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世界が100人の村だったら。――「資本論」超入門 +信用創造ちょいたし
100人のうち20人をとりあえず「資本家」と呼んでおく。残り80人は「労働者」とする。
生活水準はみな同じであり、(消費財をコメで代表させるとすると)一年に「コメ」一俵を消費する。この世界の総産出は「コメ」100俵である。
世界を一つの「企業」とみなす。
通貨は「1ドル金貨」とし、100枚の金貨が「企業」の手の中にある。コメ1俵=1ドルで「労働者」の賃金も1ドルである。
「企業」の手の中にある100ドルのうち80ドルは「資本」であり、20ドルは前年度の「利潤」である。
「企業」はまず20ドルの利潤を資本家に支払う。
つぎに、「企業」は80ドルを投下して80人の「労働者」を雇い「コメ」を生産する。80人の労働者はその金で80俵のコメを買い一年間の生活に当て、一方でコメを生産する。ところで一人1俵を消費して一年間働く労働者は一年に何俵のコメを作ることができるか。
馬とか牛を連れてきて農場で働かせたとして、その馬が一年間に食べる飼料より以上のものを生み出さなかったとしたら、馬を飼う意味がない。
トラクターのコスト以上の「剰余」をトラクターが生まなければトラクターを農場で使う意味がない。
これは当たり前だ。狼やライオンが一日走り回って自分が生きる分の獲物しか手に入れられないとしたら(剰余が存在しないとしたら)、彼らは子供を育てられないことになる。
この世界では一人の労働者は一年に1俵のコメを消費し1.25俵のコメを生産する。0.25が剰余である。全体では80人の労働者が100俵を生産する。そのうち80俵は来年度の労働者の消費に当てられ、20俵が「企業」の手に残り、資本家がそれを20ドルで買う。
「企業」は80ドルを生産に投入し100ドルを得た。20ドルの利潤が実現した。100ドルの金と100俵のコメが一回転した。この経済体は単純再生産を繰り返しながら存続することができる。
ではここから数字を動かしてみよう。
労働者の賃金を引き下げ0.9ドルにしたとする。賃金の総額は72ドル。労働者は全体で72俵のコメを買い、「企業」の手には28ドルと28俵のコメが残る。
20人の資本家が28ドルの利潤を得て28俵のコメを買うとすると貧富の格差は発生するが、世界は豊かにならない。といって増えた分の利潤8ドルをため込んでしまうとコメが売れ残る。
「搾取」の度を高めても総産出は増えない。労働者の取り分が8減っただけで、利潤を増やしても世界経済のパイは大きくならない。パイを大きくするには総産出を増やさなければならない。
資本家が8ドルを工業に投下して(何ならこのとき資本家も自分の生活水準を0.9ドルに下げて10ドルを新投資に振り向けるでもよい。)トラクター工場を作ったとすると、(農業から工業に労働者が移動する。)たとえば結果として「労働者」が工業労働者10人、農業労働者70人の世界になると、コメ(消費財)の産出は87.5俵に減少し世界は貧しくなる。工場が完成して農業にトラクターを投入したときにやっとコメの生産が増える。例えば120俵に増えて1.2俵が1ドルで買えるようになれば労働者は0.9ドルの賃金で1.08俵のコメを得ることができる。
このとき、100ドルの金貨が増えた量の財(120俵のコメ+資本財の損耗分など)を買うことになり、世界がデフレになる。マルクスの場合金が相対的に高くなると金採掘業の利潤率が高くなって資本が金鉱山に投入され金貨が増え総算出の金額も増えるとしているけれど、今なら紙幣を印刷するとか、デジタルマネーを操作するとかして購買力を増やして物価を安定させるのだろう。ところでこの操作は一種の贋金作りなわけだから、ここで増えたドルを誰のものにするかで損をする人と得をする人が出てくる。金貨の生産なら、コスト=収入は経済法則に従って「正しく」分配される。
(ところで、これらの数字は適当につくったのであって、まともに計算してはいない。農業分野と工業の利潤率が等しくなるかとか、工業の生産設備はどのようにして蓄積されるかなどは無視している。マルクスの再生産表式を見ながらやればよいのだろうけれどやらない。ここでは利潤を増やしてもそれだけでは経済のパイは大きくならないことが示せればよい。また、「マルクスに価値論はいらない、分配論で推してゆけばよい」というジョーン・ロビンソンの提案を尊重して「価値」には触れない。)
資本主義の初期に資本を蓄積するには国民の消費水準を下げなければならない。農業しか産業がないのだから農民からの収奪を強化しなければならない。これはイギリスでも日本でもロシアでも当然そうなのであって、迂回路など存在しない。ロシア革命とは巨大な開発独裁の一種だ、とバーナムは喝破したけれど、メニシェビキたちの悪夢、(早すぎた革命――コムニストが社会主義の名の下に国民を収奪して資本主義的原始蓄積を遂行する)と理解するのが正解なのだろう。資本主義の代用品としてのコムニズムととらえれば、200年の資本主義の歴史を20年で駆け抜けたロシア共産党は使命をそこそこ果たしたといえる。
巨大な貧しい農民人口を抱えた中国のような国で、コメからトラクターに生産をシフトさせると膨大な餓死者が出る。また逆から考えると薄く広く国民から集めた資源をトラクター工場に振り向けようとしたときに、人口増加が起こっていて、その人口を養うためにその資源が食いつぶされてしまったら、国民一人当たりの資本装備率を上げることができない。人口を減らす、もしくはそれができなくても少なくとも人口爆発をとめなければならない。中国共産党は「一人っ子政策」を最優先の課題としたらしいが、「資本主義の代用品としてのコムニズム」として当然の論理に従っている。魔法のような経済システムは存在しない。人間的自由とか民主主義に反するなどと馬鹿なことを言ってはいけない。
この資本主義的蓄積はいつ終わるかというと、国民から「搾取」した剰余を資本家が生産過程に投資できなくなったとき――資本家が蓄積の主体であることをやめ、ただの寄生者の階級になったとき資本主義は終わる。収奪者が収奪され、資本の社会化が日程に上る。
(「会社は社員のもの」ならそれは「生産手段の労働者所有」ということだ。)
ところで近代経済学では利潤をどう説明するか。(というか、まともに説明できない)
100ドルで買った商品を110ドルで売った。その10ドルが利潤だとすると、その10ドルは買った人が余計に支払っただけであり、お金の総額が増えることはない。お金が増えたのだとすると、それは単なるインフレだ。10パーセントの利潤を実現するには10パーセントのインフレが必要になる。
経済は結局商品で商品を買うのだから、高くなった商品で高くなった商品を買うことはできる、と考えると、それは全般的物価騰貴だ。すべての物価が上がっただけだ。
クマさんがりんごを一個、八つぁんがアンパンを一個持っている。まずクマさんが八つぁんにりんごを100円で売り、八つぁんがクマさんにアンパンを100円で売る。次にクマさんが八つぁんにアンパンを110円で売り、八つぁんがクマさんにりんごを110円で売る。……
マルクスは、自分の帳簿の数字に0を足して喜んでいる、とおちょくりをいれていたはずだ。
あるオランダという国でチューリップの投機が始まったとする。投機に参加した人の持ち金は総額で100万ギルダーだったとする。するとチューリップの総額は100万ギルダーを超えることはできない。現金取引をしているときはたとえば1個120万ギルダーのチューリップなどということはありえない。ここで、1個10万ギルダーで買ったチューリップが6個ある。これは売れば20万ギルダーになるはずだからそれで120万ギルダーのチューリップを買おう、などとやると、数字はいくらにも、たとえば200万ギルダーにも増えるがそれはバブルであって、決算したときには100万ギルダーに戻る。戻らないとしたらどこかでいんちきをして贋金を紛れ込ませたのだ。
100人の人口、100俵のコメ、100ドルの収入の世界で誰かが10ドルの贋金を作ると、1人1ドルの収入では0.91俵のコメしか買えなくなり、贋金を作った人は10俵を手に入れることができる。贋金を作った人の増えた分のコメは他の全員からくすねたものだ。
ある資産が年1万ドルの収入をもたらしているとき、例えばある世界では資本還元して100万ドルの資産価値があったとすると、その100万ドルはそうみなしているだけで人の頭の中にしかない額であって、現実のお金ではない。いっぽう1万ドルの収入(現実のお金)とは、支払った人から受け取った人に移動しただけだ。その資産が2万ドルの収入をもたらすようになったら資産価値は200万ドルに増えるがその殖えた100万ドルは増えたとみなしただけで現実のお金が増えたわけではない。持ち主が2万ドルの収入では物足りなくなって、その200万ドルの資産を売って現金に換えて200万ドルの購買力を手に入れた場合には、その200万ドルは買った人が出したのだ。頭の中のお金の数字は増やすことができるが現実のお金は移動するだけだ。
また1万ドルの収入を産む資産が、利子率が変化して評価額150万ドルになったとして、その50万ドルは果たして「増えた」のだろうか。
この世界が1年に産出する財の総額が1億ドルだったとすると、1万ドルの年収入で世界が産出した財の1万分の1を買うことができる。資産額が100万ドルでも150万ドルに増えても、それ自体は購買力にはならない。頭の中で「みなした」お金と実際の購買力になるお金はきちんと区別してとり扱われなければならない。
金融工学とは競馬必勝法の類なのではないだろうか。ただし競馬場ではお金は増えないが、金融工学でお金が増えたとしたら彼らがより多く消費する分は世界中からくすねたものだ。投機で世界のパイを大きくすることはできない。
株価総額を増やす、などということに意味はない。株価がいくらであってもその金額で全部が売り切れるわけではない。売り始めたとたんに株価は下がり始める。売り逃げして儲けた人の分は売りそこなって損した人の分が移動するだけだ。
「100俵のコメ」の世界でいくら投機を繰り返してもコメが120俵に増えるわけではない。コメを増やすには現実に生産資本を追加投資しなければいけない。利子、配当はその時の利潤からの分け前だ。
資本があると(なぜだかはわからないが)利潤が生まれる、というのは見かけの運動にごまかされている一種の天動説だ。利潤はお金が移動するだけで、増えたのではない。
信用創造をもう一度考えてみる。
サミュエルソン経済学13版に倣って準備率10パーセントとする。
業種・職種によって経済活動の回転速度、サイクルは異なるだろうけれど、単純化のためすべてのサイクルは同じとして話を進める。同じく単純化のため単純再生産の経済とする。
1サイクル目。
ミズ・ボンドフォルダーが甲銀行に1000ドルを預ける。
甲銀行はA氏に900ドルを貸し出す。
1000ドルが預金された時点で、総購買力の中から1000ドルがいわばスリープ状態になる。準備率10パーセントということは100ドルが預金者によって使われることを前提としているのだから、実際には900ドルがスリープである。不足している900ドルの購買力はA氏に貸し出された900ドルが埋める。
A氏がB氏に900ドルを支払う。(ということはB氏が900ドルの商品をもっていたわけだ。)
B氏は900ドルを乙銀行に預金する。
2サイクル目
ミズ・ボンドフォルダーが甲銀行に1000ドルを預金する。…
ここからあとはサイクル1と同じになる。違うのは乙銀行に預けられた900ドルだ。
乙銀行はC氏に810ドルを貸し出す。C氏はD氏に810ドルを支払い…と信用創造の説明では続くのだがすぐ気がつくように、サイクル1ではすべての商品が売り切れている。ということはC氏は誰から買ったのだろう。サイクル1に割り込んだのだろうか。すると誰かがはじき出されていることになる。
ところで貸し出しがあったのなら、返済もあるはずだ、それはどうなったのだ。
信用創造の説明では1000ドルの預金は次に900ドルの預金を生み、その900ドルは810ドルを生み…とやっていくと最終的には1万ドルの預金になる、というがその1万ドルとは何なのか。
ある人が買い物をして1000ドル支払った。1000ドルを受け取った人は10パーセントを手元に残し900ドルの買い物をした。900ドルを受け取った人は810ドルの買い物をし…とやっていくと最終的には1万ドルの買い物が実現することになるが、その1万ドルとは何か。お金の流れを追跡してすべてを積算しただけだ。最初の1000ドルが最終的には1万ドルの買い物をしたのだから、この1000ドルは1万ドルなのだといったらおかしい。この1000ドルで1万ドルの買い物ができるはずだといったらおかしい。
誰かが誰かにお金を払ったときにはその反対向きに商品が移動しているはずだ。そしてその商品はどこかで生産されていなければならない。生産、交換の無限の連鎖を集計して1万ドルになったのだから、無限の未来に実現するはずの購買力の総計を、無限の未来に実現するはずの商品の生産がまだ存在していない現在の時点の購買力にしてしまうのはおかしい。
逆からいえば1000ドルが1万ドルの買い物をしたときには、その反対向きに1万ドルの商品が移動してしまっている。もう買い物は済んでいるのだ。
1000ドルの預金は900ドルの預金を生み、900ドルの預金は810ドルの預金を生み、最終的には1万ドルの預金になるのだから、1000ドルを証拠金として1万ドルを貸し出すのはそれと同じことだ、というのが信用創造だというのだがこれはおかしい。
最初1000ドルの預金は最終的に1万ドルの預金を生む、というのは無限の経済のサイクルを集計するとそうなるという話であって、それまでには無限の商品の生産のサイクルがあったはずだ。その無限の商品の生産のサイクルを無視して無限のサイクルの果ての預金の集計額・積算額を現在の貸出額(=購買力)にしてしまうのはおかしい。
全世界の年間総産出額は1000兆ドルだと聞いたことがある。ちょうどいいから1000という数字を使おう。
世界が1000ドルの年産出額だったとする。すると世界の年総収入も1000ドル、年総購買力も1000ドルである。ここですべての収入が預金され、預金は引き出されることがないとする。
だから準備金は必要なく、100パーセントが貸し出されるとする。
1サイクル目
ミズ・ボンドフォルダー(この場合この世界の全住民を代表する名前だと思えばよい)が1000ドルを甲銀行に預ける。この時点ですべての購買力がスリープしてしまいすべての商品は売れない。
甲銀行がA氏(これも全住民のことでよい)に1000ドルを貸し出し、A氏はB氏(これも全住民のことでよい)に支払いをする。つまりすべての商品が売り切れる。一方には1000ドルの購買力が預金としてスリープし、貸し出された1000ドルが1循環する。
2サイクル目
すべての住民が(ミズ・ボンドフォルダーと呼んでもよい)手元の1000ドルを(甲でも乙でも…でも何でもよい)銀行に預ける。この時点で預金総額は2000ドルになるがそれはすべてスリープしている。銀行は新たに1000ドルを貸し出し、その1000ドルがこの世界を1循環する。
3サイクル目
預金額が3000ドルになり、以下同じ。
これはどこまで続くかというと、1000ドルの産出に対し、1000ドルの購買力があるのだから無限に続き、かつ、準備率0パーセントなのだから1000ドルの本源的預金は最終的に無限大の預金を生むことになる。
そしてこのとき、それと同じことなのだからといって銀行が無限大のドルを貸し出ししたとしたら、…
無限の貸し出しが続く間には無限の返済があったはずだ。その返済を無視している。
信用創造というのはこれと同じことをやっている。ばかじゃないか。
信用創造の理論というのは数式を解いただけだ。現実の経済の描写ではない。
数学パズルであって、経済学ではない。
もう一度繰り返すと、
1000ドルの購買力が預金された。準備率10パーセントというのは預金者が引き出して使うということを前提しているのだから、100ドルの購買力はアクティブになっていて900ドルの購買力がスリープ状態になっている。だからその900ドルのスリープ状態の購買力と同額を貸し出すことができる。
銀行が900ドルを貸し出し、それが支払いに使われれば合計1000ドル分の購買力がアクティブになる。
900ドルの支払いを受けた人が900ドルを預金すると900ドル分の購買力がスリープ状態になるが、そのうちの10パーセント、90ドルは預金者が払いだすという前提なのだから実際にスリープするのは810ドルであり、だからこそ810ドルが貸し出すことができる。
こうやっていくと預金額は、1000+900+810+… =1万ドルになるから、それとおなじことだからといって、最初の1000ドルを準備金としていきなり1万ドルを貸し出すというのは――そもそもある額の購買力がスリープしてしまうから、それと同額の貸し出しができるはすであるのに、そのスリープしている額を総計していきなりアクティブな購買力にしてしまうのは、論理的に破綻しているのではないか。
そもそも金細工師が預かった金貨をなぜ貸し出すことができると思ったかというと、それが引き出されないとわかっていたからだ。準備金を越える預金は預金者には使われないという前提で貸し出しが行われたはずだ。その引き出されないということが前提になっている預金額を延べ数を集計して現在の購買力として貸し出してしまえば購買力だけが10倍になってしまう。これは現実の経済の中に対応する商品を持たない、本物の贋金だ。(その贋金は誰の手に入ったのだ。)
商品の総額=収入の総額=購買力の総額という自由市場経済の前提はどうなったのだろう。竹中先生お得意のセーの法則はどうなったのだろう。
これは自由主義市場経済の理論が自己破産を申告しているのではないか。
「商品の総額=収入の総額=購買力の総額」が回転するのだとすると、利潤が増えていないのがバレバレになってしまう。何とかして利潤を増えたことにするために理論のアクロバットをしなければならなくなってしまうのではないか。
ちなみに最初の100人の村では、商品の総額=収入の総額=購買力の総額、が成立していて、かつ、利潤もちゃんと存在している。
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