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野口悠紀雄さんのぐち・ゆきお/1940年生まれ。72年、イェール大学Ph.D取得。東京大学教授などを経て、早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問(撮影/編集部・宮下直之)
高度成長支えた「1940年体制」 戦後も生き残った理由〈AERA〉
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150806-00000006-sasahi-bus_all
AERA 2015年8月10日号より抜粋
昭和の高度成長を実現したのは、戦時型のシステムだった。戦後日本の出発点を知ることで、いま取り組むべき課題が明らかになる。早稲田大学ファイナンス総合研究所顧問で、自身も1940年生まれの野口悠紀雄さんが「1940年体制」について語った。
* * *
係長は、34年組だった。課長補佐は31年組で、トップの事務次官は12年組。野口悠紀雄さんは、1964(昭和39)年に大蔵省(現・財務省)に入省したから、39年組ということになる。入省年次によるヒエラルキーは、頂上まで滑らかに続いていた。もちろん、敗戦の年に入省した20年組の上司もいた。
「切れ目なく連続していました。驚くべきことに、大蔵省に敗戦はなかった」(野口さん)
その驚きが、「1940年体制」を着想する原点になった。
GHQによる戦後改革を経て現在の日本があるとすると、戦中と戦後を隔てる大きな断絶が45年にあったことになる。しかし、野口さんが着目したのは、戦時中の40年前後に導入された一群の施策だ。それらは産業界から金融、財政、官僚制などに及び、戦時総力戦体制を支えた。
「敗戦時でなく、40年前後にこそ大きな断絶があり、そこで日本は戦前の体制とまったく違うものになった。この差は5年間しかないが、質的に非常に重要だと思います」(野口さん)
大蔵省に敗戦の年の断絶がなかったように、日本経済にも敗戦による断絶はなかったというのが「1940年体制史観」だ。
金融では、政府が金融機関に対し、融資を命令できるようにしたほか、複数の金融機関で共同融資する仕組みなどを整えた。これらにより、戦前は活発だった、株式市場で資金調達する直接金融が減り、銀行貸し出し中心の間接金融が優勢になった。また、賃金統制により、初任給から昇給額まで政府が決めるようになったことで、その後の年功序列賃金や定期昇給の原型になったと考えられている。
戦後も1940年体制が生き残った理由を、野口さんはこう分析する。
「戦後の復興期と高度成長期には、統制的な1940年体制が経済成長を助けたんです」
たとえば間接金融をベースに金利規制などを行うことで、資金の流れの統制が可能になった。
中小金融機関に預金が集まっても、金利を自由に決めることができなければリスクの高い貸し出しは難しい。すると、余った資金は銀行間市場などを通して都市銀行に流れ、都市銀行は製造業や輸出産業などの大企業に融資した。資金を必要とする産業に効率的にカネを回す仕組みが、高度成長を支えたのだ。
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