http://www.asyura2.com/15/senkyo178/msg/152.html
Tweet |
チャイナマネー?
在日キリスト教団と中国のコラボレーション?
反天連と在日キリスト教団は一心同体なんでしょうか?
参政権もいいですが、在日が渡来した本当の理由を見てからにして欲しい
(→生野の街と在日朝鮮人
生野区聖和社会館館長(当時) 金徳煥
http://zenchokyo.web.fc2.com/150kim.htm)
★外国人の地方参政権についてーこれは外国人への権利の付与の問題なのか
(「靖国・天皇制問題情報センター通信」91号に掲載原稿)
http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page_192.htm
「新しい川崎をつくる市民の会」
事務局長 崔 勝久(チェ・スング)
初めに
今年になって、民主党の責任者は、外国人の地方参政権の法案を通常国会に政府案として提出することを内外に公にしました(朝日新聞1月12日)。しかし議員立法にすべきだと担当大臣が談話を発表しており(朝日1月15日)、どうなるか未定です。この10年間、公明党を中心にして野党が公約してきたことなのですが決して日の目を見ることはありませんでした。誰もその法案が通過するとは思ってもいなかったのです。民主党政権が実現され、ようやく、外国人の地方参政権が実際のものになる可能性が出てきました。
韓国政府及び民団はこの法案の通過を求めて、衆議員選挙の候補者に参政権に賛成するかどうかを問い、賛成者には選挙協力をしてきたようです。韓国政府と民団の働きは少なからず、民主党の勝利に寄与したことは間違いないと思われます。これまで公明党がもっとも熱心であったのは、創価学会会員に「在日」信者が多く、「在日」に選挙権を与えることが即、公明党の票に直結する読みがあったようなのですが、さすがに小沢一郎はそのような露骨なことは言いません。しかし民主党の幹事長で、党内の最大の実力者が、今年「韓国併合」100年になることを意識しているのか、良好な日韓関係を謳いながら韓国国内で参政権の法案化を公言したのですから、今回ばかりは、韓国人は参政権の実現を信じたことでしょう。
しかしながら、同じ与党の国民新党の亀井党首は反対を表明し、民主党内にも参政権に反対の声をあげる人は実力者の中でも多く、その数は議員の3分の1に及ぶとも言われています。公明党と共産党は賛成のようですが、国民新党が法案反対の立場から与党から降る覚悟をするのか、民主党内の反対派が党を割ってでていくのか、政界の再編が今の時点で、参政権評価をめぐって行われるのか、その可能性は低いと思われます。しかしなにせ、ナショナリズムによって彼らなりの愛国心の発露として反対しているのですから、必ずしも理性的な対応をするとは限らないかも知れません。また、小沢幹事長の旧態たる「おかねの問題」で民主党は窮地に立たされ、法案化にまで影響がでる可能性もあります。
以上はマスコミを通して流された情報です。櫻井よしこをはじめとして、右翼的な論者は、マスコミを含めて圧倒的に外国人の参政権には反対です(「国家基本問題研究所」http://jinf.jp/)。外国人への参政権付与に反対して、帰化条件を緩和することを対案とする動きもあります。「在日の特権を許さない会」(「在特会」http://www.zaitokukai.com/)という、市民運動を標榜する右翼団体は反対の街頭行進を予定し、実力行使も辞さない構えです。
しかしながら私は、外国人への参政権の付与の問題がこのようなジャーナリスティックな次元での論議に終始し、この法案が北朝鮮を念頭に置いて「国交がない」という理由で韓国国籍を持たない「在日」を排除していることが問題になっていないこと、そもそもその排除に北朝鮮への制裁の意味をもたせようとしていること、及び、最も根本的には、日本の戦後処理の問題として、植民地支配の清算ということと本気で取り組んでこなかったことが全く等閑視されていることに大きな不安を覚えるのです。
反対の論者の主張の根にあるのは、明確にナショナリズムです。国民国家の原則をかざし、その原則から憲法論を持ち出して外国人排除を正当化します。しかし思想としては、日本の国民国家論は天皇制と結びつき、理性よりも心情に訴えます。そもそも戦前と戦後に断絶があったのでしょうか。少なくとも憲法の制定過程から見えてくることは、戦前との連続であり、国民主権を謳うものの天皇を国民統合の象徴に押し上げ、天皇制に対抗する概念であったはずの国民主権が、日本の場合は国民と天皇が一体であることが強調されて、国民主権論は外国人排斥に向かうのです(古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)。そこでは植民地支配の清算の論議が起こるはずもなく、現在に至っています。このような観点から、外国人の地方参政権の問題とは何か、それは日本社会のあり方を問うものであるのに、外国人への権利の付与の是非という次元でしか語られていない現状に対する危機意識をもち、私はこの小論を書きたいと考えています。
何冊かの参政権に関する本と論文を読みましたが、私は近藤敦の『Q&A外国人参政権問題の基礎知識』が一番簡潔に書かれていると思います。ただし、この本の出版時にはまだ北朝鮮の排除の法案内容でなかったので、その点だけは留意する必要があります(http://www.dpj.or.jp/news/?num=10952)。近藤さんのQ&Aに沿って、その意見を紹介しながら、私の意見を添えてもう少し広範囲に議論を展開していきたいと思います。
(1) 最高裁は、永住外国人の地方参政権を認めているのですか?
参政権に反対するHPは随分と多く、「在特会」を始め、「外国人参政権に反対する会・公式サイト」(http://www.geocities.jp/sanseiken_hantai/)があり、それだけを読めば、憲法論の展開があり、気をつけないと妙な説得力があります。近藤さんの本としっかりと読み比べ自分で考えることをしないと相手の国民国家論、ナショナリズムに巻き込まれます。
だから「在特会」が怖いのは、多くの人は、あんな極端な右翼は嫌いと言うでしょうが、彼らの、憲法論を展開しながら国を憂う国民国家論は、多くの人の心にストンと落ち込む可能性があるからなのです。しかし幸いなことに今のところは、朝日の世論調査では6割の人が参政権に賛成のようです(http://anti-kyosei.blogspot.com/)。
@ 最高裁判決の傍論と本論
ここでまず近藤さんは、第一のこの質問から説き始めます。
反対論者は、最高裁の判決で外国人の参政権の可能性に言及した部分は傍論であり、本論では参政権を否定していると言います。1995年の最高裁判決は、本論において、「我が国に在留する外国人に対して、地方公共団体の長、その議会の議員等の選挙の権利を保障したものということはできない」とあり、傍論では補足で、永住権者等に、「法律を持って、地方公共団体の長、その議会の議員等に対する選挙権を付与する措置を講じることは、憲法上禁止されているものではないと解するのが相当である。しかしながら、右のような措置を講ずるか否かは、専ら国の立法政策にかかわる事柄であって、このような措置を講じないからといって違憲の問題を生じるものではない」と記しています(最判1995年2月28日民集49巻2号164頁)。
A 憲法解釈の「許容論」について
憲法解釈には、「要請」「許容」「禁止」の3通りがあるのですが、「禁止」は文字通り憲法が禁じているということ、「要請」は憲法が要請している、即ち認めているということであり、「許容」はそのどちらでも違憲ではないということになるのです。この「許容」説を今回の問題に則して言えば、国会が永住者に参政権を認めても認めなくとも、そのどちらも違憲ではないということになります。それは国会が立法政策の判断をすればよく、そのどちらの判断でも違憲ではなく、合憲である、ということなのです。
鄭香均の東京都を訴えた最高裁判決では、東京都が国籍を理由に外国人に管理職試験を受けさせなかったことは違法ではない(=他の自治体が受けさせる判断をしてもそれはそれで違法ではないということでもあるのですが)ということになりました。その傍論では彼女の主張に一定の評価をする意見もありました。しかしこの参政権の場合、訴えた個人の権利を否認する結論を出しながら、傍論においては立法改革の必要性、可能性を国会に示す判決は、制度改革を目的とした訴訟では他にも例があるそうです。だから傍論だから拘束力をもたないというような乱暴な主張は、正当ではないということなのでしょう(1992年の台湾住民元日本兵戦死者の損失補償請求事件など)。
参政権反対論者は、最高裁判決の本文で、「付与することは許されない」とあるので、憲法上、外国人への参政権は禁止されていると誤読しているのです。これは「許容」説という憲法学説からすれば矛盾した判決ではなく、むしろこれまでの消極的な判決からすれば、まあよくやったというのが近藤さんの意見です。私もそう思います。だから、今回の政府案としてだされる外国人の地方参政権法案は、決して違憲ではなく、憲法上の解釈においても問題はないということを確認しましょう。
(2) 参政権は国民固有の権利だから、外国人には認められないのではないですか?
憲法15条は、「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である」と定めています。しかしこれは、選挙権を国民「のみ」が「専有」するという意味の文言と解釈することは誤りだというのが近藤さんの主張です。勿論、それに反対する研究者もたくさんいます。長尾一紘『外国人の参政権』(世界思想社)は、むしろそのまま国民だけの権利と読みます。
「国民固有の権利」とは、かつての天皇大権のように官吏の任命権の根拠が天皇にあるのでなく、国民から官吏の任命権を奪ってはならない、国民が譲り渡すことのできない権利というのが本来の意味であって、決して外国人の選挙権を禁止するものではないという立場に、近藤さんは立ちます。
@ 憲法から外国人の人権を排除したトリック
古関彰一『日本国憲法の誕生』(岩波現代文庫)の276−278頁にあるのですが、憲法制定の過程で、日本の官吏がどのような細工をして外国人の権利を排除していったのかという歴史的経緯を見てみましょう。古関さんは憲法制定時の研究では日本の第一人者ですが、彼は、憲法10条の「日本国民の要件」(「日本国民たる要件は、法律でこれを定める」)の背景を明らかにします。これは明治憲法18条そのまま(「臣民」が「国民」になっただけ)で、どうしてこの10条が挿入されたのかを問題にします。この10条の「法律」とは、昭和25年の「国籍法」を意味し、これで「日本国民」とは日本国籍所有者であると規定されたのです。このことによって、憲法で保障される「基本的人権」が外国人には適応されないということになりました。
日本政府はGHQに対して、Japanese peopleとは日本国籍所有者とは説明してこず、GHQはJapanese peopleの中に植民地下で「日本人」であった台湾人・朝鮮人も含まれると理解していたようです。しかし憲法制定に携わっていた官吏は10条においてのみ、憲法の英文をJapanese peopleからJapanese national(日本国籍所有者)に代えました(The conditions necessary for being a Japanese national shall be determined by law)。この英訳はそのまま日本国憲法の公式英訳文となっています。日本の官僚はJapanese peopleとJapanese nationalを同じ「日本国民」と翻訳していたので、10条の「日本国民」をJapanese nationalにしたことで、10条以外のJapanese peopleの「日本国民」を全て日本国籍所有者として規定するというトリッキーな措置をしたのです。彼らは憲法制定の最初から、植民地化にあった朝鮮人・台湾人の人権を日本人と同じように擁護すべきとは考えていなかったことになります。
この意図的な措置は「当然の法理」につながっていきます。「当然の法理」というのは、「公権力の行使又は公の意思形成への参画にたずさわる公務員になるためには日本国籍を必要とする」という内閣法務局の見解です。この見解によって、日本国籍者であった朝鮮人・台湾人の官吏は平和条約以後、公務員であり続けるには帰化することを迫られたはずです。「当然の法理」は、戦後の日本国家においては、外国人を締め出し人権の制限をする
排外主義イデオロギーの象徴と見ることができます。文字通り、「当然の法理」は日本人にとっては当然のこととされ、鄭香均が、東京都の外国籍公務員の管理職試験受験拒否を理由に提訴するまでは大きく社会問題になることはありませんでした。
A 当然の法理について
この「当然の法理」に反旗を翻したのが鄭香均です。地方公務員法に国籍条項がないにも拘わらず、外国人が公務員になることなど誰も考えたこともなく、大企業への就職も「在日」には閉ざされていました。朴鐘碩という「在日」2世が日立就職差別裁判闘争で勝利したことで、国籍による差別(解雇)は認められないという判決が判例となって、それ以降、一般の民間企業は(原則として)門戸を開き、弁護士資格を求めた金敬得の闘いに続き、地方公務員に挑戦する「在日」も出てきました。鄭香均は東京都職員の外国人職員第1号です。しかし10年後、課長昇進試験を受けようとした彼女に、募集要項には何ら記載がなかったにも拘わらず、外国人には管理職試験は受けさせられない、それは「当然の法理」だというのです。彼女は東京都を相手に提訴しました。
最高裁の判決では、彼女に昇進試験を受験させなかった東京都は違法ではないということになりました。しかしでは、「当然の法理」に反して(或いは新たな解釈で)、管理職や「公権力の行使」に関わる職務に就かせることは違法かというと、それは各自治体が決めることという判断を示したことになります。私たちが、全国で最も早く外国人への「門戸の開放」を実現しながら、採用した外国籍職員の昇進を認めず、189もの職務の限定をした「川崎方式」に対して、「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」をつくり、12年にわたり交渉を続けているのも、「当然の法理」に対する闘いであり、大きくは、外国人の政治参加の実現を目指したものです(「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index.html)。
私たちの川崎での運動は、外国人の地方参政権が認められたら論理的には確実に進展すると思います。近藤さんは、『外国人の人権と市民権』(明石書店)で公務就任権と参政権の関係について述べています。「永住者等に地方の長や議会の選挙権を付与すること(すなわち住民自治ないし地方公共団体の意思の形成への参画)は、憲法上禁止されていない」という最高裁判決があり、それが立法化されれば、外国人の選挙権は「公の意思形成への参画」になり、その同じ理由で外国籍公務員が管理職に就くことを拒むことはできない、ということになるはずです。
B 日本学術学会の外国人学者排除の理由
この「当然の法理」は国民国家の本質と関係すると私は理解しています。国民国家の成り立ちからして、またそもそもギリシャの都市国家においても、女と外国人はその成員から排除されていました。日本学術会議という、著名な日本の学者の集まりがあるのですが、このメンバーに外国人学者が選ばれることはありません。学術会議の事務局は、それは「当然の法理」と言います。学術会議の会員になると特別職の国家公務員になり、会員は内閣に日本の学界のあり方を答申するので、それは「公の意思形成」に関わることになり、外国人を会員にすることはできないという論理です(「日本学術会議事務局からの最終回答」http://anti-kyosei.blogspot.com/2009/06/blog-post_09.html)。しかし上野千鶴子が強調するように、日本の学術学会は外国人学者の貢献なくしてなりたつものではありません。事務局は、外国人の「特別会員」という別枠を作ることでこの問題を解決しようとしていますが、それで解決するのか、良心的な会員は頭の痛いところですね。
C 日本国民「固有の権利」は、外国人を排除するものではない
もう一度、「国民固有の権利」の「固有」に戻りましょう。「固有」は公式英訳では、inalienableという単語で、「<権利>など譲渡できない、奪うことができない」という意味です。従って、憲法の「固有の権利」とは、「国民から奪うことのできない権利」のことであり、国民「のみ」に限定する意味は含んでいないというのが、近藤さんの主張です。「国民が選挙権を譲り渡さなければ、(外国人)永住者に地方参政権を認めても、憲法15条の言葉の意味に反するわけはない」ということになるのです。
政府の憲法解釈を代表する内閣法制局の長官になった高辻正己は、「公権力の行使」と「公の意思形成への参画」は日本国籍者に限るとした「当然の法理」を打ち出したことで有名ですが、彼は、憲法15条の「固有の権利」とは日本国民だけが「専有」する権利ではなく、「奪うべからざる権利」の意味に解するのが正しいとしています(昭和28年3月25日法制局1発第29号)。
しかし参政権反対で有名な学者の百地章は、「固有の権利」とは「譲り渡すことのできない権利」としながら、だから、参政権を外国人に「譲り渡し」てはいけないというのですが、これは近藤さんが指摘するように、「譲り渡す」「譲渡」とは相手に権利が移転し自分のものがなくなることを言うのであって、外国人の参政権は、「国民から権利を譲り渡すものでも、奪われるものでもありません」という主張が正しいと思われます。
「憲法15条の文言のみを根拠に永住者の地方参政権を憲法違反とする議論は、今日ほとんど支持者を失っている」と近藤さんは述べますが、これは学者の世界の話であって、日本の政治は日本人だけが担うべきであるという考え方は、一般には未だに大きな影響力をもっているので、私たちは正確に憲法の背景と、外国人の参政権付与は合憲であるということを理解する必要があります。
(3) 特別永住者に対象を限定するべきではないでしょうか?
近藤さんの意見は、在日朝鮮人が日本に住むようになった歴史的な経過を十分に理解しながらも、特定の出身国者だけに限定するのでなく、一般永住権をもつ他の外国人(=定住外国人)にも参政権を与えるべきだというものです。そうだと思います。
近藤さんを批判する長尾一紘もまた、海外の動向(特にドイツ)に詳しいようで、ドイツの憲法解釈の説明から日本の状況を考えてみるというスタイルです(長尾一紘『外国人の参政権』(世界思想社))。氏は、今後の日本は「在日」ではなく、圧倒的に他のアジア諸国の者が主流になると断定し、しかもそのような外国人が多くなることは他国の動向から不可避であり、「外国人の参政権の問題は、日本国民固有の問題でもあり、日本の将来に決定的影響を与えうる重要な政治的・社会的問題である」という見解を表明しています。それはそうですね。しかし氏は憲法論から参政権問題を論じながら、自身は触れることはないのですが政策論の重要性に言及します。私の意見としては、では長尾さんは、日本の植民地支配の清算というものを、憲法論を離れて、どのように考えているのか、お聞きしたいと強く思います。
@ 北朝鮮排除の問題点―「国交のない国」という理由について
今回の法案について政府からは、どうして国交のない国(北朝鮮と台湾を念頭におくものの、台湾は実質的に国交のある国に該当すると解釈して北朝鮮だけ)を排除するのかの説明はありません。朝日新聞は若干疑問を呈していますが、それでも曖昧で中途半端な主張でした。2009年11月23日の社説(「外国人選挙権―まちづくりを共に担う」)は、「永住外国人に対する地方参政権付与を擁護しつつ、「外国人が大挙して選挙権を使い、日本の安全を脅かすような事態にならないか」という議論に関しては、「人々の不安をあおり、排外主義的な空気を助長する主張には首をかしげる。むしろ、外国籍住民を・・・地域社会に迎え入れることで社会の安定を図るべきだ」と批判しています。しかし北朝鮮を排除することをどう考えるのかに関しては、「議論をすべきだろう」と論じ、明確な主張がありません。16日の日経の社説(「外国人参政権は幅広い議論で合意点を」)においても同じ趣旨です(「参政権は憲法や民主主義の根幹にかかわる。・・・結論を急ぐような対応をとるべきでない」)。
政府は、参政権が憲法違反ではないということを説明する説明責任があります。パンフレットを作るなどして徹底して憲法違反ではないという内容を一般社会に知らせるべきです。また、帰化を容易にする手続きは参政権法案つぶしの対案でなく、それはそれとして実行してもらえばいいことです。最後に、「安全保障の面の危険性」も外交問題に関しては国が責任をとりきることを明確にすればいいのです。
今のところ朝日と日経に見られるのは、北朝鮮に制裁をすべきだという世論に与する姿勢であり、日本に住む外国人の参政権付与の問題に外交問題をもって権利の制限をするべきではなく、原則的な立場に乗っ取った措置をすべきであるという主張はなされていません。原則的な立場とは何か、それは日本の植民地支配の清算という視点を明確にすることです。植民地支配の清算というのは、「韓国併合」そのものが不当なものであって、植民地支配は不幸な歴史であったということでなく、誤った政策であったということを明らかにし、永年にわたる朝鮮支配に対して敗戦後十分な対応をしてこなかったことを認めたうえで、永住権をもつ外国人に関しては、国籍にかかわらず、参政権を付与するということを宣言していくということです。小沢幹事長は、国内外で参政権の実現を公言していますが、彼のHPを見ると、植民地支配が不当であったという記述はありません(http://www.ozawa-ichiro.jp/policy/index.htm)。戦争はすべきでないという発言をする野中広務にしても、こと植民地支配に関しては清算の責任があるという発言をしません(『差別と日本人』(辛淑玉と野中広務の共著、角川書店)。
A 「朝鮮籍」排除の問題点ー選挙人資格の差別は憲法違反
外国人登録証というものがあり、その国籍欄での「朝鮮」は国籍を意味しません。敗戦後、全ての在日朝鮮人は日本の国籍を持ちつつ同時に外国人登録証の常時携帯を義務付けられました。その国籍欄には全て「朝鮮」と記されていました。大韓民国の独立で「韓国」に変更する人が増えましたが、韓国政府誕生の正当性に賛成できず、かといって朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)を支持しない人も、北朝鮮支持者と合わせて、国籍欄の「朝鮮」のままにして現在に至っています。
国交のない国の国民は参政権の対象にしないということは、具体的には、外国人登録の国籍欄が「朝鮮」である人は永住権者であっても排除するということになります。しかしこれは特定の思想・信条をもつ者の選挙権を否定することであり、憲法違反です。憲法44条[議員及び選挙人資格]両議院の議員及びその選挙人の資格は、法律でこれを定める。但し、人種、信条、性別、社会的身分、門地、教育、財産又は収入によって差別してはならない、とあります。この点をマスコミが論じることはありませんが、最も重要なポイントです。
植民地化にあった朝鮮半島が日本の敗戦による独立後、米ソの対立によって二つの国に
分断させられ、日韓条約による韓国との国交回復はあっても、北朝鮮との国交回復はなく、植民地支配の清算が行われていないのです。拉致問題や核実験によって北朝鮮は一挙に悪者にされましたが、日本側に植民地支配の清算が終わっていないことの認識が希薄です。
今回の参政権に関しては、北朝鮮側は、「海外公民」である「在日」は「内政干渉」すべきでないという立場から絶対反対です。また民族教育の保障を始め、生活全般の差別と切り離された、参政権だけを取り上げるあり方に反対しています。しかし日本の国会が制定した参政権を行使しないという権利は、「在日」当事者の主張としてありえます。
北朝鮮を排除するという決定は大きな禍根を残すでしょう。日本政府は、北朝鮮・韓国側の意向とは関わりなく、自分の責任においてすべての永住権者に参政権を付与するという原則を貫徹すべきです。
(4) 永住外国人以外にも対象を広げるべきではないでしょうか?
高齢者が多くなる日本社会に労働力が不足するので、海外からの労働力をいれることは不可避だということは経団連も主張するところです。しかし「多文化共生」が政財界から言われだされた時は、彼らの人権を全的に保障していくというより、まさに建前として「共生」を謳い、労働力としての外国人を受け入れて行こうということから、文化面(名前や固有な文化)の多様性だけが強調され、取り上げられてきたのです。
@ 正規社員の労働組合は、女性と外国人の非正規社員解雇を黙認してきた
昨年あたりから非正規社員の解雇が問題になっていますが、上野千鶴子によれば、女性の非正規社員の解雇が常態であった時には社会問題にならず、男が解雇されときに初めて大きく社会問題化されたとジェンダーの視点から指摘しています。それは正しい指摘だと思います。普通は男が家族の大黒柱なので、ジェンダー問題ではなく、その大黒柱が解雇されるようになったから大問題になったという意見も聞かれますが、私はそうではないと思います。実は、今回の非正規社員解雇の「先駆け」として、外国人労働者がいの一番に解雇されているのです。その時、日本の正規社員によって成り立つ労働組合は何も言わず、いかなるアクションも起こしませんでした。川崎の市職労が同じ職場の労働者であるのに、外国籍公務員が差別待遇を受けているのに何もアクションを起こさないのと(或いは形だけのアクションを起こすのと)同じです。もし外国人労働者の不当解雇のときに、あるいは女性非正規社員が解雇されたときに組合が自分の問題として取り組んでいたのならば、どうなっていたでしょうか。今大きく取り上げられている非正規社員の再就職の課題の中に外国人労働者も含まれているでしょうか。まず日本人の救済が先、日本人の就職がむつかしくなってきたのは外国人労働者が増えたから、私にはそのような発想、発言の中に日本社会の排外主義の臭いがするのです。
A 「多文化共生」の落とし穴
多様性を強調することは、日本の「単一民族神話」を否定することになるので「多文化共生」はいいことだと言われていますが、元々、植民地時代は「混族民族論」であり、都合のよい使われ方をされてきました(小熊英二『単一民族神話の起源―<日本人>の自画像の系譜』(新曜社)。他民族の尊重は同時に日本の文化と歴史の強調を前提にしており、「日の丸」と「君が代」の強調(強制)と表裏一体である実態を直視すべきです(崔勝久・加藤千香子共著編『日本にける多文化共生とは何かー在日の経験から』(新曜社))。「多文化共生」は国民国家の論理の上で成り立ち、かつその強化につながるイデオロギ一でもあるのです。また「共生」は政財界、教育界をはじめあらゆる領域で語られますが、大企業においては、「共生」によって、現場の労働者がものを言うことさえ許されないほどの締め付けが正当化されている事実も伝えられています(朴鐘碩「続「日立闘争」−職場組織の中で」『日本における多文化共生とは何かー在日の経験から』)。
B 二重国籍制度について
一般永住者とは、一定の長期間日本に滞在したうえで申請した外国人に対して与えられる資格ですが、特別永住者とは、「日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特別法」により、退去強制が制限され、特別に安定した永住権を認められた在日韓国・朝鮮・台湾人を指します。両方合わせて、優に90万人を超します。1月16日の日経の社説によると、「法務省によると日本にいる永住外国人は2008年末時点で約91万人。このうち在日韓国・朝鮮人などの特別永住者が約42万人を占める」とあります。今回の参政権はこの一般永住者と特別永住者を合わせた人を対象にしています。その42万の中の何名かは公表されていませんが、朝鮮「籍」者は「北朝鮮とは国交がないので」排除するというのです。
特別永住者である42万人の「在日」はどうして帰化をして日本国籍をとらないのでしょうか。私は植民地支配の清算をしないまま今日にまで来た、戦後日本のあり方が大きく影響していると考えています。2000年施行のヨーロッパ国籍条約では二重国籍を容認しています。国籍はひとつだけという考え方そのものが大きく変わってきているということを、私は近藤さんから学びました。ヨーロッパのように、韓国・朝鮮「籍」を破棄せずに日本国籍取得が可能になり二重国籍者制度が確立されれば、また事態は変わる可能性がでてくるでしょう。ヨーロッパとアジアとは違うと強調されますが、しかし重複国籍を認める流れが確実に定着しはじめたということは注目すべきです。
韓国では優秀な人材を集めるために、二重国籍制度を認可すると発表しています。永住外国人の参政権も既に実施しています。本来、日本よりも「国民意識」が強く保守的であった韓国ですが、相互主義を前提に、在日韓国人の参政権の法案化を日本に求めてきた経緯があります。また韓国の国会では、海外の韓国人に参政権を与えることを決定し、大統領・国会議員選挙に参加させようとしています。従って、在日韓国人は、国政レベルでは韓国、もし法案が通れば、地方では日本の政治に参加するということになります。在日韓国人にとって選択枝が増えることは事実ですが、国民国家の論理を活用して優秀な労働力を確保するという意図が見え隠れし、また国際競争力を強める国家への忠誠心を求めることにもつながり、私自身は韓国の国政選挙に参加したいとは思いません。
C 「在日」の帰化を勧める鄭大均批判
「アイデンティティと国籍の乖離」を強調し、言葉もできず韓国人としてのアイデンティティを既に喪失している「在日」は日本国籍をとるべき(=帰化)と主張して、鄭香均の東京都訴訟を批判してきた鄭大均(首都大学教授)の影響力は私の想像以上に大きいようで、櫻井よしこは勿論、参政権に反対する右翼陣営にとってとても都合のよい「在日」学者の登場と捉えられたようです。しかし本人は、自分の奥さんは韓国の大学で教鞭をとり、自分自身も韓国と往復する生活をしているというので、つい最近まで韓国籍のままであったと聞いています。鄭大均のように韓国と日本を往復する「在日」はいくらでもいます。一般論で「在日」の「アイデンティティと国籍の乖離」を語って「帰化」を推奨する鄭大均は、自分もまた多様な「在日」の一人でしかすぎないことをどのように考えてきたのでしょうか。
近藤さんは控えめに書いていますが、まさに鄭大均はそうであれば、堂々と二重国籍を要求すべきであったのです。韓国語が話せず、歴史も知らない「在日」をアイデンティティの喪失者と決めつけるべきではありませんでした。私も鄭大均も、過去はそのような「在日」ではなかったでしょうか。しかし日本社会の差別構造に気付きそれと対峙する過程で、民族主義者にもなり、それを克服して国民国家そのものを相対化する視点を得られるようになった「在日」はいくらでもいます(私自身がそうです!)。それを右翼と一緒になって、「在日」に帰化を勧めるというのは私には納得できません。
「国民国家」を乗り越えたいと願う私自身は、国籍はどうでもいいと思っています。しかし国家に忠誠を誓わなければならないような(櫻井よしこたちはそういう「儀式」を要求し始めています)、自分の過去を捨て去るような気分にさせる現行の制度の中で、日本国籍を申請して帰化しようとは夢にも思いません。しかし韓国籍もそのままで二重国籍をとれるのであれば、日本国籍をとることは考慮してもいいと思います。そうすると私の家族はいずれも韓国籍ですが、香港で永住権をもち参政権を行使する長男(日本の永住権もあります)、アメリカの市民権を取った長女(日本の永住権は放棄しました)、日本で参政権をもつ(であろう)次男(日本の永住権者)、それに将来、日本と韓国の二重国籍をもつ(であろう)父親ということになるのでしょうか。家族と会うために、中国やアメリカの国籍も「儀式なく」取れるのであれば、もっといいですね。しかし親戚にまで範囲を広げると、韓国に住む親族、北朝鮮、アメリカ、中国、それに樺太に戦前いた伯父の息子はソ連とそれぞれ国籍は異なっています。これも歴史のなせる業なのでしょうか。
D 住民自治の充実を
国家の政策より地方自治体が先行する例として、近藤さんはオランダの例をあげます。外国人の地方参政権を認める法改正を論議している間に、アムステルダムとロッテルダムという都市が先行して、区議会の参政権を条例で認め、アメリカのタコマ・パーク市(メリーランド州)も1992年から外国人の地方参政権を条例(都市憲章)で定めたそうです。しかし日本の場合、地方自治体の条例は、国の法律の範囲内で制定できると定められているので、現実には、国家の法律(=今回の地方参政権の法制化)に先行する行動が地方においてとられるとは考えられません。事実、現行の公職選挙法および地方自治法は、「日本国民」であることを地方参政権者の要件としています。しかしそれは条例による外国人の地方参政権が、国会での法案が通らなければ、地方自治体の全ての範囲において不可能だということではないのです。
実際は、分権化論が進んで道州制に関する議論があっても、政令都市内の分権化を進めるべきだという議論が活発にされることはありません。これは日本では地方自治体が国家に従属するものと間違って理解されているからであり、住民自治が実際には機能していないからだと私は考えています。住民の政治参加が4年に1度の投票にとどまらず(ハンナ・アーレント『革命について』(ちくま学芸文庫))、政令都市内での分権化が進めば、住民自治が区単位の20万人くらいの規模で行われ、「区議員」が公選公募で決定され、予算権を取って「区議会」を運営するようになれば、そしてそのことが条例で定められれば、そのとき、外国人住民は当然のこととして選挙権、被選挙権をもって政治参加をしていくことが可能になるでしょう。すくなくとも、このことを制限する法律は現在ありません。これは外国人への参政権の付与の問題ではなく、日本の地方自治・住民自治の内実の問題です。住民の政治意識・自治意識の充実(高まり)とともに、外国人住民が選挙権・被選挙権をもって地域において政治参加をする時代が来ると私は信じています。
このことは前回の京都の市長選においても「区民協議会」を主張した候補者が(130万人の人口で)800票差で敗れたものの、条例で「区民協議会」という仕組みが作られたときには、そしてその中で(今回は外国人の政治参加の言及は公約の中にはなかったものの)外国人の政治参加(参政権―選挙権と被選挙権)が市議会で決定さえされれば、可能だったのです。もっとも私がその候補者及び支援する識者に直接、どうして選挙前に「区民協議会」における外国人の政治参加に言及しなかったのかと尋ねたところ、そのことを真剣に検討した形跡はなく、「政治判断」という答えでした。
E 住民自治―川崎の実情
140万人の政令都市である川崎においても、昨年10月の市長選で民主党候補者が初めて、「区民議会」の概念を出して公約にしました。民主党候補は、川崎が南北に細長く広がった都市であるという特殊性から(「在日」は南部の臨海部に集中し、「在日」や公害問題は北部の人にはよくわからないという事情があります)、小さな行政区による「区民議会」という地方自治の仕組み唱えたのですが、その概念は、残念ながら市会議員と行政が中心で、住民は「傍聴者」の立場に置かれていて私たちが求めるものとは違っていました。しかし小さな行政区を住民が中心となって運営していく可能性をもつ、今までにない住民自治の具体的な仕組みが提唱されたことの意味は大きいと思います。外国人への言及はなかったものの、制度的には、条例化されれば、外国人の参政権は実現される可能性はあるのです。それを拒むのは、憲法や法律ではなく、住民の、住民自治に対する政治意識の成熟度に関わっているということを私は実感しました。
現行の川崎の地方自治の実態はひどいものです。住民主権による住民自治とはとても言えません。これまで自公民が推してきた現市長は、どこの党の推薦を受けないといいながら突如、民主党政権ができたからというので民主党推薦を申し込み拒絶されました。しかしその民主党内は、独自候補を推す若手議員と、市職と連合は現市長をそのまま推し続ける議員とで分裂状態になりました。自民党は宮崎の有名知事、東国春のブレーンだとかいう人物が立候補を表明し自民党市議団も賛同したものの、数日で立候補から降りました。そして公示直前に古手の自民党市議が立候補を表明しました。半年以上も前から立候補を表明した共産党推薦候補者は、共産党シンパと労働組合を相手に選挙運動を展開しただけで、一般市民と連携した運動ができませんでした。いずれも全くの市民不在の市長選です。
私たちは、外国人は「かけがいのない住民」と言いながら、8年前の当選時から、いざというときに戦争に行かない外国人は「準会員」(日本人は戦争に行くことを前提にしている!)と主張した現市長の3選阻止を掲げ、告示後に現市長を除いて全候補者を呼んだ集会を準備したのですが、直前に全員がドタキャンするという始末です(「川崎の市長選の結果をどう見るのか」http://anti-kyosei.blogspot.com/2009/10/blog-post_26.html)。4人の候補者がお互いにディベートする機会は一度もなく、各マスコミも候補者の公約だけを並列的に並べるだけで、それらを検証する記事もありませんでした。これまで現市長を支えてきた自民、民主から新たに出馬した候補者は候補に際して、8年にわたる市長の実績をどのように評価するのかのコメントや総括は一切なく、マスコミも求めませんでした。これが政令都市川崎の実情です。現役市長の3選阻止を掲げた私たちの運動は敗北したのですが、現役市長に投票したのは100万人の有効投票者の中で15万票、市長に反対した投票数は25万でした。具体的な候補者をあげず、現役市長の落選を図った戦略は、結局は失敗でした。全候補者のドタキャンにも拘わらず集会に参加してくれた70名もの市民の声を受け、私たちは具体的な政策を掲げ、それに賛同してくれる候補者を支持すべく、「新しい川崎をつくり市民の会」(代表:滝澤貢、事務所:日本基督教団川崎教会)を設立しました(http://homepage3.nifty.com/tajimabc/new_page191.htm)。
(5) 国民主権原理から、外国人の地方選挙権は認められないのではないですか?
近藤さんの見解は明快です。国民主権原理と外国人の地方選挙権(参政権)は両立可能だというのです。ナショナリズムの要素が強い(悪い)国民国家があり、民主主義の要素が強い(良い)国民国家があるという考え方です。日本はナショナリズムの強い国民国家であったが、民主主義の国民国家になって外国人の地方参政権を実施するべきだということでしょう。「主権」は憲法制定(改正)権を含み、地方の条例制定権は含まないので、彼は地方自治の国に対する独自性を認め、外国人は、国政はむつかしいけれども地方自治に関しては参政権をもつということを言いたいようです。
@ 「国民国家」の「統合」と「多文化共生」政策に問題はないのか
正直に告白すると、実は私はこれまで近藤さんの本を買っていましたが、パラパラとめくる程度であまり真剣に読んでこなかったのです。それは彼が、国民国家のあり方として「統合」と「多文化共生」をア・プリオルに正しいものとする論理を展開しているからです。その楽観性は、国民国家の位置付けをナショナリズムと民主主義の要素に分け、外国人排斥を前者のカテゴリー、外国人に参政権や二重国籍を承認するのは後者、と説明する仕方にも表れているように思われ、私は物足りなさを感じていました。私は上野千鶴子の『ナショナリズムとジェンダー』(青土社)や、西川長夫の『<新>植民地主義論』(平凡社)などを読み、国民国家そのものの問題点について学び思考を深めていたからです。ですから国民国家を前提に、何の躊躇もなく、その「統合」のために「多文化共生」の総合的な取り組みを説く近藤さんには違和感がありました。
法律を扱う本が面白くないのは、国民国家を絶対的なものと捉えたうえで、保守派の学者と限りなく細かくやりあうしかないからなのか、そんな思い込みがあったのです。法律を整備していた(国民国家は世界どこでも全て同じようなシステムを持つのですが)ソ連のような国民国家の崩壊もあり、国民国家は絶対的な存在ではないのではないか。また調印された条約や法律を絶対化し既成事実化するのであれば、「韓国併合」の条約の解釈はできても、その条約そのものの不当性を主張するのは、この学問分野ではできないのだろうと漠然と思っていました。今回、外国人の地方参政権の問題で原稿依頼をされ、改めて近藤さんの本を読み、他の学者の論文や著作と比較して、私の誤解も一部は溶けました。
A 「多文化共生」の優等生、川崎の場合
近藤さんの「統合」と「多文化共生」に何の疑いや批判をもたないその論理の立て方には、外国人への参政権の最大の提唱者・擁護者の一人であることを認めつつ、私はまだ賛同できません。しかし近藤さんの海外を含めた豊富な知識と進歩的な法解釈と、私たちの川崎での実践が結びつき、市の外国籍公務員施策の論理を突破できるやり方の検討ができればと願います。(市当局との交渉の記録は、「外国人への差別を許すな・川崎連絡会議」のHPで読むことができます(http://homepage3.nifty.com/hrv/krk/index.html))。
「共生」「多文化共生」という美名の下で、許せないような「不条理」が正当化され、行政と市民運動が具体的な問題について一切の言及無く「共生」を宣伝しているのを知り、私たちは10年以上、実際に国籍条項をめぐって市当局とやりあい、担当者のあまりにひどい発言を何度も目にしてきたものですから、「共生」をむしろ乗り越える対象として捉えてきたのです。「当然の法理」にある「公権力の行使」を川崎市は独自の解釈で「市民の意思にかかわらず、市民の権利・自由を制限すること」として、あらゆる職務をその基準で選別して189の職務に外国籍公務員は就かせないことにしました。今では禁止職務は増えて192になっています。タバコの吸い殻や空き缶の投げ捨て禁止の条例が作られたのですが、外国人は市民に注意することさえ「公権力の行使」だから、そのような職務には就けないということになっています。新たな条例によって、外国人に禁止される職務はさらに増えると思われます。
ケースワーカになりたいと4度にわたり当局に申し込んだ「在日」の職員は結局、ケースワーカは「公権力の行使」の職務だからだめだということになりました。川崎市は外国籍公務員の処遇について見直しが必要と思っているようですが、「公権力の行使」について独自な解釈をして「運用規程」までつくっているので、見直すためにはその独自の解釈そのものを見直すしかありません。「門戸の開放」のために市当局と市職と市民運動が知恵を絞って作りだした川崎の「独自の解釈」(「川崎方式」)はそんなに簡単に変更することはできないはずです。しかし法の下で平等であるべき公務員を国籍によって職務を制限し昇進を禁じるのは、どのような詭弁を用いようが根本的に間違いです。採用した外国籍公務員を差別する「合理的な理由」がはたしてあるのでしょうか。「当然の法理」があるからと当局は応えてきましたが、「当然の法理」によって職務と昇進の制限・禁止をしておいて、その理由は「当然の法理」だというのであれば、それはトートロジ―です。完全に論理的には破綻しています。
進歩的と言われている研究者やマスコミは川崎の「共生」を賛美するばかりで、その実態を批判的に見て発言する人はこれまで皆無だったと言っても過言ではありません。しかし何人かの川崎の「共生」施策を賛美していた学者もよく話し合うと、市当局のパターナリズム(家父長的権威主義)的な姿勢を批判したり、外国人への「門戸の開放」の仕方が問題だ、最近市長の姿勢が変わってきた等ということを耳にするようになりました。彼らが沈黙を守るのは、日本の全体状況から見て、川崎の「共生」施策を批判することは反動的・右翼的な陣営に与する、利敵行為になると言うのですが、それでは、内部批判なくして進展があるのかと聞きたくなります。
社会学の分野では「多文化共生」と「統合」の問題点を指摘する人が増えてきているのですが、教育学の分野ではまだ「多文化共生」を全面的に肯定する立場の人が多いようです。「多文化共生」の推進と「日の丸・君が代」強調とが並行して行われていることをどのように評価するのか、実際、外国籍の地方公務員が受けている差別待遇をどうして黙認しているのか、私としては議論したいことが多くあります。川崎の「共生」政策の底に流れるものは日立闘争だと看破しながら、「共生」が日本全国、韓国を含めた東北アジアにまで広がることを提起する著者は、「共生」批判が指摘する問題点を全く無視しており、日立闘争の当該とのインタビューさえせずに東大の博士論文を書いています(金侖貞『多文化共生教育とアイデンティティ』(明石書店))。
B 「開かれた地域社会」とは
私たちが「開かれた地域社会」を求めて「共生」批判をしているのは、近藤さんの論理からすれば奇妙に映るでしょう。「開かれた地域社会」とは、住民自治が行われ、いかなる差別も許さない地域のことです。Sustainable Communityという単語と概念を宮本憲一から学びました(永井進、寺西俊一、除本理史共編著『環境再生』(有斐閣))。「持続する社会」と訳されているものを私訳で「住民が生き延びる地域社会」とし、「平和と民主主義を希求し、国籍に拘わらず全ての住民の自由、平等、基本的人権を保証し絶対的貧困を除去すると同時に、環境・資源・生物多様性の維持・保全を根底に据えた、住民が主体となった住民自治を志向する地域社会」と概念を修正してみました。
(http://anti-kyosei.blogspot.com/2009/12/blog-post_28.html)。
政治参加の制度が確立されていても、それだけでは住民自治が実際に実現されていることにはならないというのは、先の川崎の例をみれば一目瞭然です。選挙権・被選挙権があるというだけでは、住民自治は実現されません。どうして日本の住民主権、地方自治が内容をもったものにならないのかということはあらゆる識者が感じている、解決していかなければならない戦後日本の最大の問題点のひとつです。市民革命がなかったからだとか、いろいろと言われていますが、西欧の近代化の仕組みに形として近づいても、どうしても日本の地方自治が前近代的な要素に巻き込まれているということは周知の事実です。
C 西川長夫の思想(国民国家、植民地主義批判)
私たちは、「多文化共生」を国民国家の「統合」のひとつのイデオロギーと捉えています。労働力の確保という観点から経団連は外国人労働者の必要性を強調していますし、そのような必要性から「多文化共生」が謳われだされたのですが、私が近藤さんのように「統合」と「多文化共生」を肯定する主張に躊躇があるのは、彼が外国人というマイノリティを受け入れる側の、マジョリティの質と実態を検証していないからです。西川長夫は、「国民国家」は本質的に植民地支配に向かうもので、大都市内の格差、地方格差を国内植民地支配の問題として捉え、個人の価値観(または個人のアイデンティティ)そのものに国民国家の価値観(ナショナル・アイデンティティ)が先行すると看破します。不可避的に国民国家の、他国への植民地支配とそれをよしとする価値観を外在的なものと捉えず、自分自身がその国民国家の中で生まれ育ったことで、その価値観が自己の奥深く無意識の領域にまで巣くうことを認識しその現実を受け留め、自らその価値観と格闘しようともがく姿があるために、彼の主張は人の心を打つのです。そのような感性の持ち主だからこそ、これまで多くの学者から問題にさえされなかった(関係する専門分野の人は除いて)「当然の法理」が、自分の研究してきたヨーロッパの「文明」「文化」の本質、国民国家の本質と関係すると捉えることが可能であったと、私は見ます。
それに比して、海外のポスコロ(ポスト・コロニアズリズム)の論理を日本に紹介した先鋭的な研究者が、「当然の法理」の問題点を明確にしていき、実際の戦後責任の問題として、植民地支配の清算の立場から外国人の参政権問題や外国籍公務員の受けている差別の問題を論じたものを私は寡聞にして知りません。日本の学界の最高のレベルにある日本学術会議において歴然と存在する、「当然の法理」の問題がいまだ可視化されず、具体的な解決に向かう動きさえごくごく小さなものだということでもそのことはわかります。彼らは実際の「多文化共生」がどのようなものか関心もなく、「共生」を賛美する論文やマスコミ報道でしか知らず、「共生」のもつ問題を黙認してきたと、私は見ています。勿論、外国人の多住地域の問題をとりあげる識者がいることも私は知っています。しかし関心があってもパターナリズム的な対応で、当事者をパートナーとして対等な立場で問題解決を図るのでなく、あくまでもやってあげるという発想でなされているような気がしてなりません。
D 国民国家の枠を越えたい
資本主義社会であれ、社会主義国家であれ、近代社会における国民国家のバリエーションであるという立場にたてば、国民国家を絶対化して、その枠内で発想し、思考することは、結果として国民国家の維持をはかることになるしかないのではないか、私は近藤さんの著作を読み尊敬の念を覚えながら、このような思いに駆られるのです。
東北アジア圏構想は政治家や学者、運動家の理念として、スローガンとして掲げられ、その発想は国民国家の枠、概念を超えるものとされていますが、私には観念的な言葉に聞こえます。むしろ、足下の地域社会において、国民国家の枠を超える理念と具体的な実践が可能なのではないのかと想うのです。私はふと、朝鮮戦争のとき米軍の飛行機が日本から朝鮮半島に飛ぶのを阻止しようと立ちあがった朝鮮人と日本人の闘いを思い浮かべます。勿論、先頭に立ち命を張ったのは朝鮮人であり、日本人共産党員はその背後におり、そのまた後ろに幹部がいました。その時の思想と行動が正しかったとは思いません。しかし彼らの情念と行動には胸を打たれます。北朝鮮政府は、在日朝鮮人に祖国の存在を訴え「海外公民」であるので「内政干渉」をしないように訴えました。そして彼らはその指示に従いました。日本共産党は6全協において共産党員は日本人であることを宣言して今日に至っています(今に至るも党の国籍条項は生きています)。それ以来、「在日」で民族意識に目覚めていった者は、祖国統一と韓国の民主化の闘いに参加することが民族の主体性だと理解し行動してきました。徐勝をはじめ多くの「在日」青年が韓国の民主化に命をかけてきました。しかしそれはある意味で、民族主義的な国民国家論に全的に依拠するようになったということです。
二十歳すぎのときに日立闘争に出会い、自分の足元を直視し差別と闘い、日本社会に朝鮮人として入ることを主張してきた私は、その後川崎において地域活動を提唱してきました。民族差別と闘うことを通して一人前の民族主義者のつもりでいた自分が恥ずかしくなります。それから40年が経ちました。私は今、「住民が生き延びる地域社会」を掲げ、全面的に「開かれた地域社会」を求めていきたいと願っています。その行き着く先は、住民自治です。外国人の地方参政権は両刃の刃なのでしょう。日本国の「統合」の手先と言われるかもしれません。しかし40年前、私は日立闘争に没頭し、日本社会に入り込むことを主張し、「同化論者」として在日韓国教会の青年会の責任者をリコールされた人間です。その後、自分なりには誠実に生きようとしてきましたが、その過程で多くの失敗を重ね、多くの人に迷惑もかけ、この歳になりました。後残された人生、悔いの残らないように地域の活動にかけてみようかと考えています。
E 「韓国併合」と川崎の重工業化
「韓国併合」から今年で100年、その年に川崎の工業化が始まりました。「在日」が多く住むようになったその街は、日本の富国強兵と高度成長政策のために、臨海部はまるで怪物のような醜い姿になり、市民が安らぐWater Frontのない公害のまちになってしまいました。北朝鮮帰国運動はそのような川崎から提唱されたのです(テッサ・モーリス・スズキ『北朝鮮へのエクソダス』(朝日新聞社))。そのとき彼らは貧困と差別の中で生き、公害の被害をまともに受け、絶望のなかから「出エジプト」を決断したのだと思います。その9万人にも及ぶ「在日」が、祖国においても悲惨な生活を余儀なくされていると聞くと胸が痛みます。私は、彼らの痛みを覚え、「出エジプト」ではなく、奴隷の地であった「エジプト」に入って行き、その変革を目指していきたいと願うのです。
川崎の公害の歴史と現実から「環境再生」を主張する16名の学者は、正確な分析と展望を掲げ、まちづくりを提唱します。しかし川崎の中でも最も悲惨なところに住まざるを得なかった外国人住民についての歴史と現実への言及は一言もありません(『環境再生』(永井進、寺西俊一、除本理史編著 有斐閣))。その学者たちは何度も外国人の多住地域を訪れながら、「在日」の存在が見えなかったのでしょうか。同じ街に住む外国人住民を除外したところで住民自治がはたして成り立つものなのでしょうか。「再生」するまちづくりに外国人住民が当事者として加わらなければならない必然性があると私は思います。
まちの「再生」とは、まさに「住民が生き延びる地域社会」を求めることであり、外国人住民もまたそのまちづくりに参加していかなければならないのです。その流れの中で住民自治の内実化が図れるのだと私は思います。その過程において、私は外国人住民の政治参加が勝ち取られるという夢を見るのです。その時には、外国人住民の選挙権と被選挙権は当たり前のものとなっているでしょう。
結び
外国人の地方参政権の法案が今回の通常国会で通過するのかどうかは未知数です。しかし、この10年間言われてきた外国人の参政権が実現される可能性は、過去に比して比較にならないほど高まったことは事実です。この小論で検証したように、外国人の地方参政権が合憲なのか、憲法違反なのか、安全保障上の危険が(制度的に)あるのかないのか、あるとしたらそのリスクヘッジは可能なのか、まず政府には説明責任があります。
私は、永住権をもつ外国人が地方参政権を取得することは当然だと理解しています。しかし被選挙権のないことはひとまずおいても、制裁的な意図をもって北朝鮮を排除する法案は根本的に問題があると考えます。「国交がないから」というのは、具体的には、特定の思想・信条をもつ者の選挙権を否定することであり、憲法違反です。
地方参政権を取得するということは選挙によって「公の意思形成に参画」することであり、この権利を認めながら、外国籍公務員が地方公務員の管理職に就くことを同じ理由で拒絶することはできなくなります。川崎をはじめ各地方に置いて、「当然の法理」との闘いはさらに前進するでしょう。
日本に住み、今後も住み続けるであろう外国人永住者は、地方参政権を付与されるのでなく、主体的に取得するのであり、その当事者の権利を日本社会は当然のこととして認めるべきです。またその権利を拒む権利も当事者にはあります。読者は贖罪論的な観点でなく、戦後責任の問題として過去の植民地支配の清算を行うという位置づけを明確にし、地域社会において、日本の課題である住民自治の実現を目指すべきでしょう。外国人住民がその仲間として一緒になって汗をかく時代がきっと来ると私は確信します。
投稿コメント全ログ コメント即時配信 スレ建て依頼 削除コメント確認方法
▲上へ ★阿修羅♪ > 政治・選挙・NHK178掲示板 次へ 前へ
スパムメールの中から見つけ出すためにメールのタイトルには必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
すべてのページの引用、転載、リンクを許可します。確認メールは不要です。引用元リンクを表示してください。