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現在も療養中で、今後の予定は白紙だ〔PHOTO〕gettyimages
小保方晴子の反論「ハシゴを外した人たちへ」 ここまで率直に書いて大丈夫か!?
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/47739
2016年02月09日(火) 週刊現代 :現代ビジネス
いつの日から彼女の人生は大きく変わってしまったのだろう。STAP細胞を発表し「リケジョの星」と騒がれるも、一転、犯罪者扱いに。なぜ彼女だけが悪者にされたのか——ついに反論を始める。
■死にたいと思っていた
2014年の間に私の名前が載った記事は一体いくつあっただろうか。そしてその中に真実が書かれた記事は果たしていくつあっただろうか。私は全国新聞やNHKは真実を公平に報じていると信じて疑わなかった一国民だった。しかし想像だにしなかった側面を垣間見ることになる。
私個人に対する取材依頼は連日のように来た。「記事化を考えています」「何日までに返事をください」というメールは脅し文句のように感じられた。返事をすると都合のいいところだけを抜粋して記事に使用され、返事をしないと「返答がなかった」と報じられた。
特に毎日新聞の記者(女性)からの取材攻勢は殺意すら感じさせるものがあった。メールの質問事項の中にリーク情報や不確定な情報をあえて盛り込み、「返事をしなければこのまま報じますよ」と暗に取材する相手を追い詰め、無理やりにでも何らかの返答をさせるのが彼女の取材方法だった。
笹井(芳樹)先生からは、「このまま報道されては困るからできるだけ返答するようにしている。メールボックスを開くのさえ辛い。日々、記者の対応に追われてノイローゼがひどく他の仕事ができなくなってきた」と連絡を受けた。
(記者の)メールの最後は「お返事がない場合にはその理由をお知らせください」と締めくくられる。自分さえ多くの情報を得ることができるなら、取材をかける人たちにどれだけ大きな負担がかかろうが構わないのだろうか。
記者は「取材」という名目を掲げればどんな手段でも許される特権を持ち、社会的な善悪の判断を下す役目を自分が担っていると思いこんでいるかのようだった。どんな返事や回答をしても、公平に真実を報道しようとはせずに、彼女が判定を下した善悪が読み手に伝わるように記事化し、悪と決めた私のことを社会的に抹殺しようとしているように思えた。
小保方晴子氏(32歳)が1年10ヵ月の沈黙を破って、手記『あの日』を発表し、大きな話題を呼んでいる。
'14年1月にSTAP細胞の「発見」が大々的に報じられてから、小保方氏を取り巻く報道は過熱し、彼女は自らの言い分を正確に伝える手段を失い、孤立していた。手記から、彼女の心情を引用していく。(※丸カッコ内は編集部註)
2014年3月には、NHKの記者から私の携帯電話に電話やメッセージが直接来るようになった。生活のすべてを包囲されているような恐怖で、「もう生きていくことができない」と考える時間が長くなった。
新聞社、テレビ局、週刊誌など、ありとあらゆるメディアから取材依頼が来た。週刊誌の最初の取材依頼メールは「週刊文春」からのもので、「知人に若山(照彦)先生への暴言を吐いたというのは本当ですか?」という内容だった。その週刊誌には乱倫研究室などと見出しをつけられ、私と笹井先生が個人的に親密であるかのような記事が書かれていた。
マンションの共通玄関はオートロックだったが、部屋の前まで侵入してきてインターホンを押す記者も少なくなかった。第一次調査委員会の調査結果を聞いた2014年3月31日、ショックと疲労でおぼつかない足取りでの帰り道、マンションの前でフラッシュを浴びた。無理やり渡された名刺には「週刊新潮」と書かれていた。
■笹井先生との別れ
私を糾弾する研究者やサイエンスライターからのコメントはSNSなどを通じて矢継ぎ早に出された。批判的な見方が世論から多数の同意を得られるようになると、SNS等で拡散される糾弾コメントがさらに過激さを増す。すべてのメディアが私へのバッシング報道で埋め尽くされていった。
バッシング報道が高まるにつれて、「インターネット上に不穏な書き込みが多くなっているので、気をつけてください」と警察から連絡が入るようになった。千葉の自宅周辺と神戸のマンション周辺は巡回などの警備を強化すると連絡を受けるまでになった。
理化学研究所(理研)は調査委員会の結論として、STAP細胞論文に「ねつ造と改ざん」があったと結論付けた。この結論に対する不服申し立てに関する記者会見('14年4月9日)で、小保方氏は自らの思いを説明したが、バッシングの嵐がやむことはなかった。
論文は撤回に追い込まれ、小保方氏も参加する形で検証実験が始まった。そのさなか、笹井氏が自殺した。享年52。神戸市の先端医療センターの関連施設内で首を吊るという壮絶な死に様だった。
笹井先生がお隠れになった。8月5日の朝だった。金星が消えた。私は業火に焼かれ続ける無機物になった。
私は所長室に呼ばれていた。所長室には警察の人たちもいた。警察の人が、事務所長に状況を説明している中で「おぼかたさん宛てに一通」と聞こえ、私にお手紙が残されていることを知った。
笹井先生からのお手紙が届けられたのは、数日後だったように思う。私にお手紙が届けられる前に、内容の報道がなされたと聞いた。あとから目にした、お手紙の内容を伝える記事には、私に届けられたお手紙には書かれていない、マスコミの創作による文言が加えられていた。
私には連日、「お前がかわりに死ぬべきだ」「後追いを期待しています」という内容の匿名のメールや手紙が大量に届いた。
■熱狂の中で感じた戸惑い
「STAP細胞」は、記者発表の直後から異常なほど、メディアの注目を集めた。小保方氏は当時の熱狂をこう振り返る。
2014年1月28日の記者会見当日、お化粧をする間もないまま通勤した。前日、タクシー下車後の深夜にラーメンを替え玉つきで食べたこともあり、顔はパンパンテカテカだった。記者会見は13時30分からだったが、記者会見用のプレゼンテーションの準備が終わっておらず、直前まで見直し、急いでお化粧をして会場に向かった。若山先生とは会場でお会いし、「思ったより人が多いね」などと話しているうちに時間となった。
私のプレゼンテーションが終わると若山先生が、「とてもわかりやすかったよ」と声をかけてくれた。次々と質問が来た。iPS細胞とはまだ比較するような段階でないことや、遠い将来を見据えて研究を進めたいことなど、できる限り答えた。
しかし、私のプレゼンテーションの後に行われた笹井先生によるiPS細胞との比較の説明がわかりやすかったようで、報道ではiPS細胞よりも簡単に万能細胞ができると大きく紹介されることになってしまった。
翌日出勤すると、何十件ものテレビ取材のオファーが来ていることを知らされた。発表解禁日だった30日の朝、テレビをつけると自分が映っていた。チャンネルを変えてもまた映っていた。
理研から電話があり、「駅にテレビの取材班がいるので」と言われ、タクシーで理研に向かった。研究室に着くと大量の新聞が届けられた。全紙一面でなぜか私の顔写真が載っている。
パソコンを開くと100件を超えるメールが届いていた。京都大学の山中(伸弥)先生からも「京大まで説明に来てください」と直接メールが届いているのを見た時、自分の想像をはるかに超えて業界にとって大きな反響を呼ぶものだったのだと気がついた。メールの文面から嵐の前触れのような湿った空気が充満してくるのを感じた。
いつも通りの時間にいつも通りに起きた朝だった。でも、この日、目覚めた世界は昨日までの私の知らない場所だった。自分の偽者がテレビに映っているような非現実感と、個人情報がどんどん大々的に報道される現実。混乱と不安で涙がこぼれた。まったく知らない別世界に投げ込まれてしまったような恐怖を感じていた。
小保方氏の不安は、現実のものとなる。約1週間後に生物学分野の著名教授たちが連名で、小保方氏の過去の論文に写真の不適切な使い回しの疑義があると指摘。また、図表についてもネット上で改竄の可能性が指摘され、論文発表から2週間後には理研内にSTAP論文の調査委員会が立ち上がった。
(調査委員会の発足で)理研の(STAP論文)著者らはまったく身動きがとれない状況に追い込まれていった。
その一方で、著者の中で(山梨大学に転出していた)若山先生だけが自由に自分が所持しているサンプルを解析し、自分の意見を社会に向けて発言することが許されていた。そしてその行為があたかも研究者の模範のように取り上げられた。解析されている細胞を作製し、保存していたのは若山先生だったにもかかわらず、理研内の著者だけが調査対象とされ、サンプルに触れることも許されなかった。
もし理研内の著者らにも平等に自ら再解析する権利を与えられていたなら、社会の反応はどう変わっていただろうか。この不公平さを助長していた理研CDBの幹部たちは、何を目的として、著者らから再解析の機会を奪っていたのだろうか。
この時点で、すでに、この混乱に乗じて誰を罰したいのか、調査する人たちの間で明確な線引きが行われているように感じられた。
若山先生は3月10日、NHKの取材に対し、「論文を撤回したほうがいい」と発言し、世間に充満していたガスに、一気に火がついた。若山先生に話し合いを求めて電話をかけたが、電話には出てもらえなかった。笹井先生も若山先生に電話をしたが取り合ってもらえなかったと言っていた。丹羽(仁史)先生が「ハシゴを外されたんや」と言い残し、その日のうちに山梨まで出向いて行った。
■絶望的な孤独感
論文に疑義が挙がるにつれ、若山先生の発言は、変遷していくことになる。
若山先生はSTAP幹細胞の特許の51%をご自身の研究への貢献率として(理研の特許部門に)提案していた。このために、若山先生が2014年6月に開いた会見で、「責任著者から外してほしいと頼んだこともある」「責任を押し付けられそうで怖かった」という、ご自身の研究への関与が低いことを印象づける趣旨の発言をされたと聞かされた時は、絶望的な孤独感が心の一部をえぐり取っていくようだった。
2014年12月19日に開かれた(理研の)記者会見での、相澤(慎一)先生の「STAP現象を再現することはできませんでした」という第一声で、検証実験のすべてが失敗に終わり、検証実験が打ち切られるという解釈で報道がなされた。
しかし、実際には私が行った検証実験においても、丹羽先生のところで独立して行われていた検証実験でも、「体細胞が多能性マーカーを発現する細胞に変化する現象」は確認されていた。私が発見した未知の現象は間違いがないものであったし、若山研で私が担当していた実験部分の「STAP現象」の再現性は確認されていた。
しかし、検証実験のSTAP細胞の作製成功の基準と定められてしまった「多能性の確認」の実験はすべて若山先生の担当部分だった。若山先生の実験によって証明されたキメラマウスの作製が、検証実験では成功しなかったために、検証実験は失敗に終わり、STAP細胞の存在は確認されなかったと結論付けられてしまった。キメラマウスの実験は結果が実験者の手技に大きく左右されるため、若山先生に検証実験参加を打診したが、断られたと聞いた。
* * *
これまで抑圧されていた分、手記からは小保方氏の切実な思いが伝わってくる。彼女に名指しされた関係者たちは、この本をどう読むのか。反論が行われるのか。
理研が「終わったこと」にしたSTAP細胞騒動が今一度、燃え上がることになりそうだ。
「週刊現代」2016年2月13日号より
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