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ISILの支配地域に赴く直前の後藤健二さん 〔PHOTO〕gettyimages
「イスラム国」事件における自己責任論と、個人を侵食する全体主義について
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/42018
2015年02月10日(火) 現代ビジネス
文/ 角幡唯介(ノンフィクション作家、探検家)
■日本人拘束事件がもたらした心の騒めき
ISIL(いわゆる「イスラム国」)による日本人拘束事件は、ここ数年のあいだで最も強烈なインパクトを与えられたニュースだった。
個人的な感想になるかもしれないが、一連の報道を通じて私に大きな衝撃を与え続けたのは、一貫して二人の、とりわけ後藤健二さんの目のなかに宿る心情だった。最初に公開された二人がオレンジ色の囚人服のようなものを着せられ、砂漠の荒野に座らされて、隣で黒づくめの男がナイフを振りかざす、あの映像---。
後に判明したところによると、あれは合成だったらしいのだが、しかし、あの映像のなかの後藤健二さんの、カメラのこちら側に向かって激しく訴えかけるような視線に、私は心の奥底を揺さぶられたような思いがした。そしてその後に続くいくつかの写真と、ナイフを首に当てられる直前、観念したかのように目をつぶった最後の表情を見たときは言葉を失った。
いったい彼はどのような気持ちで「イスラム国」の支配地域に侵入することを決断したのか。やはりこうなることをある程度予測して行動を起こしたのだろうか。テロリストたちに拘束され、何ヵ月間も監禁される間、彼は何を思い、どのように過ごしてきたのだろう。そしてまさに自らの死が現実のものとして、しかもそれが斬首という極めて残酷な形態で実現しようとする瞬間、彼は何を思っていたのだろう。後悔したのだろうか。怖くなかったのか。死は織り込み済みだったのか。最後の瞬間に何を念じたのか---。
この事件がわれわれにもたらした心の騒めきは、じつにこうした彼らの心情を、われわれ自身が想像しようとすることによって引き起こされたものだった(そしてその騒めきは「イスラム国」が一連の非道な映像を公開することによってもたらされたものでもあった)。私は今でも彼らが拘束されたときの映像を思い返すたび、吐き気を催したくなるような暗澹たる気分になる。
あの映像を通して想像させられた、命が潰されようとしている瞬間の彼らの極限的な心情に比べると、たとえば安倍晋三のごとき見せかけの勇ましさに自己陶酔するだけの小人物が、後藤さん殺害の報せを聞いてどれだけ顔を紅潮させようが、そこには胡散くささと白々しさしか感じられなかった。
■「公に迷惑をかける人間は死んで当然」なのか
だからだろうか、今回の事件に関しては、2004年のイラク人質事件のときのような激しい「自己責任論」が新聞やテレビなどで表だって論じられることはなかった。だが、ネット上では相も変わらず、後藤さんや湯川さんに対して口さがない罵詈雑言が浴びせられているようだ。
たしかに危険を前提にこうした行動をとる際、自己責任は当然の原則である。行動者は自らが選択した行動の帰結を、自らの責任で完結させなければならない。だが、日本における自己責任論は、「公に迷惑をかける人間は死んで当然」とでもいうような、非常に歪なかたちに変形しており、そこに何ともいえない違和感をおぼえるのだ。
自己責任の問題は、究極的には、個人と国家の関係をどのように捉えるかという視点に収斂される。行動者の原則からすると、今度の事件で二人が殺害されたこと自体は、冷酷なようだが、致し方ない面があった。彼ら自身もそのリスクを承知のうえでシリアに入国した以上、殺害されるという最悪の結果に対して、彼ら自身が抗議できる立場にはないからである。リスクを前提に行動する者は「生きて帰るための自助努力」を怠ってはならず、それは絶対的に貫徹されなければならない行動者のモラルであるといえる。
しかし、あくまでもそれは行動者の側からみた自己責任であり、そのことに国家がどのように関与するかは、まったくの別問題だ。いうまでもなく私たち日本国民には憲法によって渡航の自由が認められており、表現や言論の自由も認められている。一方で近代国家には自国民を保護する義務があり、私たちは自分の生命と財産を守ってくれるという前提があるからこそ、高い税金と引き換えに国家の存在を許容しているのである。そして当然のことながら、「自国民保護の原則」は無制限に適用されなければならない。
例えば自動車事故が起きて運転手が大ケガをした場合、その運転手が素面だったら救助するが、酔っ払っていたら救助しない、などという判断があってはならない。それと同様に、この行為は安全無害だから保護する、この行為は事前にリスクが伴うことがわかっていたのに勝手に決行したのだから自己責任で放っておく、というふうに、国家が国民の行為を選別することがあっては絶対にならないはずだ。
自国民保護に関して、国家が何らかの恣意的な基準を用いて選別することが断固として認められないのは、それが憲法で保護された国民の自由や権利を侵害することに繋がりかねないからである。この問題は少し考えたら誰でも簡単に理解できることだと思う。これは危険で、これは安全などと、公権力が個人の行動の内容を好き勝手に判別する状態がまかり通れば、その判断基準は当然、公権力側に都合のいいように拡大的に適用され、ゆくゆくは言論や表現の自由が認められない中国のような強権的政治体制に発展してしまうことだろう。
民主主義社会を維持しようと思えば、われわれ個人は、自分たちの自由と権利を侵害するような武器を、安易に国家の側に明け渡してはならないのである。
■外交関係を優先して自国民の命を軽視した安倍首相
しかし一方で、このような原則論を声高に叫んでも、なにかとても虚しい気がしてくる。今回のような「自己責任論」が噴出する背景には、そのような表面的な論理とは全く別物の、もっと根深い、日本国民全般の精神から発せられる原因があるような気がするからだ。要するに日本人というのはその心性として、個人が自ら判断して行動を起こすこと、それ自体に対して、徹底して否定的な態度を取る傾向があるような気がするのだ。
仮に今回の事件が、後藤健二という個人ではなく、例えばアンマンの日本大使館員が湯川遥菜さんの情報収集活動をしている最中に拘束されて殺害された事件だったとしたら、同じような非難は巻き起こっただろうか。まず、起こらなかっただろう。
もちろんこの大使館員は職務命令を守った結果、事件に巻きこまれたわけだから、自己責任の原則は適用されないという理屈は、ひとまず成り立つ。しかし逆の見方をするとそれは、公や組織に命じられて事件に巻きこまれたかぎりは非難しないが、個人が判断して行動したことで事件に巻きこまれた場合は非難する、ということを意味してもいる。
つまり後藤さんとこの大使館員の本質的な相違は、判断の主体がどこにあったのかという点に帰せられるわけで、あくまで日本人が非難するかどうかの基準にしているのは、「公によるものか、個人によるものか」という部分に過ぎないのだ。この議論においては活動の中身に対する吟味は完全に置き去りにされている。彼がシリアで何をしようとしていたのか、崇高なことだったのか、ろくでもない目的だったのか、そんなことは関係ないのである。中身はどうあれ、彼が個人の判断で活動していたということに対してバッシングを浴びせているのだ。
個人に厳しく公に甘いという傾向は、今回の事件に対する安倍首相の行動に対する国民感情や、マスコミ各社の批判の弱さを見てもよくわかる。そもそも2月3日の参院予算委員会における岸田文雄外相の答弁によると、政府は昨年12月3日の時点で後藤さんが「イスラム国」に拘束されていた事実を把握していたという。その時点ですでに米国の記者や英国のNGO関係者が残虐な方法で殺害されていたわけだから、政府は「イスラム国」に拘束された二人が非常に危険な状態にあることを認識していたはずだ。
それなのになぜ安倍首相は、あろうことかイスラムの仇敵であるイスラエルで「『イスラム国』がもたらす脅威を少しでも食い止める」などと自己陶酔的に演説し、周辺各国に2億ドルの支援を約束したのだろう。少なくとも、このタイミングで「イスラム国」を敵視するような演説をしたら二人の命が危険に晒されることは当然予見できたはずだ(もし予見できなかったのなら、それは客観的な情勢分析能力の欠如という別の意味で問題は深刻である)。そして実際に「イスラム国」は、この演説を逆手に取り2億ドルの身代金を要求してきたわけだから、どう考えても安倍首相の雄々しい演説と今回の事件との間には明確な因果関係が横たわっているのである。
これはテロに屈するとか屈しないとかそういう話ではなく、安倍晋三という男が「自国民保護の原則」をどのように捉えているかの問題なのだ。要するに彼は米国との外交関係を優先して二人の命を軽視した。少なくともそう非難されても仕方のない失敗だった。である以上、政治は結果責任が原則であるのだから、安倍首相が二人を死に追いやった責任は免れようもなく、本来なら内閣が吹き飛ぶような事態になってもおかしくないはずだ。
ところがどういうわけが、この点に関するマスコミ各社の責任追及は歯ぎしりしたくなるほど緩く、また全体的な国民感情も安倍首相や外務省の判断ミスに非常に寛容なものがあるように感じられるのだ。
■個人の自由や権利を侵害しはじめた安倍政権
公というのは常に個人の自由と権利を侵食しようとする性向がある。そのため個人は常に意識的に緊張感を持ってこれと対峙しなければならない。個人より公を上のものと考える風潮は近年、いよいよ強まっており、今回の「イスラム国」事件における自己責任論のあり方と、安倍政権に対する批判の弱さはその端的な表れであるようにも思える。今のように、個人が自ら進んで自己の自由や権利を放擲し、公に対して追従的になろうとするならば、日本の社会と政治体制は必然的に全体主義的な方向に進まざるをえないだろう。
いや、政治のほうはすでに悪びれもせずにその全体主義的嗜好を露わにしはじめた。それを象徴するようなニュースが、たまたま今日(2月8日)の新聞朝刊に掲載されていた。外務省は7日、シリアへの渡航を計画していたフリーランスのカメラマンに対し、渡航を中止させるために旅券を返納させたと発表したのだ。これは恐るべき挙行といわねばならない。
このカメラマンが言う「現地での取材を自粛することはテロに屈することになる」という意見は、まったくの正論だ。彼らのようなジャーナリストがいなければ「イスラム国」のような特異な政治体制下で抑圧されている人々の困窮は決して伝わらないだろう。そして何よりも、事実を正常に伝えられる社会が維持されることは、自称ナショナリストたちが後生大事に抱える国益などよりも、よほど大きな価値があるのではないか。たとえその行為にどれだけ危険が伴ったとしても、個人がその信条に従って行動するかぎり、国家から不当な干渉を受けるいわれはないはずなのである。
だが、ついに国家は破廉恥にも、「イスラム国」の事件を口実に個人の自由や権利を侵害することを決定したらしい。原則を踏みにじり、ついに個人を呑みこもうとしはじめたのである。
角幡唯介 (かくはた・ゆうすけ)
1976年北海道芦別市生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業、同大探検部OB。02〜03年、長らく謎の川とされてきたチベット、ヤル・ツアンポー川峡谷の未踏査部を単独で探検し、ほぼ全容を解明。03年朝日新聞社入社、08年退社。10年、学生時代の探検を題材に執筆した『空白の五マイル チベット、世界最大のツアンポー峡谷に挑む』で第8回開高健ノンフィクション賞、11年同作品で第42回大宅壮一ノンフィクション賞、第1回梅棹忠夫・山と探検文学賞を受賞。次作『雪男は向こうからやって来た』では12年第31回新田次郎文学賞を受賞。続く『アグルーカの行方』は13年第35回講談社ノンフィクション賞を受賞。13年からは朝日新聞の書評委員を務めるなど、書評も精力的に執筆している。
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