1. 2015年12月09日 22:36:33
: jXbiWWJBCA
: zikAgAsyVVk[118]
現実逃避しても問題は解決しないし意味もないhttp://diamond.jp/articles/-/67572 イスラームとISISは本当に無関係なのか? クルアーンでは、異教徒の侵略でイスラームが危機に瀕している場合、すべてのムスリムにジハード(聖戦)を実践する義務があるとします。7世紀のムハンマドにとってジハードは、生まれたばかりのウンマ(イスラーム共同体)を守るためぜったいに必要な教義でした。しかしその後、政敵を「反イスラーム」と名指ししてジハードを煽る者が続出したため、これはきわめて危険な教えになっていきます。そのため近代のイスラーム社会では、ジハードを命じることができるのは国家だけとされました。 しかしISISは、こうしたジハードの「近代的解釈」を拒否します。彼らにとって、国民国家や民主政はクルアーンに書かれていない異教徒の制度です。アラブの国の多くは部族の長が「国王」を名乗っていますが、ムハンマドは部族支配を打ち破るために剣を取りました。敬虔なムスリムの義務とは、偽りの「国家」からイスラームを救い出すことなのです。 現代のジハード論が欧米の植民地支配に対抗するなかから生まれたイスラームの正統な教えであることは、イスラーム思想のどんな入門書にも書いてあります。その事実を無視し、「イスラームと『イスラム国』は無関係」と繰り返すだけでは、ますますイスラームへの偏見を助長してしまうのです。 参考文献:池内恵『イスラーム国の衝撃』 http://diamond.jp/articles/-/82665 ISが「神の名の下に無辜の市民を殺す」論理を イスラームは、完全否定できるのか? イスラームとはなにか? 中田氏はそれを「神への服従」だという(イスラームの原義は「服従」)。イスラームへの入信の際、「アッラーのほかに神はなし」「ムハンマドはアッラーの使徒である」の2つの章句を唱えるのだが、この章句をこころの底から信じたときに価値観の全面的な転換が起こる。この宗教体験がなければイスラームを語る資格はないし、説明されても正しく理解することはできない、というのが中田氏の立場だ(当然、私にもイスラームを語る資格はない)。 こうした厳しい留保をつけたうえで中田氏は、「神への絶対的な服従」とは、アッラー以外のいかなる権威も認めないことだと述べる。従うべきは神だけなのだから、世俗の権力者はもちろん、カトリックにおける教会のような宗教的な権威もイスラームには存在しない。神の下にひとは平等であり、「いかなる人間の組織にも他者を従属させる権利はない」という“神中心主義”がイスラームの根本原理なのだ。 原理主義的な立場からは、イスラームは反ヒューマニズム、反人権、反資本主義、反国家、反デモクラシー、反近代ということになる。 イスラームにはテロを批判する論理がない 中田氏は、ヒューマニズムは「人間中心主義」だから反イスラームだという。だとしたら、ヒューマニズムの名のもとにテロを批判してもなんの意味もない。 もちろんイスラームでも殺人は禁じられている。だがこれはすべてのひとに平等に人権が与えられているからではなく、クルアーンに(モーゼの律法にも)「殺すなかれ」と書いてあるからだ。 テロが無差別殺人であれば、それが神の法に反することはいうまでもない。だがISはこれをジハード(聖戦)だと主張していて、クルアーンではジハードは「義務」であると同時に「天国への最短ルート」だから、賞賛されるべきことになる(ジハードで死んだ者は最後の審判を待たずに天国に直行できる)。 卑劣なテロがジハードであるはずはない、と誰もが思うだろう。だが中田氏の論理では、これもまた信仰を持たない者の誤解だ。世俗の宗教的権威を否定しているイスラームでは、ジハードかどうか決める者はいないのだ。 むろん多くのウラマーがテロを批判するファトワー(勧告)を出している。しかしISに近いウラマーは、「フランスは空爆によってイスラーム国の一般市民を殺害しており、報復としてフランス市民を殺すのはジハードだ」と主張するだろう。 カトリック教会のような宗教的権威を持たないイスラームでは、ウラマーが異なる見解を述べた場合、いずれの主張が正しいかを客観的に知る方法がない。そうなると、個々のムスリムは誰の見解を「真のイスラーム」と見なすかを自由に決めていい(というか、それ以外にやりようがない)ことになる。このことを中田氏は、「イスラームは人の内心(プライバシー)に干渉しない」と述べる。内心を知るのは神だけで、ムスリム(を名乗る者)の行為をテロだとかジハードだとか、第三者が決めつけることは許されないのだ。 こうして(中田氏のいう)イスラームでは、イデオロギー教育はすべて否定される。シャリーア(イスラーム法)をそのまま実行すると、一人ひとりのムスリムにそれぞれ「正しいイスラーム」があるというアナーキズムになるほかないのだ。――これは、イスラームに複数の教義がある、という相対主義ではない。教えはひとつしかないが、どれが正しいかは神しか知らない(人間には神の真意を知る術はない)のだ。 だがそうなると、イスラームにはテロを批判する論理がなくなってしまう。ISのファトワーを信じてテロ(ジハード)を行なったのはその信徒の「内心の自由」で、神がそれをジハードと認めれば死者は天国に直行し、殺人と見なせば地獄の業火に焼かれる、というだけのことだ。 そのうえ中田氏によれば、イスラームでは無知は罪にならない。偽のファトワーを信じたことが無知によるものであれば、テロの実行犯はアッラーの寛大さによって地獄行きを免れるかもしれない。すべては神の御心次第(インシャラー)なのだ。 http://www.kt.rim.or.jp/~pinktri/afghan/islam.html イスラーム原理主義の軌跡と現在 〜「9.11事態」との関わりから考える〜(2001年10月19日筆)〜 |