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まず、脅迫・名誉毀損・個人情報暴露などに相当するものを除き、「表現の自由」(表現内容について国家権力の規制から自由)は徹底的に保障されるべき権利だと考えている。
それゆえ、今回話題になった下品で恥ずべきムハンマドの絵も、国家権力の手で規制されてはならないと思っている。
そのような絵を配布(出版)したひとや企業を批判することは、同じ「表現の自由」なのだから大いに認められる。
テロルも表現の一形態だが、規制(刑事罰)の対象となる。
シャルリ・エブドの風刺画のようなものについてムスリムに期待する“反応”は別の機会に触れたい。
(「シャルリ・エブド襲撃事件」絡みで、母親を侮辱されたらぶん殴ってもいいというローマ法王の“すさまじい”マッチョなコメントには笑えた:異論があるわけではないが、ローマカソリックの法王としては辞任に相当する発言だと思う(笑))
フランスなど欧米諸国の支配層やメディアの“自己主張”や同調に惑わされているのかもしれないが、フランスは「言論(表現)の自由」を徹底的に尊重している国と錯覚しているひともいるように思える。
フランスの実態は、フランス支配層(ないし国民多数派)が抱く価値観が許容する範囲の言論活動はその自由が保障されていても、そこから“逸脱”した内容の言論活動は“弾圧”(刑事罰)の対象になってしまう「言論不自由」の国家である。
フランスでは、既に死亡し告訴や反論もできないムハンマドを冒涜する下品で恥ずべき絵は自由に配布できても、ユダヤ人を“過度に”非難したり、ナチスの思想を広めるような言論活動は、国家権力によって“弾圧”されてしまう。
ムハンマド冒涜風刺画を自由に配布できることでエラそうに「表現の自由」を自慢したフランスは、実のところ、日本や米国よりも「言論の自由」に規制がかけられている国なのである。
思想や価値観を基準として表現できる内容に制限がかけられている状況を「表現の自由」と言えるかどうか、それほど考える必要はないであろう。
フランスの実情は、「表現の自由」を認めている国家とは言えるものではなく、せいぜい「制限付き表現の自由」を認めている国家と言えるものである。
(日本でも、リベラル派とおぼしき人たちは、自分の価値観に合う主張はムリ筋でも同調する一方、異なる価値観のものになると、主張すること自体を否定するような傾向がある)
1月7日にパリで起きたフランス政府創作劇の「シャルリ・エブド襲撃事件」関連でも、「表現の自由」を高らかに謳ったフランス政府が、一方で「表現の自由」をないがしろにする暴虐行為に及んだ。
どこまでが事実なのかわからないが、フランス2ニュースは、南仏のある小学校で、「シャルリ・エブド襲撃事件」についてテロ行為を支持すると発言し黙祷も拒否した8歳の児童が、親ともども警察に呼び出され取り調べを受けたことを報じた。
その8歳の児童が、「テロ行為の支持」ではなく「テロ行為」に及んだのなら警察が動いても異論はない。
しかし、普遍的で崇高な人権として「表現の自由」は最大限尊重されるべきと主張している国家なら、「テロ行為の支持」発言は、批判や“教育的指導”の対象にすることはできるとしても、警察権力の取り調べの対象にすることは許されないはずである。
「シャルリ・エブド襲撃事件」で大規模なデモンストレーションに参加したフランス国民の多数派は、政府が見せているこのような自己矛盾に気づかないのだろうか。
「表現(言論)の自由」が大きなテーマになっている事件の渦中に「表現の自由」を踏みにじる暴挙を行ったフランス政府(オランド大統領)こそ風刺画のテーマにすべきである。
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