2. 2015年10月27日 03:22:04
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モスクワに漂う1990年代の香り 経済制裁下のロシア〜〜物資不足、不動産問題、社会的な不安定性 2015.10.27(火) 市野 ユーリア モスクワの赤の広場と聖ワシリイ大聖堂界隈 (c) Can Stock Photo 私は2年以上モスクワに戻らなかった。1カ月前に戻ってみると、真っ先に空気中に非常に馴染みのある何かを感じた。一種のデジャブ(既視感)のようなものだ。それは私たちが1990年代に覚えていたのと同じ感覚だった。 なぜ90年代に戻ったように感じるのだろうか。そんなことを考えていたら、本当に驚いたことに、「90年代の島」と題したフェスティバルがモスクワ中心部で開かれるという話を聞いた。 なんて奇妙な偶然なのか! 90年代に入った時、私は大学生で、続いて大学院生になり、新たに受け入れられた「資本主義」の下で働くようになり、資本主義の負の側面を体験した。明るい面は1つしかなかった。私は若く、エネルギーに満ちていたのだ。 若者が経済自由化を歓迎した時代 いずれにせよ、私たちの世代は、ソ連共産党中央委員会の年寄り連中に我慢がならず、大きなロマンと希望を胸に抱きながら、この新たな時代を受け止めていた。ある日、ラジオ局の新人ジャーナリストだった私は、経済を専門とする同じく20代半ばの同僚女性とともに第1次エリツィン政権で首相(代行)を務めたエゴール・ガイダル氏をインタビューすることになった。 何しろガイダル氏はエリツィン政権下で急進的な経済改革を断行した中心人物だ。 取材に向かう途中、私たちは2人で大いに盛り上がった。ガイダル氏は取材当時はすでにロシア首相(代行)を退任して、経済研究センターの所長に転じていた。 ガイダル氏のオフィスに入ると、彼は暗い顔をし、疲れた様子でテーブルに着いていた。当時、あらゆる人から厳しい批判を浴びせられており、自分のことを捨てられた人間だと思っていたに違いない。 だから、私たちは部屋に入り、最初にこう切り出した。 「ガイダルさん、インタビューを始める前に、頬にキスしてもいいでしょうか?」 意表を突かれ、「何のために?」と問う彼の目に、私たちは期待感を見て取った。 「経済自由化の対価です」というのが、私たちの返事だった。 すると、ガイダル氏は満面に笑みを浮かべながら、「もちろん!」と言って、機嫌よくテーブルから立ち上がった。 だから、あの日、私たちは彼に、若者世代は新たなロシア経済の下で彼の功績を高く評価するという大きな希望を与えたのだと思う。実際、あの頃、若者は本当にガイダル氏に感謝していた。友人の経済専門家は1週間もジャガイモしか食べておらず、私自身もほとんど変わらない状況だったにもかかわらず、だ。私たちは祖国が正しい方向に進んでいると信じていたのだ。 一般市民にとって(あるいは大半の人と言うべきか)、90年代は3つのことを意味した。モノ不足と不動産問題、そして社会的な不安だ。 最近のロシアの状況は多少異なるが、市民が感じ取る影響は間違いなく似ている。 モノ不足 現在の西側諸国の制裁下での物資不足は、食べるものさえろくになかった90年代のモノ不足ほど致命的な問題には見えない。確かに、モスクワのスーパーでは、もう欧米諸国に対する食料禁輸措置導入以前のような多彩な品ぞろえは見られないし、店員もサービスをさぼっている。実際、店員は顧客よりも退屈そうに見えるほどだ。 物価は残念ながら日増しに上昇しているが、どんなモノ不足にも増して目を引くのは、これまで私が見たこともなかったエキゾチックな商品のことだ。イラン製のチーズ、ウルグアイから運ばれたビーフステーキ、モーリシャス産の魚といったものがモスクワの店頭に並んでいるのだ。 これまではチーズと言えば、スイスやフランス、ドイツ産がいつでも買えたが、イランのチーズなど見たことがなかった。制裁で欧州諸国から輸入できなくなり、調達先が変わったわけだが、これはロシアが輸入代替に成功していない証左でもあるのだろう。 91年の旧ソ連クーデター未遂、初期電子メールが世界に情報発信 1991年8月19日、旧ソ連共産党守旧派によるクーデターに反対し、同連邦ロシア共和国の最高会議ビル前で戦車の上に立っての演説で、クーデターへの抵抗を呼び掛けるボリス・エリツィン・ロシア共和国大統領〔AFPBB News〕 だが、実は6月以降、食料配給カードが支給されるという話がある。そうなったら、本当に90年代に逆戻りだ。 当時のロシアでは、バターと砂糖、たばことウォッカだけが購入を保証されていた。 現在、当局は低所得層向けの「健康に良いバランスの取れた」食料配給カードについて語っている。ここに、一体どんな品目が含まれるのか、興味深いところだ。 不動産問題 私は90年代にアパートを借りており、本当に辛い思いをした。家賃は当初、私の給料の3分の1、次に半分、最後には3分の2を占めるようになった。 賃料よりひどいのが、オーナーが決める賃貸条件だった。2年間の賃貸契約に同意したのに、突如、1年で引っ越すよう通告してきたり、家賃の支払いをルーブルからドルやユーロ、場合によってはポンド建てに切り替えることを要求してきたりした。オーナーは毎月家賃を値上げすることができ、入居者は抗議することもできなかった。アパートも不足していたからだ。 現在、状況は正反対と言ってもいいだろう。2000年代の建設ラッシュの結果、余剰アパートがかなり生じ、それに伴い家賃も下がっている。また、法的基盤が整ってきたため、入居者に対する権力乱用は阻止されている。問題はもっぱらルーブル急落によって外貨建ての住宅ローンの返済に窮した人々の救済問題に移っていった。 今では、問題を抱えているのはアパートのオーナーの方だ。少なくとも、オーナーは儲からなくなっている。 入居者は家賃の支払いをドルに切り替えるのを拒んでいるだけでなく、ルーブル建ての家賃の値下げを交渉し始めているからだ。 社会的な不安定性 社会的な不安定性という不快な特徴は、確かにロシアに戻ってきたようだ。この2カ月ほどで、数人の友人が職を失った。まだ仕事がある友人は明らかに給料が減っている。家族持ちは、購入や消費に慎重に優先順位をつけるようになり始めた(これはロシア人が過去10年間でやるのを忘れてしまったことだ)。 お店やレストランに入ると、また、ふと思うことがある。この商品の品質は適切なのか。この商品は本当に大丈夫なのか。値段がかなり安い場合は、特に心配になる。輸入代替がロシアの消費者を満足させるまでには、まだ時間がかかりそうだ。 モスクワ地下鉄では、最近、警官の姿が目立つ。無賃乗車を防ぐために、ゲートの近くで警備にあたることが多い 私が見ていて、この不安感をかなりよく反映していると思えるのが、モスクワの地下鉄だ。90年代は、地下鉄の運行が止まったり、遅延が発生したりすることが多く、車両にもさまざまな問題が生じた。 ある日、私はしびれを切らし、モスクワの地下鉄に何が起きているのかと運転士に聞いたことがある。すると、運転士は返事代わりに、大都市モスクワの隠れた問題の数々を説明した特別なチラシを1枚くれた。 そして今、地下鉄の技術的な状況は、まるで20年前に戻ったかのように見える。運行の遅延やトンネル内での車両の待機、昨年7月に起きた悲惨な脱線事故などは、地下鉄という輸送網の財源不足を物語っているのかもしれない。 一方で、車内や駅構内からは広告ポスターが消え、地下の雰囲気は暗くなり、時代遅れに見えるようになった。 もっとも広告について言えば、理由はかなり平凡なものだ。 モスクワ・メトロ広報担当のアンドレイ・クルザリン氏によると、これまでGEMAという広告代理店が、モスクワ地下鉄内の広告管理の独占権を得ていたが、同社が経営不振で契約を履行できなくなったのだという。クルザリン氏は「年内に再度入札を実施し、より信頼できる広告代理店を探す予定だ」と話している。だから、遅かれ早かれ、ポスターやステッカーは戻ってくるのだろう。 地下鉄の切符の料金も高くなり(すべての路線が均一料金で、現在50ルーブル=約100円)、10代の若者や年金生活者など、お金を払わずに地下鉄に乗ろうとする人を毎日数十人見かける。 モスクワ・メトロがいつの日か、東京の地下鉄のように見事に管理されるようになり、輸送と情報と教育の機能がすべて1つにまとまった偉大な道具になることを私は心から願っている。 郷愁はまったくなし 90年代は本当にチャンスがたくさんあり、勇敢な人はチャンスをつかみ、うまく流れに乗ることができたろう。だが、悲しいかな、こうした機会はすべて、インフラや法律、そして新たな国家とは何を意味するのかというビジョンが全く欠如した状態に基づいていた。 私は今日でさえ、時折、ただ生き残ることではなく、ずっと有意義なことに自分の若さとエネルギーをつぎ込んでいたら、一体どうなっていたかと思わずにはいられない。 「90年代の島」フェスティバルは、エリツィン・センターという非営利組織とポータルサイトの「Colta.ru」と「自分史」の3者のジョイントベンチャーのようなイベントだった。一般市民の反応がかなり複雑だったのは意外ではない。一部の人は報道の自由や新しい文学、映画について話していたし、一部の人(実際、絶対的な大多数の人)は殺された友人や亡くなった友人、失業し、悲観した親族について話していた。 著名ジャーナリスト・作家のザハール・プリレピンはフェイスブック上で、90年代に赤ん坊だった息子を食べさせるお金がなかったため、妻とともに繰り返し、お店から食べ物を盗んだことを振り返っていた。 この回顧的なイベントがなぜ今開催されたのか。そう考えていたところ、エリツィン・センターからコメントを得られた。 向こう2カ月以内に、エカテリンブルクで「ボリス・エリツィン大統領センター」の開館式が行われる。実際、これは90年代という時代を記念する博物館だという。 「最近の歴史的な出来事に対する国民の関心の高まりが見て取れます」。エリツィン・センターの広報担当者、マリナ・ペトルシュコ氏はこう言う。 「90年代は新たなロシア史における重要な時代でした。個人と社会の双方にとって、そのような時期を再考することが重要です」 「フェイスブックを利用する何千人ものロシア人ユーザーが90年代の写真や思い出を掲載したのを見るといいでしょう。自分たちが20年、25年前に何をしていたか、何を着て、どんな仕事をし、どこに旅行に行っていたか、思い出しています」 だが、この「90年代の島」フェスティバルに対する「新しい政治的プロジェクトだ」とか「歴史の修正だ」とか「あの時代の地獄」といった批判的なコメントの数々を考えると、ロシア人が90年代に郷愁を覚えている、あるいは同じような時代を再び経験したいと思っているとは、とても言いがたいのが現状だ。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45050 |