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リオ(ブラジルではヒオ)で開催中の夏季五輪。
私はどさくさにまぎれて日本領海を荒らしている泥棒国家のほうが気がかりであるが、一応、オリンピックへの関心がないわけでもない。
とても全世界的な競技とはいえないような種目もあり、全部に目を通すわけにはいかないが、これだけは録画でもいいから見てみたいと思うのは女子レスリングである。
今回も吉田沙保里、伊調馨という、オリンピック3連覇中のチャンピオンが揃い踏む。今回、優勝すればあのアレクサンダー・カレリンでさえ成し遂げることのできなかった4連覇が実現する。これは事件といってもいいほどの快挙になるはずなのだが、なぜかイチローの予測された3000安打には飛びつくマスコミはこの二人の怪物女子にはさほど注目していないようだ。
結局、何が凄いか、ということはメディアが決定し煽り、それを大衆が追いかける、という図式の中にあるようだ。
スポーツと違って優劣を競う基準というのがはっきりしない音楽でも、やはり格付けを行うのは商業メディアである。大衆は、それを追いかけるわけで、自分の意志で何がいいかを見極めるような態度は「独りよがりの勘違い」といって嫌われる。
ロック界の最大級の天才は、ジミ・ヘンドリックスという論調が半世紀近く勝利してきている。
ジミ・ヘンドリックス。アメリカ出身の黒人とインディオの混血したギターリスト。ビートルズから遅れること数年、イギリスでメジャー・デビューをとげ逆輸入でアメリカを震撼させる。モントレー・ポップ・フェスティバルやウッドストックというような文化的エピックといえる音楽イベントで頂点を極める。
彼はなにが優れていたのか。私はその全てを知っているので、答えが簡単に言える。それは六弦エレキギターのソロが優れていた、ということだ。速さ、正確さに加え、独自の音質や音程のコントロール、ペンタトニック・スケールの枠組みを破壊する前衛性などが、その本質である。
で、それ以外は?殆どなにもない。歌は下手だし、作曲は幼稚であるし、他楽器とのオーケストレーションに特別な実力は発揮されていない。ソロ専門のギターのオジサンである。(彼のオリジナル曲で唯一、ギターリフに頼り切らずなんらかの曲構成の構築を示していたLong Hot Summer Nightなど、だらだらと思いつきの新鮮味にかけるパターンを継ぎ足していったような本当につたない内容である。51st Anniversaryのようないい曲がもっとあればヘンドリックスの評価は大きく変わっていただろう。)
私は全てを知っているのでそれが言える。ギターのソロがそれまでのブルースのプレイとは異なる次元のバラエティーに纏められて巧妙に弾かれていた、そこが違ったのだ。
それを無知な人間は天才とほめたたえる。彼ほどの別格のプレイヤーなら、ギターのソロだけでなく、全ての意味において優れていたにきまっている、とメディアの言うことを追いかけてことしか許されない知的弱者は生意気に断言してふんぞりかえるのである。
なにが天才だ、お前がいうな、である。商業音楽の世界にあるそもそも芸術や人性の追求などとは無縁である軽薄なヒエラルキーに乗っかったパンピーが「ヘンドリックスは天才」などときいたようなことを抜かして傲慢かましているのは滑稽である。まるで自分はヘンドリックス側の人間で彼の印籠を使って他を見下せるとでも思っているのか、バカが。なにも自分にはわからない、語る資格などない、という現実にお百姓さんは気付くがいい。
人はいうかもしれない。ピート・タウンゼントやニール・ヤングというようなロック界を先導したような伝説のミュージシャンだってヘンドリックスを神とたたえるではないか、と。いうまでもなくタウンゼントはギターの巨匠ではない。彼はヘンドリックスという別格のギターリストに出会い、ギターをあきらめて作曲に徹することで大成功したのである。そしてギターソロではとても及ばないヘンドリックスに楽曲のスケールでは明確な勝利をおさめたのである。ニール・ヤングはギターも作曲も白人音楽へ逆行するangry peasantの熱情のようなものでこなしていたような人なので、そもそもヘンドリックスとは無関係である。
ヘンドリックスのエレキ・ギターを全面に押し出した演奏スタイルが革命を起こし、イギリスのアーチストを中心とする商業音楽の流れを変えようとしている頃、イギリスで最も人気のあったグループにいたロイ・ウッドはヘンドリックスへの答えを用意していた。
彼はたとえば、ポール・マッカートニーがSgt Pepper's hearts club Bandでヘンドリックス風のギターを弾いたことにあったような「ヘンドリックスの影響を強くあらわしたプレイ」を取り入れること、では満足できなかった。彼は彼なりにヘンドリックスという現象に真っ向から立ち向かい勝負したのである。その証拠がこの曲だ。
ポール・マッカートニーもこれを聴いて自分もこれくらいやりたかった、と思ったか、自分はあくまで違うスタイルで自分らしいギターを追求しようと決意したか、それは知らない。
ロイ・ウッドはヘンドリックスのギター・ソロだけを前提とした適当な曲作りが穴だとみたのだろう。ヘンドリックスでは絶対に書けない4ピースのバンドで考えられる最大限のオーケストレーションで大曲を提供し、そこで西欧人らしい楽隊の定律で枠どった中でヘンドリックスを表現した。マッカートニーも、タウンゼントも、スモール・フェイセスも超えられなかった壁を破って独自のアプローチでヘンドリックスを分解しているロイ・ウッドはまるで限界なく吸収と融合を繰り返し改革そのものの上に存在が成り立つようなブラック・ホールである。
最期に、私なりの天才という概念への簡単な見解をあらわしておくと・・・・・それは英語の定義でいえば相対的に大多数の他者より優れていること、優れた要素を保持し発揮できる人間のことである。だが実際に天才という概念はそういう意味を表すことはない。もっぱら天才とされる人間はあまりIQや身体能力が高くないからである。
天才とはある種類の遺伝子情報を持つ人間の集合のことではなく、万人各々に与えられた時期のことである。具体的に定義するべきであるなら、おそらく3歳から7歳くらいまでの時期のこと。ここが天才期である。この時期に他者にはない能力や感性を伸ばして錬金することで天才は社会的に表現しうる天才へと育つ。その時期にそうしない場合、つまり他者と同じように振る舞い同じような行動形式で満足する癖がついている場合は天才は日常を生きる糧へと消化されていく。(それはそれで正しいし健全である)
ヘンドリックスが白人家庭の出身であったなら、「それはダメよ」の繰り返しで潰されていた可能性が高い。またロイ・ウッドが常識的な親のもとで育てば、学習することをこなせる人になり、なんでも自己同化させる異常な創造性は育まれなかったであろう。
では8歳以降では天才は生まれないのか。答えは簡単ではないが、潜在期間のずれから人によって数年の幅はあるようである。しかし一般に思春期にあたる12,13,14、15歳あたりにはじまるような類の自覚的な創造的操作・試行が天才から利益を受けるかというと、それは非常に限られたものでしかないところに芸術の最大のジレンマが宿る。そのズレを私は「神のためらい」と呼んでいる。
これまでは全て持ち駒の問題。生きることは持ち駒を愛玩することではない。どうやって与えられた条件から探求するか、にある。つまりどれだけ天才的条件を育んだ人間でも、探求する勇気と根気がなかれば一時的に相対的な優越感を与えられるだけで終わる。精神を病んだり自殺したりすることも多い。恵まれていない人間でも、自分の目標に忠実に探求をやめず怠ける気持ちや怖れる気持ち嫉妬や失意に苛まれることに打ち克ちながら、自分でしかとけない問題に一生とりくんで自分なりの解答を積み重ねて精進している人間は「あいつは天才」だとか「オレはどうせ凡才」などという意気地のない裁定に甘んじることはないのである。他人ばかりが気になり自分の取り組む本当の生きがいとその意義がわからない無いものねだりのお百姓さんが図々しく夢をみた結果が挫折と嫉妬にみちた天才志願なのである。
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