1. 2015年7月24日 23:43:02
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この問題を論じる前に、まず日米貿易摩擦問題について触れなくてはならない。日米貿易摩擦 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E7%B1%B3%E8%B2%BF%E6%98%93%E6%91%A9%E6%93%A6 (一部、引用します。) 第二次世界大戦敗戦後、日本の経済成長と技術革新に裏打ちされた国際競争力の強化によって、アメリカに大量の日本製品が流入した。1960年代後半の繊維製品、1970年代後半の鉄鋼製品、1980年代のカラーテレビやVTRをはじめとする電化製品・自動車(ハイテク製品)などの輸出では、激しい貿易摩擦を引き起こした。 1965年以後日米間の貿易収支が逆転してアメリカの対日貿易が恒常的に赤字(日本から見ると黒字)になると、問題が一気に噴出した。 1972年に日米繊維協定(繊維製品)が締結され、続いて1977年に鉄鋼・カラーテレビにおいて日本による実質上の対米輸出自主規制が実施されたことによって一旦は収束した。 1980年代に入ると今度は自動車・半導体・農産物(米・牛肉・オレンジ)が舞台となり、更に1985年にアメリカの対日赤字が500億ドルに達したことをきっかけに、日本の投資・金融・サービス市場の閉鎖性によってアメリカ企業が参入しにくいことが批判され(ジャパンバッシング)、事実上日米間経済のほとんどの分野で摩擦が生じるようになった。 (引用終了) ●品質がよく信頼性の高い日本の工業製品は、アメリカ市場において爆発的に売れたが、1970年代には日本製カラーテレビジョンにおされて経営不振になるメーカーが続出。マグナボックスはオランダ・フィリップスに買収され、クエーサーはモトローラから松下電器に売却された。あのゼニスですら南朝鮮のLGに買収され、名門RCAですらフランスのトムソンに売却されているのだから、アメリカのテレビジョンメーカーは総崩れの状態に陥ったのである。 怒りを爆発させるアメリカに対し、日本側はアメリカ現地生産で問題解決を図ったのである。この頃、僅か32歳でアーカンソー州の知事に就任したビル・クリントン大統領は、日本の三洋電機のカラーテレビジョン工場の誘致に成功したのである。 1979年に勃発した第二次石油危機でアメリカにおけるガソリン価格は暴騰し、これで燃費の良い日本車が注目されることになった。アメリカ車は年々大型化しており、コンパクトカーのクライスラー社のダッジ・ダートですら、エンジン排気量は3,682ccもあった。燃費も悪く、日本車に注目が集まったのである。当時の日本車は室内が狭く、もう本当にガマン車だったが、背に腹は代えられないアメリカ人は、日本車を購入したのである。 参考資料として、当時クライスラー販売網を通じて販売されていた三菱自動車の製品を紹介します。 1978 Dodge Challenger Colt Hemi Mitsubishi Galant Lambda Wink Martindale Voiceover https://www.youtube.com/watch?v=MP4pHmInz70 ●アメリカのビッグスリーは日本車の販売に敗れて経営不振に陥り、クライスラーは倒産寸前の状態にまで追い込まれた。これが政治問題となり、日米貿易摩擦問題は一触即発の事態になったのである。これに対し、日本政府は対米自動車輸出「自主規制」なるものを持ち出し、目の前の危機を押さえ込んだのであった。 天谷直弘(日米交渉の中心人物であった。) https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%B0%B7%E7%9B%B4%E5%BC%98 ●これにより対米自動車輸出台数に枠がかけられた。事実上の「管理貿易」だが、それでも自由貿易などと主張していた。ウソも方便のフクイチ・アンダーコントロールと同じだ。 それはさておき、日本メーカーはアメリカで現地生産に踏み切らないと、これ以上の販売増は望めない状況となり、トヨタ、日産、ホンダは単独進出し、マツダは提携先のフォードと組んで進出。三菱自工は提携先のクライスラーと組んで進出した。富士重工といすゞは当時GMグループであり、一緒に進出した。 三菱自工はクライスラーと合弁で進出。これがダイヤモンド・スター・モーターズである。 ダイアモンド・スター・モーターズ https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BA ●ダイヤモンドは、三菱のマークである。クライスラーとの合弁でスタートしたが、1981年に倒産を回避したクライスラーは企業体力が衰えており、その後も何度と経営危機に陥った。1990年頃にも経営危機に陥り、クライスラーはダイヤモンド・スター・モーターズの株式を、三菱自動車に売却した。これにより同社は三菱自工の北米生産拠点になった。 北米の自動車市場は、南朝鮮車の躍進もあり、厳しい競争に晒されていた。各メーカーは、担保を取らないローン販売に手を出し、これらが焦げ付いてメーカー本体に多額の損失を与えた。三菱自工の会社の体力を超えた拡張路線に歯止めがかからず、オランダのネッドカーまで手を出した。(同社はオランダのDAFが乗用車に進出した際に建設した乗用車工場で、1975年にボルボが買収。そのボルボも経営危機で、三菱自工に押し付けたが、それを買ってしまった。) この頃の社長ナカムラは、三菱自工を一挙に奈落の底に落とし込んでしまった。トヨタがリコール隠しを攻撃して、日本国内の三菱車のシェアを奪った。これにより三菱自工はダイムラーに買収されたが、軽自動車の開発をやめさせるなど無謀な経営介入を行ない、三菱グループは三菱自工をダイムラーから買い取ったのである。しかし、代わりにトラック・バス部門は、ダイムラーの支配下に押しやられた。 三菱自工は三菱商事から社長を送り込まれて、経営再建に取り組むことになった。その過程でオランダのネッドカーは売却。それも、たったの1ユーロである。アメリカの生産拠点からの撤退も、早くから取り組んでいたようだが、なかなか進まなかったようだ。今回、ようやく売却が決まったようだが、まさに「茨の道」と言う表現が相応しい。益子会長、よくやったと思う。 |