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[科学技術 ニッポンの歩み]
(9)地震予知 崩れた幻想
阪神大震災 研究目標、法制化で変質
戦後、地震学者は数日前に大地震の発生を予測する「直前予知」をめざし、国も予知を前提にした防災法制を築いた。だが1995年の阪神大震災で「予知幻想」はもろくも崩れた。2011年に東日本大震災が起き、震災対策は発生後の被害を減らす「減災」に軸足を移した。当初、研究目標にすぎなかった予知は一部学者や行政により「実用的な予知」にすり替わり、日本の防災をゆがめた。
阪神大震災で「絶対に崩壊しない」といわれた高速道路も崩れ落ちた
日本の防災体制は大きく揺らいだ
「地震学者は予知や予測について国民に非現実的な期待を抱かせてきた。地震研究をリセットすべきだ」。東日本大震災から7カ月後の11年10月、日本地震学会が静岡市で開いた特別シンポジウムの冒頭、東京大学教授のロバート・ゲラーはこう訴えた。
学会の「敗北宣言」
地震学会は明治初期に創設され、2千人以上の研究者を擁する。国が1965年度から45年近く続けた「地震予知計画」の担い手でもあった。一方、ゲラーは90年代から「予知は科学的に困難」と訴え、いわば異端者。ゲラーを基調講演に招いたこと自体、学会にとって「敗北宣言」だった。
ゲラーはいまも「世界の地震研究からみて、異端なのは私ではなく日本の学界だ。78年に制定された大規模地震対策特別措置法(大震法)が日本の地震研究を大きくゆがめた」と話す。
大震法はマグニチュード(M)8級の東海地震を予知できることを前提に制定された。駿河湾周辺の計器が岩盤のひずみなどの「前兆」をとらえると、専門家の判定を経て首相が警戒宣言を出し、新幹線を止め住民を避難させる。過去の大地震の直前、地盤がゆっくりとすべる現象が起きたとみられることが、予知可能の根拠とされた。
法制化のきっかけになったのが、東大理学部助手だった石橋克彦(現神戸大名誉教授)が76年に唱えた「駿河湾地震説」だ。四国沖から東海沖では過去1400年間に少なくとも9回の大地震が起きた。だが44、46年の昭和東南海、南海地震は愛知県沖までにとどまり、駿河湾は「割れ残り」になった。「人口密集地で地震が起きれば国難になる」と学界も石橋に歩調を合わせ対策強化を訴えた。
国民に地震予知への期待が膨らんでいた時期でもあった。75年、中国・遼東半島で起きた海城地震(M7強)で中国政府は「直前予知に成功し、死傷者を最小限に抑えた」と発表。科学技術庁(現文部科学省)が有識者に聞いた調査でも「実用化が期待される技術」の上位に入った。
大震法の国会審議に参考人として呼ばれた東大教授の浅田敏(故人)らは「確実に予知できるか分からない」と慎重だったが、政府は「学問的にも予知可能という合意はある」と主張、法案は国会を通過した。
長期予測に変更
大震法ができると、東海地震予知は国の防災の主軸になっていた。73年に10億円弱だった予知研究予算は5年後には4倍に膨らんだ。当時、第一線にいた学者たちは「予知が難しいというと、国から予算がつかないのではという恐怖心があった」と口をそろえる。
この体制を大きく揺さぶったのが95年1月17日に起きた阪神大震災だ。活断層がずれ、6千人を超える死者が出た。万全だったはずの耐震基準の不備もあぶり出され、日本の「安全神話」が崩れた。
この震災を受け、予知偏重の転換が始まる。科技庁長官の田中真紀子の指示で予知推進本部は「地震調査研究推進本部」に改組され「予知」の文字が外れた。列島に2千以上あるとされる活断層のうち約100本を選び、「10〜50年以内に地震が起きる確率」として公表する「長期予測」に切り替えた。
だが11年3月の東日本大震災は、またしても国の防災対策の裏をかいた。
惨禍を教訓に中央防災会議は12年、西日本の太平洋沖でM9級の「南海トラフ巨大地震」が起きると、死者は最大32万人、経済被害も同220兆円にのぼるとの想定を公表。「この地震がいつ起きるか科学的には分からない。だが最悪の被害を想定して対策の出発点にする」(内閣府検討会主査で関西大教授の河田恵昭)。基本にあるのは予知や予測に頼らず、発生後の被害を少しでも抑える減災の思想だ。
地震学会会長で東大教授の加藤照之は「研究者は地震の解明こそが防災の主役と考え、多くを背負い込み、ひとりよがりになっていた」と反省する。東日本大震災を受け学会は行動計画を策定、土木系などの学会と連携を強めている。
だが「地震のリスクを市民にどう発信していくか、明快な答えがない」(加藤)。政府も大震法の見直しについて「今後の課題」(内閣府)としたままだ。予知という目標を失った研究者たちは、それに代わる目標を見いだせないでいる。
(敬称略)
編集委員 久保田啓介が担当しました。
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「予知信仰」なお根強く
▼地震予知研究計画 終戦後、日本に進駐したGHQ(連合国軍総司令部)が地震の多さに驚き、地震学会などに組織的な研究を指示したのが端緒とされる。
64年に起きた新潟地震は液状化など近代都市の弱点を浮き彫りにした。政府はこれを受け第1次地震予知計画を始動。当初、予知は長期的な研究目標だったが、東海地震説を受けた第4次(79〜83年度)以降「実戦的予知」に変質した。
95年の阪神大震災後、計画を作る文部省審議会は「東海地震を除き予知は困難」と認めた。だが「新地震予知計画」などに名を変えて存続。東日本大震災後の14年に「地震火山観測研究計画」に改められた。
一方で、政府の組織には気象庁地震予知情報課、地震予知連絡会(国土地理院の諮問機関)など「予知」を冠した組織がいまも残り、政府の「予知信仰」の根強さを物語る。
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発端は「駿河湾地震説」 不確実さ伝えきれず 神戸大名誉教授 石橋克彦氏
1970年代半ばから日本の地震対策は東海地震の予知に偏っていった。そのきっかけになった「駿河湾地震説」を76年に唱えた石橋克彦・神戸大名誉教授(当時東大理学部助手)に自説への見解や地震研究の課題を聞いた。
――説の提唱から40年近くたちましたが、駿河湾地震は起きていません。
「70年代前半、東海地震は遠州灘(静岡県西部〜愛知県東部の沖)で起きると考えられ、駿河湾周辺は観測も防災も空白だった。私は震源域が駿河湾に入り込むと気づき、直下型巨大地震になり国家的災害が生じるだろうと警告した。この地域の観測や研究を強化すべきだとも訴えた」
「確かにこの地震は40年近く起きていない。東海地震は次の南海トラフ(東海〜四国の沖)の巨大地震と一緒に起きるとみる研究者は多い。だが東海地震が単独で起きないとは今も断言できない。警告したのは当然で、自説が誤りだったとは思わない」
――政府が予知を前提に東海地震対策を強めたことをどう見ていましたか。
「私の説は地震予知連絡会が追認する統一見解を出した。多くの研究者は東海地方の観測を強め、情報を一元化すべきだと考えていた。それを受け気象庁に専門家による判定会が置かれた。研究者集団が行政を動かしたといえる」
「だが予知について私はそのつど独創的な判断が迫られる応急的なものと考えていた。運がよければ震災軽減に貢献するというレベルだ。にもかかわらず予知を前提にした大規模地震対策特別措置法(大震法)が定められたことには違和感があった」
――大震法は功より罪が大きかったと考えますか。
「専門家の判断と社会をつなぐ何らかの法律は必要だろう。私を含め多くの研究者は地震は全国どこでも起きると訴えていた。ところが大震法により対策が東海に偏ったことは罪といえる。地元には大震法のおかげで耐震補強などが進んだと評価する声がある。しかし数十年たてば施設が老朽化し、本番で役に立たない場合もある。震災対策は長い目で全国的に取り組むべきで、大震法がゆがめた面は否定できない」
――地震研究の何が問題だったと考えますか。
「94年に日本学術会議と地震学会が開いたシンポジウムで、予知計画を見直し地震災害軽減計画に改めるよう訴えた。だが支持してくれた人は少なかった」
「地震学は今も未熟で、地震や津波のすべてを理解しているわけではない。特に予知や予測は不確実さを伴う。しかし研究者は、その根本的なことを社会によく説明してこなかった。最近重視される強震動(強い揺れ)の予測も予知幻想の二の舞いにならないかと懸念している」
「2つの大震災で予知や予測の困難さが分かったが、予知という目標を殊更避けるのは疑問だ。地震研究の究極が予知にもつながるはずだから、震災軽減策を別途充実させたうえで、純粋な基礎科学の観点から予知研究も進めるべきだ」
[日経新聞12月13日朝刊P.13]
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