3. 2015年8月15日 13:39:12
: jXbiWWJBCA
生の果てに直面し、人は何を想うのか死の周辺で働く人々を描いた3冊 2015.8.15(土) 田口 幹人 早いもので、今年もお盆の季節となった。お盆は、旧暦の7月15日を中心に行われる先祖の霊を祀る行事。故郷に帰省し、先祖のお墓参りをされている方も多いのでは。 お盆の由来は諸説あるようだが、お盆が仏教行事ということから、仏教的な側面からその起源と由来を調べてみると、中国の西晋時代に活躍した竺法護が翻訳したとされる『仏説盂蘭盆経』、異訳とされる『仏説報恩盆経』などが典拠とされ、お盆の盆という言葉も、盂蘭盆を簡略に表現したものとされているようだ。 詳しくは、蒲池勢至著『お盆のはなし』(法蔵館)に分かりやすく解説されているので、ご興味のある方にはぜひお読みいただきたい。 今週は、ご先祖様に想いをめぐらせながら、死の周辺で仕事をする人たちを描いた本をご紹介させていただきたい。 変わりゆく葬儀ビジネス 井上理津子著『葬送の仕事師たち』(新潮社)は、団塊の世代が80歳代となる超多死社会を間近に拡大し続けている葬儀業界において、故人との別れのプロフェッショナルである葬儀社の社員、納棺師、エンバーマー、火葬場職員の姿と仕事を通じて、現代の死に方事情に迫ったノンフィクションだ。 『葬送の仕事師たち』(井上理津子著、新潮社、1512円、税込) お別れの場面で黒子に徹し続け、あまり語られてこなかった業種に就き、死の現場の最前線で死に関わる彼らの生々しい証言は、私たちに尊厳をもって故人を送るとはどんなことなのかを教えてくれた。 2013年における日本全体の死者数は約126万人で、2030年には161万人に達するといわれている。団塊の世代が80歳台に突入し、大量死の時代が到来するためだと考えられている。 急激な死者の増加に伴い、別れの場を提供する業界である葬儀業界は活況を想像するが、どうやら事情が違うらしい。火葬場の不足や家族葬、直葬、合理化、感動化というように別れのスタイルが多様化していることを受け、年々厳しさを増している業界のひとつなのだという。 平均寿命が延びた分の期間には、医療費や介護費など高齢期を生き抜くための支出が必要となってくる。その支出が優先され、葬儀にかける費用は年々減少しているのだという。 本書が斬新だったのは、観念的に通例的にそして感情的に語られることが多かった別れの場を、1兆6000億円の市場規模を持つ葬儀業界というビジネス的な側面から検証したという点だろう。 他業界と同様、顧客の多様化とそれに伴うファスト化、そして価格破壊という悩みが浮き彫りにされる一方で、対比されるかのように葬送の現場で働く者たちが持つ矜持が浮かび上がる。著者は、ビジネス的な側面から描きながら、本当はこの日常的に死と向き合う彼らの心を描き出したかったのだろう。 私たちは、死から遠ざけられているのかもしれない。そして、ひとたび死に直面すると驚きと哀しみに圧倒されるばかりで、その本質に触れることを避けたがってきたのかもしれない。 本書に取り上げられた死の周辺で働く人々は、本当の意味で死を知る人たちだ。彼らは、日常的に生の果ての姿に触れることで悟る。命とは絶対的な死から許され、与えられたかりそめの状態にしか過ぎないことを。漠然とした死を否が応でも意識させられる本書は、読む者の今後の生き方すら変えてしまうのかもしれない。いま「命が私たちを生きている」、そんなことを考えさせてくれる作品だった。 遺族に寄り添う復元納棺師 続いては、近年、最も多くの死に直面した忘れられない出来事・東日本大震災における死を取り扱った作品、笹原留似子著『おもかげ復元師』(ポプラ社)を紹介したい。 『おもかげ復元師』(笹原留似子著、ポプラ社、1296円、税込) 震災直後から、甚大な被害を被った岩手県の沿岸部で、復元納棺師として損傷の激しいご遺体を生前のお姿に戻すことに献身した女性がいた。 著者・笹原留似子さんは、岩手県北上市で復元納棺を請け負う「桜」の代表を務めている。彼女を被災地へ向かわせたものは何だったのだろうか。被災地で見送った300体を超えるご遺体、そしてご遺族の苦悩をどのように受け止め、そこで何を感じとったのか。 著者は、「ご遺族の気持ちに寄り添う納棺を」という考えから、一貫して「参加型納棺」を通じて故人を見送ることを続けている。参加型納棺とは、化粧など、ご遺族が形式上納棺に参加するという意味ではなく、悲しみや苦しみの中にあるご遺族に寄り添い、故人の話を聞き、ご遺族と感情を共有するところから始める納棺のことだと著者は言う。 故人の数だけ人生があり、それぞれの人生にドラマがあっただろう。その一人一人の人生に自分を重ね合わせながら寄り添い、ご遺族が悲しみから立ち直り、再び前を向いて歩みを進める決意をする日が来ることを願って関わり続けているのだという。 本書の前半部では、著者と故人、そして遺族との向き合う姿勢が綴られている。この前半部が著者の被災地での活動の礎となっている。そして後半部では、被災地での活動が綴られている。 損傷の激しいご遺体だが、生前の姿に近づける技術を持つ著者にしか為しえない別れの日を、何が何でもご遺族と共に過ごすのだという覚悟と、それに伴い背負い込んだものの想像を絶する重さが伝わってくる。 ご遺体が、生前のおもかげを取り戻したとき、ご遺族は生きていたときの思い出と再会できる。たくさんの思い出があるからこそ、悲しみに涙のあとに、また生きてゆく力が芽生えるのだという著者の言葉が胸に迫る。 大きな爪跡を残した東日本大震災。死者・行方不明者の数は2万人以上といわれる。その一人一人に人生があった。著者が向き合った死は、その中のごく一部かもしれないが、その行動がどれほど尊いものだったのか。 震災から4年が過ぎ、風化してゆくことが危惧されている。今年のお盆は、ご先祖さまに手を合わせたあとで、先の震災で亡くなった方々にも思いをめぐらせてみてほしい。被災地に暮らす人たちの深い悲しみが、生きてゆく勇気に変わることを願いながら。 死は少女に何を教えたのか 何か行動を起こすことだけが被災地支援ではない。想い、祈ることもまた支援となるのだと思う。 最後の1冊は「おくりびと」を描いた高田郁著『出世花』(角川春樹事務所)のご紹介を。 『出世花』(高田郁著、角川春樹事務所、648円、税込) 時は江戸時代。青海街道沿いの下落合を舞台とした時代小説だ。不義密通をした相手と出奔した母に仇討ちをするため、父に連れられて故郷を出たお艶。6年の歳月を経てもなお想いを果たせずにいた父とお艶は、飢えの果てに食べた道端の野草の毒に侵され竹林の中の傍らに倒れてしまうのだった。そんな2人は、通りかかった僧侶に拾われる。その僧侶は、下落合で弔いを専門とする墓寺の青泉寺の僧侶だった。 お艶は元気を取り戻したが、父は僧侶にある頼みごとをして息を引き取ったのだった。亡骸と真摯に向き合う僧侶の手によって、浮浪者同然に生きてきた生前の父の姿から解放され、浄土へと旅立つ仏の姿に変わってゆくのを見たお艶は、感銘を受け自らをその場に置くことを決めるのだった。 お艶が担当した湯灌場は、亡骸を洗い清め、傷みのあるものは復元作業や死化粧を施すなどの納棺師の仕事だった。その時代、湯灌場での仕事は、屍洗いと呼ばれ蔑まされた上に、死者との様々な別れに向き合わなければいけない過酷な場だった。 本書には、その場で9歳の少女が19歳になるまで、どのように成長していったのかが4つの短編を通じて描かれている。忌み嫌われる死の現場に生きることを選んだ少女を真正面から描くことで問うたのは、生きることとは何なのだろうかということだった。 お読みいただくと分かるのだが、物語の進行とともに、お艶は名を変えてゆく。まるで出世魚のように。いずれ、大輪の花を咲かせてほしいという高田郁の願いと優しさが「出世花」というタイトルには詰まっている。 この度、『出世花』の続編であり完結編となる『蓮花の契り』が発売された。ぜひ、お艶のその後も併せてお読みいただきたい。 私の店では、ずっと高田郁の生み出す物語には共通のPOPをつけている。 「人が信じられなくなったときは、高田郁を読むといい!人の優しさにふれたいときは、高田郁を読むといい!」と。 それでは、またお目にかかります。 http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/44518 |