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聴取 https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0248540/js/another01.html
何年か前に高橋悠治さんのワークショップに出たことがある.もうここには書き切れないくらい興味深い,示唆に富む話の宝庫だったのだけれど,その中でもとりわけ面白かったのは,音に集中しない聴取の訓練だった.
通常僕らのような音楽家は,いつでも音に集中する訓練ばかりをしている.細部はより細部まで聴けるように,焦点を当てた音はどこまでも正確に明確に聴き取ること.そんな訓練を知らぬ間に積んでいたりするものだ.通常以上に意識を研ぎ澄まして,ある音に集中したり,遠くのかすかな音に焦点を当てて聴き取ったり,可聴域ぎりぎりの低周波や高周波を聴き取ったりって具合に.むろんこういう訓練をしたり,あるいは訓練までいかなくても日常的に聴くことに意識的になるようにしていると,この手の集中して聴く能力は,思ったよりけっこう簡単にアップする.ちょっと集中すれば,ほとんど音なんてないと思っていたあなたの部屋にも,実はたくさんの音が溢れていることに容易に気づくことだろう.人間には本来意識的にある音に強力なフォーカスを当ててクローズアップする能力が備わっているのだ.
ところが悠治さんがやったことは,これとは逆の,音をぼんやりと聴く訓練なのだ.まず悠治さんは,遠くから聞こえてくる音をいちいち認識するところからはじめる.車の音,カラス……といった具合に.これはいつものように音を集中して聴くという方向だ.が,別の見方をすれば,この方法は音を選別して意味として認識していることでもある.あるいは自分の知っている音を過去の記憶と参照して,鳴っているのが何の音であるかを認識する作業でもある.仮に過去に聞いた経験のない音が聞こえた場合でも,「飛行機っぽい音だけれど,地上から聞こえてるし,工事の音でもないし……」といった具合に記憶と知識を総動員して音の認識が行われている.むろんこの能力は重要で,これがなくては人間は鳴っている音からそれが何かを認識することができなくなる.
が,実は音を聴くというのは,この選別して認識する作業のことだけではないのだというのを次の訓練で思い知らされることになる.音に名前をつけずに,ある音に集中せずに,自分のいる状況全体の音をひたすら「ぼや〜ん」と長時間,聴くようにするのだ.たとえば車の音が聞こえたとしても,「あ,車の音だ」みたいに音に名前をつけてはいけない.やってみればわかるけど,これはなかなか難しい.すぐになにか目立つ音に気持ちが奪われてしまうし,そうでない場合も「音に名前をつけまい」という意識ばかりが勝ってしまって,ちっとも全体を耳がぼや〜んと受け入れるなんて状態にならない.
が,何ごとも辛抱……というか,こんなことをやっているとそのうち眠くなってきて,で,その瞬間,それまでバラバラに意味として聞こえてきた音が溶け出して,音と音の境目があいまいな,なんだか全体がもやもやした状態になってくるのだ.「ん? 単に眠いだけ?」とか思ったが,ま,半分はそうなのだけれど,変な意識みたいなものが切れたおかげというか認識力が低下したおかげなのか,とにかく言葉になるような音の聞こえ方とは別の,全体がもやもやしたものが聞こえ出す.
たとえば,風鈴やシンバルのような,なるべく余韻が長いもので試してみるといいけれど,音の余韻が消え入る瞬間によく注意してみよう.その音が背景のノイズの中にグラデーションのように溶け入るのを聴くことができるだろう.徐々に音が減衰していくところに集中して聴いてみると,余韻が消えていく時間の中で,ゆっくり背景のノイズが浮かび上がってくる.余韻と背景の音がクロスフェードする中で,余韻と背景音が溶け合う瞬間を聴くことができるはずだ.
この音の境目があいまいな感じが,さっき書いた「ぼや〜ん」と聴く方法だと,すべての音に適応される感じになってくるのだ.本来は,突出した音以外は,だいたい音と音との境目はあいまいで,実は人間の意識やら認識能力のようなものが,ある音だけを明確に聞き出して意味として認識しているってことらしく,だからこの意味として認識する聴取方法ではないほうの,全体を「ぼや〜ん」と聴くほうの脳内ソフトをフルに起動させて,意味聴取のほうのソフトをオフにしていくと,音の境目があいまいになって,なんだかすべての音が印象派的な感じで溶け出すのだ.慣れてくると遠近感すら溶け出してくる.大げさにいえば,今自分を取り巻いている音が,まるでAMMの演奏のような感じになるのだ.あるいはまったくナチュラルな状態でちょっとドラッグっぽい感じになったというか…….これはけっこう楽しめる,なんて思って意識が冴え出すと,また聴こえなくなったりして,このへんはちょっと立体視にも似ている.
ま,そうとう面白い現象には違いないので,その後わたしはことあるごとに,ひとりでもこの「音溶かし」で遊ぶようになった.で,これをやると,いつもなら聞こえない音が聞こえてきたりして,集中して音を聴くときよりも,逆にかえっていろいろな音が聞こえてくるようになるのだ.むろんステージで聴こえてくる音も,それまでとはまったく変わってきて,たとえばPAの出す高周波のノイズやらパワーアンプのファンの音やら,照明のノイズが,良くも悪くも演奏と同等の音として響いてしまったり,バイブラフォンのペダルを踏むキュウキュウいう音なんかがすごく美しく聞こえたりするようになった.
つまりは,音の聴き方には認識的に聴く方法(はっきりと焦点を当てる聴き方)と,非認識的とでもいうしかない,ぼやんと全体を感じるような聴き方があって,それぞれの聴き方が双方を補完しあって聴取を可能にしているってことらしいのだ.で,それまでわたしは音楽を聴く際に,前者の,わたしの価値観で音楽と認識できるものを音楽として聴く……ってほうに偏って聴いてきたってことなのだ.だからその音楽の語法に関係のない音―照明のノイズとかペダルの音―とかにあまり意識がいってなかったのかもしれない.ないものとして雑音扱いしていたというか,認識外の音には耳が開いていなかったというか,正確には認識している音だけを把握した時点で,ある種の耳が閉じてしまうために,他の音にまで意識がいかなかったのだ.
別のいい方をすると,集中して聴くことで聞こえる音と,逆に集中することで聞こえなくなる音がある.集中して聴くという行為は,先述したように,聴いたものをあるまとまった意味として認識し,他の音とは強烈かつ強引に区別してカテゴライズしてしまうという脳内の行為と切っても切り離せない関係にある.この脳内音響識別認識ソフトのようなものが駆動しだすと,一度認識された枠組みを外すのは大変難しくなる.
フレデリック・モンポウ - 前奏曲 6.11.12番 - 高橋悠治
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