3. 2015年9月09日 10:33:35
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ドイツに国境を開けさせた幼いシリア難民の死 知性と教養、人間性が問われる問題に日本人も直面している 2015.9.9(水) 伊東 乾 独政府、難民支援に約8000億円追加拠出へ ドイツ西部ドルトムントで、鉄道駅に到着してバスを待ちながら「ありがとう、ドイツ」と書かれた紙を掲げる移民(2015年9月6日)〔AFPBB News〕 9月2日「トルコ保養地の海岸にシリア難民の3歳児が溺死して打ち上げられた」という報道があり、世界に様々な衝撃が走りました。 アイラン・クルディ君(3歳)、5歳になるお兄さんやお母さんも運命を共にしたとの報道、この悲報が引き金となってIS(イスラム国)以降の世界が大きく動き始めています。 従来、難民の受け入れに消極的だった英国のデイビッド・キャメロン首相は、アイラン君の訃報がもたらされた直後の4日、数千人規模での難民受け入れを発表。 5日、ドイツとオーストリアは国境解放を宣言、ドイツはオーストリアとの国境を開放、ハンガリーで足止めされていた難民8000人の第1陣がミュンヘン中央駅に到着、市民から拍手で迎えられたとの報道など、今まさに歴史が動き始めているのを感じます。 私も最初、この報道を仕事をしながら耳にしましたが、少年のボートが転覆する経緯を耳にして、ふと手が止まりました。 「アイラン・クルディ君の一家は、トルコの町ボドルムからギリシャのコス島を目指すボートに乗っていました。しかし、ボートが転覆して、その後海岸に打ち上げられた状態で発見されました・・・」 コス島・・・ということは、少年が打ち上げられたのは、確かに現在の「トルコ」に間違いありませんが、そこは全欧州にとって歴史的に極めて重要な場所なのです。たった数日前、小さな命が失われた「その場所」について、たぶんキャメロン首相やメルケル首相も認識しているだろう「越し方」を振り返ってみたいと思います。 ヨーロッパ知性の原点 アイラン君のボートが船出し、あえなく転覆して遺体が打ち上げられたのはリゾート地として知られるトルコ西部、エーゲ海に面したアナトリア半島の都市ボドルムの海岸でした。 ボドルムは現在の名で、古代ギリシャ世界ではハリカルナッソスと呼ばれるポリスで、紀元前484年この地で歴史の祖ヘロドトスが生を受けています。 トルコ側アナトリア半島のハリカルナッソスはエーゲ海を挟んだ対岸、ペロポネソス半島の強力なギリシャ人たちが植民市として建設したのが始めで、スパルタを中心とするドーリア人が入植したと考えられています。 進んだ文明を持つ都市国家から技術が移入され、未開ながら広大なアナトリア半島は生産性の高い肥沃な土地に生まれ変わり、イノベーションが高まり進取の気性に富んだ文化人たちが活躍し始めます。 こうした気風はアテネやスパルタ、デルフォイなど、アッティカ半島、ペロポネソス半島側の古くからのポリスと対照的だったといいます。哲学の祖とされるタレスもボドルム〜ハリカルナッソスの北にあたるミレトスで活躍し、ヨーロッパ自然科学の原点をこの地で創始しました。 三平方の定理で有名なピタゴラスもアナトリア半島にすぐ面したサモス島生まれ、つまり「ヨーロッパの知性」と呼ぶべきものの本当の原点が、エーゲ海に面した小アジアにあるのです。 この地方で生まれたアナクシマンドロスは「太陽は灼熱する石である」と看破し、保守的なアテネで太陽神アポロンを侮辱したとして告発され、アナクシマンドロスに影響を受けたとされるソクラテスは実際に死刑判決を受け、毒ニンジンの杯を仰ぎました。 一般に思想や技術が急速に進展するのは、「平時」より「乱世」であることが少なくありません。タレスらの「イオニア自然学」が急速に伸び、ソクラテスのような人物が活躍したのも古代ギリシャの乱世、特に「ペルシャ戦争」の時期でした。 一方、少年たちが目指した「コス島」は、医聖ヒポクラテスが生を受け、その地で教えたというメディカルの原点でした。 ポリスとしてのコスは「デロス同 盟」の一員として戦乱に巻き込まれ、ペルシャ軍を2度にわたって下す勇猛は働きも見せています。しかしダレイオスT世の君臨するアケメネス朝ペルシャは強大で、ミトレスが代表的ですがイオニア諸都市は徹底的に破壊されてしまいます。 まさにその同じ歴史の浜辺で、21世紀の今日、東方からの暴力によって幼い命が奪われた・・・。 西欧諸国の政治指導者は古典古代に教養を持つ人が少なくありません。もし史実と現実の符合を意識すれば、鋭敏な琴線を持つ人なら感じないわけにはいかないでしょう。 キャメロン氏の口調には、そうした響きが少なからずあるような気がしました。ちなみに、ボドルム近郊の海底には古代から近代まで、無数の沈没船が眠ったままになっているといいます。 まさにモニュメンタルな境界です。ヘロドトスの岸辺から、ヒポクラテスの自由の島を目指して船出した21世紀の難民を乗せたボートは、希望もむなしく、あえなく沈んでしまった・・・。さて、では今度は彼らを 追った「勢力」を考えてみましょう。 「文明の衝突」を超えて ギリシャ人たちが小アジアに建設した植民市は、隣接するリュディア王国と経済的に深い関係を持っていました。そこに東から進出してきたのがキュロスU世率いる「アケメネス朝ペルシャ」でした。 ペルシャは植民市のギリシャ人たちに「リュディアとの関係を絶つように」と圧力をかけますが、ギリシャ側はそれに応じません。 ペルシャはアナトリア半島支配を強めようとし、結局ギリシャ本土、アテネの支援を受けペルシャ軍と衝突することになります。数に勝るペルシャ軍はギリシャ側を圧倒、ミレトスは陥落し焼け落とされてしまいます・・・。 歴史に知られる「ペルシャ戦争」初期の経過にほかなりません。そしてこの経緯をほぼ唯一記したのが、ハリカルナッソスのヘロドトスでした。 イオニア反乱の悲惨な末路をヘロドトスは生々しく伝えています。いわく、男は全員殺害されました。女性と子供は奴隷として連れ去られ強制労働に従事、美少年は去勢され、美女とともに王宮に召し上げられ、神殿や聖域はすべて焼き払われ、何もなくなってしまった・・・。 「ミレトスからミレトス人が消えた」という経緯は、ギリシャ側にペルシャ人への漠然とした恐怖を植えつけ、半世紀に及ぶこの長い戦争を泥沼化に導きます。そして・・・。 2500年を経て、このペルシャ戦争とまさに同じような構図が、ISと欧州社会との間に引き起こされつつある。 コス島、あるいはボドルム、エーゲ海に面したアナトリア半島沿岸部の攻防線、生命線という状況は、長い歴史をもってしても変えることのない自然地境の上で「欧州とは何であるか?」を突きつけるものになっているのかもしれない・・・。 難民たちは口を揃えて証言します。 シリアでは、男は何らかの武装組織に所属させられてISの指揮下に置かれ、逆らえば命はない。女性も子供も教育はなく、福祉も未来への希望もない。 そんな人々が、命がけで「欧州」国境を目指して西へ、西へと押し寄せてくるとき、2500年前も今もエーゲ海はエーゲ海であり続け、運命は最も弱いものに苛烈な仕打ちを繰り返す・・・。 そこまで歴史を振り返らずとも、アンゲラ・メルケル首相本人を含め1980年代以前の記憶を持つドイツ人には「国境を渡れず命を落とす」という現実に深く心を揺り動かされないわけにはいかないのです。 ベルリンの壁、東西冷戦期、どれだけ多くの人が自由の天地を目指して西側への脱出を図り、ソ連兵の機銃掃射の前に命を落としていったか・・・。 私も初めて留学した18歳の夏、いまだ壁のあるベルリンで、多くの十字架が林立する異様な光景を昨日のことのように覚えています。 「ここで国境を開放しなければ、歴史に対して責任を負えない」。そんな思いを独墺など各国指導者が、欲得の計算以前に人間として強く抱いたとしても、私には不思議に思われません。 ナイーブなようですが、とりわけプロテスタントのドイツ語圏には、こういった生真面目さがあると思います。誰が見ずとも天知る地知る人ぞ知る、そこでどのように判断するか、に本当の意味での「政治倫理」が問われるといえるでしょう。 難民のグローバル移動可能性 ドイツでは今年1年間だけでも80万人からの難民申請が見込まれるとのこと、大きく言って100万規模の人間の移動になり、決して小さな話ではありません。 が、逆に考えてみましょう。この100万規模の「国境を超えて逃げたい」人々が、すべて追っ手によって生命を脅かされ、あるいは命を奪われるなら・・・。 ホロコーストもジェノサイドも決して遠い昔の話ではなく、ルワンダもコソボもついこの間の出来事、私たち自身が判断し、適切に対処し、グローバルに人道的な共存をいかに実現していけるか、その倫理が問われているのにほかなりません。 日本国内では様々に右傾化した暴論、ヘイトや排外の声も耳にします。すぐ目の前に命からがら「脱出 」してきた人がいるとき、私たちはいったいどのような手を差し伸べることができるのか、できないのか。 「医聖の島」コスに到達することなく、少年を乗せたボートは転覆し、小さな命は失われ、細い身体がヘロドトスの浜辺に打ち上げられた・・・。つい先日の出来事の中に、1つの大きな「歴史」を深く感じます。 アイラン・クルディ君のようなケースが再び繰り返されて、初めて世論が動くような、そんな日本であってほしくない、もっと先の読める落ち着いた大人の分別が必要不可欠と思わざるを得ません。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44739 |