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橘玲の世界投資見聞録
2015年5月28日 橘玲
アフリカ人による稀有な近代国家、ボツワナはどのように生まれたのか?
[橘玲の世界投資見聞録]
ボツワナは南アフリカ、ナミビア、ジンバブエ、ザンビアに囲まれた人口200万人の小さな国だ。国民の約9割はツワナ人で、ボツワナとは「ツワナ人の国」のことだ。
ジンバブエでヴィクトリアの滝を見たあと、旅行者の多くは車でボツワナのチョベ国立公園を訪れる。ジンバブエのヴィクトリアフォールズ町からは(出入国が混まなければ)1時間ほどの距離で、日帰りのツアーもたくさん出ている。国境越えの道路の周囲は低木の森林地帯になっていて、突然、キリンが現われてびっくりしたりする。
ジンバブエからボツワナに向かう道路沿いに現われたキリン (Photo:©Alt Invest Com)
チョベ国立公園はアフリカ象の生息地として有名で、乾季の終わり(8〜9月)には象をはじめとする草食動物たちがチョベ川の水場に集まってくる。それを狙うライオンやチーターなどの肉食獣も多く、ドライブサファリには最高だ。私が訪れたのは雨季の12月でアフリカ象の大群を見ることはできなかったが、豹を除くビッグファイブ(ライオン、ゾウ、サイ、バッファロー)とはすべて遭遇した。
チョベ国立公園のライオンの群れ (Photo:©Alt Invest Com)
チョベ川の向こうはザンビア (Photo:©Alt Invest Com)
だが、この国に興味を持ったのは野生動物がたくさんいるからではない。ボツワナは、アフリカでもっとも成功した国なのだ。
アフリカ人が近代的な国家を作ることは不可能なのか?
一般の日本人がボツワナの名前を聞いたのは、2002年に日本国債の格付が引き下げられ、「アフリカの国より下になった」と騒がれたときだろう。これに対して当時の平沼赳夫経済産業相は、「日本(の国債格付け)はボツワナより下だという。ボツワナの人口の半分はエイズ。そういった国よりも国債のランクが下というのは非常に意図的だと感じる」と発言した。その後、エイズ患者とボツワナに対する差別だと批判されてあわてて陳謝・撤回したが、日本人(とりわけ“保守”を名乗る政治家)がアフリカに対してどのようなステレオタイプのイメージを持っているかがよく表われている。
2007年、DNAの二重らせん構造を発見してノーベル医学生理学賞を受賞した分子生物学者ジェームズ・ワトソンの発言が英紙『サンデー・タイムズ』1面に掲載された。そこでワトソンは、「アフリカの将来についてはまったく悲観的だ」として、「社会政策はすべて、アフリカ人の知性が我々の知性と同じだという前提を基本にしているが、すべての研究でそうなっているわけではない」「黒人労働者と交渉しなければならない雇用主なら、そうでないことを分かっている」と語った。
この差別発言でワトソンは激しい批判に晒され、その名声は地に堕ちたが、欧米のアフリカ援助関係者のなかに、「ここだけの話だが」と前置きして、同様の意見を述べる者がいくらでもいることは公然の秘密だ。ワトソンの発言がスキャンダラスなのは、誰もが密かに思っていることを堂々と口にしたからなのだ。
アフリカの混乱や貧困は、黒人が白人よりも劣っているからなのだろうか。
「人種のちがいは肌の色など外見だけで、知能や性格などの“内面”にはいかなる遺伝的な差もあってはならない」というPCな(政治的に正しい)主張が非科学的なことは間違いない。だがこのことは、「アフリカ人には近代的な社会をつくることができない」という主張を正当化しない。
ボツワナはアフリカ人がつくった自由で民主的な国で、政治も治安も安定し、国民の1人あたりGDPも7500ドルと南アフリカより高く、財政の健全性は日本より優れている。このことは、一定の条件が与えられれば、アフリカにも近代的な国民国家が生まれることを示している。
ボツワナの首都ハポローネは、大都会というわけではなく、とりたてて見所があるわけでもないが、近代的なビルが整然と並んでいる。町の中心にあるのは、こじんまりとした国会議事堂だ。
首都ハポローネのビジネス街 (Photo:©Alt Invest Com)
国会議事堂。国会議員は上院(首長会議)、下院あわせて80人ほど (Photo:©Alt Invest Com)
ハポローネは、おそらくアフリカの都市で唯一、(黒人以外の)外国人旅行者が安心して歩ける街だ。ボツワナの国立公園を回る旅の中継地として利用する観光客もいるので、町のひとたちは白人やアジア系の旅行者を見てもまったく気にしない(ただし、かなり珍しいのはたしかだ)。ツワナ語のほかに英語も公用語なので、街なかで地図を見ていれば「どこに行くの?」と聞かれ、バス停では「乗っていくかい?」と声がかかる。車から降りることはもちろん、窓を開けることもできないヨハネスブルグのダウンタウンと比べれば、そのちがいは衝撃的ですらある。
露店が並ぶハポローネの商店街 (Photo:©Alt Invest Com)
仕事帰りの女性たちはみんなおしゃれ (Photo:©Alt Invest Com)
なぜボツワナは成功できたのか。それを知るには、この国の歴史を振り返る必要がある。
ボツワナはなぜ成功できたのか?
アフリカとアメリカ大陸を結ぶ奴隷貿易は15世紀半ばから始まり、16世紀から18世紀にかけて全盛期を迎える。奴隷は西アフリカや中央アフリカで狩り集められ、(現在の)ガーナやナイジェリアなど東海岸の港から積み出されたため、そのルートから外れた南部アフリカは奴隷貿易の被害を免れることができた。その代わり、この地域は白人による入植によって蝕まれていく。
アフリカに移住したヨーロッパ人は高温多湿の気候に苦しんだが、アフリカ南部は緯度的には(赤道をはさんで)地中海とほぼ同じで、きわめてすごしやすかった。そのため17世紀以降、ボーア人(アフリカーナー)と呼ばれるオランダなどからの植民が進み、次いで1806年に、フランス革命の混乱を利用してイギリスがケープタウンを植民地にした。
イギリス統治下で二級市民とされたボーア人は、奴隷解放によって農業が成り立たなくなったこともあり、新たな土地と奴隷を求めて「グレート・トレック(長征)」を開始する。こうして現在の南アフリカ北部にオレンジ自由国、トランスヴァール共和国がつくられたが、ボツワナは「利用価値のない土地」としてこの植民から免れた。
その後、イギリスとボーア人のあいだで第一次ボーア戦争が勃発し、オレンジ共和国が滅びると、ボツワナは「ベチュアナランド」としてイギリスの保護領になる。だがこれは、東側(現在のナミビア)からアフリカ進出を窺うドイツを牽制するためで、イギリスはボツワナの農民から税金を取る以上の興味を示さなかった。
南アフリカのダイヤモンド鉱山で成功したセシル・ローズは、アフリカ全土を大英帝国の下に統一することを神に与えられた使命だとしてとして、南アフリカ会社を設立して遠征を行なった。(現在の)ジンバブエ、ザンビアを占領して1894年に生まれたのがローデシア(ローズの家)だ。
ローズが次に触手を伸ばしたのはボツワナ(ベチュアナランド)だった。ボーア人のトランスヴァール共和国を避けてケープタウンとローデシアを結ぶ鉄道を敷設するには、ボツワナを通らなければならなかったからだ。
ローズの野望が明らかになると、この地の3人の首長がイギリスを訪れ、当時の植民相ジョゼフ・チェンバレンにローズの非道を直訴した。このときイギリスは、ローズの誇大妄想的な野望を持て余しており、チェンバレンは鉄道に必要なわずかな土地を南アフリカ会社に割譲するのと引き換えに、ローズからの保護を約束した。
翌年(1986年)、ローズはトランスヴァール共和国に反乱を起こさせようと画策したが、それに失敗して失脚する。この事件によって、ボツワナはローズの魔手から逃れることができた。
その後、第二次ボーア戦争(1899年〜1902年)でトランスヴァール共和国は滅亡するが、この戦争ともボツワナは無縁だった。戦略的にほとんど重要性を持たないこの土地は、鉱山などへの安価な労働力の供給源という以外になんの魅力もなかったのだ。
ハポローネの歴史博物館に陳列されたローデシア鉄道の車両 (Photo:©Alt Invest Com)
このようにしてボツワナは、アフリカの国としては稀有の例として、宗主国とのあいだで深刻な利害の対立を経験しなかった。だがこれは、イギリスが寛容だったということではない。
じつはツワナ人は、ボツワナよりもヨハネスブルグ北部のボプタツワナ地区に2〜3倍も多く住んでいる。ツワナ人の居住地域のうち、利用可能な土地を南アフリカに併合し、「どうでもいい土地」を保護領として切り離したからだ(ボプタツワナには巨大エンタテインメント施設サンシティがつくられていて、ヨハネスブルグからサンシティに向かう道路沿いに、ツワナ人が暮らす貧困地域がえんえんとつづいているのを見ることができる)。
ヨハネスブルグからサンシティへの道路沿いに広がるツワナ人の貧困地域 (Photo:©Alt Invest Com)
第一次世界大戦が終わると、敗戦国ドイツの植民地だったナミビアがイギリス領に併合されるが、その頃には植民地主義に対する批判や民族自決が国際世論になりつつあった。そのため、イギリスは保護領であるボツワナの統治にツワナ人の参加を認めざるを得なくなった。
第二次世界大戦では、ボツワナの成人男子の半分がイギリス軍として戦った。その功績によって、戦後の自治・独立運動をイギリスはちからで押さえつけることができなくなった。
このような歴史の偶然によって、ボツワナは植民地主義の時代のアフリカで、ほぼ無傷のままツワナ人の自治組織を育てることができたのだ。
アフリカ最貧国からの飛躍
ボツワナを独立へと導いた初代大統領セレツェ・カーマはングワト族の王子として生まれ、南アフリカの大学を卒業したあとオックスフォード大学に留学した。そこでカーマは、ロイズ銀行で働いていたイギリス人女性ルース・ウィリアムズと結婚する(1947年)。
第二次世界大戦直後の当時はアフリカ人と白人女性の結婚は大きなスキャンダルで、とりわけ人種差別政策を推し進めていた南アフリカがこの結婚に強硬に反対し、イギリスに圧力をかけた。戦後の復興に南アフリカの資源を必要としていたイギリスは対応に窮し、カーマが王位を放棄するまで帰国を認めなかった。
1956年、王位を放棄してボツワナに帰国したカーマは、ボツワナ民主党を結成して独立運動を開始した。その頃には民族自決の流れに抗するちからはイギリスになく、1965年の民主選挙で民主党が圧勝すると翌66年、ボツワナは平和裏に独立を果たし、カーマは初代大統領に就任する。
このときボツワナはアフリカの最貧国だったが、ふたたび大きな幸運が訪れる。独立の翌年、中部のオハラで世界最大級のダイヤモンド鉱山が発見されたのだ。カーマはデ・ビアス社と開発契約を結ぶと、鉱山からの利益を教育、医療、インフラ整備に振り向け、経済成長へとつなげていった。汚職に対しても厳しい態度をとり、ボツワナはアフリカの新興独立国のなかでもっとも腐敗が少なく、行政効率の高い国として知られるようになった。
カーマはきわめて開明的な指導者で、南アフリカやローデシアといったアパルトヘイト国家とも現実的な外交関係を維持しつつ、公用語をツワナ語と英語に定め、初等教育の普及によって「ツワナ人」という民族意識をつくりだしていった。
独立当初のボツワナは、他のアフリカ諸国と同じように、さまざまな部族の集まりだった。だがカーマの指導の下、自らを出身部族の一員ではなく「ツワナ人」と考える国民が急速に増えていく。ボツワナの治安の安定は、「民族」のアイデンティティから生まれているのだ(現在でも上院にあたる首長会議はツワナ族の伝統的な部族の首長で構成されるが、これは名誉職のようなもので、立法権は複数政党制の普通選挙で選ばれた下院・国民議会にある)。
国会議事堂前にある初代大統領セレツェ・カーマの像 (Photo:©Alt Invest Com)
国家の成否は「政治経済制度」で決まる
政治学者のダロン・アセモグルとジェイムズ・A・ロビンソンは『国家はなぜ衰退するのか』(早川書房)で、長期的な経済発展の成否を左右するのは地理的・生態学的環境条件の違い(これはジャレド・ダイヤモンドのベストセラー『銃・病原菌・鉄』を意識している)でも、社会学的要因や文化の違いでも、生物学的・遺伝的差異でもなく、政治経済制度の違いだと主張している。「貧しい国」は、歴史的な経緯のなかで経済発展に適した制度をつくることに失敗してしまったのだ。
Nation Stateは「国民国家」と訳されるが、ここでのNationは「民族」のことだ。近代的な国民国家とは、それぞれの民族Nationが独自のアイテンティティ(=ナショナリズム)によって生み出した国家Stateのことで、フランス民族やドイツ民族のように、もともとは一民族一国家が当然とされていた。その後、アメリカやオーストラリアのような移民国家が登場してこの原則が見えにくくなったものの、民族的な一体感のないところでは容易に民族(部族)対立の混乱や殺し合いが起こることは、アフリカや中東だけでなく、旧ユーゴスラビアを見ても明らかだ。
アジアでも日本、韓国、台湾、シンガポール、香港、タイなど「一民族一国家」のアイデンティティをつくりやすい国・地域が先行して経済発展に踏み出す一方で、インドネシアやフィリピン、ミャンマーのような多民族・多言語国家は政治や社会の不安定に苦しんだ(「多民族国家」を自称する中国も、いまでは華人が人口の9割に達している)。それを考えれば、民族・部族と無関係に、歴史的経緯をいっさい無視して国境線を引かれたアフリカの旧植民地国が、国民国家の形成に大きなハンディを背負っていることは間違いない。
さらにアセモグルとロビンソンは、植民地主義において、宗主国は現地人の政治組織だけでなく経済組織をも弾圧・破壊したと指摘している。
金やダイヤモンドの発見によってアフリカ南部で鉱業経済が発展すると、アフリカ人にも大きなビジネスチャンスが訪れた。ボーア戦争で食糧など農産物への需要が高まるなか、シスカイやトランケイなど南アフリカの一部地域で、現地人による農業経済の勃興が始まったのだ。
農業に市場経済が導入されたことで伝統的な部族制度は崩れ、土地の私的所有が始まり、起業家が次々と誕生した。こうした土地のひとつフィンゴランド(フィンゴ族の土地)を1876年に訪れたイギリスの行政長官は、その驚きを次のように記している。
「数年のあいだにフィンゴ族が成し遂げたきわめて大きな進歩に、感銘を受けた……どこへ行っても、しっかりした小屋やレンガあるいは石造りの家屋が見られた。多くの場合、レンガ造りの頑丈な家が建てられ……果樹が植えられている。流水が利用できる場所ではどこでも、水路が引かれ、灌漑が可能なかぎり土地は耕されている。山の斜面だけでなく、山の頂であっても、鋤が使える場所はすべて耕作されている。鋤き返された土地の広さには驚かされた。これほど広い耕地は何年も目にしたことがなかった」
アフリカに誕生した経済発展の萌芽は、なぜ潰えてしまったのか。
それは、アフリカ人による農業の成功で白人(ボーア人)の農業経営が圧迫されたことと、金鉱山などが安価な労働力を確保できなくなったからだ。そこでボーア人の国も、セシル・ローズの南アフリカ会社も、宗主国となったイギリス政府も、よってたかってアフリカ人の自生的な経済組織を叩き潰し、彼らを貧困化させようとした。
サハラ以南のアフリカ中西部は、奴隷の供給源とされたことで人的資本を失い、伝統的なコミュニティが崩壊した。奴隷の積み出し港となった東部アフリカでは、ヨーロッパ人と結託した一部の現地人が富と権力を独占するようになり、歪んだ社会構造が定着してしまう。このような地域は、民主政治や経済発展に必要な制度を生み出すことがきわめて難しいのだとアセモグルとロビンソンは指摘する。
こうした“負の歴史”とは無縁のボツワナは、社会的な条件さえ揃えばアフリカ人でも近代的な国民国家を建設し、運営できることを示した。その意味で、この国は「アフリカ人は劣っている」という差別・偏見への決定的な反証になっている。
残念なのは、ボツワナと同じような歴史的な幸運に恵まれた国が、アフリカにはほとんどないことだ。
<橘 玲(たちばな あきら)>
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(以上ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、政治体制、経済、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊 『橘玲の中国私論』が発売中。
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