前回記事(「悪夢の歴史を乗り越え急発展するカンボジア」)で紹介したように、カンボジアは過去5年間のGDP平均成長率が7%に達し、生産拠点としても市場としても離陸しつつある。
しかし、ポル・ポト政権による虐殺、内戦、和平と現在に至るまでの道のりは非常に困難であった。特にポル・ポト政権による虐殺と内戦の記憶は、いまだにカンボジアに暗い影を落としている。
今回はそのようなカンボジアの歩み、そして戦後の日本との関係について振り返ってみたい。
戦後、最初に来日したアジアの国王
第2次世界大戦後の日本はカンボジアに大きな恩があるといってもいい。戦後の日本が各国との外交関係を模索する中、カンボジアの対応は非常に友好的だった。
第2次世界大戦は1951年に開催されたサンフランシスコ講和会議でその「戦争状態」がようやく終結した。日本とカンボジアとの関係においては、その講和会議の翌年52年、早速当時のカンボジア国王であるシハヌークが来日している。それは戦後最初のアジアからの国王の来日であり、日本も昭和天皇が皇居に茶会に招くなど厚くもてなした。
そして来日から2年後の1954年にカンボジアは第2次世界大戦中の被害に対する日本への賠償請求権を放棄した。この賠償請求権の放棄が、まだ復興の緒に就いたばかりで貧しくアジア各国からの賠償に苦しんでいた日本にとって、非常にありがたい申し出であったことは想像に難くない。
また、前年の53年にフランスからようやく完全な独立を勝ち取ったばかりで自身も貧しかったカンボジアが、先んじて賠償請求権を放棄したことは、その後、米国、英国などの大国が同様に賠償請求権を放棄することのきっかけになり、日本の復興を早めることになったのではないかと思う。
この好意への感謝の意として経済・技術面での協力を提供することをカンボジアに伝え、翌年の55年にシハヌークが再度来日した際にカンボジアと友好条約を結んでいる。この友好条約は、戦後の日本が外国と締結した最初の友好条約だった。
クーデターを機にポル・ポト派が台頭
そのような良好な関係であった日本とカンボジアであったが、冷戦時代の流れに否応なく巻き込まれていく。
カンボジアは1953年にフランスから完全に独立してから、その外交方針に「中立外交」を置き、東西両陣営から援助を受け農業開発と工業化を推進した。60年代初頭のカンボジアは安定し、首都プノンペンは「東洋のパリ」と呼ばれるほど平和で美しい都市だった。
しかし隣国のベトナムで勃発したベトナム戦争が泥沼化していくに従い、その舵取りは難しくなっていく。
北ベトナムからの補給路である「ホーチミンルート」の南端がカンボジア領内に達しているとの疑惑から、米国および南ベトナムとの関係が悪化し、1965〜69年の間にはカンボジアと米国との国交が断絶した。
そして70年、シハヌークが外国訪問中にカンボジアでクーデターが発生する。クーデターの3日後に米国が新政府のロン・ノル政権を承認すると、日本も事実上新政府を認めて外交関係を築いた。当時の日本と米国の関係から鑑みればそうせざるを得ない選択であったと思うが、結果として恩あるシハヌークを裏切るような形になってしまった。
またこのクーデターは、ポル・ポト派が台頭するきっかけともなった。クーデター後、シハヌークは北京で「カンボジア民族統一戦線」を結成し、亡命政府を設立。新政府と内戦状態となる。民族統一戦線はロン・ノル政権に反対する各派で構成されていたが、この中に「クメール・ルージュ」と呼ばれたポル・ポトの一派がいた。過激な共産主義を掲げていたポル・ポト派は次第に民族統一戦線の中で主導権を獲得していく。
そして73年に米国がベトナムから撤退するとロン・ノル政権は後ろ盾を失い崩壊し、2年後の75年にポル・ポト派がプノンペンを占領し、カンボジアの政権を握った。
政権を獲った後のポル・ポト派の行状はすさまじい。プノンペンなどの都市部に住む数百万人の住民を強制的に農村部に移住させ、強制労働させる、旧支配階級や知識層、富裕層、反抗者を虐殺する、無計画な農業開発によりカンボジアの農業を崩壊させ飢饉を招く、など枚挙にいとまがない。シハヌークは家族とともにプノンペン王宮に幽閉された。このポル・ポト政権下で当時の総人口約800万人のうち140万人とも200万人とも推計される人々が犠牲になったと言われている。
ポル・ポト政権が終焉しても内戦は終わらず
4年弱続いたポル・ポト政権の幕引きは、ベトナムの手により行われた。
カンボジアとベトナムの間には古くから領土をめぐる争いがあり、多くのカンボジア人は反ベトナム感情を持っていた。また、ポル・ポト政権は1975年以降、ベトナム南部に侵攻し、数十万人の住民を虐殺するなどの事件を起こしていた。
これを受け、78年末にベトナム軍は、ベトナムに難を逃れていたヘン・サムリンやフン・センが所属していた「カンボジア救国民族統一戦線」と共にカンボジアに侵攻した。ベトナム軍は翌年1月にはプノンペンを陥落させ、ポル・ポトはタイ国境付近の山間部に逃亡し、虐殺はようやく終焉した。
カンボジアでは、新たな政府として親ベトナム系の「カンボジア人民共和国」が成立した。だが、ベトナム戦争や中越戦争により対ベトナムの態度を硬化させていた米国・中国は親ベトナム系の政権を認めず、82年には、シハヌーク派、ポル・ポト派などの3派による「民主カンボジア連立政府」が、中国、ASEANの支援により成立した。民主カンボジア連立政府は「カンボジア人民共和国」政府と対立し、内戦が継続した。
国連においては79年以降89年まで、ベトナムの「カンボジア介入」を非難する決議が採択され続けた。その間、日本は米国、中国、ASEANと歩調を合わせ「民主カンボジア連立政府」を支援した。一方、ソ連、ベトナム、東欧諸国が「カンボジア人民共和国」政府を支援した。この対立構造は冷戦時代の所産であるだろう。
中国、韓国の後塵を拝する日本の投資
それゆえ、冷戦時代の終結とともにカンボジアの情勢も大きく変わる。
87年頃からカンボジア人民共和国首相のフン・センと民主カンボジア連立政府のシハヌークが、和平に向けた会談を継続して持つようになり、91年のカンボジア和平パリ協定調印、93年の国連監視下での総選挙実施を経て内戦状態はようやく終結した。
ポル・ポト派は総選挙には加わらずその後もゲリラ活動を続けたが、98年にポル・ポトが密林地帯で死去する。遺体は当時の妻と娘が見守るなか、タイ国境近くの密林の中に埋葬された。
長い内戦が終結した後、カンボジアはようやく復興と発展の道を歩み始める。ポル・ポト政権から内戦に続く困難な時代に国内産業は徹底的に破壊されたが、積極的な外資誘致政策により中国や韓国などからの投資を呼び込んでいる。国民議会選挙もすでに5回実施され、安定した政権下で着実に成長を遂げている。
残念ながら日本の投資額はいまだ中国、韓国に比べはるかに少ない。だが、ミャンマーと並んで東南アジアの次の有望な投資先として成長しているカンボジアに目を向け、新たな関係を構築する時期に来ているだろう。
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44005
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