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[地球回覧]「基軸通貨ユーロ」は夢か
ウィーンの旧市街にたたずむ古い喫茶店(カフェハウス)は19世紀に欧州文化の発信地となった。クリムト、シーレら芸術家が足しげく通った場所に、いまは世界中から観光客が押し寄せる。2011年に国連教育科学文化機関(ユネスコ)の無形文化遺産に登録された「カフェハウス文化」だが、それが世界を席巻した「基軸通貨」を生んだことは知られていない。
当時はオーストリア領のアドリア海の貿易港トリエステ(現イタリア領)に次々と陸揚げされたコーヒー豆。その支払いに充てられたのが通貨「ターラー銀貨」だった。厚みは2.5ミリメートルで直径は4センチメートルもあった。支配者だったハプスブルク家の紋章、双頭の鷲(わし)と君主マリア・テレジアの横顔が彫られていた。
コーヒー豆を売ったアラブ商人は、銀貨を受け取るとアフリカや中近東などで商品を仕入れるのに再び使用した。「ウィーンを貫くドナウ川を通じてバルカン半島でも流通した」とオーストリア中央銀行・貨幣博物館の専門家ミヒャエル・グルンドナー氏はみる。
名家ハプスブルクが鋳造する銀貨は信用力が高く、南欧から小アジア、アラビア半島、それにアフリカにかけての広大な地域で瞬く間に「標準貨幣」になる。第1次世界大戦でハプスブルク帝国が敗れても残光はすぐには消えず、イエメンやオマーンでは1960年代まで使われていた。
第2次世界大戦後にターラー銀貨から主役の座を奪ったドイツマルクも国境を越えて信用を集めた。
バルカン半島の小国ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボ。トルコに支配された時代の名残が漂う旧市街に近い同国中銀の薄暗い大広間には大きなガラスケースが置かれている。
ユーゴスラビア・ディナールやクロアチア・クーナなど、90年代の激しい内戦中に流通した紙幣が並んでいる。群雄割拠した武装勢力が、それぞれ異なる通貨を使っていたのだ。
だがいずれも信用力が低く、激しい物価上昇に襲われた。そこで停戦後の98年にドイツマルクに無条件で交換できる通貨「兌換(だかん)マルク」を発行すると、信用不安がぴたりと収まり、敵対していた民族が同じ通貨を使うようになった。いまでもボスニア・ヘルツェゴビナ通貨はマルクを意味する「マルカ」だ。
欧州大陸の通貨覇権は19世紀にオーストリア、20世紀はドイツが握った。それを21世紀に引き継いだのがユーロ圏のはずだった。
ユーロ圏を数字で見れば強力だ。人口は3億3千万人で旧西ドイツの5倍。世界の外貨準備に占める比率もマルクが10〜15%だったのに対し、ユーロは25%に達する。にもかかわらず、域外どころか域内の危機も鎮められないのはなぜか。
ターラー銀貨は名家ハプスブルクが裏書きし、マルクの背景には独連邦銀行(中銀)の徹底したインフレ抑制策があった。だがユーロはまだ、ターラーやマルクのような圧倒的な信用力を勝ち得ていない。通貨安定の核になる「欧州の結束」が揺らいでいるためだ。
ギリシャのチプラス政権は改革を拒み、ユーロを危機にさらした。一人勝ちのドイツは統合の深化に二の足を踏む。地盤沈下のフランス、イタリアは独に鬱屈した不満をぶつけるが、かといって「強い通貨」への妙策があるわけではない。
「ターラー、ターラー、おまえは旅をすべきだ」。ドイツ語圏に伝わる童謡のように世界に広まったターラー銀貨は「ドル」の語源になった。そのドルと並ぶ世界の基軸通貨にしようと導入されたユーロ。欧州の内向き志向が続く限り、それは遠い夢にすぎない。
(ベルリン=赤川省吾)
[日経新聞8月16日朝刊P.13]
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