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[中外時評]フランスは罠にはまったか 変質する「脱宗教」の理念
論説委員 小林省太
風刺新聞「シャルリエブド」の編集室などが襲われた1月のテロの直後、フランスでは多くの知識人がじつにいろいろな発言をした。「テロリストは私たちに罠(わな)を仕掛けた」というロベール・バダンテール元法相の発言がとくに気になった。
87歳の同氏は1981年、当時のミッテラン大統領の懐刀としてフランスを死刑廃止に導いた。現在政権を握る社会党のご意見番のような存在である。
彼のいう罠とは、イスラム教徒、イスラム社会全体をイスラム過激派とあえて同一視することで、憎しみをかき立てる過ち、といった意味だ。
事件から100日あまりが過ぎたいま、フランスは罠とどう向き合っているのか。
「フランス国民は性別や宗教、信条を問わず同じ権利を持っている。テロはそうした『国としての統一』に脅威を与えた。テロの第1の犠牲者はフランスのイスラム社会だった」とバダンテール氏は振り返る。
罠にはまったかのようなできごとが、テロのあと起きている。一言でいえば、「ライシテ」にかかわるできごとである。
ライシテというフランス語は「脱宗教性」などと訳される。フランスが宗教とは無関係の世俗国家であることを説明するキーワードだ。1905年、ライシテを保障する政教分離法ができた。それまでカトリック教会と国家権力は不可分で、教会は政治にも個人の生活にも強い影響力を持っていた。
「教会との長い戦いの末に生まれた法律の理念は、国家と教会を分けることで個人の信仰や信条の自由を認め、多様な考えの人々を共存させることだった」。仏国立高等研究院でライシテ研究部門の長を務めるフィリップ・ポルチエ氏は言う。ライシテとは「市民の自由を保障する理念」だったのである。
その理念が「排除のための武器」に変質しているという。排除されているのは、端的にいうならイスラム教の信仰である。
ライシテには、国は宗教に対して中立を保つという考え方が含まれている。だから公共の場に宗教は介入できない。しかしどこまでが「公共の場」か、「宗教」とは何を指すのか、を決めるのは簡単でない。
ここ15年ほど、事実上はイスラム教を標的に公共の場から宗教を排除する動きが続いている。公立の小、中、高校で生徒が宗教的な「しるし」を公然とつけることを禁じた2004年の法律は代表だろう。十字架のペンダントなども「宗教のしるし」には違いないが、イスラム教徒の女生徒のスカーフを指すのは明らかだったからだ。
ただし、バダンテール氏は「公立学校は子どもを宗教による区別なしに同じフランス共和国の生徒として受け入れる公共の場だ。『しるし』を外すことは間違っていない」という。こうした理屈は、フランスに特異のものだとしても理解できる。
しかしテロの後、イスラム教排除の動きは度を越しているようにみえる。大学や民間企業でも「しるし」は禁ずるべきだ。豚肉を食べないイスラム教徒、ユダヤ教徒のため学校の食堂で別メニューをつくるのは、ライシテの理念に反する……。
「大学は議論をし思想を表現する場であって、高校までとはまったく性格が違う。『しるし』の禁止はナンセンスだ」というバダンテール氏の意見は、その通りだろう。
「イスラム教徒は真のフランス人ではない。なぜなら、ライシテを正しく理解していないからだ」。そんな意見は党派を問わず政治家の間で強まっているという。そのときのライシテは、イスラム教信仰が人目に触れること自体を問題にする「排除のための武器」だ。
3月、「イスラム嫌い」が高じることへの警戒を呼びかける声明を知識人約100人が発表した。その一人で高校の哲学教師のジョエル・ロマン氏は、「いま、ライシテをめぐる議論は自由を保障するという元の理念から脱線し、分別も冷静さも失っている」と懸念を隠さない。
フランスからは千人単位の若者がイスラム過激派の「聖戦」に加わっているという。その土壌にはフランスに同化しないイスラム社会がある、という指摘から、イスラム社会全体と過激派を同一視するまで、ほとんど距離はない。
勢いを増す「排除」と抵抗する「自由」。双方がせめぎ合いながら、フランスは徐々に罠にはまっていくようにみえる。
[日経新聞4月26日朝刊P.10]
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