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なぜ日本の避難者対策は「ソマリア以下」なのか
終わりなき戦い
阪神淡路、東日本、熊本…教訓で終わらせてはいけない(上)
2016年7月6日(水)
國井 修
熊本地震が発生してから2か月が経った。
私の友人・知人には救急医療や人道支援に従事する者が多く、地震発生直後からFacebookやTwitterなどで現地の被害状況、支援の様子が次々と伝えられた。
「今から熊本に向けて出動します」「今熊本県の・・・に到着しました」「この避難所は・・・な状況です」
今回の地震に限らず、国内外で緊急事態が発生すると黙って見ていられず、すぐに立ち上がって行動する、熱いハートをもつ人たちだ。彼らからリアルタイムに現場の状況、支援内容、課題が伝わってくる。私もすぐに現場に駆けつけたい気持ちを抑えながら、彼らにエールを送り続けてきた。
私のもとにいくつか相談も舞い込んできた。
「現場は・・・といった状況だが、どのように対応したらいいか」
「・・・のような支援をしたいのだがどうしたらよいか」
「寄付金を集め始めたがどの団体を通じて寄付したらよいか」
状況を聞きながら、自分の過去の緊急支援の経験・知見を伝えるものの、所詮、遠く離れたジュネーブにいて私が助言できることは、限られている。
一般論ではなく、具体的な解決策を
緊急支援には共通した課題・対策がある一方で、同じような災害でも発生場所、被害規模、フェーズなどによって課題・対策が異なってくる。刻々と変化する現場の状況に応じて、活用できる資源(人・物・金・情報)を最大限に駆使して、具体的な解決方法を考え、迅速に実行に移さなければならない。
現場にとって必要なのは、評論家でなく、状況に応じて適切な判断をしながら動かせる指揮官と調整役と実行部隊である。
過去の大規模災害は多くの教訓を残し、それを通じて多くの改善もなされてきた。
例えば、都市直下型地震の阪神淡路大震災ではその甚大な被害から防災対策が徹底的に見直され、建造物の耐震化を含め多くの改善につながった。緊急支援や復旧・復興活動のため全国から167万人が被災地に駆けつけ、これを機にボランティア団体やNPO組織が多く創設され活発化した。
挫滅症候群(クラッシュ・シンドローム)を含め、災害時の緊急医療問題への対応が検討され、災害派遣医療チーム(DMAT:Disaster Medical Assistance Team)や市民救命士など緊急・救急のためのチームが作られ、人材育成が活発化した。
しかしながら、阪神淡路大震災のすべての教訓が東日本大震災で活かされたとはいえなかった。
兵庫県・西宮体育館で医療チームの調整役となった筆者(阪神・淡路大震災時)
私自身、これら二つの大震災で発災直後から現地支援にあたったが、私の正直な印象として、東日本大震災では阪神淡路大震災どころか、途上国の災害支援と比較しても「こんな対応でいいの?」と首を傾げることが多かったのである。日本には資源(ヒト・カネ・モノ)があるのに、どうしてこの程度の緊急支援に留まってしまうのだろう。そんな驚きであり、悔しさでもあった。
「ソマリア以下」だった東日本の支援
東日本大震災の発生時、私はソマリアで保健・栄養・水衛生支援事業を統括していた。内戦・紛争が20年以上も続くその国では、干ばつや飢饉、コレラなどの疫病も流行し、多くの人々が死亡し、難民や避難民が発生していた。
人道支援のために設営する避難施設はできるだけ安全な地域に設置するのが基本である。最低でも1人当たりの居住空間は3.5平方メートル(たたみ約2畳分)、食料は2100kcalを提供する。食糧配給が不十分な場合には、特に妊産婦や子供にはタンパク、ビタミン、ミネラルなどが豊富な補助栄養を提供し、ビタミンAや鉄剤などの微量栄養素も与える。栄養スクリーニング、乳幼児検診、産前検診をキャンプ内で日常的に実施し、予防接種やマラリア予防の蚊帳など現地で流行しうる感染症への予防対策も行う。
ソマリア難民用のシェルター
緊急事態であっても、いやそのような状況だからこそ、人々が享受すべき支援には明確な最低基準を設ける必要がある。そうでなければ、「ここは途上国だから…」と妥協したり甘えたりして、必須サービスが行き渡らなくなるからだ。援助する団体によってサービスの質にもばらつきが出てしまう。共通の道標があることで、国連機関もNGOもそれに向かって努力する。
社会インフラも治安も世界最悪といわれていたソマリアである。そう簡単にサービスを届けられない場所も実際にはある。しかし、そんな劣悪な状況下でも、これらの最低基準を超えることも不可能ではなかったのだ。
だからこそ、東日本大震災の現場を見て驚いたのである。発災後1か月を経っても、津波で車や家が流され破壊され、時には墓石が散乱しているような、凄惨な光景が周りに広がる学校の体育館や校舎で人々が避難生活をしている。体育館の床の上に毛布を敷いてそのまま寝ている空間は、1人当たり1畳程度。仕切りもなくプライバシーもない。寝ている横を人々が土足で歩く。土埃が舞って寝ている人がそれを吸引する。津波は化学工場や石油タンクなども破壊していた。有害化学物質などを含む汚染された土壌がその土埃に含まれている可能性もあった。
1階が津波で被害を受けているため、学校校舎の2階や3階で高齢者が生活していることもあった。校庭にある仮設トイレまでは、体の不自由な高齢者にとっては遠い道のりである。そのため廊下で用を足し、その臭いが周辺に充満する避難所もあった。
発災後1か月も経っているのに食事は一日2食、それもおにぎりや菓子パンばかり。宮城県内の避難所241か所で実施した栄養調査の結果では、避難者のエネルギー摂取は1600kcalにも満たず、ビタミンやタンパク摂取も目標値の5割から8割程度。半砂漠の悪路をトラックで数日もかかるソマリアの避難民キャンプならわかるが、それは日本の話。それも避難所から車で10分も行けば、コンビニやレストランも開いていた時期である。
そんな状況を見て思わず、「ここはソマリア以下」と私は口走ってしまった。十分に支援できる資源があるのに、迅速に適切にそれらを提供できないのはおかしい。
避難所近くの様子(東日本大震災時)
この時の教訓を踏まえて、将来の災害によって失われる命、損なわれる健康を最小限に抑えるため、栄養、水・衛生、感染症、衛生害虫対策、口腔衛生、母子保健、高齢者対策、福祉、心のケア、自殺予防対策、ロジスティクスなどの経験豊かな専門家・支援者たちと一緒にわかりやすいテキストを作成した(南山堂「災害時の公衆衛生ー私たちにできること」)。すぐにコピーして使えるチェックリストや質問票も作り、実践的な知識・情報を盛り込んで、過去の教訓が将来の災害対策に活かされるよう願っていた。
熊本で生かされなかった教訓
はたして、今回の熊本地震ではこれらの教訓は活かされたのだろうか。本の執筆者や東日本大震災で一緒に活動した友人・知人が熊本の被災地で支援活動をし、以下のような状況を伝えてきた。
避難所のアセスメントができていない
避難所は仕切りがなく、1人1畳程度の生活スペースしかない
床に毛布を敷いただけの上に寝ている、そのため腰痛や背部痛を訴える人が多い
避難所は被災者が寝起きするすぐそばまで土足可となっていて、不衛生で清掃されていない
通路の埃やごみが舞って避難者に直接かかる、それらを吸いこんでいる可能性も高い
ペットと一緒に避難している人への対応ができず、衛生面が保持できていない
2週間過ぎても食事はパンやご飯が中心で、おかずが少ない
支援物資が集まっていながらロジがうまく機能せず、避難所への配給が遅れている
支援物資が余っている避難所と不足する避難所が共存するミスマッチが起こっている
コーディネートする人がいないため、避難所でのルールが守られていない
情報が不足し、また異なった情報が行き来していて、避難者に不安や混乱が生じている
余震があったらすぐ避難できるように避難所でも駐車場で車中泊する人が多く、静脈血栓塞栓症(通称、エコノミークラス症候群)が発生し、また懸念される
高齢者、女性、妊産婦、子どもへのケアや配慮が不十分
災害対策本部と分散配置されている市の職員との情報共有や連携が不十分
避難所での指揮命令系統が明確でない
東日本大震災の教訓は十分活かされていない
などなど。
これらは主に発災後1〜3週間ほどの情報で、2か月を過ぎた現在では状況は改善されているという。しかし、これらの情報を知った時点では、なんとも愕然としてしまった。
発災直後に十分な対応ができなかった理由として、
大地震をあまり「想定していない」場所に大規模災害が発生してしまった
被災規模が災害対策の指揮や実施を行う現場の組織・人の対応能力を超えてしまった
計画していた指定避難所や物資の集積地、幹線道路なども被災してしまった
など、いろいろあるだろう。
しかし、災害対策の立場から考えると、「想定していない」で油断しているからこそ被害は大きくなり対策は遅れるもので、現場の対応能力が不足するからこそ、外部支援を含む災害準備が必要となる。災害対策では「最悪のシナリオ」を想定してシミュレーションを行わなければならず、計画していた指定避難所や支援物資の集積地、幹線道路などが被災した時のオプションも考えておく必要がある。
緊急支援は時間との勝負である。特に発災後48時間以内の超急性期には、「1分早ければ1人助かる」ともいわれ、SRM(Search-捜索, Rescue-救助, Medical assistance-医療処置)の緊急体制が整備されなければならない。
「最低限必要な」支援とは
では、直接被害のない避難者には、それほど迅速な対応は必要ないのだろうか。いや、有病者、高齢者、妊産婦、乳幼児、障害者、顕在・潜在的なリスクファクターを持った人にとっては、支援の遅れが生命や心身に多大な影響を及ぼすことがある。
実際に熊本地震でも、5月6日までに災害関連死の疑いが熊本県内で19人、静脈血栓寒栓症(通称、エコノミークラス症候群)により入院必要と診断された患者は熊本県内の主要病院で計48人になったと発表された。これらは迅速なシェルターの整備、飲料水の供給、緊急トイレの設置などを急げば救えたかもしれない命、防げたかもしれない健康影響である。
これ以外にもあまり報道されず、また見過ごされている災害時に発生または悪化する健康リスク・疾病は多くある。
さらに、健常な人であっても避難生活はボディーブローのように効いてくる。
これまで災害支援に参加した人なら、被災地の生活がどれほど酷か、またそれが心身にどんな影響を及ぼすか、理解できると思う。たとえば、東日本大震災で現地支援に参加した私のチームでは、1週間ほどでほぼ全員が口内炎となり、人によっては湿疹・かゆみ、頭痛・めまい、不眠・興奮・不安などの症状も現れた。
また、世界の災害地、紛争地で国連やNGOの職員として活躍する私の友人・知人(国籍は様々)の中には、多様なストレスを受け続け、知らず知らずのうちに身体やメンタルが蝕まれ、最終的に再起不能となったものもいる。タフに見えても崩れるときには崩れる。非日常の環境の中に、多くのストレス要因が潜んでいるのである。
外部支援者であれば、数日から数週間で被災地を去ることもできる。しかし、被災者の中には数か月、時には数年も避難所や仮設住宅での生活を余儀なくされる人もいる。被災した地方自治体の職員の中には、自ら被災して避難生活をしながらも、不眠不休の緊急支援を続け、それでいながら、苛立つ住民から罵声を浴びている人もいる。中には急性期を過ぎても、復旧・復興活動で長らく重責を担い続けなければならない人もいるのである。
このような状況を考えると「最低限必要な」支援を発災後1週間以内、遅くとも2週間以内に被災者に送り届けたい。
ここで重要なのは「最低限必要な」ニーズや支援に対する基準をどのように定義・設定し、どのように測定・報告し、誰が誰に対して説明責任(accountability)を持つか、ということである。
国際的には「スフィア基準 (Sphere Standard)」と呼ばれるものがある。これは1994年のルワンダでの大虐殺に続く200万人ともいわれる難民危機で迅速で十分な援助ができなかった反省から、「多くの人道援助機関及びNGOが共通して使用する人道対応に関する基準が必要」との認識が広がり、それを受けて国際赤十字・赤新月運動(IFRC)とNGOグループが中心になって策定したものである。
被災者にとって何が「正しい」支援なのか、被災者が安心して尊厳をもって生活し、元の生活に戻るために、あるべき人道対応・支援とはどういうものか。援助の「量」だけでなく、「質」も求め、それを保証するための実施者の「説明責任」も追求してこの基準が設けられた。
自衛隊の協力で搬入される支援物資(東日本大震災時)
避難所の外に設置された簡易トイレ(東日本大震災時)
日本でも政府や地方自治体が、災害時における応急給水として、地震発生から3日以内の目標水量を3 L/人・日、市民の水の運搬距離は1km以内、また仮設トイレの設置基準として、初動対応(0〜10日間)で250人/基、後続対応(11日目以降)で100人/基などのように基準を決めている。しかし、私の知る範囲では、スフィア基準のように被災者・避難者が受けるべきサービスの量と質の最低基準を包括的に明記し、そのアカウンタビリティの所在を示している文書は存在しない。
日本の災害支援のスピードと質を向上させるためにも、スフィア基準のような緊急支援における最低基準、それを測る指標とそのモニタリング・評価、報告・説明責任などについて真剣に検討し、明示すべき時だと思う。
「スフィア基準」を超える日本基準を
ただし、途上国と日本とで状況が異なるので、スフィア基準を参考にするのはよいが、そのまま日本に当てはめることには賛成しない。世界が未だ経験していない超高齢化社会、そのほか日本の平時の課題が、災害時にはより鮮明に浮き彫りにされる。これらの課題を考慮しながら、スフィアとは違った意味で世界のモデルになるような基準・方針づくりを日本には期待したい。
一方、日本には管轄する省庁が策定した「地震対策マニュアル策定指針」などがあり、これを基に地方自治体、事業体等が「地震対策マニュアル」「避難所運営マニュアル」などを作成している。私見ではあるが、これらは行政・サービス提供者側の視点で書かれており、被災者・避難者の視点、民間支援の観点が足りない気がする。
実は世界で人道援助を行ってきた我々も、ともすると「支援者側」(supply side)の論理・視点でこれまで援助を進めてきており、「支援を必要としている人々」(demand side)の視点が足りなかったのではないかと反省している。弱者の声は小さく、困窮し辺縁に追いやられた人々の声は届かないものだ。彼らが何を求め、どのようなニーズを持ち、それをどのように満たせばよいのか、人々の声を聴き、彼らの立場・視点で計画・実施しないと、最終的に人々が求める満足のいく支援ができないことがある。これらはわかっているようで、実際に計画や実施をする際に忘れられがちである。
近年、災害や紛争・内戦により様々な地域・国に大量の避難民が流出している。受け入れ国政府は国境を超えてきた避難民に頭を抱え、様々な政治問題に発展することもあるのだが、人道支援の立場からは被災者・避難民を中心においた「People-centered approach」が重要視されている。人々がどこを経由してどのように移動し、どこに行きつくのか、それぞれの時点でどのようなニーズがどれだけあるのか、などを把握・分析しながら、「支援を必要としている人々」を中心に支援を行うものである。私が所属するグローバルファンドでも最近、緊急支援を様々な国で展開しているが、シリア難民ではこのアプローチを導入して支援を行っている。
日本においても、被災者は指定避難所だけでなく、初期には行政が把握できない場所で集団避難をしたり、自宅や車中で避難したり、それぞれに状況やニーズは異なる。被災者を中心に据えた、被災者側の視点や立場での災害対策とは何か、議論を進めてもらいたい。
また民間や個人の支援が活発化している今日、行政だけで支援を完結しようと思わず、積極的に民間のパワーを災害対策に取り込む必要がある。日本の市民社会、NGOは近年、国内外で災害支援の経験・実績を積んでおり、今後の災害対策では大いに活躍できる。官民連携は理屈でなく、より高い効率と効果をもたらすための実践が求められている。
今後の日本の災害対策にさらなる努力と準備が必要と思われる点についての私見を、次回に述べたい。
(次回に続く)
このコラムについて
終わりなき戦い
国際援助の最前線ではいったい何が起こっているのか。国際緊急援助で世界を駆け回る日本人内科医が各地をリポートする。NGO(非政府組織)、UNICEF、そして世界基金の一員として豊富な援助経験を持つ筆者ならではの視野が広く、かつ、今をリアルに切り取る現地報告。
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