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人々を運ぶ鉄道
夕方17時20分、列車が滑り込んできた。線路の振動がホームにも伝わってくるようだ。
夕暮れ時の低い太陽が最後の気力をふりしぼるかのように照りつける中、果物やお菓子を乗せたかごや銀製の平らなプレートを脇に置き、長い髪を櫛でとかしたり、小さなプラスチック製の椅子に腰かけておしゃべりに花を咲かせていた物売りの女性たちもにわかに真剣なまなざしに戻ってトレーやかごを頭の上に乗せつつ立ち上がり、列車へと歩み寄っていく。
ここは、ヤンゴンから東へ直線距離で約200km離れたモーラミャイン駅。約10時間かけて到着した乗客のほとんどが地元の人々の中、バッグパックを右肩に掛け、慣れた様子で列車から降り立つ金髪の男性がひときわ目を引いた。
約10年前、英国人作家ジョージ・オーウェルの足跡をたどりこの国を旅したエマ・ラーキンがこの地に降り立った時も、まさにこんな風だったのだろうか――と、想像してみる。
しかし、列車から降りた乗客たちが三々五々散っていくと、そんなにぎわいもまるで嘘だったかのように駅にはゆったりとした時間がまた戻る。
売り子たちも身支度をしてホームを後にするのを見て、先ほど到着したのが今日の最終列車なのかと思ったが、改札の脇にあるキオスクのような店先にはスーツケースや食料のほか、通学用の制服や文房具などがところせましと並べられたままで、まだ閉まる気配がない。
駅構内のベンチにも、まだ何人も座っている人がいるところを見ると、さらに南に向かう列車があるのかもしれない。
市内を歩いてみた。30万人の人口を擁するミャンマー第3の都市だと聞いていた割に、街はどこまでも静かだった。
やんだばかりの雨が地面から水蒸気になって空気中に上っているのが目に見えるようなしっとりとけだるい空気に包まれている。
イギリスはかつて、山岳地帯から流れ込むタンルウィン川をはじめ3本の川の合流点に位置するこの地にいち早く注目し、道路や軍事駐屯地、市場を川沿いに開設。1827〜52年の間、この地には英領ビルマの都が置かれた。
オーウェルが警察官としてこの地で過ごしたのも、まさにこの頃だ。ヤンゴンのように近代的な高層ビルが混在することもなく、古い洋館と、せいぜい2〜3階建ての家屋が並ぶこじんまりとした街並みには、今も当時の様子が色濃く残されているという。
どことなく「南アジア」の雰囲気を感じるのは、モスクをあちこちで見かけるせいだろうか。道端を歩く人々の中にも、インド系の顔立ちや、サリーに似た服装が多い。
かつて、この地にはムスリム商人が来訪し、活発に交易が行われていたのだという。市街地の向こう側には丘がなだらかに連なり、金色の仏塔が空に伸びている。時が止まっているかと錯覚しそうなほどの静かさだ。
再び、モーラミャイン駅。厳密に言うと、エマ・ラーキンがヤンゴン(当時のラングーン)から汽車に揺られてこの街を訪れた時に降り立ったのは、モーラミャイン駅ではなく、対岸の街マルタバン駅だった。
2006年に鉄道・道路併用橋が開通するまで、人々は列車かバスでタンルウィン川東岸のマルタバンまでやって来て、フェリーに乗り換えモーラミャインに渡っていたのである。
それでも、10時間近く揺られ、ほっとした表情で駅に降り立つ人々や、物売りの人々が行き交うホームの風景は、おそらく当時から変わっていないだろう。
バスより格段に安いということもあり、鉄道はこの国でイギリス統治時代以来、人々にとって重要な足であった。
その鉄道が、今、大きく変わろうとしている。
合同調整会議
「南北を結ぶ高速道路をぜひ整備してほしい」「日本としては、タイとミャンマーをつなぐ東西回廊の整備を優先したい」――。
2013年5月23日、首都ネピドーの運輸省内の一室では、熱い議論が交わされていた。運輸省内の公共事業局、内陸水運公社のほか、ミャンマー港湾局、ミャンマー航空局、建設省、ミャンマー国鉄など、この国の運輸交通セクターの関係者がずらりと顔を並べる。
ヤンゴンから北に約300km。サトウキビやタケノコが生えるのどかな丘陵地帯だったこの地に、突如、首都機能が移されたのは2006年11月のことだ。ホテルゾーン、商業ゾーン、行政ゾーン、住居ゾーンと明確に区分けされ急ピッチで建設されたこの街はとにかく広く、ゾーン間の移動も車で20〜30分はゆうにかかる。
ここ運輸省は、当然、行政ゾーンに属しているはずだが、周囲にはこんもり茂った木々が生えているだけで、他の省庁の建物は影すら見えない。
諸外国からの投資や資金援助が長く滞っていたミャンマー。しかし、実はこの間も、地方の鉄道や道路は延伸工事が進められていたのをご存知だろうか。
例えば鉄道は、1988年以降、総延長距離が2000km近く延びた。しかし、既存の道路や鉄道の維持管理は、その分、必然的に後回しとなり、老朽化が進行した。
新政権の発足後、支援を再開した援助機関が運輸交通セクター分野でも次々と協力を申し出ているほか、各国の民間企業からの提案も急増しているが、ミャンマー側が国全体の運輸交通開発戦略を有していないため、提案されたプロジェクトの優先付けと投資効果の検討を十分に行うことができずにいる。
こうした状況を受け、特に幹線道路や鉄道、国際港湾、国際空港など、経済開発に直結する基幹インフラを中心とした運輸交通セクターの開発シナリオを策定するため、2012年末からJICAによる「全国運輸交通プログラム形成準備調査」が始まった。
総勢30人から成るコンサルタントチームが、道路、鉄道、水運、航空の4つの交通モードについて現状分析と需要予測を実施。2030年の目標年までにどのような戦略と順序でインフラ整備を進めるべきか、段階的な実施計画を策定するとともに、近々実施すべき優先プロジェクトを数件提案し、その実現可能性も確認するという内容だ。
ヒアリングや現地踏査を通じて各交通モードごとにミャンマー側の要望とニーズを確認し、実施計画案や優先プロジェクトについて協議を進めた結果は、全関係者が一堂に会する合同調整会議(Joint Coordination Committee:JCC)の場で定期的に共有・確認される。
2012年12月と13年2月に続き、3回目の開催となった13年5月のJCCの議題は、優先プロジェクトの対象。協議の結果、優先度の高い鉄道と内陸水運を事業化調査(F/S)の対象とすること、また、道路についても優先度の高い東西回廊の一部を成す区間について、将来的な事業化のための調査を実施することで合意した。
彼らの姿を見ていると、かつて日本で所得倍増が叫ばれていた頃、「全総」(前回参照)を策定し、道路や港湾の整備を進め、インフラ整備を通じて復興から開発へと国の発展を牽引、高度成長期を迎えた当時の人々の姿と重ねたくなる。
まさに、日本の国作りの経験が、ここミャンマーでよみがえろうとしている。
国の“お財布”
ところで、こうした長期的な計画を立てる際は、当然のことながらむやみやたらに絵を描けばいいというものではない。この国の人口見通しや都市化のスピード、域内総生産の将来予測などを考慮に入れずして実現性のあるプロジェクトは提案できないからだ。そこで必要になるのが、「経済社会フレームワーク」だ。
例えば、新政権は「20年以内に現在のタイの経済レベルに追い付く」という目標を掲げる。その目標を達成するために必要な投資はいくらか。
国際通貨基金(IMF)によると、ミャンマーの2011年度の経済規模は約510億ドル(5兆1000億円)で、GDP成長率は5.5%。現在の東京都の予算(約6兆円)とほぼ同じ規模だ。
これをベースに人口増加率や経済成長率を鑑みながら州や地域へのGDPの配分を考慮し、必要な投資額を弾き出すというのが、その考え方である。
調査団を率いるオリエンタルコンサルタンツグローバル(旧社名:オリエンタルコンサルタンツ)の柴田純治総括がこのフレームワークを重視するのには理由がある。
この国の現状を、「成長への国民の大きな期待がある中、“投資が少なかったから成長力が伸びなかった”ということはあってはならないこと。そのため、過小投資のリスクが嫌われ、過剰投資に振れがちになるだろう」と見る同氏は、「だからこそ、この国が“借金漬け”にならないよう、この国全体の“お財布”をおおよそ出した上で、その中で運輸交通セクターにいくら割けるのか、そのうち幹線インフラの割合はいくらぐらいか、という規模感を共有し、適切な投資幅でものを考える必要がある」と考えているのだ。
その際、近年、目覚ましい成長を遂げたタイやベトナム、インドネシアなど周辺国の経験も参考になる。
とはいえ、例えば1964年の東京オリンピックにあわせて開業した東海道新幹線が来年2014年に50周年を迎えるように、いったん完成したインフラは数十年から100年近くにわたり使われるものだ。
逆に言うと、インフラ施設はそれだけ先の需要や経済規模を見越して計画を立てなければいけないものであり、それを今の経済規模だけから見るのは過小評価しかねないという点には、十分に留意する必要がある。
さらに、この国の場合、最後にセンサス(国勢調査)が行われたのは約30年前であり、フレームワークに必要な人口データ自体、必ずしも現状に見合ったものではない可能性があるという問題もある。
「通常の途上国であれば、少なくとも人口についてはおおむねコンセンサスが取れた数字が存在するが、この国の場合、この点から確認しなければいけない」と、経済社会フレームワークを担当する国際開発センター(IDCJ)の榊原洋司氏は話す。だからこそ、難しい。
しかし、榊原氏は「フレームワークを立てる道筋を含めてミャンマー側に示すことが重要。考える過程からブラックボックスにせず共有すれば、前提の条件が変わった場合も自分たちで直せる」と話す。
自ら現状を把握し、将来を予測し、そのためのロードマップを描く――。マスタープランの策定協力を通じ、国づくりに欠かせない考え方についても技術移転が行われている。
水上交通の要
ところかわって、古都マンダレー。首都ネピドーから北にさらに300km、高速道路を車で走ること約3時間、同国のほぼ中心に位置するこの地は、19世紀半ば、ヤンゴン、モーラミャイン、マルタバンが次々とイギリスに占領されつつあった中、26年にわたりこの国最後の王朝が置かれていた地だ。
市内の北側には、3km四方をお堀に囲まれた旧王宮が建てられ、その南側に碁盤目状の街路が整然と張り巡らされている。
ヤンゴンから伸びる幹線鉄道の北の終点、マンダレー駅を訪れた。
薄ピンク色の僧衣を着た子どもの尼僧や重そうなかばんを一緒に運ぶ2人組の女性、この地ではお馴染みの銀色のお弁当箱を手に下げた男性など、乗客が次々と構内に吸い込まれていく。
駅前は市内の中心部らしく、ガラスが壁面にはめ込まれた中華風の大きなホテルや銀行などが建ち並ぶ。鉄道が生まれ変わる頃、この駅の風景はどう変わっているのだろうか。
また、この地は古くから水上交通の要の地でもあり、エーヤワディー川によってタバコやコメ、チーク材などの農産物が集積される。しかし、マンダレー港には港湾施設と呼べるものはなく、エーヤワディーの川沿いでは、船舶が直接河岸に乗りつけ、乗客の乗降の傍ら、貨物の荷役が人力で行われている。
また、雨期と乾期では7〜8mの水位差があり、水位が上昇する雨期には、トラックから船への荷物の積み下ろしは市街道路上で行われるが、乾期にはトラックが干上がった河床まで降りて行く必要がある。
そのため、進行中のマスタープラン調査の中でも、この街の港湾改修と荷役の近代化は内陸水運分野の優先プロジェクトの1つだ。
肩に担いで荷物を運ぶ日雇い労働者たちが船と河岸とを行き来する姿や、付近に屋台が出現するなど活気溢れる川べりの風景には確かに情緒がある。
とはいえ、北部および中部ミャンマーの取り引きの中心であるこの地が、この先もずっとこのままでいいということはない。
この街の人々の暮らしの変化は、エーヤワディー川をはじめ多くの河川を有し、国内輸送の多くを水運に依存するこの国全体にとっても大きな意味を持つものになるだろう――。川のほとりでそんなことを考えた。
(つづく)
本記事は『国際開発ジャーナル』(国際開発ジャーナル社発行)のコンテンツを転載したものです。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44055
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