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南アフリカで白人として生きるということ 中国の美しい田園風景の陰に“貧困と格差”の現実
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投稿者 rei 日時 2015 年 4 月 16 日 07:04:55: tW6yLih8JvEfw
 


2015年4月15日 橘玲
南アフリカで白人として生きるということ

[橘玲の世界投資見聞録]
これまで何回か南アフリカについて書いてきたが、「白人がこの国に暮らすってどうなんだろう?」と疑問に思わなかっただろうか。治安の悪化で街を歩くことすらできず、アパルトヘイトによる複雑骨折したような“歴史問題”を抱え、少数派(マイノリティ)として黒人社会の嫉妬や批判、憎悪などと向かい合って生きていくのはけっこう大変なんじゃないだろうか。 
[参考記事]
 ●「半径200mで強盗にあう確率150%」「バスの乗客全員が強盗」など南アフリカ・ヨハネスブルグの都市伝説は本当か?
●南アフリカ・ソウェト、アパルトヘイト(人種隔離)が生んだ街。黒人が外界から"隔離"したら安全な地域に変貌
●「世界でもっとも危険な都市ヨハネスブルグ」を安全に旅する方法
その背景にある「歴史問題」とは? ツワネ? ●南アフリカの首都は、プレトリア?
●神に見捨てられた街」南アフリカ・ケープタウン、ダウンタウンのクリスマスイブ


とはいえ、初対面の相手に「なんであなたはここに住んでるんですか?」なんて訊くのはあまりにも失礼だ。たんなる観光客からこんな質問をされたら、誰だっていい気持ちはしないだろう。 
ところがここで、思いもかけない幸運が訪れた。 
グループツアーのはずが貸切状態に
治安の悪いヨハネスブルグでは、ツアーでなければどこも観光できない。定番コースは「シティツアー」「サンシティとサファリ」「ソウェトのタウンシップ」の3つで(というかこれしかない)、せっかくなのですべて参加してみた。 
私が申し込んだのはグループツアーで、観光バスを仕立てた大人数だと思っていた。ところがヨハネスブルグを「観光」しようなどという外国人はほとんどいないらしく、3つとも貸し切りになってしまった。ガイドと車を個人で手配するのはかなりのコストがかかるから、これが第一の幸運。 
サンシティはヨハネスブルグ郊外につくられた巨大レジャーランドで、アパルトヘイトの時代は「ボプタツワナ」という“独立国家”だった。「国家」といってもいまでいう特区のようなもので、黒人の民族集団のひとつツワナ人をこの地域に集住させると同時に、白人向けの歓楽地として、南アフリカでは禁止されていたギャンブルやストリップなどを“規制緩和”した。コンサート会場「サンシティ・スーパーボール」は、エルトン・ジョンやクイーンなどの大物アーチストを高額のギャラで招聘することで知られ、アパルトヘイトに反対するアーチスト(ブルース・スプリングスティーンやボブ・ディラン)が「I ain't gonna play Sun City!(サンシティでは演奏しないぜ!)」と歌った「Sun City」でも知られている。 
(Photo:©Alt Invest Com)                サンシティのカジノ
(Photo:©Alt Invest Com)  こちらは最高級ホテル、The Palace of the Lost City

このサンシティの近くにはピラネスバーグ国立公園があり、ゾウやキリン、サイ、シマウマなどの野生動物を見ることができる。国立公園内にもロッジがあり、サンシティの豪華なホテルに泊まることもできるが(こちらは最低2泊以上)、ヨハネスブルグからの日帰り観光コースとしても人気だ。 
サンシティと国立公園の1日ツアーを案内してくれたのは、明らかにオランダ系とわかる名前の小柄な白人ガイドだった――丁寧な自己紹介をされたが、長すぎて覚えきれなかったので、ヨハン・ファン・デル・バーホーテンにしよう。 
ヨハンと最初に挨拶したとき、ずいぶん老けて見えるなあと思ったら74歳だった。自営の観光ガイドとして、旅行会社から依頼があったときだけ仕事をしているというが、野生動物、とりわけ鳥の生態に詳しく、サファリのガイドとしては最高だった。 
ピラネスバーグ国立公園。遠くに見えるのはインパラの群れ(Photo:©Alt Invest Com)
(Photo:©Alt Invest Com)        アフリカ象も間近で見られた


国立公園とサンシティを訪れ、ヨハネスブルグに戻る途中でヨハンの携帯に連絡が入った。 
「明日、タウンシップに行くのは君かい?」メールを見てヨハンが訊く。
「そうだ」とこたえると、「おめでとう。明日も私が君のガイドだよ」と笑う。ヨハンはサファリだけでなく、ソウェトツアーも担当していたのだ――これが第2の幸運。
まる2日いっしょにいて、ヨハンとはずいぶん親しくなった。 
南アフリカに最初に入植したのは17世紀のオランダ移民や新教徒・ユダヤ人たちで、その末裔をアフリカーナーという(かつてはブール人、ボーア人とも呼ばれた)。ヨハンは生粋のアフリカーナー(アフリカ人)で、先祖は最初期の入植者だという。これが第3の幸運で、私はアパルトヘイト時代を知るアフリカーナーに、「なぜいまでもこの国に暮らしているのか」という不躾な質問をする稀有の機会を得たのだ。 
アパルトヘイト時代から差別撤廃までを見てきた南アの白人、ヨハン
ヨハンは1940年にヨハネスブルグ郊外の中流階級の家庭で生まれた。父は鉱山会社の管理職で、母親は中学校の教師だったという。大学卒業後に地元の新聞社に就職するが、新聞といっても読者は500万人弱の白人しかいないから、専門分野別に記者を配置することもできず、政治・経済・文化なんでも書いたという。 
当時はアパルトヘイトの時代で、白人と黒人の居住区は完全に分離され、人種を超えた結婚はもちろん、恋愛や性交ですら法で処罰された。黒人には身分証明書の携行が義務づけられるほか、レストラン、ホテル、列車、バス、公園、映画館から公衆トイレに至るまで白人とそれ以外に区別されていた。 
アパルトヘイトに対する最初の大きな抵抗は1960年のシャープビル虐殺事件で、ヨハンが20歳のときだ。身分証を持たずに行進した5000〜7000人の黒人たちに警官が発砲、69人が死亡し180人以上が負傷した。この事件をイギリスが批判したことで、61年に南アはイギリス連邦から脱退している。 
76年のソウェト蜂起では、学校教育でアフリカーンス語(オランダ語が植民地化した南ア白人の公用語)を強制する政策に反発した黒人学生1万人と警察隊300人が衝突し、死者176人、負傷者1139人の大惨事となった。このときヨハンは新聞記者だったが、国内は厳重な報道統制が敷かれ、ソウェトで黒人と警察が衝突したという以外、何が起きているのかまったくわからなかったという。 
“ソウェトの虐殺”は海外メディアで大きく報じられ、これを機に南アフリカは「人種差別国家」として激しい非難を浴びることになる。
(Photo:©Alt Invest Com)       ソウェトにあるヘクター・ピーターソン博物館の記念碑。ヘクター・ピーターソンはソウェト蜂起に参加し、13歳で射殺された
(Photo:©Alt Invest Com)  警察隊に銃撃されたヘクター・ピーターソン。隣で泣き叫ぶのは姉。この写真が世界じゅうに配信され、反アパルトヘイトの国際世論がつくられていった

こうしたなか、白人たちの反応は大きく3つに分かれたとヨハンはいう。 
大多数はあいかわらず、有色人種より白人がすべてにおいて優越するのは当然だと考えていた。だが彼らは、自分たちの白人至上主義が世界ではまったく相手にされず、国際社会で孤立していく現実に直面することになる。 
アパルトヘイトが廃止されると、彼らはオーストラリアのブリスベンなどに大挙して移住した。公安警察などの治安関係者で、報復を恐れた者も多かったという。 
アパルトヘイト時代も後期になると、進歩派の白人たちの声も大きくなってきた。彼らを駆り立てたのは、人種差別が正義に反するということ以上に、自分たちが海外で「逆差別」されることだった。オリンピックや国際会議などから排除されるだけでなく、欧米諸国では南アのパスポートを見せただけでケダモノ同然の視線を浴びるのだ。 
リベラルな白人のなかにはこうした“侮辱”に耐えられず、海外に移住する者もいた。彼らのなかには移住先で経済的な成功を収め、アパルトヘイトが廃止されると祖国で事業を始めたり、不動産などに投資した者もいた。南アの白人富裕層には、こうした経歴を持つひとたちも多いという。 
人種差別が悪だとわかっていても、誰もが気軽に海外移住できるわけではない。ヨハンもこうしたリベラルな白人の一人で、進歩連邦党を支持していた。 
進歩連邦党(後に進歩党)はユダヤ系女性のヘレン・スズマンらが結成した反アパルトヘイトの白人政党で、人種間の平等と融和を掲げて人種差別的な法案の撤廃に尽力し、民主化後はマンデラに協力した。現在は同じユダヤ系白人女性でケープタウン市長のヘレン・ツィレを党首とする民主同盟となり、白人だけでなくアジア系や黒人中間層にも支持を広げている。 
ヨハンは、「マンデラは黒人の英雄というだけなく、白人にとっても恩人だ」という。なぜならマンデラが大統領になることで、南アの白人は「人種差別主義者」という最悪のレッテルから解放され、欧米社会で対等な人間と認められるようになったのだから。 
「最後の頃には、こんなことが続けられるはずはないってみんなわかってたんだよ。でも、黒人の復讐が怖かった。これまでやってきたことを考えれば、当たり前だけどね」
だがマンデラは、一貫して人種の融和を説き、黒人による報復を押さえ込んだ。これが、南アの白人層のあいだでもマンデラが高く評価されている理由だ。 
(Photo:©Alt Invest Com)            ソウェトのマンデラ・ハウス。ここでマンデラが逮捕されるまで暮らしていた。左のスーツ姿の青年は案内員

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アパルトヘイト廃止による報復を恐れ、避難
ヨハンは50歳で新聞社を早期退職し、1年半ほど妻と2人で、オランダを拠点にヨーロッパを旅行したという。 
私はこれを優雅な物見遊山だと思っていたのだが、この原稿を書くためにアパルトヘイトの歴史を整理していてようやくその意味に気がついた。 
1989年12月、人種差別政策をこれ以上続けることは不可能だと判断したデクラーク大統領はマンデラと会談し、翌90年2月にロベン島の収容所から釈放する。これでアパルトヘイト廃止が決定的になったのだが、ヨハンが新聞社を退職したのはこの年だ。 
これは私の想像だが(そしてたぶん間違っていないと思うが)、ヨハンは新聞社からの退職金で、家族といっしょにオランダに避難したのだろう。そこから南アの状況を見て、黒人による大規模な報復が起きないことを確認したうえで帰国を決意したのだ――これは当時の状況を考えればじゅうぶん納得のいく判断だ。 
ヨーロッパでの“難民生活”を終えて南アフリカに戻ったヨハンは、いくつかの職を転々としたもののどれもうまくいかず、けっきょく元の新聞社で契約社員として働くことになる。その仕事が60歳で打ち切られたので、趣味だった野鳥観察を活かせる観光ガイドの資格を取得したのだ。 
(Photo:©Alt Invest Com)    マンデラが18年間を過ごしたロベン島の収容所
(Photo:©Alt Invest Com)                     収容所内部
(Photo:©Alt Invest Com) マンデラの入っていた独房

ヨハンは私との会話のなかで、黒人を批判するようなことはひと言もいわなかった。治安の悪化の原因はジンバブエやモザンビークなどからの不法移民の流入と国内の貧富の格差、不十分な公教育で、それには植民地主義やアパルトヘイト政策にも責任がある。ズマ大統領や与党ANC(アフリカ民族会議)の汚職や腐敗が厳しく批判されているが、権力を批判する表現の自由があることが大事で、黒人に統治能力がないと決めつけるのは間違いだ。人種の融和以外に南アの将来はないのだから、白人もこの国の矛盾を引き受けなくてはならない……。 
私はヨハンの書いた記事を読んだわけではないから、若き日の思想信条はわからない。だが“解放”後の南アに戻った彼が、骨の髄からリベラルになったことは間違いない。なぜなら、黒人が多数派を占めるこの国で少数派の白人が自らの権利を守ろうとするなら、それ以外に道はないのだから。 
民主政治は突き詰めれば多数決による支配だから、黒人と白人が対立すれば、白人は南アから叩き出されてしまうだろう。これは杞憂というわけではなく、現実にジンバブエの白人農場主の身に起きたことだ。 
そこで南アの白人たちは、経済成長によって中産階級の仲間入りをした黒人たちと手を組み、マンデラの言葉を後ろ盾に、人種の平等すなわちリベラルな政治を求めることになった。自分たちが圧倒的な少数派である以上、白人至上主義は政治的破滅行為なのだ。 
ヨハンの話を聞いていてもうひとつ気づいたのは、白人にとっても、アパルトヘイトの廃止は悪い取引ではなかったということだ。 
「人種差別国家」の時代には、経済制裁によって欧米企業は南アフリカに投資できなかった。マンデラが大統領になってそのくびきが外れ、アフリカの経済発展が注目されるようになると、海外から大挙して企業が進出してくるようになった。
だが南アフリカをはじめアフリカの多くの国ではアファーマティブアクション(積極的差別是正措置)が実施されており、黒人を優先的に雇用するだけでなく、一定数以上の黒人管理職を置かないと事業が認可されなかったり、巨額の罰金を科されることになる。そんなとき欧米の多国籍企業が必要とするのは、黒人との仕事の仕方を知っている白人の経営幹部で、そういう人材は南アフリカの高学歴の白人層のなかでしか見つからないのだ。 
民主化後に南アでは分厚い黒人の中間層が誕生したが、それと同様に、あるいはそれ以上に、白人層に富が流れ込んできた。――これが、白人たちがアフリカを離れないいちばんの理由だろう。 
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リベラルに振る舞うように条件づけられている
過去の植民地主義やアパルトヘイトの歴史を考えれば、白人がアフリカで仕事をするときに、「人種差別」がもっとも敏感な問題であることは明らかだ。黒人たちから「レイシスト」と批判されず、同時に自らの権利を守るには、白人にとって次のような「政治的態度」が最適だろう。 
@ すべての人種は平等である。黒人だからという理由で差別することは許されないが、同様に、白人を不利な立場に置くような差別も認めない

A 政治的には、人種差別だけでなく、民族や宗教、性別などに基づくあらゆる差別に反対する(人種の平等はリベラルの理想の一部である)

B ヨーロッパ列強による過去の植民地主義は誤りで、その贖罪がいまだになされていないことを認める

C だが歴史についての謝罪や賠償は国家が行なうもので、白人だからという理由で、自分にはかかわりのない植民地時代の出来事を「反省」したり「謝罪」したりする必要はない。すなわち、「個人に罪はない」

これがリベラリズムのグローバルスタンダードで、私はこれが間違っているとは思わないが、欧米の知識層の思想である以上、彼らに都合のいい論理であることも否定できない。要するに、この4つの原則を堅持していれば、旧植民地国の黒人からのいかなる批判に対しても、「君の意見はもっともだが、私は間違ったことはしていない」とこたえることができるのだ。 
ヨハネスブルグでは、白人客がレストランに入るとき、黒人のウェイターと10年来の親友のように大袈裟な挨拶を交わす場面をよく見かける。高級ショッピングセンターでは、2人(もしくは3人)の実子に黒人の養子という組み合わせの裕福な白人家庭が目につく。ヨハンもまたリベラルな白人として、ソウェトでは子どもたちにズール語で話しかけ、小銭を渡していた。 
(Photo:©Alt Invest Com)         車に寄ってくる子どもたちに小銭を渡す

こういう見方はすこし意地悪かもしれないが、南アフリカの白人は無意識のうちに、あらゆる場面で「リベラル」に振る舞うよう条件づけられているのではないだろうか。それが、自分たちの権利を守る唯一の手段なのだから。 
もっとも、ひとくちに「リベラル」といってもさまざまな立場がある。 
1994年に創設された白人政党フリーダムフロントプラスは、自由と平等の徹底を求める新自由主義を綱領に掲げている。彼らの政治的主張も「リベラル」だが、その標的は黒人を優遇するアファーマティブアクションだ。なぜならそれは、白人やカラード(白人と黒人やアジア系との混血)など少数派を「差別」しているのだから。 
人種の融和を実現するにはリベラリズム以外に道はないが、それは同時に、人種間の対立を煽る道具にも使われるのだ。 
ところで、ヨハンはひと言も口にしなかったが、南アフリカにはいまも白人至上主義者が残っている。 
2010年4月、アパルトヘイト政策撤廃に最後まで反対した極右指導者ユージン・テレンブランシュが自宅農場で殺害されるという事件が起きた。犯人は農場で働いていた28歳と15歳の2人の黒人で、賃金支払いをめぐるトラブルが原因だという。 
この事件は南アの白人社会に大きな衝撃をもたらし、葬儀の日、小さな町は全国から集まった白人たちで埋め尽くされた。彼らはアパルトヘイト時代の国旗や、イギリスの植民地化に対抗してアフリカーナー(オランダ系移民)が建国したトランスバール共和国やオレンジ自由国の国旗を掲げた。 
事件の初公判の日は、裁判所前に集まった約2000人が鉄条網で白人と黒人に分断された。白人たちがアパルトヘイト時代の国家「アフリカの呼び声」を歌いはじめると、黒人たちは解放闘争歌「神よ、アフリカを祝福したまえ」で対抗した。 
警察の調査によると、テレンスブランシュは黒人労働者を無給で働かせていたばかりか、性的虐待の疑いも浮上した(農場で働いていた17歳の少年は「下腹部を触られて怖くなって逃げた」と証言した)。そのことが報じられると黒人たちの怒りが爆発し、第2回公判では白人に向かって「帰れ、ボーア」の怒鳴り声が飛んだ(黒人は南アの白人をアフリカーナー=アフリカ人とは呼ばない)。 
南アフリカはいまも白人農場主が全農地の7割以上を保有し、黒人農家のあいだに不満がくすぶっていた。一方、南アフリカ農業組合によると、1994〜2008年のあいだに農場主や農場作業員の殺害が1541件、襲撃にいたっては1万151件も発生している。白人農場主たちは自警組織をつくり、仲間内で武装し、農場や白人コミュニティを守ろうとしているのだ(高田具成『サンダルで歩いたアフリカ大陸』岩波書店)。 
南アの白人にとって南アフリカこそ祖国
ソウェトのローカルレストランで長い時間話したあと、最後にヨハンに、白人としてこの国に暮らすのはどういう体験なのか訊いてみた。 
「アフリカが黒人の土地であることは間違いないけれど、アフリカーナーもここで400年以上暮らしてきたんだよ。ここは先祖代々の土地で、南アフリカは私の祖国なんだ。もちろん私はこの国に誇りを持ち、愛しているよ」
そういったあとヨハンは、「それに、ほかでは暮らしていけないしね」とぽつりと呟いた。
家族とオランダに“避難”しているとき、ヨハンはそのことを思い知った。彼らは「アフリカの白人」だから価値があるのであって、ヨーロッパではただの田舎者にすぎない。職探しのようなことをしてみたものの、南アフリカの新聞記者経験ではまとも仕事などまったく見つからなかったのだ。 
ヨハンは、10代の頃のヨハネスブルグがいちばん幸福だったという。世界大戦の影響をまったく被らなかった南アフリカは商・工・鉱業が発展し、街はきらびやかで未来は希望に溢れ、「人種差別」を声高に批判されることもなかった。 
「でもそれは、間違った繁栄だったんだ。だから、人種が平等になった今の方がこの国はずっといいよ」
ヨハンは一貫して、南アフリカを擁護した。彼は、“良心的なアフリカーナー”の典型だった。 
そんなヨハンは、私と会う1カ月ほど前にある残念な体験をした。 
スーパーマーケットを出て駐車場に向かう途中、2人組の男たちに襲われ、後頭部に拳銃を押しつけられて、財布や携帯、デジタルカメラなど金目のものをすべて奪われたのだ。 
(Photo:©Alt Invest Com)   マンデラの像の前で記念写真を撮る。サントンのネルソン・マンデラ・スクエア

<橘 玲(たちばな あきら)>
作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル』(以上ダイヤモンド社)など。中国人の考え方、反日、政治体制、経済、不動産バブルなど「中国という大問題」に切り込んだ最新刊 『橘玲の中国私論』が発売中。
●DPM(ダイヤモンド・プレミアム・メールマガジン)にて
橘玲『世の中の仕組みと人生のデザイン』を配信。隔週木曜日、次回は明日16日配信予定!(20日間無料体験中)

南アフリカで白人として生きるということ [橘玲の世界投資見聞録][2015.04.15]
• 「神に見捨てられた街」南アフリカ・ケープタウン、 ダウンタウンのクリスマスイブ [橘玲の世界投資見聞録][2015.04.09]
• テロ事件は、チュニジアの観光業に大打撃か? -10年前、バリ島テロ直後を振り返る- [橘玲の世界投資見聞録][2015.03.26]
• 南アフリカの首都は、プレトリア? ツワネ? その背景にある「歴史問題」とは? [橘玲の世界投資見聞録][2015.03.19]
• 「世界でもっとも危険な都市ヨハネスブルグ」を安全に旅する方法 [橘玲の世界投資見聞録][2015.02.25]
http://diamond.jp/articles/-/70231 


莫邦富の中国ビジネスおどろき新発見
【第250回】 2015年4月16日 莫 邦富 [作家・ジャーナリスト]
中国の美しい田園風景の陰に“貧困と格差”の現実
 香港のメディアに載っていたあるニュースがここ数日、中国本土のネットを賑わせた。ニュージーランドでも特に人気の高いリゾート地のコロマンデルの近くに、Slipper Islandという島がある。同国では、個人保有の数少ない島の一つとして知られるそうだ。最近、この島のほとんどを購入する手続きを、同国に住む自称主婦の中国人女性が進めている。

 217ヘクタールの土地、2棟の建物、リゾート用の平屋4つ、数個のビーチ、小型飛行機用の滑走路を含むその島を、この女性は750万ニュージーランド・ドル(約6億7400万円)をつぎ込んで購入する。目的は娘さんへのプレゼントだそうだ。娘さんの話によれば、島を購入してからどうしようといったことはその女性はまだ考えていない、という。

 海外に住む中国人の中には裕福な人が多い。こうした話はこれまでも聞いたことがある。その意味では、別に彼女たちに羨望の目を向けることもなく、密かに妬く心境に陥ることもない。ただ、それでも今度の原稿にこのことを取り上げたのは、中国国内をはじめ中国人社会に広がる所得格差の問題を考えてみたいからだ。

番組取材で心奪われた
雲南省の農村の雄大な景色

 ちょうどその数日前に、私はfacebookや中国のSNS微信(WeChat)にチベットの芒康にある塩田の景色を写した写真をアップした。太陽の光で金色に輝いている塩田の棚田に、瀾滄(ランツァン)江の水を担いできて塩を精製する女性たちのシルエットという構図の写真だ。完成度が高く、非常に美しい撮影作品だ。すぐに多くのいいねとコメントをいただいた。その中の、ある在日新華僑の女性が次のような感想を述べている。

「以前は、段々畑の写真を見てただ美しいと思っていただけだった。新潟の段々畑で一日、働いてから、農作業をするときの苦労をいやというほど体感できた。それ以降、このような美しい景色を写したものを見ると、頭の中は『大変だ、大変だ』という感想ばかりとなった」

 その女性の感想に私もまったく同感だと思う。思いが翼を広げ、2001年5月の雲南省に飛んだ。

 実は、その前の年、つまり2000年のゴールデンウイークは、NHKの5日間連続衛星生中継番組「雲南の春」の取材と中継に携わったため、雲南省の楚雄、大理、麗江で過ごした。アナウンサーの森田美由紀さんとはじめて一緒に仕事をした。

 そして、期せずしてその年のゴールデンウイークもまた雲南で過ごすことになった。しかも、また森田さんと一緒の仕事だった。森田さんが現地リポートする「ニュース10」と日本人のルーツを探し求めるNHKスペシャル番組「日本人――遙かなる旅」の取材に同行したためだった。


世界遺産に認定された雲南省元陽の美しい棚田
 ただ、2000年の撮影現場が人気のある観光地であったのに対し、2001年はそれほど知られていない元陽だった。省都・昆明市から車で山道を8時間も走ってようやく辿り着く秘境の地であった。

 長時間の車移動ですっかり痛くなったお尻を撫でながら、車を降りると、目の前に広がる絶景に息を呑んだ。海抜800メートルの谷間から2400メートルの山のてっぺんまでが全部水田だった。

 棚田がまさに天にも届こうとするこの光景に完全に圧倒され、かつて詩人を目指したこともあった私はこの「無言の詩」と賞賛された絶景を目の当たりにし、心に沸き立つ感動を表現する言葉を何一つ見つけだすことができなかった。いや、この言葉を探しだそうという努力さえもあっさりと放棄した。どんなに美しい言葉を並べたとしても、この雄大な景色を描ききることなど到底できないと思ったからだ。

 そこで撮影した映像はのちに、NHKのニュース番組とスペシャル番組になり、雄大かつ秀麗な元陽の棚田は、日本のゴールデンウイークに華を添えたと思う。

文革時代に強いられた
農村での過酷な労働

 しかし、撮影現場にいた私は、重い気持ちに沈んでいた。文化大革命時代、私は農村に飛ばされ、5年間近く過酷な野良仕事をしていた。

 当時の私たちはこのあまりにも過酷な労働をすこしでも美しく表現して、理想を失った自分たちを奮い立たそうといろいろ工夫した。その一つとして、自分たちの労働を「地球を刺繍するものだ」と表現した。しかし、勇壮な、献身的な精神を褒め讃えようとするこの表現は実際には、多くの人々に、悲しげで無力な嘆きとしか聞こえなかったようだ。

 元陽の棚田を飽きることなく見つめていたその時、なぜか「地球を刺繍する」、このすっかり忘れてしまったはずの表現が私の脳裏をかすめた。ハニ族の女性たちは、西の山に沈む夕日に映えて鏡のように輝く棚田でせっせと田植えをしている。みるみるうちに、一面あたりは緑に染まっていく。彼女たちのシルエットに私は深い感動を覚えた。彼女たちこそ地球を刺繍するアーティストだ。

 翌日、森田さんがリポートする現場近くでちょうど一人のハニ族女性が棚田に田植えをしていた。連れてきた2人の子供は水田の近くで遊んでいた。

 子供が大好きなので、お菓子などをやっていたら、まだ20代のこの女性と言葉を交わすチャンスを得た。旦那さんが1年前に亡くなり、女手一つで2人の子供を養っていかなければならない。長女はビニールに身を包み、地面に寝ていた。その額に手を当てたら、熱があった。道理で先ほどお菓子をやってもあまり元気がなかったのだ。

 ほかの農家は数人でグループを作り、互いに助け合いながら、順番で各家の水田の田植えをしていく。その場合、賃金を払う必要はないが、助けられたその日には、みんなに食事を振舞う。これがこの地方の習わしだ。しかし、未亡人はみんなを食事に招待するほどの経済力さえもなかったようだ。だから、一人で懸命に汚濁の水田に目に染みるような緑の稲苗を植えていく。

 地球を刺繍する人々はなかなか貧困から抜け出せない。取材を終えて帰ろうとした時、私は彼女に今日だけちょっと早めに帰宅して熱を出した長女を病院に連れて行ったらどうだと声を掛けた。そしてそっとお金をいくらか握らせた。彼女の目が潤んだ。

 感謝の言葉を聞き終わらないうちに、私は逃げるように水田を、そして元陽を後にした。30年前の黒竜江の畔で送っていた自分の生活を思い出したからだ。

 そのあと、私はネットにこのことを書いた。そして、「雄大な景色の裏に、いまでも貧困に苦しんでいる人間が大勢いる」と感想を述べた。

「地球を刺繍する人たち」は
今も貧困にあえいでいる

 当時の記述はネットからとっくに消えてしまった。いま、いくら検索しても見つからなくなった。しかし、私の記憶に残っていた当時の光景はいまでもありありと鮮明そのものだ。

 いまや社会人となった娘は中学時代、農村に残っていた私の同年代の人たちとその子供たちの生活を取り上げたドキュメンタリーを見たことがある。見終わったあと、冷や汗をかいた娘は真剣な表情で、「もしお父さんが農村を脱出できなかったら、つまりあたしもその子供たちと同じ運命になっていた」と感想を述べた。

 のちに大学に進み、アメリカ留学も経験して社会人となった娘は当時のその感想を忘れていないようだ。彼女は親の私からお土産として島一つをもらうことは絶対にないが、おそらく中国農村でよく見られる過酷な生活をこれからも体験せずに済むだろう。

 しかし、元陽の棚田の横で熱を出したため、ビニールに身を包み地面に寝ていたハニ族の娘さんを思い出さずにいられなかった。その子は果たしてうちの娘並みの暮らしを送れているのか。正直に言うと、もしこう聞かれたら、私はどう答えればいいのか、わからない。地球を刺繍する人々の多くがいまだに生活に苦しんでいるという中国の現実を知っているからだ。

 パソコンに保存している当時の写真を何度も探してみた。だが、その子が写っている写真はなかった。
http://diamond.jp/articles/-/70214  

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