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アトランタ連銀総裁のデニス・ロックハート氏 〔PHOTO〕gettyimages
いよいよ「利上げ」に踏み切るアメリカ 「出口政策」を成功させるには何が必要か?
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44566
2015年08月06日(木) 安達 誠司 現代ビジネス
8月4日、FOMCの現役メンバーの一人であるアトランタ連銀のデニス・ロックハート総裁が、今年9月の利上げを示唆する発言を行った。これによって、9月利上げの確率が一段と上昇したというのがマーケットのコンセンサスになっている。
現在、多くの市場関係者が、米国の利上げ時期を巡る憶測に右往左往している状況だが、より重要なのは、今回の利上げに始まる「出口政策=金融政策の正常化」が成功するか否かであると考える。そこで、今回は、米国の出口政策が成功するための条件を考えてみよう。
■「早すぎた出口政策」の失敗
実は、出口政策に関する研究は世界的にみても驚くほど少ない。バーナンキ前FRB議長に代表されるアカデミズムの大恐慌研究における先駆的業績は、「大恐慌脱出のメカニズム」を国際比較で明らかにした点である。だが、それらの一連の研究は、リフレ政策の「導入」に至る経緯に関するものであって、出口政策自体に関する言及はほとんどない。つまり、どのようなプロセスで「正常な(デフレではない状況下での)政策」へ転換すべきかを論じた研究ではない。
その中で、唯一といってもよい出口政策に関する研究は、2006年に、当時、ニューヨーク連銀のエコノミストであったガウチ・エガートソン氏(現在はブラウン大学の准教授)らが発表した「The Mistake of 1937: A General Equilibrium Analysis(一般均衡分析からみた1937年の(出口政策の)失敗)」である。今回はこれを紹介したい。
1930年代前半の大恐慌期、深刻なデフレに直面した米国では、1933年に大統領に就任したフランクリン・ルーズベルトが主導した大胆な政策転換(リフレ政策への政策レジームの転換)によって、一旦はデフレを克服した。そして、1936年半ばから、むしろ、「リフレ政策の継続は副作用をもたらすリスクの方が高くなっている」との判断から、FRBは段階的な出口政策に踏み切った。
出口政策を始めた当初は、経済の順調な回復や株価の上昇が続き、出口政策は成功するかにみえた。だが、出口政策がほぼ終了した1937年、米国経済は一気に落ち込み、再びデフレに見舞われることとなった(「1937年大不況」と呼ばれる世界大恐慌期に次ぐ深刻な不況に陥った)。
この「1937年大不況」に際して、FRBは大恐慌期以上の量的緩和政策を採らざるを得なくなったが、その後、米国は、出口政策を実現できないまま、事実上の「統制(戦時)経済」に突入した。
1938年1月、サンフランシスコの職業紹介所に並ぶ失業者たち 〔PHOTO〕gettyimages
リフレ政策に否定的な論者は、この事実をみて、「戦争によってしかデフレは解決しない」と言うことが多いが、これは正しくない。1937年の「早すぎる出口政策」の失敗により、米国経済が再び深刻なデフレに陥ったことが、その後の出口政策の実現を不可能にさせたと考えたほうがよいのではないか(1937年の出口政策の失敗がなければ、米国は戦争直前の1938年頃に出口政策を実現できていた可能性が高いと考える)。
■1937年大不況の原因
ところで、エガートソン氏の分析では、まず、「デフレ政策のレジーム(インフレ率の誘導目標を0%)」と「リフレ政策のレジーム(インフレ率の誘導目標を+2%程度)」を明確に定義した上で、1933年の政権交代(フーバーからルーズベルトへ)を政策レジームの転換期であったとする。そして、両方のレジームの下で、インフレ率とマクロ経済の需給ギャップが理論的にはどのように推移していくかを「確率的動学的一般均衡モデル(DSGEモデル)」によってシミュレーションし、両者を比較した。
この論文のユニークな点は、「レジーム転換」(つまり、「デフレ・レジーム」から「リフレ・レジーム」への政策転換)後も、「もしかすると、ルーズベルト大統領は、デフレ克服の『約束』を破って再びフーバー時代の『デフレ・レジーム』に戻ろうとするのではないか」という疑念を常に持ちながら、経済活動を行う人々が存在すると考えて、レジーム転換の程度によって、マクロ経済の状況が大きく変わると考えた点である。
この仮定の下では、実際の経済の推移(インフレ率と需給ギャップ)は、「デフレ・レジーム」の下での推移と「リフレ・レジーム」の下での推移の加重平均値になる。そこで、どの程度の割合の人々が「デフレ・レジームに戻る」と考えているかが逆算できるのである。そして、「デフレ・レジームに戻る」と考えていた人の割合が多ければ多いほど、ルーズベルトの経済政策は「信認」されていなかったことを意味する。
実際に算出されたこの割合の推移は【図表1】の通りである(エガートソン氏らの論文のモデルを再現して筆者が算出したもの)。これによると、1937年の初め頃から「経済政策がデフレ・レジームに戻るかもしれない」と懸念する人の割合が急上昇していることがわかる。
【図表1】大恐慌期におけるデフレ・レジームへ逆戻りする確率の推移
これは、1936年の半ば以降、段階的に実施された出口政策において、当初、民間経済主体には、これがデフレをもたらすような政策変更であるとの認識はなかったが、出口政策が進捗するに従い、デフレに逆戻りするのではないかという疑念をもつ人の割合が急速に増えていき、それが自己実現的にデフレ圧力を強め、出口政策を失敗させたことを意味する。さらに、ルーズベルト大統領による経済政策のレジーム転換が不十分であったことを示唆している。
つまり、これは、「早すぎた出口政策の実施は、大統領が『もう1回デフレになっても構わない』という意思表示をした」と解釈され、政府が「デフレ克服」という当初の約束を反故にしたとみなす人が急激に増えたことを示唆している。そのため、多くの人々の経済行動が再びデフレ対応型に変わってしまったことが、1937年大不況の原因であると考えられるのである。
【図表2】大恐慌期前後の米国の卸売物価指数の推移
■出口政策成功の条件とは
ルーズベルト大統領は、1932年の大統領選におけるラジオ演説で、「大恐慌前の平均的な物価水準(1927〜1929年の水準)に戻るまで、リフレ政策を続ける」ということを高らかに宣言して当選した。だが、当時の物価水準(卸売物価指数を用いることが多かった)をみると、確かに出口政策は、ルーズベルト大統領が選挙で約束した、目標とする物価水準に遠く及ばない水準の下で実施されたことがわかる(【図表2】参照)。
歴史に「if」はないが、出口政策実施までの物価の動きをみると、出口政策を開始した1936年半ば頃から、物価水準は、ルーズベルト大統領が目標とした水準に向けて、本格的なキャッチアップの過程に入った可能性が高く、これをしばらく放置しておけば、1937年半ばから1938年頃に、物価はその目標水準に到達した可能性があった。従って、段階的な出口政策(今日的な意味でいえば、Tapering)をあと2年程度我慢して、1938年頃から始めていれば、米国はデフレを完全に克服していたかもしれない。
その意味で、出口政策成功の条件として指摘できるのは、「リフレ政策を発動した当初の政策目標を遵守する」ということとなろう。
今回の米国では、迅速なリフレ政策の実施によって、デフレへの転落は回避された。つまり、物価水準自体は緩やかに上昇しており、その点は、大恐慌期の出口政策とは異なっている。よって、問題は、民間経済主体の「デフレ予想」を完全に払拭できたか否かとなる。
前回までの議論に基づけば、デフレ予想が払拭されたか否かは、「シャドーレート」が明確にプラスに転じたか否かで判断できるかもしれない(「デフレ予想」に関する指標としては、「ブレーク・イーブン・インフレ率(BEI)」があるが、これは、攪乱要因で変動することも多く、政策判断材料としては「ノイズ」を多く含んでいるので取扱いに注意すべきではないかと考える)。
ちなみに、7月末時点での米国の政策金利ベースのシャドーレートは-0.53%である。前回説明したように、シャドーレートのマイナス部分(0.53%分)は、現金選好の度合い、言い換えれば、債券市場でのデフレ圧力の代理指標となっていると考えられる。
まずは、これが0%になれば、とりあえず、マーケットのデフレ圧力はほぼ払拭されたと考えてもよいだろう。ただし、「シャドーレート」が0以上の水準になったからといって、必ずしも出口政策が実体経済に影響を及ぼさないことを意味するものではない。この点については、次回以降、あらためて考えてみる。
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