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ロシアの理解に必読、プーチン大統領誕生秘話 オルガルヒの操り人形のはずが、糸が切れるや否や・・・(JBpress)
http://www.asyura2.com/15/kokusai10/msg/717.html
投稿者 赤かぶ 日時 2015 年 5 月 21 日 01:22:05: igsppGRN/E9PQ
 

ロシア・サンクトペテルブルク近郊に立てられたウラジーミル・プーチン大統領の胸像〔AFPBB News〕


ロシアの理解に必読、プーチン大統領誕生秘話 オルガルヒの操り人形のはずが、糸が切れるや否や・・・
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/43836
2015.5.21 杉浦 敏広 JBpress


■朝日新聞連載「プーチンの実像」


 皆様既に御存知かと思いますが、朝日新聞が「プーチンの実像」というコラムを連載しました(2015年3月30日〜5月5日)。第一部・二部・三部からなる長期連載です。


 無名のプーチン氏がロシア連邦大統領に登りつめる軌跡を描いており、関係者に丹念にインタビューした力作で、大変読み応えがありました。今後1冊の本になるそうです、楽しみですね。


 しかし読まれた方には、多少なりとも消化不良の読後感が残ったかもしれません。筆者のもとには、そのような感想が多数寄せられました。


 無名のウラジーミル・ウラジーミロビッチ・プーチンがロシア首相・大統領に駆け上る背景は、本人が優秀・有能だからではなく、あくまでソ連邦国家保安委員会(KGB)内部では平凡な人物であり、御しやすいと当時の新興財閥(オリガルヒ)が判断したからにほかなりません。


 すなわち、プーチンは“軽い神輿”として担がれたというのが真相です。


 ここが一番肝腎な点なのですが、「プーチンの実像」ではこの点にあまり触れられていないのです。


 もちろん、オリガルヒ側の判断ミスであったことは、その後の事態の推移が証明しています。無名のプーチンを軽い神輿として担いだはずのオリガルヒは飼い犬に手を噛まれ、権力を掌握した有能なプーチン大統領に追放されてしまいました。


 ソ連邦国家保安委員会(KGB)第1総局第4課(海外諜報担当)に配属されたプーチン氏は1985年、KGB少佐として東独(当時)ドレスデンに赴任しました。赴任中に中佐に昇進し、私生活では2人の娘が誕生。彼はのちに「ドレスデン駐在中が一番幸せであった」と述懐しています。


 1990年に故郷のサンクト・ペテルブルクに戻り、KGBを辞職したプーチン中佐は、慣例により階級が1つ上がり予備役大佐になりました。一方、プーチン氏と同僚のセルゲイ・イワノフ現ロシア大統領府長官は現役時代KGB中将まで昇進し、現在は予備役大将です。


■1917年10月革命前夜


 ここで、プーチン大統領の出身母体であるソ連邦国家保安委員会誕生の歴史と、その時代背景を概観したいと思います。帝政ロシアは文字通り波乱万丈の歴史であり、興味が尽きません。


 今から約100年前の1914年8月に第1次世界大戦が勃発。宮廷を牛耳っていた怪僧ラスプーチンが暗殺され、帝政ロシアは大混乱に陥ります。


 1917年3月12日(旧暦2月27日)の2月革命によりニコライ3世が退位して、ケレンスキー臨時政府が樹立。ウラジーミル・レーニン(1870〜1924年)はかの有名な“封印列車”で、亡命先のスイスのチューリッヒから敵国ドイツを通過(*“敵の敵は味方”)、サンクト・ペテルブルクに凱旋しました。


 この年の11月7日(旧暦10月25日)、巡洋艦“オーロラ”号の冬宮(エルミタージュ)砲撃を合図に水兵が冬宮に突入し、ケレンスキー内閣は崩壊。この10月革命によりレーニン(本名ウリャノフ)を首班とするソビエト政権が樹立して、ボルシェビキ政権が誕生しました。


 一方、ロシア内部では赤軍と白軍の内戦が勃発。この機に乗じ、日本軍はウラジオストクに上陸。トルコ軍は黒海沿岸のグルジアのバツーミ(*露バクー原油の輸出港)を制圧、ドイツ軍はウクライナ全土とクリミア半島を占領。


 その後ボルシェビキ党は分裂し、かの有名なクローンシュタットの反乱が勃発。10月革命に参加した水兵が、10月革命の指導者に反旗を翻したのです。


 この頃からロシアでは赤色テロが始まり、ポーランド系ユダヤ人フェリックス・ジェルジンスキー(本名)を初代長官とする秘密警察(反革命・サボタージュ取締り全露非常事態委員会/別名“チェーカー”)が設立されました。


 この秘密警察組織はその後何回か名称を変更しましたが、“国家保安委員会”(KGB)、現在の“ロシア連邦保安庁”(FSB/ボルトニコフ長官)へと名前を変えながらも連綿と続くことになります。


 KGBのライバル組織GRU(赤軍参謀本部情報総局)は、レフ・トロツキー(1879〜1940年/本名ブロンシュテイン)により1918年に創設された赤軍の諜報機関です。「日本軍、北進せず」で有名なリヒャルト・ゾルゲ(アゼルバイジャン共和国バクー生)はGRUの諜報員であり、KGB所属ではありません。


■プーチン首相・大統領登場の時代背景


 プーチン大統領はソ連邦国家保安委員会出身です。これは本人が公表しており、秘密ではありません。ロシア大統領府のホーム・ページには、プーチン大統領自身の略歴が記載されています。


 ソ連邦は1991年末に解体されました。ソ連邦解体後の約8年間、ボリス・ニコラエビッチ・エリツィン(1931〜2007年)初代ロシア連邦大統領の政権下、魑魅魍魎とした新興財閥(オリガルヒ)がエリツィン周辺に“ファミリー”として君臨。“民営化”という錦の旗のもと、旧ソ連邦の国家資産を搾取していきました。


 その結果、第2期目のエリツィン大統領政権末期の1999年になると同大統領の支持率は1桁台に落ち、翌年6月の大統領選挙ではロシア共産党候補者が当選する可能性が大となりました。


 ロシア共産党候補者が大統領ともなれば、旧ソ連邦の資産を搾取した新興財閥の財産は再度国有化されかねません。担ぐ神輿は軽ければ軽いほどよい。焦った新興財閥が白羽の矢を立てたのが、当時無名の国家保安委員会出身のプーチン予備役大佐でした。


 プーチン中佐は東独ドレスデン勤務後(1985年〜1990年)、国家保安委員会を退職(実態は解職に近い)。傷心のプーチン予備役大佐を迎え入れたのが、当時のサプチャーク/レニングラード(現サンクト・ペテルブルク)市長です。


 その後、チュバイス統一電力公社社長やボロージン大統領府総務局長らの庇護を受けて出世の階段を上り始め、ロシア大統領府副長官に抜擢され、KGBの後身たる連邦保安庁(FSB)長官(1998年7月〜99年8月)にまで昇進したのです(肩書きはすべて当時)。


 その後1999年8月9日にステパーシン首相が突如解任されるや、エリツィン大統領から首相代行に任命され、ロシア下院の賛成多数をもって首相に就任しました(同年8月16日)。


 ステパーシン首相は大物で、“ファミリー”の言うことを聞かない。ゆえに、大物は解任して、無名の操り人形を首相に任命し、エリツィン大統領の後継者に指名することが伏魔殿の深奥で決定された。


 そこで無名の小物が“ファミリー”の操り人形として必要になり、一朝選ばれてエリツィンの後継者に指名された1人の男。それが、その昔“スパイ失格”の烙印を押された無名のプーチン氏だったというわけです。


 そのエリツィン大統領は1999年の大晦日、テレビ実況中継で目に涙を浮かべながら大統領職辞任を発表し、プーチン首相を大統領代行に指名。大統領辞任により、大統領選挙は2000年3月に繰上げ実施されることになりました。


 急な繰上げ選挙で慌てる有力候補を横目に、大統領選挙ではプーチン大統領代行が当選。同年5月、ロシア連邦2人目の大統領に就任しました。


 当時は油価が低迷しており、一時期バレル10ドルを割り込みました。ロシア国庫はほぼ空の状態になり、国民の不満は高まっていきました。


 しかし、エリツィン前大統領残滓が政権中枢に居残り、抵抗勢力が跳梁跋扈する伏魔殿の中にあっては、行政改革は遅々として進みません。


 そこでプーチン新大統領が“ファミリー”残滓に仕かけた抵抗勢力排除策こそ、レニングラード人脈重用による治安・情報機関の再編成でした。まず、治安・情報機関を身内で固め、次に大幅な内閣改造に着手。エリツィン前大統領“ファミリー”残滓を次々と政権中枢から追放していきました。


■プーチン大統領の権力掌握過程


 プーチン首相代行誕生後(1999年8月9日)、無名のプーチン氏が“エリツィン大統領ファミリー”の傀儡として権力の階段を登り始めました。これが上述のごとく、ソ連邦資産を搾取した新興財閥の権益を維持すべく、無名のプーチン氏に白羽の矢がたった背景です。


 プーチン首相代行が誕生した8月9日、西側の反応は予想通り“Putin, who?”でした。この時、いくつかの日系紙はプーチンの読み方が分からず「プチン首相代行誕生」と報道、後に「プーチン」に訂正しています。


 筆者は当時サハリンに駐在していましたが、米ロナルド・レーガン大統領誕生前後、当初「リーガン」と報道していた日系紙が後に「レーガン」と訂正した事例を想起した次第です。


 一方、政治の舞台では困ったことが生じました。エリツィン大統領の政敵は2000年6月の大統領選挙に向け、着々と選挙態勢を整えつつありました。しかし、プーチン氏は無名ですから、大統領選挙に当選する保証はありません。


 ルシコフ・モスクワ市長やプリマコフ元首相などの大物が当選すれば、“ファミリー”は息の根を止められてしまいます。


 そこで編み出された奇策が、プーチン氏を大統領にするための“ヤラセ戦争”でした。


 当時報じられた1つの仮説をご紹介します。当時のヴォローシン大統領府長官は1999年7月4日、仏ニース近郊ブリエにある国際武器商人ハショギ氏の別荘でチェチェン独立派シャミール・バサエフ野戦司令官と会談。仲介者は「灰色の枢機卿」ウラジスラフ・スルコフ大統領府副長官。


 この会談で両者は翌8月にバサエフ部隊がロシア南部のダゲスタン共和国に侵攻して、ロシア正規軍が反撃・勝利する悪魔のシナリオに合意したと言われています。


 この台本通り、チェチェン武装勢力約1500人が1999年8月、ダゲスタンに侵攻。ロシアは直ちに同地に国防省正規軍と内務省国内軍を派遣して、武装勢力の一掃に成功。第1次チェチェン戦争(1994年12月〜1997年)で負け戦の続いたロシア国民にとり、久々の勝利となりました。


 国民は勝利の美酒に酔い、無名のプーチン新首相の毅然たる態度は国民の間に瞬時に支持を獲得、名声は鰻登りに急上昇した次第です。


 次は、チェチェンが戦場に選ばれました。大統領選挙まで、プーチン人気を維持しなければなりません。そのための手段は、国民に勝利の美酒を飲ませ続けることです。プーチン新首相の号令一下、ロシアの精鋭部隊がチェチェンに侵攻したのです。


 1994年12月の第1次チェチェン戦争では新兵を投入したため、ロシア軍はチェチェン武装勢力に負けてしまいました。同じ轍を繰り返せば、逆効果。そこで今回は、最初から下士官・将校を中心とする筋金入りの精鋭部隊を投入。これが第2次チェチェン戦争(1999年9月〜2009年)です。


 ロシア軍は着々と戦果を挙げ、プーチン氏はさらに男を上げました。


■プーチン大統領/“ファミリー”排除


 しかし、プーチン人気は長く続きそうにもありません。そこで編み出されたのが、ウルトラCの大統領年末辞任・繰上げ選挙実施です。


 すなわち、エリツィン大統領の1999年大晦日の辞任や繰上げ選挙など、すべてシナリオ・ライターはオリガルヒであり、プーチン氏はオリガルヒの掌中で踊らされていたにすぎません。


 モスクワに権力基盤の全くなかったプーチンは、水面下で巧妙に権力基盤の確立・拡大に努めました。1999年12月にはモスクワに「戦略策定センター」を設立して、ゲルマン・グレフを中心とするテクノクラートに経済政策を立案させました。また、昔のKGB仲間を順次モスクワに召集し、情報機関の人事を刷新しました。


 プーチン氏の大きな転機は大統領選挙です。舞台の筋書きは“ファミリー”にとり予想外の方向に展開しました。決選投票を待たず1回目の投票で当選したプーチン氏にはオリガルヒの選挙資金が不要となり、操り人形のはずのプーチン氏が自立し始めたのです。


 “ファミリー”の利益を代弁するヴォローシン大統領府長官のシナリオは完全に狂い、ヤラセのはずの第2次チェチェン戦争は“ファミリー”の制御外の展開となっていきました。


 では、当時のオリガルヒは誰だったのか具体的に申せば、2期目のエリツィン大統領当選を演出したボリス・ベレゾフスキー、ウラジーミル・グシンスキー、ミハイル・ホドルコフスキーなどです。ベレゾフスキーの師匠ロマン・アブラモービッチはプーチン候補が大統領選挙当選後新大統領派に転向、今では政権支持側に立っています。


 追放されたオリガルヒの代わりに台頭したのが、プーチンのサンクト・ペテルブルク人脈、柔道仲間(ローテンベルク兄弟など)や友人たち(チムチェンコなど)ですが、この辺の人物像は『プーチンの実像』にも登場しておりますね。


 そして、プーチン大統領最大の支援材料になったのが油価動向です。


 プーチンが大統領就任後、油価は上昇開始。国庫歳入に占める石油・ガス税収は下記の通り、プーチン氏が大統領就任時の約2割から現在では5割超になりました(2016年は予測/ロシア財務省)。



 逆も真なり。現在の油価低迷局面は、プーチン大統領にとり最大の試練と言えましょう。


 プーチン大統領の周囲には現在、大別して4つの派閥が存在します。しかし、プーチン派閥とは言え烏合の衆ですから、派閥同士の拮抗・対立もあります。この意味で、プーチン大統領が突然いなくなれば、派閥同士の抗争は表面化することでしょう。


 戦後、英ウィンストン・チャーチル首相はソ連の政治家を評して曰く、「ソ連の多くの政治家は、絨毯の下で足を蹴りあっている。誰が誰の足を蹴っているのか、我々外国人には永久に分からないだろう」


 誰が誰の足を蹴っているのか分かるようになればプーチン政権の透明性が増し、世界の民主主義勢力からも認知されることでしょう。


 しかし、クレムリンの奥の院が透明になれば、世の中のクレムノロジストは失職してしまうかもしれませんね。



 

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コメント
 
01. 2015年5月21日 13:14:28 : AG9CijcNX6

ローマ皇帝の衣装に身を包んでいる、プーチン像、ニヤっとしてしまう。

オルガルヒと西側からすれば、本人の出自のある部分を過少評価してしまったとしか思えない。

戦争で一家が他の多くのロシア国民の多くと同じように近親者を失っている事、父が傷痍軍人として帰還した事、そして、彼の大学進学に際しては、成績は優秀であったろうが、家族歴がバイアスとして機能している事、最初の就職先は明らかに家族歴なくては困難であった事。

評して曰く、冷酷であると、ならば、ロシアを裏切らないであろう。


02. 2015年5月22日 14:19:46 : 38zH6nkpfY
北野幸伯(きたのこうすけ)氏の 「プーチン 最後の聖戦」(2012年)で、ロシアの背景と共にプーチン氏の基礎知識が得られます。
よいです。

アマゾン書籍情報より
ロシア滞在歴二十数年、「卒業生の半分は外交官、残りはKGBを養成する超エリート機関」とよばれた、ロシア外務省付属モスクワ国際関係大学を卒業した初めての日本人である」
 


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