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世界が100人の村だったら。――「資本論」超入門 +信用創造ちょいたし
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投稿者 shn 日時 2015 年 7 月 25 日 06:55:27: EW7wpe.Zqh2lo
 

世界が100人の村だったら。――「資本論」超入門 +信用創造ちょいたし

100人のうち20人をとりあえず「資本家」と呼んでおく。残り80人は「労働者」とする。
生活水準はみな同じであり、(消費財をコメで代表させるとすると)一年に「コメ」一俵を消費する。この世界の総産出は「コメ」100俵である。

世界を一つの「企業」とみなす。

通貨は「1ドル金貨」とし、100枚の金貨が「企業」の手の中にある。コメ1俵=1ドルで「労働者」の賃金も1ドルである。

「企業」の手の中にある100ドルのうち80ドルは「資本」であり、20ドルは前年度の「利潤」である。

「企業」はまず20ドルの利潤を資本家に支払う。

つぎに、「企業」は80ドルを投下して80人の「労働者」を雇い「コメ」を生産する。80人の労働者はその金で80俵のコメを買い一年間の生活に当て、一方でコメを生産する。ところで一人1俵を消費して一年間働く労働者は一年に何俵のコメを作ることができるか。

馬とか牛を連れてきて農場で働かせたとして、その馬が一年間に食べる飼料より以上のものを生み出さなかったとしたら、馬を飼う意味がない。

トラクターのコスト以上の「剰余」をトラクターが生まなければトラクターを農場で使う意味がない。

これは当たり前だ。狼やライオンが一日走り回って自分が生きる分の獲物しか手に入れられないとしたら(剰余が存在しないとしたら)、彼らは子供を育てられないことになる。

この世界では一人の労働者は一年に1俵のコメを消費し1.25俵のコメを生産する。0.25が剰余である。全体では80人の労働者が100俵を生産する。そのうち80俵は来年度の労働者の消費に当てられ、20俵が「企業」の手に残り、資本家がそれを20ドルで買う。

「企業」は80ドルを生産に投入し100ドルを得た。20ドルの利潤が実現した。100ドルの金と100俵のコメが一回転した。この経済体は単純再生産を繰り返しながら存続することができる。

ではここから数字を動かしてみよう。

労働者の賃金を引き下げ0.9ドルにしたとする。賃金の総額は72ドル。労働者は全体で72俵のコメを買い、「企業」の手には28ドルと28俵のコメが残る。

20人の資本家が28ドルの利潤を得て28俵のコメを買うとすると貧富の格差は発生するが、世界は豊かにならない。といって増えた分の利潤8ドルをため込んでしまうとコメが売れ残る。

「搾取」の度を高めても総産出は増えない。労働者の取り分が8減っただけで、利潤を増やしても世界経済のパイは大きくならない。パイを大きくするには総産出を増やさなければならない。

資本家が8ドルを工業に投下して(何ならこのとき資本家も自分の生活水準を0.9ドルに下げて10ドルを新投資に振り向けるでもよい。)トラクター工場を作ったとすると、(農業から工業に労働者が移動する。)たとえば結果として「労働者」が工業労働者10人、農業労働者70人の世界になると、コメ(消費財)の産出は87.5俵に減少し世界は貧しくなる。工場が完成して農業にトラクターを投入したときにやっとコメの生産が増える。例えば120俵に増えて1.2俵が1ドルで買えるようになれば労働者は0.9ドルの賃金で1.08俵のコメを得ることができる。

このとき、100ドルの金貨が増えた量の財(120俵のコメ+資本財の損耗分など)を買うことになり、世界がデフレになる。マルクスの場合金が相対的に高くなると金採掘業の利潤率が高くなって資本が金鉱山に投入され金貨が増え総算出の金額も増えるとしているけれど、今なら紙幣を印刷するとか、デジタルマネーを操作するとかして購買力を増やして物価を安定させるのだろう。ところでこの操作は一種の贋金作りなわけだから、ここで増えたドルを誰のものにするかで損をする人と得をする人が出てくる。金貨の生産なら、コスト=収入は経済法則に従って「正しく」分配される。

(ところで、これらの数字は適当につくったのであって、まともに計算してはいない。農業分野と工業の利潤率が等しくなるかとか、工業の生産設備はどのようにして蓄積されるかなどは無視している。マルクスの再生産表式を見ながらやればよいのだろうけれどやらない。ここでは利潤を増やしてもそれだけでは経済のパイは大きくならないことが示せればよい。また、「マルクスに価値論はいらない、分配論で推してゆけばよい」というジョーン・ロビンソンの提案を尊重して「価値」には触れない。)

資本主義の初期に資本を蓄積するには国民の消費水準を下げなければならない。農業しか産業がないのだから農民からの収奪を強化しなければならない。これはイギリスでも日本でもロシアでも当然そうなのであって、迂回路など存在しない。ロシア革命とは巨大な開発独裁の一種だ、とバーナムは喝破したけれど、メニシェビキたちの悪夢、(早すぎた革命――コムニストが社会主義の名の下に国民を収奪して資本主義的原始蓄積を遂行する)と理解するのが正解なのだろう。資本主義の代用品としてのコムニズムととらえれば、200年の資本主義の歴史を20年で駆け抜けたロシア共産党は使命をそこそこ果たしたといえる。

巨大な貧しい農民人口を抱えた中国のような国で、コメからトラクターに生産をシフトさせると膨大な餓死者が出る。また逆から考えると薄く広く国民から集めた資源をトラクター工場に振り向けようとしたときに、人口増加が起こっていて、その人口を養うためにその資源が食いつぶされてしまったら、国民一人当たりの資本装備率を上げることができない。人口を減らす、もしくはそれができなくても少なくとも人口爆発をとめなければならない。中国共産党は「一人っ子政策」を最優先の課題としたらしいが、「資本主義の代用品としてのコムニズム」として当然の論理に従っている。魔法のような経済システムは存在しない。人間的自由とか民主主義に反するなどと馬鹿なことを言ってはいけない。

この資本主義的蓄積はいつ終わるかというと、国民から「搾取」した剰余を資本家が生産過程に投資できなくなったとき――資本家が蓄積の主体であることをやめ、ただの寄生者の階級になったとき資本主義は終わる。収奪者が収奪され、資本の社会化が日程に上る。

(「会社は社員のもの」ならそれは「生産手段の労働者所有」ということだ。)


ところで近代経済学では利潤をどう説明するか。(というか、まともに説明できない)

100ドルで買った商品を110ドルで売った。その10ドルが利潤だとすると、その10ドルは買った人が余計に支払っただけであり、お金の総額が増えることはない。お金が増えたのだとすると、それは単なるインフレだ。10パーセントの利潤を実現するには10パーセントのインフレが必要になる。

経済は結局商品で商品を買うのだから、高くなった商品で高くなった商品を買うことはできる、と考えると、それは全般的物価騰貴だ。すべての物価が上がっただけだ。

クマさんがりんごを一個、八つぁんがアンパンを一個持っている。まずクマさんが八つぁんにりんごを100円で売り、八つぁんがクマさんにアンパンを100円で売る。次にクマさんが八つぁんにアンパンを110円で売り、八つぁんがクマさんにりんごを110円で売る。……
マルクスは、自分の帳簿の数字に0を足して喜んでいる、とおちょくりをいれていたはずだ。


あるオランダという国でチューリップの投機が始まったとする。投機に参加した人の持ち金は総額で100万ギルダーだったとする。するとチューリップの総額は100万ギルダーを超えることはできない。現金取引をしているときはたとえば1個120万ギルダーのチューリップなどということはありえない。ここで、1個10万ギルダーで買ったチューリップが6個ある。これは売れば20万ギルダーになるはずだからそれで120万ギルダーのチューリップを買おう、などとやると、数字はいくらにも、たとえば200万ギルダーにも増えるがそれはバブルであって、決算したときには100万ギルダーに戻る。戻らないとしたらどこかでいんちきをして贋金を紛れ込ませたのだ。

100人の人口、100俵のコメ、100ドルの収入の世界で誰かが10ドルの贋金を作ると、1人1ドルの収入では0.91俵のコメしか買えなくなり、贋金を作った人は10俵を手に入れることができる。贋金を作った人の増えた分のコメは他の全員からくすねたものだ。

ある資産が年1万ドルの収入をもたらしているとき、例えばある世界では資本還元して100万ドルの資産価値があったとすると、その100万ドルはそうみなしているだけで人の頭の中にしかない額であって、現実のお金ではない。いっぽう1万ドルの収入(現実のお金)とは、支払った人から受け取った人に移動しただけだ。その資産が2万ドルの収入をもたらすようになったら資産価値は200万ドルに増えるがその殖えた100万ドルは増えたとみなしただけで現実のお金が増えたわけではない。持ち主が2万ドルの収入では物足りなくなって、その200万ドルの資産を売って現金に換えて200万ドルの購買力を手に入れた場合には、その200万ドルは買った人が出したのだ。頭の中のお金の数字は増やすことができるが現実のお金は移動するだけだ。

また1万ドルの収入を産む資産が、利子率が変化して評価額150万ドルになったとして、その50万ドルは果たして「増えた」のだろうか。

この世界が1年に産出する財の総額が1億ドルだったとすると、1万ドルの年収入で世界が産出した財の1万分の1を買うことができる。資産額が100万ドルでも150万ドルに増えても、それ自体は購買力にはならない。頭の中で「みなした」お金と実際の購買力になるお金はきちんと区別してとり扱われなければならない。

金融工学とは競馬必勝法の類なのではないだろうか。ただし競馬場ではお金は増えないが、金融工学でお金が増えたとしたら彼らがより多く消費する分は世界中からくすねたものだ。投機で世界のパイを大きくすることはできない。

株価総額を増やす、などということに意味はない。株価がいくらであってもその金額で全部が売り切れるわけではない。売り始めたとたんに株価は下がり始める。売り逃げして儲けた人の分は売りそこなって損した人の分が移動するだけだ。

「100俵のコメ」の世界でいくら投機を繰り返してもコメが120俵に増えるわけではない。コメを増やすには現実に生産資本を追加投資しなければいけない。利子、配当はその時の利潤からの分け前だ。

資本があると(なぜだかはわからないが)利潤が生まれる、というのは見かけの運動にごまかされている一種の天動説だ。利潤はお金が移動するだけで、増えたのではない。


信用創造をもう一度考えてみる。

サミュエルソン経済学13版に倣って準備率10パーセントとする。

業種・職種によって経済活動の回転速度、サイクルは異なるだろうけれど、単純化のためすべてのサイクルは同じとして話を進める。同じく単純化のため単純再生産の経済とする。

1サイクル目。

ミズ・ボンドフォルダーが甲銀行に1000ドルを預ける。
甲銀行はA氏に900ドルを貸し出す。

1000ドルが預金された時点で、総購買力の中から1000ドルがいわばスリープ状態になる。準備率10パーセントということは100ドルが預金者によって使われることを前提としているのだから、実際には900ドルがスリープである。不足している900ドルの購買力はA氏に貸し出された900ドルが埋める。

A氏がB氏に900ドルを支払う。(ということはB氏が900ドルの商品をもっていたわけだ。)

B氏は900ドルを乙銀行に預金する。


2サイクル目

ミズ・ボンドフォルダーが甲銀行に1000ドルを預金する。…
ここからあとはサイクル1と同じになる。違うのは乙銀行に預けられた900ドルだ。

乙銀行はC氏に810ドルを貸し出す。C氏はD氏に810ドルを支払い…と信用創造の説明では続くのだがすぐ気がつくように、サイクル1ではすべての商品が売り切れている。ということはC氏は誰から買ったのだろう。サイクル1に割り込んだのだろうか。すると誰かがはじき出されていることになる。

ところで貸し出しがあったのなら、返済もあるはずだ、それはどうなったのだ。

信用創造の説明では1000ドルの預金は次に900ドルの預金を生み、その900ドルは810ドルを生み…とやっていくと最終的には1万ドルの預金になる、というがその1万ドルとは何なのか。

ある人が買い物をして1000ドル支払った。1000ドルを受け取った人は10パーセントを手元に残し900ドルの買い物をした。900ドルを受け取った人は810ドルの買い物をし…とやっていくと最終的には1万ドルの買い物が実現することになるが、その1万ドルとは何か。お金の流れを追跡してすべてを積算しただけだ。最初の1000ドルが最終的には1万ドルの買い物をしたのだから、この1000ドルは1万ドルなのだといったらおかしい。この1000ドルで1万ドルの買い物ができるはずだといったらおかしい。

誰かが誰かにお金を払ったときにはその反対向きに商品が移動しているはずだ。そしてその商品はどこかで生産されていなければならない。生産、交換の無限の連鎖を集計して1万ドルになったのだから、無限の未来に実現するはずの購買力の総計を、無限の未来に実現するはずの商品の生産がまだ存在していない現在の時点の購買力にしてしまうのはおかしい。

逆からいえば1000ドルが1万ドルの買い物をしたときには、その反対向きに1万ドルの商品が移動してしまっている。もう買い物は済んでいるのだ。

1000ドルの預金は900ドルの預金を生み、900ドルの預金は810ドルの預金を生み、最終的には1万ドルの預金になるのだから、1000ドルを証拠金として1万ドルを貸し出すのはそれと同じことだ、というのが信用創造だというのだがこれはおかしい。

最初1000ドルの預金は最終的に1万ドルの預金を生む、というのは無限の経済のサイクルを集計するとそうなるという話であって、それまでには無限の商品の生産のサイクルがあったはずだ。その無限の商品の生産のサイクルを無視して無限のサイクルの果ての預金の集計額・積算額を現在の貸出額(=購買力)にしてしまうのはおかしい。

全世界の年間総産出額は1000兆ドルだと聞いたことがある。ちょうどいいから1000という数字を使おう。

世界が1000ドルの年産出額だったとする。すると世界の年総収入も1000ドル、年総購買力も1000ドルである。ここですべての収入が預金され、預金は引き出されることがないとする。
だから準備金は必要なく、100パーセントが貸し出されるとする。

1サイクル目
ミズ・ボンドフォルダー(この場合この世界の全住民を代表する名前だと思えばよい)が1000ドルを甲銀行に預ける。この時点ですべての購買力がスリープしてしまいすべての商品は売れない。

甲銀行がA氏(これも全住民のことでよい)に1000ドルを貸し出し、A氏はB氏(これも全住民のことでよい)に支払いをする。つまりすべての商品が売り切れる。一方には1000ドルの購買力が預金としてスリープし、貸し出された1000ドルが1循環する。

2サイクル目

すべての住民が(ミズ・ボンドフォルダーと呼んでもよい)手元の1000ドルを(甲でも乙でも…でも何でもよい)銀行に預ける。この時点で預金総額は2000ドルになるがそれはすべてスリープしている。銀行は新たに1000ドルを貸し出し、その1000ドルがこの世界を1循環する。

3サイクル目

預金額が3000ドルになり、以下同じ。

これはどこまで続くかというと、1000ドルの産出に対し、1000ドルの購買力があるのだから無限に続き、かつ、準備率0パーセントなのだから1000ドルの本源的預金は最終的に無限大の預金を生むことになる。

そしてこのとき、それと同じことなのだからといって銀行が無限大のドルを貸し出ししたとしたら、…

無限の貸し出しが続く間には無限の返済があったはずだ。その返済を無視している。

信用創造というのはこれと同じことをやっている。ばかじゃないか。

信用創造の理論というのは数式を解いただけだ。現実の経済の描写ではない。
数学パズルであって、経済学ではない。

もう一度繰り返すと、
1000ドルの購買力が預金された。準備率10パーセントというのは預金者が引き出して使うということを前提しているのだから、100ドルの購買力はアクティブになっていて900ドルの購買力がスリープ状態になっている。だからその900ドルのスリープ状態の購買力と同額を貸し出すことができる。

銀行が900ドルを貸し出し、それが支払いに使われれば合計1000ドル分の購買力がアクティブになる。
900ドルの支払いを受けた人が900ドルを預金すると900ドル分の購買力がスリープ状態になるが、そのうちの10パーセント、90ドルは預金者が払いだすという前提なのだから実際にスリープするのは810ドルであり、だからこそ810ドルが貸し出すことができる。

こうやっていくと預金額は、1000+900+810+… =1万ドルになるから、それとおなじことだからといって、最初の1000ドルを準備金としていきなり1万ドルを貸し出すというのは――そもそもある額の購買力がスリープしてしまうから、それと同額の貸し出しができるはすであるのに、そのスリープしている額を総計していきなりアクティブな購買力にしてしまうのは、論理的に破綻しているのではないか。

そもそも金細工師が預かった金貨をなぜ貸し出すことができると思ったかというと、それが引き出されないとわかっていたからだ。準備金を越える預金は預金者には使われないという前提で貸し出しが行われたはずだ。その引き出されないということが前提になっている預金額を延べ数を集計して現在の購買力として貸し出してしまえば購買力だけが10倍になってしまう。これは現実の経済の中に対応する商品を持たない、本物の贋金だ。(その贋金は誰の手に入ったのだ。)

商品の総額=収入の総額=購買力の総額という自由市場経済の前提はどうなったのだろう。竹中先生お得意のセーの法則はどうなったのだろう。

これは自由主義市場経済の理論が自己破産を申告しているのではないか。

「商品の総額=収入の総額=購買力の総額」が回転するのだとすると、利潤が増えていないのがバレバレになってしまう。何とかして利潤を増えたことにするために理論のアクロバットをしなければならなくなってしまうのではないか。

ちなみに最初の100人の村では、商品の総額=収入の総額=購買力の総額、が成立していて、かつ、利潤もちゃんと存在している。
 

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コメント
 
1. 福三 2015年7月25日 10:32:24 : VSVEkkXNUZz4I : p1HGXyk9FA
人はパイやピザを分配して生活をしていると言っても、同じパイやピザが一定量の人のハラを満たすとは限らない。10人家族もいれば独居老人もいるだろう。ずる賢い人間もいれば、自分の損得を度外視して他人に尽くす人もいるだろう。
物々交換で生活が成り立っていた閉鎖地域の村では、食べる人も食べない人もそれなりに生活が成り立つ。別に法外な資産を有していなくとも、労働で対価を支払うということが可能だからだ。また、資源や食料がその閉鎖空間で循環するから、物が持つ価値をある一定量に保つことが可能である。しかし、人は身勝手でずる賢いものだから、他人より多く食べたい、他人よりいい服を着たい、と高望みをする生き物であって、そのために頭を使う。純粋に、何故資本家と労働者が存在するのだ?という疑問を持つ者だっているに違いない。労働者は資本家に自分の生活の保証をしてくれる見返りとして労働という対価を支払っている。資本家とは搾取する側であって、ここをカン違いしてはいけない。何故なら、労働の見返りは常にその対価を資本家が決めているものだからだ。村社会ならば、村長が村民の生活に不平等が発生してはいけないので、全員が平等になるように対価をコントロールしていた。この考え方を拡大したのが共産主義である。世に言う、労働価値論というやつだ。
ところが村民の中にはずる賢い者も怠け者もいる。そこで一生懸命やった人間にはそれ相応の見返りが帰ってくるような自然な仕組みが資本主義ということなのだ。
それを、対価として食べ物や物で貰うのは大変だから生まれたのがお金である。多くは金貨だ。最初にお金というものを開発した人は代替物としてもまた保有しておくという意味合いでも金に価値を見出したから、世界中で金貨が使われた。時にはそれがインゴットや砂金でもあった。理由はキラキラしていて見栄えが良く、量が少ないからだ。
ところが、重くてかさばるものだから、銀行に一端預けておいてその代わりに生まれたものが銀行が価値を保証する紙幣だ。
金の兌換物としての紙幣を考案した人は実に頭がいい。そして、人は銀行に預けた金という資産を、そう簡単に引き出したり使ったりはしないものだということに気がついた。だから、兌換物して交換価値を保証した紙幣を預かった金の量以上に発行するようになった。これが信用創造の最初だろう。
そして、紙幣と金との交換価値で保証するには限界が生じてきた。だから金本位制が終わった。
では今の時代は何か?
各国中央銀行がその交換価値を保証している通貨レートがそれにあたる。通貨を発行する国内向けには、中央銀行に保証金を預ければ、その10倍〜100倍程度、市中の銀行は企業や個人にお金を貸すことが出来る。ここで、通貨という中央銀行がその価値を保証している紙幣が交換価値を生み出す。たった30円程度の原価のものが、300倍の価値を持つ一万円札に化けるのだ。ただし、中央銀行が好き勝手に紙幣を乱発すれば、当然ながらインフレが起こるため、価値を保証している中央銀行は、お金の価値が変動しないように一定量をコントロールしている。
ところが、経済は国内だけで循環しているわけではないので、外国とのバランスを保たなければいけない。それを最初は固定相場レートにしていたが、当然ながら各国で産業が興隆したり、世界中で経済循環が起きると、生産力のある国家の商品は需要があるために固定相場レートで一様に各国の経済を平価水準に保つことが困難になった。人的交流という点で見ても、自分が生まれた国よりも隣の国の方が文化的にも優れていると感じれば、当然移民も発生するだろう。ある国では病気の蔓延が止められず、人口が増えないという悩みもあるだろうし、反対に人口が増えすぎてその国が持つ経済力では国民全部を食べさせることが出来ないと判断すれば領土を増やしたり、資源や食料を他国から強奪してでも得なければいけない状況も生まれてくるだろう。
そして、変動相場制が生まれた。
通貨は代替物ではあるのだが、経済の循環のためには代替物なんだからその価値を政府や中央銀行が保証しますよ、という名目で勝手に印刷して発行量を増やすことをはじめた。つまり、あたかも物を買うためのお金が増えて資産が増えたようにみせかけたわけだ。ところが、リンゴ一個はどこまでいってもリンゴ一個の価値しかない。変動するのはお金の価値の方だ。つまり物の価値が上がり、お金の価値が下がることをインフレという。
中央銀行と市中の銀行との間にある信用創造というカラクリは、中央銀行が発行する紙幣に対して行われるものだ。これは何ものも適わない絶対的な権力を行使することが出来る。特権とも言う。
しかし、節度を持ってコントロールすれば、これほど経済を効率よく循環させるものは無い。先ほども書いたが、一万円の原価は30円程度なので、300倍の信用創造を行っていることになる。しかもそれが市中の銀行口座に入った時点で更に30倍程度に他人の口座預金の残高に膨れるので、実質10000倍程度、価値が膨らむことになる。勿論そのようなことをまともにやったら日本経済は一瞬で破綻してしまうので、そうならないように中央銀行がコントロールしている。
このようなカラクリを紐解くと、ご指摘の自由主義経済の自己破綻はありえない理論となる。
お金は紙切れだから、価値は如何様にでもコントロールできてしまうのだ。
日本政府の借金が1000兆円を超えているというが、バランスシートの左右に書かれた数字の問題であって、インフレによりそのバランスシートの数字の価値は減るしかない。今の1000兆円が100年後も同じ1000兆円の価値にはならない。それと、日本は外国から借金している比率が非常に小さいので、物凄く乱暴な言い方をすると、通貨レートに一切影響されない範囲で国内の通貨量で借金の額は減らすことが可能である。
多くの人がカン違いしているのは、不変なのは物の価値であってお金の価値ではない。お金はただの紙切れである。
中央銀行と市中の銀行が信用創造でお金を増やすことについて、それを人類史上最悪の詐欺だと言う人もいるが、現在は変動相場制なのと金本位制はとっくに無くなってしまったのだから、正確な意味での詐欺行為にはあたらないだろう。財布に入っている紙幣をありがたがるのは日本政府と日本銀行がその価値を保証しているからだ。もっと大事なのは一人ひとりが労働によって生み出す価値の方だ。開発した商品がどれほどの人の役に立つか、技術革新で生活が改善されるか、どれほど多くの人を笑顔にできるか、どれほど多くの人の生活を豊かにできるかということの方が遥かに重要である。
その対価は自分で決めれば良いのだ。自分の労働の価格は、自由主義経済の社会では本来、自分自身で決めるべきである。選択はその労働を買う側にある。仕事量に対し適正な価格だと判断されればますます仕事は入ってくるし、反対に仕事の出来が悪いのに法外な報酬を求めれば、仕事は激減するだろう。そこで初めて市場の適正価格というものが決まるのである。

2. 2015年7月25日 17:37:23 : nJF6kGWndY

>1000ドルの産出に対し、1000ドルの購買力があるのだから無限に続き、かつ、準備率0パーセントなのだから1000ドルの本源的預金は最終的に無限大の預金を生む
>信用創造の理論というのは数式を解いただけだ。現実の経済の描写ではない。

信用創造理論とは、現実に銀行が信用創造していることを説明するための、最もシンプルな説明に過ぎず

それが現実を完全に説明すると主張しているわけではないのは、まともな数理経済学者なら常識だろう

元の信用創造理論の目的を勝手に拡大して定量性の不備を批判しても意味はない

>商品の総額=収入の総額=購買力の総額という自由市場経済の前提はどうなったのだろう
>自由主義市場経済の理論が自己破産を申告

あほらしい

つまり、そんな前提は現実の資本主義経済には必要ないということだ

もう少し現実の資本主義経済と金融構造を、勉強した方が良いだろう


>「商品の総額=収入の総額=購買力の総額」が回転するのだとすると、利潤が増えていないのがバレバレになってしまう。何とかして利潤を増えたことにするために理論のアクロバットをしなければならなくなってしまうのではないか。

イイカゲンな”利潤”の定義に基づいて議論してるからだな

厳密に金融経済を記述したいのであれば、時空間的な構造を取り込んだ動的理論を使わなければダメに決まっている

そういう当たり前のことを無視して、批判しても全く意味はない



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