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仕事は一生懸命ではだめ、真剣に〜自然界に仲良し「共生」はない〜死者は死なない/西村肇
≪仕事は一生懸命ではだめ、真剣に≫
<なぜ一生懸命ではいかねいのか>
仕事では結果が問われているからである。それは、一生懸命だったかどうかは関係ない。仕事を成功させるためには「真剣」にやらなければならない。では一生懸命と真剣とはどこが違うのか。責任の感じ方が違う。一生懸命とは他人の指示に従って働く人の態度である。だから一生懸命やってさえいれば、だめでもその責任は自分にはない。これに対して真剣とは自立人の態度である。つまり自分がこの方針でやると主張したのだから、責任は全部自分でとらなければならない。このため真剣になるのである。
≪態度の大きくない若者は見込み見がない〜個人の挑戦の基礎にある自負心≫
<教育では教えられないもの>
個性、独創性、の一番の基礎は、自信と自負心である。だから、個性、独創性を育てたければ、自信と独創性を育てなければならない。しかしこれは、教育で、できることではない。…大体、教育でなんでも教えられる、という確信が、間違いだと思う。
≪医者はガンを治せない≫
「医者は病気を診るだけで治せない。治すのは自分」「医者は、自分は薬を飲まない」
これは私が子供の頃、繰り返し聞かされた話である。私の親戚には医者、といってもやぶ医者が多く、親戚が集まると、本音の話が飛び出して、爆笑をさそったが、その中でも、記憶に残っているのが、この二つである。
これが確信になってしまい、病気になっても医者に行かない原因になっているが、これは50年も前の確信だから、修正しなければならない点が、二つある。
<進歩したのは、抗生物質と外科手術>
(略)
≪自然界に仲良し「共生」はない≫
畏友太田君との話である。
当時、「共生」ということが言われだしたばかりで、これがこれからの時代の問題を考える切り札のようにもてはやされていた。そこで大田君が「自然との共生」はどうでしょうかと提案したのだが、私は反対した。それは「自然における共生」ということでイメージさせようとして意図されていることと、実際の自然における「共生」の姿はまったく異なっており、これを基調にして自然の姿をみていくのは、自然の本当の姿から離れたインチキになると考えたからである。
<仲良し共生はファンタジー>
自然生態系では、たしかにすべての生き物は支え合って生きている。しかしそれは仲良くではない。自然における生き物達の関係は、食うものと食われるものの関係にあるか、あるいはまったく関係がにかのどちらかであって、結果として支え合い、共生しているだけである。
このような自然観は、人間がきびしい自然のただ中で生きている時は、当然のことだった。宮沢賢治の初期の童話ー「蜘蛛となめくぢと狸」など、初期のものほどそうである。
…だからファンタジーではなくホントの科学を教えなければならない
≪貧しくとも美しく〜ロシアで≫
(略)
≪共生する人々〜中央アジアの高原で≫
<シルクロードの国々、昔と今>
(略)
≪死者は死なない〜ニューハンプシャー州で≫
私は、死んだ人は、じっと我々を見ていると信じている。私自身も死んだあと、この世の中をずっと見続けるのだという気がしている。これは私が科学者として、霊魂の存在など信じていない、ということとは別のことである。どうせわからないこと、信ずる以外にないことなら、心安まるように信じようと思う。
私が、そう思うようにしたのは、結核で死と直面し、かろうじてそれを脱した時からだが、ちょうどその頃、チェーホフの『三人姉妹』の中に、同じ考えを見出した。
【出展】
「古い日本人よ、さようなら」西村肇/森林の本‘99年
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