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あまりにヒドい東芝の謝罪会見 「自分さえよければいい」型の経営者がこの国をダメにした
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/44306
2015年07月23日(木) 井上 久男「ニュースの深層」 現代ビジネス
■ なぜ無能な後継者が選ばれたのか
「粗にして野だが卑ではない」。東芝の粉飾決算を見ていて思い出した言葉だ。言葉の主は元国鉄総裁の石田礼助氏。三井物産社長を経て国鉄総裁に転じ、国会に初登庁した際に言ったとされる。城山三郎氏の小説のタイトルにもなっている。その意味するところは、身なりや言葉遣いは粗削りだが、志は高く、言動は明快で出処進退も潔いということであろう。
東芝の粉飾決算の責任を取って、田中久雄社長、佐々木則夫副会長(前社長)、西田厚聡相談役(前々社長)が7月21日付で辞任した。この三人に共通する特徴は、「粗にして野だが卑ではない」の真逆で、外見や言葉遣いは洗練されているが、「卑しい」ということである。嘘でもいいから好業績を上げ、社長としての名誉にこだわった結果、投資家、社員らあらゆるステークホルダーに迷惑をかけた。
さらに、佐々木氏と西田氏の間には確執があるとされる。佐々木氏にはメンツにかけて「西田時代」に負けたくないという思いも働いたのであろう。この二人の確執が尾を引き、後継社長には無能で害がない田中氏が選ばれたのは衆目の一致するところだ。この三人、記者に対する受け答えなどを見ていると丁寧だ。でもやってきたことは、大変卑しいと言わざるを得ない。
筆者は企業経営の取材を長らくしてきた。インタビューなどをしていて最近よく「言葉遣いや身なりは洗練されているが、本質を分かりやすく、ずばっと語る経営者が減った」と感じる。だからインタビューしていても面白くないし、言語明瞭意味不明瞭のことも多々ある。
その要因は2つあると思う。ひとつは、多くの経営者が「メディアトレーニング」を受けていることだ。専門のコンサルタントに発言内容などを事前にチェックしてもらい、決して本音を漏らして失言につながらないようにする訓練のことだ。カメラ写りのよい姿勢などまでアドバイスを受ける。1時間くらいの訓練を受けて大企業のトップだと100万円程度支払うそうだ。このトレーニングで一応、中身はなくても外見だけは洗練される。
■ 「主流派」と「異端」
もうひとつは、自分の在任期間だけ可もなく不可もなくやり過ごせばいいと考えているサラリーマン経営者が増えているからだ。こういうタイプは、摩擦を避けて言うべきことを言わない。
しかし、仕事とは何かを突き詰めていくと「摩擦」である。取引や交渉ではお互いの言い分は違う。時には争いにもなる。その落としどころを探り、両者にとって納得できる成果を得ることが「仕事」である。この「摩擦」を通じて新しい価値が見つかることもある。
また、本音で意見はずばりと言うタイプでも、「問題経営者」はいる。代表的な人が、ホンダ前社長の伊東孝紳氏だ。歯に衣着せぬ言動で「日本人のエンジニアは半分要らない」などと檄を飛ばしてきたが、無謀な拡大計画を策定し、開発現場に無理難題を押し付けた。それが大量リコールを誘発して、ホンダブランドを貶めた。
伊東氏の場合は、言動は「粗にして野」だったが、部下を思う「愛情」がなかったので、現場から総スカンを食らった。伊東氏の無謀な拡大戦略も結局は、自分の社長時代に実績を出したかったに過ぎない。この人も自分さえ良ければいい、の経営者の範疇に入るだろう。
ホンダでは創業者の本田宗一郎氏も歯に衣着せぬ言動だったが、「愛」があった。宗一郎氏から薫陶を受けたエンジニアからこんな話を聞いたことがある。「モノになるかどうか分からない技術開発に取り組んでいた際に、本田宗一郎から直接、駄目だったときには『俺が骨を拾ってやるよ』と言われて感動した」
これまで述べてきたことを端的にまとめると、日本には外見や体裁だけ整った中身のない、せこい経営者が増えたということである。そして、そのせこい経営者が、自分を超えない器の小さい後継者を選んで、もっとせこい経営者が生まれている。
これは企業だけではなく、政治、官僚、大学、マスコミといった本来ならば知的リーダーとして社会を牽引して行く機能のトップ層にも共通しているかもしれない。日本社会から活力が失われ、「やってられないぜ」といった気持を抱く人が増えているのも、「リーダー人材の危機」からではないか。
こうした現実がなぜ起こるのかを考えると、日本社会全体に異端を排除する流れが強まり、かつ、「あえて自分は異端でいよう」と考える人材が減ったからではないか。排除というよりも抹殺に動く傾向もみられる。だから、みな主流派になろうとしているのである。
かつての日本企業には多くの異端児を抱えていて、それが非主流派として経営層にも残り、主流派が会社を傾けると、非主流派が立て直しに動いた。政治でも自民党は主流派と非主流派が競い合ったから党勢が拡大したと言えるだろう。
■「自分さえよければいい」
「異端妄説」という言葉もある。福沢諭吉の言葉だ。こんな変な考え方があるのかと今は思われていても、いずれそれが主流の考えになるという意味合いをもつ。古くはガリレオ・ガリレイの「地動説」がそれに当たるだろう。ローマカトリック教会が唱える「天動説」が信じられていた時代に、異を唱えた。しかし、今の組織の中では異を唱える人が減った。前述したように、異端者をとことん排除するからだ。
日本メーカーからヒット商品が出ないのも、異端的なエンジニアを排除してきたからではないか。皆が主流派になろうと、手っ取り早く儲かりそうなものに開発リソースを集中させ、長期的な視野が失われつつある。
問題は経営者層だけでもない。上司と言われる人たちも、自分さえ良ければいい人が増え、愛情をもって部下を育てない。自分の成績向上のための部下しごき。だからパワハラがあちこちで起こる。
一方でコミュニケーション能力が低い若い社員は、上司が本人のためを思って厳しく指導してくれても、それをパワハラだと騒ぐ。だから真面目に指導するのが馬鹿らしくなる。上司と部下の関係に負の連鎖が起こっているのも、結局は、自分がかわいいからだ。
これに、「コンプライアンス地獄」が加わり、自分の頭で考えて行動することに制約がかかる。結局、本質的なことは何も実行せず、上手に社内評論家に徹していれば、出世のチャンスが巡っている。内部統制、コンプライアンス、社外取締役といったコーポレートガバナンスに関する体裁だけは整えたが、組織は頭(経営陣)から腐っており、それが現場にも伝播し、皆見て見ぬふりで実態は悪い方向に向かう。
東芝なんかその典型だろうが、東洋ゴム工業の耐震偽装などの問題を見ていても、日本の大多数の大企業では似たり寄ったりのことが起きているのではないかと疑わしくなる。
企業には良心的にかつ献身的に日夜ビジネスやその改革に取り組んでいる人たちも確実にいる。しかし、今の日本企業ではマジョリティーではないと思う。自分さえ良ければいいと考える、せこい経営者、せこい上司、せこい部下が蔓延していると言ったら、言い過ぎだろうか。
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