い日本人成りすましの在日朝鮮人と魂を入れ替えられない帰化人。

8.統一教会や創価学会のような朝鮮人教祖を信じている連中(信者)。

9.支那で商売をしたいために支那共産党の要人に賄賂をばら撒き、奴らの犬に成り下がっている企業経営者たち(伊藤忠商事の藤野文晤、ファーストリテイリングの柳井正など)。

10.支那依存企業の役員に就職を希望している外務省チャイナスクールや支那に利権を有する政治家たち。
━━━━━━━━━━


上の「反日日本人」のうち、今回テーマにしている「懺悔する支那帰還兵」に関係する可能性が高いのは「3.洗脳された人達」かもしれない。

そこで、支那共産党による、いわゆる「戦犯」(正確には「違法に拘留した捕虜」)への洗脳についての説明を紹介する。

以下「あやしい調査団・ 満洲どよよん紀行」撫順2(戦犯管理所と戦犯裁判)より抜粋
中共建国の翌年の昭和25年(1950年)、日ソ友好条約の締結時、一部の捕虜はスターリンから中共にプレゼントされ、撫順に収容された。

いよいよ、後日、彼ら自身に「鬼から人間に戻った」と言わしめる洗脳が始まったわけである。

戦犯の処置は新中国の重要な国家政策として周恩来が直接指揮をとり、管理は司法部ではなく公安部が担当した。公安部長の羅瑞卿は、延安で多数の日本兵捕虜を洗脳して、日本軍の正面に送り出してきた捕虜政策のエキスパートであった。

一方ハルピンの尉官級以上の人たちも「学習」が続けられ「総括書」を書かされた。これは、学習して得た共産主義の認識に基づき、過去の自分を自己批判しろということである。
罪は重くても完全に共産主義思想になったものは許す。逆に軽微な罪行でも思想を改造できないものは重く処罰する、としつこく繰り返された。

中共側は共産主義思想に転向してこそ初めて過去の旧思想時代の犯罪を自供できる、と主張していた。
つまり「思想改造」と「認罪」の同時工作であり、中共国内の反革命分子に行使した方法と同じであった。

尉官以上の人が取り調べを受けたのに対し、下士官・兵は坦白大会の方法がとられ、自分たちで自らを洗脳していった。
ソ連のラーゲリに居た頃も下級兵士ほどアクチブになり易かったのだ。

「認罪運動」
そして本格的な取り調べが開始された。「坦白するものには軽く、逆らい拒むものには重く」という取り調べの方針が告知され、そのスローガンは所内の至る所に掲示された。これをきっかけに「認罪運動」というものも始まった。

「私はこんな酷いことをした」と戦犯全員の前で自白する発表会がもたれた。
この「坦白大会」には、中共党幹部も同席し、管理所の洗脳工作経過を視察するものであったが、戦犯達も自分が何を要求されているのかが判り、いよいよ追いつめられていった。

認罪学習は、徹底して行われた。みんなでしつこく何回も何回も犯罪行為を確認し、自己批判・相互批判が繰り返された。
「学習」とは言うものの、罪の自白とつるしあげ合戦である。「なんだ、それぐらい、俺なんかもっと凄いもんね」「お前、それぐらいじゃ足りんだろう」などとエスカレートしていったのだった。

工作員(取調官だが、なんともストレートな名前である)は、一人ひとりについて何年もかけて集めた証言、告発書をもとに尋問した。つまり、罪状は最初から決まっており「自白すれば軽く、拒めば重く」と言われれば、工作員の言うままに合わせるしかない。
毎日呼びだされ、尋問を受ける。尋問というより説得であった。総括書は出す度に点検され、ここが違うとか、こう書けとか注文された。
相手の予定調書と違ったことを自白すればそれは自分がウソや間違いを言っていることになるのだ。

こういう経過で、日本語にはない罪行や、中共側のでっち上げや過剰な言い分まで認めざるを得なかった。
とにかく、一日でも早く日本に帰りたい、そのことしか頭になかった。

また、中共側は余計な自白を歓迎した。
本人の罪状だけでなく、伝聞した日本軍の罪状まで採集していった。

戦犯たちは総括書という形で、文章にして提出した。当然、文章の巧拙や想像力の大小によって、罪業に迫力の差がでてくる。
文章の上手い戦犯はほめられ、他の戦犯の文章指導や代筆までやり、悪鬼そのものの日本軍が作成されていった。

監禁されるとその苦痛や憤り、自己崩壊から逃れるため、加害者の立場に自分を置こうとする場合がある。
相手側の一員になった気持ちになるのだ。

撫順に収監された戦犯の中で、下士官・兵などは特に戦争犯罪など起こしていない人ばかりである。
理由もなく6年も監禁されたのに、自ら戦争犯罪人を認める自白をし、そのうえ不起訴になったら中共の温情に感謝する、看守達と抱きあって泣いたりしたのだ。


このように、撫順戦犯管理所に収容された日本軍将兵たちの6年間は「坦白大会」などの「認罪運動」による「洗脳」の日々だった。


42. 2015年2月28日 06:16:04 : qQ1Pal0iVM
10万人20万人40万人は無い、という事でいいんだな、中国紅衛兵。

43. 大和狼 2015年2月28日 06:49:46 : 4bXKnGQAUaNEQ : qQ1Pal0iVM
3/3【討論!】南京の虚構を暴く![桜H24/3/17]: http://youtu.be/soBmChuHDhM

超限戦】報道スペシャル−中国プロパガンダ写真の真実[桜H24/2/4]: http://youtu.be/_djUwHFV0yE

チャンネル桜で悪いがね。
ネトサヨ=バカでアホ嘘つき 中国共産党=汚い
ウソに騙される良心的自認サヨ=日本の害悪

世界平和の敵は何だと思う?
ウソと?やらせによる憎悪、憎しみでしょう。

日本人の日本国は平和主義、人道主義、戦争放棄、友愛友好 =フランス革命の憲法
私は安倍の積極的軍事主義には反対だ。国賊的だ。

中国共産党、朴クネはウソと捏造で自国民と世界に日本に対する憎悪を掻き立てている。最初に日本軍は残虐で日本は侵略植民地支配国であったと教育されれば人間誰だってそう思い込む。
教育は洗脳の場である。
罪悪感を抜け切れない日本の子弟はそのような意識を持つ必要はない。

日本国、大和の国の歴史は(自分で)調べれば調べるほど素晴らしいものだ。
世界はそれを認めて来たところだ。

日本人よ誇りを持て。胸を張れ。
勤勉と努力を怠るな。政治を見張り、個人、家族の自由、権利のために、権力の搾取 を亡くすることだ。


44. 2015年9月21日 03:05:17 : EUz5kKhHwk

保守速報

211【動画】南京日本兵の証言
http://hosyusokuhou.jp/archives/31096534.html

2013年08月24日02:20 | カテゴリ:管理人おすすめ


全文
244:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/22(木) 16:18:07.59 ID:oD0UFd4s0


 南京日本兵の証言 (動画2本)

実際の当時の南京の映像を用いて大虐殺はなかったことを証言している


344:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/22(木) 21:56:08.46 ID:+qNTcf5F0
>>244
戦争の話なのに、読んでて清々しい気分になれる


*補足


239:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/22(木) 15:53:32.77 ID:/sWp7bwD0

■実際に南京攻防戦に参加した人の話。リアリティがすごいです  
●中国人に洗脳されてウソを垂れ流してた、もと戦友らへの怒りもあり

 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
●戦後の中帰連による嘘日記の数々が鮮やかに論破されてて見事  
作戦の詳細もわかりやすいです

『南京攻略戦の大隊指揮官真相を語る ― 謹(つつし)んで英霊に捧(ささ)ぐ― 』

「南京大虐殺」はなかった

●私は評論家でも歴史学者でもございませんし、もちろん右翼というような者でもありません。
ただ南京攻略に参加した1人の軍人です。

●いわゆる「南京大虐殺」があったと言われているその時、その場所にいて、
当時の南京およびその付近の状況はこの目で見て、この身体で体験している者であります。

●私が今からお話します事は、いわゆる「南京大虐殺」と言われている議論が、
本当はどういうものであるかという事を知って頂き理解して頂いたならば、
1人でも多くの人に真相を語り伝えて世間の誤った考えを正して頂きたいと考えております。

http://www.history.gr.jp/~nanking/moriou.html

656:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 13:49:46.63 ID:pzbcCilJ0

南京の話題がある様なので、私の伝聞。

●もう大分前、趣味で史跡を探索中と仰るお爺さんと調布の多摩川沿いで
話をする機会があった。調布飛行場の話から戦時中の話になり、
この方が南京郊外の航空隊に整備兵として勤務されていたと知る。

私はかねて疑念の南京虐殺の話をふってみたところ、お爺さんキョトンとして、
●「どこの話?南京じゃないでしょ」と仰られた。

そして「あんたがた若い人達はモウバイ(と聞き取れた)って知らないだろうなぁ」
と言うので、「なんですか?」と私。

●「客の選り好みをしないように目を潰された売春婦だよ。」

●「南京には歳とって商売できなくなったモウバイがいっぱい居てね、
それが道端で乞食をしてるんだ」

●「日本の軍隊が入城してね、司令官がこれはいかんと施設を作り彼女達を
収容して面倒をみたの。そして、そのような売春婦の禁止令を出したんだよ。
大陸の習慣だったんだろうが哀れでね。」

●世に流布される南京虐殺とは真逆な話を時にニコニコとして淡々と話される。
日本人の感性から妙にすんなりと納得してしまう話だった。
むしろこれが南京の普通の話なんだと無理なく聞けた。

●「あと衛生班を作ってね、不衛生で病気の人達なんかの簡単な治療もして
皆から喜ばれたし、いろんな改革もしたんだよ」

●整備兵という環境がそうなのか、およそ悲惨な話など出てこない。
若かった爺さんが外出で訪れた南京市内の話は妙に開放感ある明るい思い出話だった。


657:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 13:50:30.88 ID:pzbcCilJ0

● 「あんな事してたらね、日本は戦争には勝てっこないよ」とお爺さん。

●「えっ?」「日本軍はね、市街地の軍事拠点を爆撃する場合、
前もって飛行機からビラを撒くんだ」

●「何日に爆撃するから一般人は避難しろってビラをね」
●「あんた一般人て言たってね、兵隊も逃げるよ。だからぜんぜん効果ないんだなハハハ。」

後に知った事だが戦争協定を真面目に守ろうとした日本人らしい実話だったのだなと思い返す。

「航空隊が出撃するよね、すると必ず未帰還機が出るの」
「その日の夕飯は出撃前の全員分の食事を出すのが慣わしでね。
未帰還の搭乗員の分だけ席が空いて余るの」

「それをね基地の近所の民家の人たちに配るんだけど皆よろこんでね」
●「戦争が終わって引き上げる時ね、皆がまた来てねと言って手を振って別れてきたんだよ」

また来てね・・・か。
そんな交流が普通の日本人の感覚だろうなと、すんなりと得心した話だった。

当時も今も日本人の感覚はそうは変わらない。
我々の感性を超えた非道で残虐な話は疑ってかかった方が良い。

あのお爺さんは今もご存命だろうか。
縁者に本当の現実だった事を語り伝えていて呉てるだろうか。

この話を心ある人に伝えたくて、誰かと共有したくて書き込みました。


670:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:00:54.61 ID:xunsK7WlO
>>656
>>657

貴重なお話だな、ありがとう


673:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:04:15.80 ID:qWhN0OK40
>>656
>>657

●ありがとう。こういう話もっとあるだろうに、反日とマスゴミが潰してきたんだろうな。
中には悪い軍人もいただろうけどさ。

マスゴミが狂ったように擁護するはだしのゲンみたいな左翼の洗脳に対して
もっと声を上げていかないとね。


675:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:07:02.23 ID:QuPNPV4SP
>>656
>>657

●むしろこういうのがマンガにならないかなあ。
はだしのゲンみたいな憎悪話じゃ無くてさ。
左翼マンガを描く奴はいても、愛国マンガってのはなかなか見ないよね


723:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 15:24:02.31 ID:yka7pSYUO
>>656
>>657
のお話読んで思い出した!むか〜しのことなんだけど。
戦争で行ってた場所のツアーチラシを見たので予約しに来たお爺ちゃん。

確か…昆明麗江?方面。
●ニコニコしながら楽しそうに『綺麗ないい所でね〜もう一度行きたい』って。

●殺戮したような場所なら二度と行きたくないよね。と、今思った。


707:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:46:14.33 ID:pzbcCilJ0

確かに中共を中国と呼ぶ最近になって誤解が定着した。

●日本軍は中共とはゲリラの局地戦でしか戦っていない。
●近代戦の空戦まで交えた中国軍とは国民党軍であって、中共ではない。

おもしろい事に日本は徹底的に戦った米英連合軍、国民党の台湾とは
恩讐を超えて現在は仲が良い。

戦うどころか庇護した朝鮮とゲリラで逃げ回っていた中共、
ほとんど戦わなかった相手が戦勝国のような気分でイチャモン付ける破廉恥さ。


709:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:50:18.78 ID:KMGarWLq0
>>707

>戦勝国のような気分でイチャモン付ける破廉恥さ。

日中共同声明での合意を踏まえてのことだから
それに日本と戦った人たちがみんな台湾に渡ったかというと違うしね


712:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 14:56:59.30 ID:cuKxqPq60
>>709

> 日中共同声明での合意を踏まえてのことだから

そう、中共支那が当時者面するのは間違い。

●後付けの話なので
日中国交も崩壊状態な現在なので、はやく破棄せんとな

●中共を甘やかしたのは戦後日本の責任なので、尖閣防衛で
うんと懲らしめないといけない


724:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 15:24:49.52 ID:pzbcCilJ0

● こうして見ると内部闘争、プロパガンダが主戦場で
自らは安全地帯で屁理屈こねて地位を確立させた中共と
屁理屈で歴史観を定着させようとする輩とはおんなじだな。

●共産主義者が屁理屈に拘るのが納得できる。

●ただ頂けないのは、そんな捏ね繰り回しを
アタマが良いと思い込んで自己陶酔する姿。

必死に保とうとする優越感。
●もし日本人なら哀れだよ。


727:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 15:35:42.53 ID:NizhkFBZ0


 南京没落当時の貴重な映像 (6本)

南京事件
http://noidatalib.blogspot.jp/2012/02/blog-post_9090.html

733:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします:2013/08/23(金) 16:07:09.28 ID:pzbcCilJ0
ここは素晴らしい人たちがいっぱい集まるね。
どうりで皆がこっそり見るわけだ。

ここの遣り取り翻訳して中国、韓国のサイトでも見れるようになれば、
かの国の人達の中で少しは目を覚ます人も出るかも知れないのに残念。

●でも検閲の有る国ってのは本当に恐ろしいモンだな。


http://hayabusa.2ch.net/news4vip/kako/1377/13770/1377099687.html
〜以下略〜


45. 2015年9月21日 03:14:18 : EUz5kKhHwk


中国網
http://japanese.china.org.cn/jp/txt/2014-11/23/content_34127485.htm

旧日本兵が証言「南京は地獄だった」右傾化を痛烈に批判

(一部転載)

(写真)2007年12月、南京大虐殺の70周年の日、三谷翔氏は南京を訪れ、ユウ江門の前で記念撮影をし、南京の人々に謝罪した。写真は、記者に写真を見せる三谷氏。

今年12月13日、中国は、初の「南京大虐殺犠牲者国家公祭日」を迎える。中国侵略日本軍の南京大虐殺の発生地であり、国家公祭日の主祭地である南京の主流メディアとして、新華報業伝媒集団は、ニュース行動「衆志成城(志が集まれば城壁をなす)『永遠に忘れない国家の記憶のために』」を企画。10月に記者を日本に派遣し、歴史の真相の追及と平和の維持に努める団体、南京大虐殺にかかわった旧日本兵、日本の歴史学者、政府高官、一般庶民などを取材した。

新華報業伝媒集団の傘下の新聞とウェブサイト、新メディアは、特別報道『永遠に忘れない国家の記憶のために・日本で証を尋ねて』を同時掲載する。十数本の立ち入った報道と画像で、異なる角度から史実を明かし、中国侵略日本軍の暴行を裏付け、さらには平和を愛する日本の勢力の奮闘も紹介する。

「中国侵略日本軍の一人の兵士として、私は南京攻略戦にかかわった。日本軍の暴行のことは今思い出しても恥を感じる」。元日本海軍兵士で今年95歳の三谷翔氏は、大阪のマンションで新華報業の取材に応じ、記憶の門を開き、77年前に目撃した南京大虐殺の惨状を再現した。過去を知る老人は、安倍政権は歴史を顧みようとしないと憤り、「安倍首相をつかまえてこらしめてやりたい」と語った。
        ↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑

三谷老人の話は2時間にわたった。侵略戦争の加害者、被害者、反省者としての三谷氏の人生を貫いていたのは、激しい移り変わりを経てきた歴史そのものであり、そこには痛ましい過去と厳しい現実があった。「真実を守ること。100歳まで生きて果たしたい唯一の使命です」
〜以下略〜


46. 2015年9月21日 03:48:41 : EUz5kKhHwk

三谷翔氏についてこう書いてあった↓

                 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓
>こいつも日本軍の南京入場のころはまだ軍人になってないという事実が判明した。

________

南京大虐殺(詳細)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/yougo/nankin_daigyakusatsu_shosai.html

〜一部抜粋〜

●簡単に言うと、これは日本が侵略戦争をしたという支那の国民党と共産党のプロパガンダである。

〜略〜

●この「南京大虐殺」が初めて取り上げられたのは東京裁判においてである。

●アメリカが「空襲」という名の虐殺、広島・長崎での大虐殺でおびただしい数の一般市民を殺戮した自分たちの残虐さを相殺し、日本を残虐な侵略者に仕立て上げるために捏造したのが最初である。


  東京大空襲(1944年3月)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-
50/1945_tokyo_daikushu.html

  広島、長崎原爆投下(1944年8月)
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1941-50/1945_hiroshima_nagasaki.html


●また、東京裁判がニュルンベルク裁判と並行して行なわれたために「南京大虐殺」が持ち出されたという点もある。ニュルンベルク裁判はナチスのホロコースト(ユダヤ人大虐殺)を裁いたわけだが、東京裁判でもホロコーストに相当するような出来事がないかと探した。ヨーロッパ全体で600万人のユダヤ人を殺害したホロコーストに対応するような犯罪などありうるわけがない。

●そこで連合国側は、ティンパリーやフィッチが蒋介石から金をもらって捏造した「南京大虐殺」というデマに飛びついたのだ。

●その後、支那共産党はプロパガンダ(宣伝)としてこれを支那侵略のシンボルにした。一般市民の支那共産党に対する不満を外に向ける手段として、また日本からODA援助などを引き出すための外交カードとしてこのデッチ上げの「南京大虐殺」を利用している(そもそもそんなデマを言われて謝ったり、金を払ったりしている日本政府が悪いだけの話なのだが)。また、支那共産党に呼応するマスコミや学者が日本にも多数いる(その筆頭が朝日新聞、毎日新聞、NHKである)。

●東京裁判におけるこの「事件」は、原文では「Nanking rape」または「Nanking atrocities」であり、それなら「南京暴行事件」とかと訳されるべきものである。「虐殺」という悪魔化のための名称は東京裁判から23年もあとに、★本多勝一という輩が広めたものである。

●東京裁判で取り上げられた後は、「南京大虐殺」はデマということで長い間問題にされなかったが、朝日新聞が連載した★本多勝一の「中国の旅」で取り上げられた。また、昭和57年の教科書誤報事件の頃から「歴史問題が外交問題化し、1985年には南京に「南京大虐殺記念館」なる馬鹿馬鹿しい施設が支那共産党により開設された。

●また、カンボジアでのポル・ポト派によるキリングフィールドで、この大虐殺を北京政府が背後で指導していたことが世界に知られると、支那共産党は突如として日本軍の南京大虐殺説を持ち出した。

〜略〜

●日本の悪口を言えば反日のマスコミが取り上げる。そのため、嘘をしゃべり始める輩が必ず現れる。★曽根一夫という男は「自分は南京で市民を虐殺した」という内容の「私記南京虐殺」(彩流社)という本を書いたのだが、こいつは南京戦に参加したことすらない。

●毎日放送(TBS系列)は★三谷翔という男を登場させ、「昭和12年当時、海軍志願兵として揚子江に待機する駆逐艦の上で任務についているとき、双眼鏡で虐殺を目撃した」と証言させたが、★こいつも日本軍の南京入場のころはまだ軍人になってないという事実が判明した。

〜略〜

-------------------------------------------------
(参考)
『南京事件』偽史料列伝(6)
http://www.geocities.jp/nankin1937jp/page049.html
-------------------------------------------------

_______


「南京戦・元兵士102人の証言」
のデタラメさ

―テレビ「ニュースステーション」が増幅垂れ流した反日・自虐報道の正体

近現代史研究家・阿羅健一
http://www.history.gr.jp/nanking/books_seiron0211.html

_______

キリスト教読み物サイト

「南京大虐殺」は
捏造(ねつぞう)だった

●南京の日本軍がなした多くの人道的活動
●日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
●非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm




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