01. 2015年2月06日 09:11:16
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他人の勇気は「自己責任」2015年2月6日(金) 小田嶋 隆 先週に引き続いてシリアで起こった人質殺害事件について書く。
事件自体は、いわゆる「イスラム国」(←以下、単に「ISIL」と表記します)に拘束されていた日本人(湯浅春菜氏と後藤健二氏)のどちらも殺害されるという、非常に痛ましい形で一段落している。 どうしてこういう事件が起こったのかについては、まだわからないことが多い。 というよりも、この種の、常識から隔絶した出来事は、われわれのような平和な世界で暮らす人間には、どう頑張ってみたところで、完全には理解できないものなのかもしれない。 事件勃発後の政府の対応が適切だったのかどうかについても、現時点では判断できない部分が大きい。 なので、このテキストでは、それらの点には触れない。 念のために書いておくが、私は 「事件に関連して政権批判をすることは、結果としてテロリストを利することになる」 という、事件発生以来繰り返し言われているお話には、半分程度しか同意していない。 特に、人質の生命が既に失われてしまった今となっては、政府の態度を批判的に検証する態度が、そのままテロリストを擁護することにはつながらなくなったと考えている。 テロリズムを憎み、彼らの手法を否定し、その考え方を非難攻撃することと、日本政府の交渉術や外交方針を批判的に検証する作業は、十分に両立する。当然だ。現状は、一方を批判することが、必ずもう一方を利することになるという単純なゼロサムの状況ではない。 もうひとつ言っておけば、私は、 「テロリズムが生まれた背景について考えることがテロリストたちを利することになる」 という考え方にも与さない。 「理解」することと「共感」することは、別だ。「支持」や「応援」は、さらにかけ離れている。 ISILがテロリズムという手段を採用するに至った事情を「理解」し、その背景にあるものを「解明」しようとすることは、彼らの手法や思想に「共鳴」することとはまったく別の話だ。 いま起こっていることをあるがままに理解し、これから先にやってくるかもしれない事態に適切に対応するためには、現今の状況を正確に「把握」「分析」しなければならない。 テロリズムに目を向けず、耳を傾けず、ただただ非難と罵倒を繰り返すだけが国民としての正しい態度だというわけではない。 とはいうものの、先ほど申し上げた通り、当稿では政府の対応を論評することはしない。 テロリズムを利することを避けたいからではない。 単に、判断するための材料が乏しいからだ。 この先、政府の交渉を検討するための資料が十分に揃うことがあったら、あるいは何かを言うことになるかもしれないが、私は、その可能性は低いと思っている。 おそらく、最も大切なポイントは特定秘密に指定されるのであろうし、そうでない部分の話についても、私のような者がそのまま受けとめられるようなわかりやすい形で提供されることはないはずだ。 当欄では、例によって周辺の話をする。 政府がどうしたということよりも、われわれ一般人が今回のニュースをどのように受けとめたのかについて考えることの方が、この先で似たことが起こった時のためには有意義だと考えるからだ。 2月4日の午前、自民党の高村正彦副総裁は、後藤健二さんについて、以下のように語った。 「日本政府の警告にもかかわらずテロリストの支配地域に入ったことは、どんなに使命感があったとしても、勇気ではなく、蛮勇と言わざるを得ない」 さらに、高村氏は「亡くなった方をむち打つためではない」と断った上で「遺志を継いで後に続く人たちが細心の注意を払って、蛮勇にならない行動をしていただきたい」と説明し、「後藤さんは『自己責任だ』と述べているが、個人で責任を取り得ないこともあり得るということは肝に銘じていただきたい」と指摘した(ソースはこちら)。 副総裁と同じ感想を抱いている人はたくさんいると思う。 実際、ネット上には、同種の書き込みがあふれている。 より直截で残酷なコメントが渦巻いてもいる。 そういう意味からすれば、高村氏のコメントは特段に異様な心情を物語るものではない。 ただ、政権与党の副総裁という立場にある人間が記者団に向けて語る公式の発言として受けとめると、高村氏の発言は、不適切だったと判断せざるを得ない。 個人的には、無神経な言葉だったと思っている。 なぜなら、政府を代表する人間が、国民の生命を守る仕事を語るにあたって、相手(つまり「救助の対象」となる国民)の資質や心構えに言及することは、聴く者に、不要な誤解を与えると思うからだ。 どういう誤解を与えるのかというと、 「国は、立派な人間の生命は救うけれども、立派でない人間の生命についてはその限りではない」 と言っているように聞こえるということだ。 私のこの読み取り方が、邪推曲解歪曲誤読を含んだ過剰反応である点は自覚している。 ただ、「聞きようによってはそういうふうに聞こえる」というのは、公的なメッセージを発する立場の者が必ずおさえておかなければいけないポイントではあるわけで、権力の中枢に近い場所にいる人間は、国民に向けて何かを語るに際して極力脅迫的に響かないように心がけなければならないはずなのだ。 そういう視点から評価すると、亡くなった人の行動を「蛮勇」という言葉で論評する態度は「論外」ということになる。 公の人間である与党の副総裁は、こういう場合、哀悼の意を述べる以上の言及は控えるべきだった。 建前論を言うなら、自国民が生命の危険に晒されている場合、政府は、全力をあげて救助に向けて努力しなければならない。 政府がそうしなかったと言っているのではない。 ただ、政府に近い立場の人間が、結果として助けられなかった人間に対して、批判めいた言葉(「蛮勇」とか)を発してしまうと、政府の「誠意」(ないしは「全力」)が疑われることになる。 それは、大変に望ましくないことだ。 われわれ一般人が私的な場所で、「勇気ある人間」を称揚し「蛮勇に走った人間」を貶める発言をすることは、これは仕方のないことだ。 実際、高村さんの発言は、ネット上や党内に、その種の声(後藤さんの「蛮勇」を戒める声)があふれていることを受けた反応だったのだと思う。 つまり彼としては、「国民の多数派の声を代弁した」ぐらいの気持ちだったわけだ。 実際、高村さんのコメントは、多くの国民の率直な感想とそんなにかけ離れていないのかもしれない。 でも、だとしても、人の上に立つ人間がこういう「本音」を言ってしまうことは、よろしくない。 この種のいわゆる「自己責任論」への違和感については、2013年の6月に当欄に書いたテキストの後半部分で、既に述べている。 この中で、私は、「人命救助が市場原理で評価されている」点について、違和感を表明しているわけだが、より根本的には、私が以前から抱いている違和感は、「人命」や「基本的人権」のような、民主主義社会の根幹を支えていることになっているかけがえのない「建前」に対して、あけすけな「本音」(←「死ねよ」とか「税金の無駄だろw」とか「ざまあ」とか)がぶつけられている現状に向けられたものだ。 このこと(露悪的な「本音」の増殖)は、インターネットが普及して、人々が大量の「他人の本音」に触れる機会を持ったことと無縁ではない。 昭和の時代まで、人々の内なる声は、基本的に、それぞれの胸のうちに秘められていた。 「本音」は、ごく例外的に、ごく限られたごく親しい人間同士の間で、ひそかに交換され、非公式な形であくまでもノイズとして処理されていた。 それら、深夜のスナックや、放課後の教室や、部室の暗がりでやりとりされていた「本音」は、禁じられているからこそ笑いを生み、許されていないからこそ親しい仲間をつなぐ絆になってもいたわけで、つまるところ、「本音」は、陰の存在だった。 ところが、ネット社会の出現によって、そうした露悪的で扇情的な「本音」が万人に向けて公開される場が確保されてみると、それらの膨大な量の「本音」は、「これまでおもてだって語られていなかっただけで、本当は誰もが心のうちにあたためていた言葉」であることを認められ、匿名のネット市民の間の共有財産として、無視できない影響力を発揮するようになる。かくして、「本音」は、「いけ好かない偽善者どもの眉をひそめさせる痛快至極な真実」として、確固たる市民権を獲得するに至る。 なさけない展開ではある。 が、好むと好まざるとにかかわらず、世界は本音化し、われわれは、露悪化しつつある。 ネット上に集まる匿名の市民の中には、クソコラ(ISILがネット上に放流した人質画像や処刑画像を面白おかしく加工修正して再放流したりする不謹慎な画像編集遊戯の総称)を面白がったり、テロリストの偽アカウントを作ったりするおよそ手に負えない連中が含まれているわけだが、そうやってふざけていたり悪意を煽っていたりするのは、実のところ、私たち自身の分身でもある。 つまり、われわれの住んでいるこの市民社会は、ネットに限らず、残酷にふるまったり、悪ぶったり悪ふざけをしたりする人々を含みおいた上で動いている。このこと自体は、もはやどうすることもできない。 いや、「高齢者が冬山で遭難しました」といった感じのニュース画面に向けて、 「じじいなんか助ける必要ないぞ」 「天寿をまっとうさせてやれ」 「セルフ楢山節考で結構な話じゃないか」 みたいな言葉を浴びせるタイプの人間は昭和の時代にもいた。 こういう人間は、人類発祥以来、常に一定数存在していた。 さらに言えば、そういう人間は永遠に不滅でもある。 しかしながら、その種の不謹慎なブラックジョークが、真実の言葉として数万の「いいね」を獲得するようになったのは、21世紀にはいってからの話だ。つまり私が心配しているのは、「クソコラ」や「晒し」や「集団罵倒」や「露悪チキンレース」のような、本来ならネット上に限られていたはずの悪ふざけが、現実社会に影響を及ぼしはじめていることなのである。 前半で紹介した高村副総理のコメントは、ネット社会の露悪が現実社会に影響を及ぼしていることの典型例と言える。 昭和の政治家であれば、犯罪被害者に苦言を呈するような発言は、仮に心の中でそう思っていたのだとしても(思っていたに決まっているわけだが)公的な場所にいる人間の本能として、決して口外しなかったはずだ。 それが、高村さんは、 「これは、みんなが思っていることだから」 「ほとんどの支持者が内心では賛成してくれるはずの言葉だから」 ぐらいな気持ちで、うかうかとああいう言葉を漏らしてしまっている。 空恐ろしいことだ。 ほかにもこの事件に関しては、さる高名なタレントさんが、「不謹慎ではありますが」と断った上で、「人質」に対して「自決してほしい」と公言(←自分のブログに書いたわけですが)した例があった。これなども、不適切な「本音」が市民権を得ている現状を反映した出来事だと思う。 このタレントさんは、「不謹慎ではありますが」と断っておけば、不謹慎な言葉を書いてもかまわないと判断していたことになる。なんという軽率さだろうか。 ネットの普及によって、なにかにつけて「炎上」が起こりやすくなっている半面、一方では「炎上」自体が日常化してしまってもいるわけで、もしかすると、不謹慎にふるまうことのリスクそのものは、実のところ低下しているのかもしれない。 でもって、 「死ぬことがわかり切っている老人の延命治療に国民の血税を使うよりは、働ける人間への医療にカネを使うべきだ」 みたいな「本音」を堂々と語る人間が増えている。しかも、この種の「本音」が意外なほど巨大な賛同を得ている。 そういうふうに、われわれは、他人に対して残酷であることを隠さなくなってきている。 私がいつも不気味に感じるのは、その種のブラックジョークの背景に、 「世の中の役に立たない老人や障害者や貧乏人や弱者や不心得者や蛮勇冒険者は、淘汰された方がお国のためになる」 「働けなくなった人間は死んだ方が良い」 「公的な仕事や大義のために命を捨てようとしている人間は救助に値するけど、私的な欲望や個人的な好奇心のために命を粗末にしている人間はどんどん死んでくれてかまわない」 といった感じの社会的ダーウィニズムに似た優生思想が介在していることだ。 残酷で不謹慎な発言をカマしている人々は、一面、頑強なモラリストであったりする。 で、その彼らの奉じている「モラル」はといえば、「お国」や「公」や「社会の進歩」や「効率」を絶対善とし、「私(わたくし)」や「個人」や「自由」や「人権」を混乱要因として排除しにかかる封建日本由来の圧政思想だったりするわけなのだ。 とりとめのない話になってしまった。 最後に、高村さんの言葉に個人的な反論をしておくことにする。 勇気は、必ず一定量の蛮勇を含んでいる。 そういう意味で、蛮勇だから勇気ではないという言い方は不当だと思う。 お国が、国民よ臆病者たれというのなら話を聞かないでもないが、蛮勇を排して勇気を持てという言い方には、耳を傾ける気持ちになれない。 その言葉は、私の耳には 「国のために死ぬのが勇気で、自分のために死ぬのは蛮勇だ」 というふうに聞こえる。 私は、自分のために死ぬ所存だ。 (文・イラスト/小田嶋 隆) 『地雷を踏む勇気』は 某社から絶賛発売中です 『場末の文体論』 本コラムから4冊目となる単行本がついに発売されました。今回は小田嶋さんが自分のルーツを語るコラムを収録。帯に中学時代のオダジマが感銘を受けたというトルコのことわざ「明日できることを今日するな」を入れたところ、この本に関わる皆さんが次々に締め切りを忘れてしまったという……。無事間に合ってよかったです(うれし泣)。【書籍担当編集者T】
このコラムについて 小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 〜世間に転がる意味不明 「ピース・オブ・ケイク(a piece of cake)」は、英語のイディオムで、「ケーキの一片」、転じて「たやすいこと」「取るに足らない出来事」「チョロい仕事」ぐらいを意味している(らしい)。当欄は、世間に転がっている言葉を拾い上げて、かぶりつく試みだ。ケーキを食べるみたいに無思慮に、だ。で、咀嚼嚥下消化排泄のうえ栄養になれば上出来、食中毒で倒れるのも、まあ人生の勉強、と、基本的には前のめりの姿勢で臨む所存です。よろしくお願いします。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20150205/277195/?ST=print
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