32. 2015年2月20日 15:57:13
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↑当時の北京の人口は何人だったのかね。当初南京の人口が100万だろうが何だろうが日本には関係のない話だ。 南京に匪賊同然の中国軍が流入し戦禍が近づくにつれ南京市民は上海やその他に 避難したと記録にあるだろうが、アホかあんた。 ***** <「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白し た国民党少尉>
1月27日に歴史評論がネット(http://www.kdne.net)で流れた。開国少将というベンネームの作者は、外祖父が自分の日で見た南京大虐殺という文章を発表している。「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。 彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。 部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。 誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。 国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。 外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。 外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。 私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」。 http://ameblo.jp/daily-china/entry-11415804641.html 「人口は当時100万超で、犠牲者数は30万人だ。これは誰にも反論できない数字だ」は、大ウソであり、簡単に反論できる。
確かに1937年当時、南京には100万人超が住んでいたが、8月から上海で戦争が始まり、10月になって大量の支那軍が南京に逃げ込むと、南京市民の多数は日本軍が占領した上海などに避難して出て行った。 そして、南京で戦闘が始まった1937年12月12日の夜には南京の人口は20万人で、しかも、善良な市民は全員が安全区に避難していた。 まずは、南京の人口推移から。 ▽1937年11月〜12月の南京の人口推移▽ 1937年前半「100万人超」 (支那事変勃発前) 1937/11/23日「50万」 「調査によれば本市(南京城区)の現在の人口は約50余万である。将来は、およそ20万と予想される難民のための食料送付が必要である」 南京市政府書簡(南京事件P220 笠原十九司) 11/27「30〜40万」 在留外国人に対して「避難勧告」が出された。 「市民の脱出は続いているが、市長の話では30万から40万の市民がまだ南京に残っているとのこと」 米大使館報告 (アメリカ資料編P90) 12月1日、南京市長が全市民に安全地区に移るように命令 12/6「約20万」 なぜ。金持ちを、約80万という恵まれた市民を逃がしたんだ? (ラーベの日記P96) 12月8日、支那軍司令長官唐生智が非戦闘員は全て安全地区に移るように命令 12月10日「約20万」 なにしろ、この街の運命と20万人の命がかかっているのだ。安全区の道路は、避難する人たちでごったがえしている。(略)残念ながら軍人がまだ大勢、安全区に留まっている。 (ラーベの日記P107) 12月13日「約20万」 言いかえれば、13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが、同区内には流れ弾による極めてわずかの破壊しかなく、中国兵が全面的退却を行った際にもなんら略奪は見られませんでした。(略)もし市内の日本兵の間でただちに秩序が回復されないならば、20万の中国市民の多数に餓死者が出ることは避けられないでしょう。 (安全委員会公文書T-6) ▽陥落直前の南京の人口に関する資料▽ ―――――――――― 安全委員会公文書【20万人の市民】 スティール【10万人の市民】 アベンド【10万人以上】 ダーディン【10万を越す非戦闘員たち+民間人は5万以上】 ラーベ【20万人】 リリー・アベック【15万人】 米ライフ紙【15万人の南京市民】 張群思少佐【非戦闘員10万】 劉啓雄少将【20万】 松井大将【12万余】 ―――――――――― 以上の資料を総合してみると、12月13日、南京陥落時点の南京の人口は、【10万人から最高20万人】の間とみて間違いなく、陥落後の生存人口が約25万人(安全委員会公文書)だから人口は増えた。 ■日本軍が南京を占領してからは、減るどころか逆に増えている。 そして、南京で戦闘が始まる前に、多くの市民が南京を脱出したが、そのうちの多くは日本軍が開放した上海に行っていた。 もう一度、南京の人口推移を長い期間で見てみる。 ▽1937年前半(支那事変以前)〜1938年9月の南京の人口推移▽ 1937年前半 「100万人」 ↓ 11月初旬〜11月23日 「50万人」(支那軍が南京に来て減少) ↓ 11月27日 「30〜40万」 ↓ 12月13日 「20万」 ↓ 1938年1月14日 「25万人」(日本軍が南京を占領し支那軍が南京を去ったため南京の人口が増加に転じる) ↓ 1938年9月23日 「40〜50万人」 ▽1938年9月23日「40〜50万人」の資料▽ 『文藝春秋』P193 第十六巻 第十九號 昭和十三年十一月特別號 (1938年) 従軍通信/上海より廬州まで/瀧井孝作 九月二十三日。晴。南京にて。 午前九時、特務機関に行く。大西大佐より南京施政状況の説明あり。人口は戦前は百萬そのうち二十五萬漢口に行き、二十五萬は上海に在り、五萬は香港に行き、現在は四五十萬どまりなり。
しばらく南京に戻って来なかった人々のうち、漢口に行っていた25万人は支那の政府関係者が多く、上海に行っていた25万人は一般市民だから、やはり市民は日本軍の居る上海に行っていたのだ。
以上、南京戦前に多くの南京市民が日本軍の居る上海などに脱出し、日本軍の南京占領1ヶ月後には南京の人口が増加に転じていたことを述べた。
そもそも日本軍占領後に南京の人口が増えたのだから、虐殺があった筈がないと分かる。 (参考) 人口問題 http://www5b.biglobe.ne.jp/~nankin/page012.html ▽上海などに避難せずに南京に残った南京市民の全員が安全区に避難していたことを証明する資料▽ 南京虐殺は嘘2 人口からの考察2(全員避難) http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-3365.html http://deliciousicecoffee.blog28.fc2.com/blog-entry-4937.htmlより引用
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