1. 2015年9月11日 00:26:58
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2015年9月10日 橘玲 ユーゴ内戦でジェノサイド=民族浄化を生み出した バルカン半島の「歴史の記憶」 [橘玲の世界投資見聞録] 旧ユーゴスラビアの解体にともなって1991年から2000年にかけて、クロアチア、ボスニア、コソボなどを舞台にセルビア人、クロアチア人、ボスニア人(ボシャニャク人)の三つ巴の凄惨な内戦が勃発した。その象徴的な事件が、1995年7月にボスニア人男性7000人が殺害された「スレブレニツァの虐殺」だ。[参考記事] ●ボスニア・ヘルツェゴビナ、「スレブレニツァ虐殺」から20年の今、教訓にすべきこととは? ユーゴスラビア紛争は当初、過激な民族主義(大セルビア主義)を唱えるセルビアに対してスロベニアやクロアチアが民族自決を要求し、その後は(セルビア人主体の)旧ユーゴスラビア政府に抵抗するボスニアやコソボのムスリムが「民族浄化」の犠牲になった、という「わかりやすい物語」が欧米メディアで大々的に報じられた。 こうした勧善懲悪の善悪二元論に当初から懐疑的だったのが日本のジャーナリストたちで、欧州政治の利害関係から自由な彼らは、この内戦がはるかに複雑な問題を抱えていることに気づいていた。講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞をダブル受賞した高木徹氏の『ドキュメント 戦争広告代理店 情報操作とボスニア紛争』 (講談社文庫)、Jリーグ名古屋グランパスのスター選手(のちに監督)だったドラガン・ストイコビッチとの出会いからユーゴ内戦を取材した木村元彦氏の『悪者見参 ユーゴスラビアサッカー戦記』 (集英社文庫) 、ボスニア出身の元サッカー日本代表監督イビチャ・オシムの通訳を務めた千田善氏の『ユーゴ紛争はなぜ長期化したか 悲劇を大きくさせた欧米諸国の責任』(勁草書房)などがその代表的な作品だ。 『戦争広告代理店』で高木氏は、セルビア人を加害者、ボスニア人を被害者とする内戦の構図が生まれた背景に、アメリカの凄腕PRマンの情報操作があったことを説得力をもって示した。木村氏はセルビア人サッカー選手への取材からユーゴ内戦の報道があまりにも一方的であることを、千田氏はドイツをはじめとするEU諸国の独善的な関与が事態を泥沼化させたことを鋭く告発した。 ベオグラード。空爆されたビル (Photo:©Alt Invest Com)
東欧史・比較ジェノサイド研究の佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』(有志舎)は、膨大な文献と資料を渉猟し、客観的・中立的な立場から凄惨な民族浄化の歴史的経緯をまとめた日本人歴史家によるきわめてすぐれた仕事だ。ここでは佐原氏の労作に依拠しながら、「歴史の記憶」が如何にしてジェノサイドを生み出したのかを見ていきたい。 バルカン半島に3つの民族集団が生まれた背景 バルカン半島の中西部では中世初期以来、南スラブ語に属するセルビア・クロアチア語を話す集団による封建国家の興亡があり、14世紀以降はハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)とオスマン帝国(オスマントルコ)の支配下に置かれた(それに対して、バルカン半島西端に住むアルバニア人は、南スラブ人とは異なるインド・ヨーロッパ語族系の民族とされる)。 オスマン帝国時代は、土着のスラブ系封建領主階層がイスラームに改宗し、トルコ系の官僚とともに地主・行政エリート層を形成していた。それに対して正教(セルビア、モンテネグロ、マケドニア)かカトリック(クロアチア、スロベニア)かにかかわらず、キリスト教徒のスラブ人の多くは農民・小作人で、宗教が社会階層に直結していた。都市部の商人・職人層はイスラーム、農村部はキリスト教という文化的棲み分けも顕著だったが、その一方で宗教は絶対ではなく改宗も日常的だったという。 19世紀になると、フランス革命に端を発した民族国家(国民国家)の波がバルカン半島にも押し寄せ、オスマン帝国の退潮もあって民族意識が形成されるようになる。 1804年には、現在のセルビア共和国中央部に相当するシュマディア地方で、ムスリム地主層の収奪に抵抗するキリスト教徒農民の大規模な反乱が勃発した。農民たちは当初、ムスリム地主の専横に抵抗しただけでスルタンには忠誠を誓っていたが、事態を重く見た中央政府が軍隊を派遣したことで、オスマン帝国からの独立を求める民族運動へと発展した。彼らが中世セルビア国家の継承者を名乗ったことが、セルビア民族主義の原型とされる。 聖サワ正教会(ベオグラード) (Photo:©Alt Invest Com)
農民反乱に手を焼いたオスマン帝国は、1816年にセルビア公を任命して自治権を与え、自治領内でのムスリムの居住を禁じた。こうしてセルビア人首長がセルビア人を統治する政治体制が生まれ、この「国家」を中心にセルビア人意識が広がっていく。 同じ時期、ハプスブルク帝国南部に暮らすカトリック教徒のスラブ人のあいだにも口語による文芸運動を端緒とする民族運動が起こり、それが政治運動へと変わっていく。彼らは中世クロアチア国家の継承者として、クロアチア人と呼ばれるようになる。 オスマン帝国支配下のボスニアでは、ムスリムのスラブ人は支配集団と一体化して「トルコ人」を名乗っていた。1878年にボスニアがハプスブルク帝国に占領されると彼らは「トルコ」から切り離されたが、オーストリア政府は大土地所有制に反抗する零細農民たちのセルビア民族主義を警戒し、ムスリムを優遇した。その結果彼らは、セルビア人でもクロアチア人でもない「ムスリム(イスラーム教徒)」という独自のアイデンティティを獲得することになる。 このようにして19世紀後半から20世紀の直前にかけて、農業問題など社会経済的対立からバルカン半島に3つの民族集団意識が生まれることになった。だがこうした歴史的経緯から明らかなように、彼らはもともと(南スラブ人という)出自を同じくしており、「固有の民族」ではなかった。 1915年、最初の「民族浄化」が起きた 1908年にハプスブルク帝国がボスニアを正式に併合すると、急速に近代国家の陣容を整えつつあったセルビア王国との対立は決定的なものになった。1914年6月28日、セルビア民族主義者の青年がハプスブルク家の王位継承者フランツ・フェルディナント夫妻をサラエボで暗殺し、第一次世界大戦が勃発する。 ボスニアの帰属をめぐってオーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国が戦争に突入すると、ハプスブルク政府は帝国内のセルビア人に対する徹底した弾圧を行なった。ボスニア総督スティエパン・サルコティチは公開裁判や即決裁判などで5000人を処刑し、領内のセルビア人の追放・強制収容によって10万人以上が故郷を追われた。またクロアチア人や「ムスリム」から編成された特殊部隊が農村部でセルビア人の大量虐殺を行ない、これがボスニア史上初の「民族浄化」とされている。 1915年10月、ブルガリアの参戦によってセルビア軍は敗北し、セルビア国王は牛車に揺られてコソボからアルバニアにかけての山岳地帯を抜け、ギリシア領のコルフ島に亡命した。このときの飢えや寒さ、アルバニア人の襲撃などによって24万人以上が死亡したとされている。 ハプスブルク帝国に占領されたセルビア全土は2年半にわたって過酷な食料徴発や弾圧に苦しみ、10万人以上が追放されるか強制収容所に送られ、飢餓とチフスによって15万人以上が死亡した。当時のセルビア王国の人口が450万人だから、そのすさまじさがわかるだろう。 だが1917年になると戦況は逆転し、ギリシア領内で再編されたセルビア軍はフランス軍とともに進撃、ブルガリア軍を破って国土を解放した。 戦勝国の一員となったセルビアは、その大きな犠牲に見合うだけの領土拡大を求めることになる。このとき台頭したのが、クロアチアやスロベニアを含む南スラブ地域全体の統一を目指す「大セルビア主義」だ。 ベオグラード要塞に展示された兵器 (Photo:©Alt Invest Com) クロアチアやスロベニアは当初、セルビアの覇権を警戒していたが、イタリアがスロベニア地方とバルカン半島の地中海沿岸一帯(ダルマチア)の併合を画策するようになると、「南スラブ人の統一国家」という構想を受け入れざるを得なくなった。こうして1917年12月に、「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国」の樹立が宣言される。
この新国家は、「多民族国家」ではなく、建国宣言では「セルビア人、クロアチア人、スロベニア人は3つの名を持つひとつの民族」とされ、「単一民族」の自決権による国民国家の体裁が守られた。だがこの新国家の運命は、建国直後から大きく動揺する。その原因は、政治の中心であるセルビアと経済の中心クロアチアの対立と、私怨による政党政治の混乱だった。 1929年1月、業を煮やした国王アレクサンダル1世は突如憲法を停止、議会を閉鎖して「ユーゴスラビア王国」を宣言した。国王による独裁は当初、政治の混乱にうんざりしていた国民から好意的に受け入れられたが、世界恐慌で農産物価格が下落し農民たちの収入が激減すると各地で暴動が頻発するようになり、共産党や極右民族主義の台頭を許した。 1934年10月、国王が外遊中のマルセイユでクロアチア人とマケドニア人の極右勢力に暗殺され、王国の命運は風前の灯火となった。ヒトラー率いるナチス・ドイツが東欧へと触手を伸ばしはじめていたのだ。 ヒトラーの憤激により分割・占領される ユーゴスラビア王国政府は、ドイツ・イタリアの枢軸国に接近する一方で英仏とも良好な関係を保つ綱渡り外交をつづけてきたが、第二次世界大戦が勃発すると、ヒトラーはユーゴを強引に三国同盟に加入させた。伝統的に反ドイツ感情の強いセルビアの軍人たちがこれに反発してクーデターを決行、政府を交替させたものの、これがヒトラーの憤激を呼んで枢軸国による侵略を招くことになる。この政治的失敗によって、攻撃を受けてわずか1週間で王国は崩壊、ドイツ、イタリア、ブルガリア、ハンガリー、アルバニアに分割・占領されてしまう。 セルビア本土はドイツが傀儡政権を樹立したものの反乱に手を焼き、占領責任者のフランツ・ベームはドイツ兵1人の死に対して100人のセルビア人を殺し、負傷に対しては50人を殺す「1対100レート」の原則を宣告した。 1941年10月、セルビア中部のクラグエヴァツ市でユーゴ王国の残留部隊がドイツ軍に待ち伏せ攻撃を仕掛け、10人が死亡し26人が負傷すると、ドイツ軍は近郊の農村で約300名の市民を殺害するとともに市街地に向かう道路を封鎖し、次いで市街地に突入して16歳から60歳までの男性市民1万人以上を拘束した。そのなかには教室で授業を受けていた300名の高校生と18人の教師も含まれていた。 ドイツ軍は翌朝に射殺を開始し、処刑は翌日までつづけられた。死者の総数は2300名と報告されているから、ドイツ兵の死者数に「1対100レート」を適用した数に見事に一致している。 バイオリンを弾く少女(ベオグラード) (Photo:©Alt Invest Com)
ナチスの残虐行為に刺激され、民族的暴力の波がユーゴ全土に広がった。その主役になったのが傀儡国家「クロアチア独立国」の極右民族主義団体ウスタシャだった。 クロアチア独立国はクロアチア人の単一民族国家の実現という建前で建国されたが、実際には630万の人口中、200万人のセルビア人、75万人のボスニア人(ムスリム)、3万人のユダヤ人、およびロマ民族がいた。ナチスに協力して傀儡国家の実権を握ったウスタシャは、「この国を真にクロアチア人のものとし、我々を脅かしているセルビア人を一掃するためにいかなる手段でも講じる」と宣言して、大規模なセルビア人撲滅政策を実行した。 ウスタシャは政権樹立直後からセルビア人の大量追放を開始し、ドイツ軍の記録で14万人、記録に残らない移民を含めると少なくとも18万人が3カ月で追放された。この大量難民はドイツの占領政策にとっても脅威となったため、ドイツ軍は再三クロアチア側に抗議し、ついには国境を閉鎖した。追放が不可能になると、次なる選択肢として虐殺が常軌を逸した規模で展開されるようなる。 ウスタシャによるセルビア人の犠牲者数については30万人から70万人までの諸説があるが、米国のホロコースト記念博物館は33万人から39万人としている。仮にこの中間をとって35万人が殺されたと見ても、セルビア人の6人に1人が殺されたことになり、第二次世界大戦中の犠牲者の割合としてはロマ、ユダヤ人に次ぐ高い数字で、「ジェノサイドと呼ぶに相応しい出来事であった」と佐原氏は総括する。 ナチスよりも早かったウスタシャの強制収容所 ウスタシャによる虐殺の一部は専用の強制収容所で行なわれた。その時期は「ユダヤ人問題の最終解決」のためにつくられたナチスの強制収容所より早く、1941年4月29日に最初の強制収容所が設置され、「人種的に好ましくない人々」としてユダヤ人、ロマ、セルビア人を収容した。以後、同様の施設が各地に設置され、総計30に達した。最大規模の施設はヤセノヴァツ収容所で、1941年9月に設置され、最終的に10万人ちかくが殺されたと推計されている。 ヤセノヴァツでは、セルビア人を大量かつ合理的に抹殺するためのさまざまな手法が取り入れられていた。収容所の衛生問題を担当したクロアチア人医師の回想によると、銃殺、撲殺、絞殺や閉所に閉じ込めての窒息、生きたままの火あぶり、野外に放置して凍死させる、食事を与えずに餓死させるなど、その方法は約50通りに及んだ。もっとも有名なのがナイフや斧、まさかりなどによる頭部の切断で、「セルビア人カッター」と呼ばれる特殊なナイフによる頚動脈の切断がウスタシャの代名詞になった。 遺体処理は当初、レンガ工場の炉を改造していちどに数十体を焼却できるようにした火葬炉で行なっていたが、悪臭で大量虐殺の事実が漏れることを恐れたウスタシャはまもなく集団埋葬に切り替えた。1961年11月に行なわれた発掘調査では埋葬地の約10分の1を掘り進んだ段階で5万8000もの頭蓋骨が発見され、予想外の大量の死体に驚いた当局が発掘を中止させたためその実態はいまだ解明されていないという。 ウスタシャによる最初の大量虐殺は1941年4月27日で、クロアチア兵士1人が殺害された報復にセルビア人男性196人が殺害された。ウスタシャは5月9日に400人のセルビア人農民を殺害し、その4日後には260人のセルビア人を殺害した。こうした大量虐殺は6月から7月にかけてエスカレートし、多数の女性や子どもを含む虐殺が各地で行なわれた。 セルビア正教会(ベオグラード) (Photo:©Alt Invest Com) ボスニアではセルビア人が最大の民族であり、クロアチア人は2割にも満たなかった。そこでウスタシャはムスリムを「イスラム化されたクロアチア人」であると主張し、「クロアチア民族の花」と呼んで持ち上げた。
ウスタシャは一部のムスリム協力者を加えて、1941年夏にボスニア全土でセルビア人の追放と虐殺を開始した。その光景を、当時の手記を引用して佐原氏は次のように描写している。 「村に入ると、頭を後ろから打ち抜かれた二人の農夫の遺体が大きな梨の木の下に横たわっていた。そこでは他に六人が殺され遺体は運び去られていたが、幾つもの黒ずんだ血跡が草の上に残っていた。さらに進むと、道の真ん中に二〇人程の遺体が山になっていた。成人男性の遺体は二つしかなく残りは女性と子供たちだった。近くにはまだ温もりが残る揺りかごが転がっており、頭部を砕かれた嬰児の死体が傍らにあった。赤ん坊の左側には胸部を叩き潰され腹部がぷっくりと膨らんだ女の子の遺体があった。その他の遺体も一様に切り刻まれており、一〇歳くらいの少年の遺体には額や頬にナイフで突き刺された跡がはっきり残っていた。 さらに進んで村の中心の十字路に差し掛かると、二五〜三〇人の遺体の山があった。男も女も大人も子供も一緒になった腕や足や頭の固まりに見えた。その中には、胸にしっかり赤ん坊を抱え込んだ母親の姿もあった。もう一人の母親は子供を背中に背負っていたが、子供は恐怖におびえた表情のまま息絶えていた。虐殺は民家の中でも繰り広げられていた。雑貨屋だった建物の中は血まみれで、薄暗がりの中にはぼろぼろにされた死体の山が積み重なっていた。別の家では、年老いた母親と二人の息子の遺体があり、いずれも頭部を砕かれていた。もう一つの家では戸口に薬莢が散乱し、喉をかききられた三〇歳くらいの若い女性が倒れていた。このような残虐行為がウスタシャによって繰り返されていたのである」 東ヘルツェゴビナでは、侵食によってできた石灰岩の深い裂け目や鍾乳洞が各所にあり、多数の人々がそこに生きたまま投げ込まれた。こうした場所は戦後、「穴(ヤマ)」と呼ばれるようになり、その記憶は犠牲者であるセルビア人と加害者であるクロアチア人やボスニア人の関係に癒しがたい傷を残すことになった。 ジェノサイドの典型とみなされるウスタシャの残虐行為 ウスタシャの暴力の犠牲になったのはセルビア人だけではなく、クロアチア共和国にいたユダヤ人の75%、ロマの96%が虐殺された。第二次世界大戦中にはさまざまな民族暴力が繰り広げられたが、ウスタシャが行なった残虐行為は桁外れだった。「彼らは他のいかなる勢力よりも多くの人々を殺害したし、絶滅型収容所を導入し、行政機構が主導する住民の体系的な虐殺という前例のない政策を遂行した」。 この結果、旧ユーゴではウスタシャの残虐行為がナチスのホロコーストよりもはるかに重大視され、ジェノサイドの典型とみなされるようになった。ウスタシャのスローガンである「民族的に純粋な国家」そのものがジェノサイドの同義語として定着した。 この「歴史の記憶」が、半世紀後のユーゴ内戦において民族浄化=ジェノサイドへとつながっていくのだ。 ベオグラード (Photo:©Alt Invest Com)
*本稿の歴史的な記述は、佐原徹哉氏の『ボスニア内戦 グローバリゼーションとカオスの民族化』に全面的に拠っています。
橘 玲(たちばな あきら) 作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、歴史問題、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊『橘玲の中国私論』が絶賛発売中。●橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を毎週木曜日に配信中!(20日間無料体験中) http://diamond.jp/articles/-/78269
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