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2015年01月20日 板垣 英憲(いたがき えいけん)「マスコミに出ない政治経済の裏話」
◆民主党の「笑わん殿下」岡田克也代表は、幹事長など党役員人事に着手し、枝野幸男幹事長を留任させ、細野豪志元幹事長を政策調査会長に抜擢することを決めた。岡田克也代表選出に貢献した枝野幸男幹事長に対する論功行賞である。今回の代表選挙は、民主党を政権政党から野党に転落させたいわゆる「戦犯6人組」(岡田克也元副総理、玄葉光一郎元外相、野田佳彦前首相、前原誠司元代表、枝野幸男元経済産業相、安住淳元財務相)のうち、前原誠司元代表が、細野豪志元幹事長を支持した以外、全員が岡田克也代表を支持した。
代表選挙に出馬した岡田克也代表は1953年7月14日生まれ61歳、長妻昭元厚労相は1960年6月14日生まれ54歳、細野豪志元幹事長は1971年8月21日生まれ43歳。「老・壮・青」3世代の戦いだった。その結果、「老・青」のうち「老」が「壮」を引き込み連合して、勝利を得た。だが「老・壮」連合が、辛うじて僅差で「青」を制することができた形だ。それだけにエネルギッシュな細野豪志元幹事長を軽んじることはできない。それどころか、「老・壮」連合が数年も経てば、「老害視」される危険性は大である。
◆岡田克也代表は、決選投票に臨む演説で「原理主義者とニックネームをつけられてきたので、私自身が変わらなければならない」と反省の弁を述べていた。だが、いかに「蛙好き」ではあっても「原理主義者・純化路線・自主再建論社・政策本位主義者」という基本的な性格を一気に変えるのは、難しい。しかも、岡田克也代表には、「理想の旗」がない。「自由・平等・博愛(友愛)」で言えば、「自由」は「自由民主党」、「平等」は「社会民主党」、「博愛(友愛)」は、「博愛(友愛)民主党」を顕現しなければならないのに、いまの民主党は、「博愛(友愛)」を顕現せず、曖昧模糊とした政党になっている。フリーメーソン・イルミナティが「民主党」をつくらせたという裏の経緯から見れば、「アイデンティティ(自己同一性)」が欠落している。しかも、「友愛精神」を掲げてきた創業者の鳩山由紀夫元首相を排除してきたので、大事な「魂」を抜かれた「虚ろな政党」に堕している。このままでは、民主党の再生は、絶望的である。
◆最もガッカリさせられたのは、岡田克也代表が、就任の記者会見後、会場となったホテル内の書店に真っ先に飛び込み、国会議員の経歴や当選回数などを簡潔にまとめた「政官要覧」を買っていたということだ。読売新聞が1月19日付け朝刊「3面(総合面)」で報じていた。「いまごろになって」という感がある。それは、「選挙の神様」と言われた田中角栄元首相のエピソードを思い浮かべて、比較したからである。岡田克也代表は自民党時代、当初、田中角栄元首相が率いた派閥「木曜クラブ」の流れを汲む「経世会」(竹下登派)に所属していた。「小沢一郎という男の野望」(板垣英憲著、大陸書房刊、1992年8月15日)の「第三章 受け継がれた政治家の血」―「田中角栄、政治的"父=vのなかで、以下のように記述している。
昭和四十四年四月、小沢は、当時、自民党幹事長だった田中に面会を求めて、一人で挨拶に行った。田中は、笑顔を浮かべながら、迎えてくれた。そのうえ、
「選挙に勝つには、辻々で説法し、一人で三万軒を回る覚悟が必要だ。選挙区内の神社の石段が何段あるかも知っているくらいでないといけない。いいか、思い切ってやれ、必ず応援する」
と言って、力強い励ましの言葉を与えてくれたのである。田中流の選挙は、辻説法にはじまって辻説法に終わると説かれているほど、徹底した戸別訪問を原則としている。足に血豆ができ、それがつぶれても歩き続けるのだ。
小沢は、田中に巡り会ったとき、ドブ板選挙のコツを教えられた。田中は、小沢が挨拶にきたとき、すでに数千人の支持者を集めているという情報を入手していた。
二世であるから、親の財産のような支持者がたくさんいて当然である。しかし、小沢は同級生や知人、友人に積極的に声をかけて、支持者を糾合しつつあったのだ。
いまでも語り草になっているが、田中は、一日に二回就寝したと言われている。午後九時に一度寝て、午前零時に起き、その日にあったことを秘書から報告を受けた。その後で、午前二時から三時まで読書にふけった。愛読書の一つは、国会便覧だった。選挙区を一つ一つ丹念に見ながら、衆参両院の国会議貝についての情報を暗記した。派閥などの人脈や当選回数、得票数などを覚えたのである。
このほか、役人に関する情報についても、熱心にインプットした。入省年次や経歴、閨閥などに至るまで、鉛筆をなめなめ、大事と思うものに線を引く。赤ペンで○×をつけて記憶にとどめた。それから寝る。
朝は、六時に起きて、陳情団に対応した。こうしたことは、幹事長時代から習慣になっていたという。全国の選挙区の情報は、自派の勢力拡大の強力な武器になった。公認権を発揮する際の匙加減、カネの配り方、権限の行使に当たって、田中は、これらをフルに利用した。
この手法は、昭和四十七年七月五日の自民党大会における総裁選挙の決戦投票での多数派工作に当たっても、威力を発揮している。そればかりでなく、首相になって官邸入りしてからは、各省庁の官僚たちをコントロールするのに大いに役立った。首相が自分の入省年次まで記憶しているのを知って、大抵の官僚たちが、感服させられたという。
田中は、門下生の小沢が衆議院議員に当選したばかりのころ、
「一郎よ、政党人でやるなら、総理総裁を目指す前に幹事長を狙え」
と口癖のように言って教えた。師匠の薫陶を受けて、小沢は、「オヤジの言うように、オレも幹事長になるぞ」
と素直に心に決め、師匠の教えに従って、着実に天下盗りの道を歩みはじめた。田中は、小沢をわが子のように可愛がった。あふれるような愛情を注いだ。
田中は、長男・正法をわずか三歳で亡くしている。長男は、小沢と同じ年であり、小沢の顔を見るたびに、田中は、長男を重ね合わせて見ているようだった。
田中の気持ちを察した小沢は、田中に対して実の親と同じような感覚で仕えた。田中は自分の持っている政治のノウハウを惜しみなく伝授しようとした。小沢にとって田中は、親であり、政治の師匠という二つの側面を持っていた。
小沢は、田中にとって、良い子供として、田中の期待に応えて模範的な政治家になろうと努力した。
事実、小沢は、蔵相や外相という重要閣僚こそ歴任はしていないものの、自治相や内閣官房長官を務めて、幹事長就任という目標を達成している。
幹事長になる政治家は、派閥間の力のバランス上のやむを得ない異例人事を除いて、通常の場合は、所属する派閥の領袖か、もしくは、派閥の有力後継者として同志から認知された人物であることを意味する。
すなわち、上に領袖が元気であるとき、幹事長に抜擢された政治家は、この派閥を継ぐ長男坊主になったことなのである。親分の次に偉い後継者としてツバをつけたのだ。それは、派閥の内部ばかりでなく、外部を含めて衆目の一致するところでもある。
竹下政権のとき、小渕恵三幹事長が内閣官房長官、五歳年下の小沢が、内閣官房副長官という配置だった。
それが、海部政権になって、小沢が、幹事長になり、小渕を飛び越えて上位に立ち、逆転した。現在は、竹下派の会長代行の座にあり、文字通り長男としての地位を認められている。
今日の小沢の姿は、実は、小沢が衆議院議員に当選して自分の懐に入ってきたときから、田中が夢に描いていたことなのである。
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