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ホンダジェット、上昇の糧に
7人乗り、国内で初飛行 「第4の収益源」めざす
ホンダは23日、ビジネスジェット機「ホンダジェット」を国内で初公開した。米当局から近く最終承認を得て顧客への納入を始める。燃費や乗り心地へのこだわりは車と同じ。生産効率化や品質管理の技を航空分野にも生かす。タカタ製エアバッグや主力車のリコール(回収・無償修理)問題に揺れるなか、「ものづくり力」を結集したジェットを浮揚の糧にする。
午後2時30分すぎ、赤と白に塗られたホンダジェットが羽田空港に着陸すると、報道陣が一斉にシャッターを切った。「航空機事業は創業期からの夢。性能と快適性で新しいスタンダード(標準)を切り開く自信作だ」。同機を出迎えたホンダの伊東孝紳社長は顔をほころばせた。
ホンダは二輪車メーカーとして1948年に発足後、農機用で汎用機に参入。63年には通商産業省(現経済産業省)の反対を押し切って四輪車を発売した。ジェット機参入はそれ以来ほぼ半世紀ぶりの本格的な新規事業。「第4の経営の柱」にする考えだ。
ホンダジェットは7人乗り(乗員含む)。企業や富裕層向けの小型機だ。国土が広い米国やブラジル、中国などを中心に移動手段として需要がある。同分野では米セスナとブラジルのエンブラエルが世界の2強だ。
■エンジンから一貫生産 航空機メーカーはエンジンを外部調達するのが一般的だが、自動車メーカーのホンダはエンジンから一貫生産。得意の省エネ技術を生かしホンダジェットの燃費性能は競合機よりも1割高い。
米ノースカロライナ州にあるジェットの生産工場では、機体の周囲にジャスト・イン・タイムで供給される部品棚が並ぶ。工具の動きは1つずつモニターされ、次の工程に不良品を送らないようにしている。いずれも自動車生産のノウハウを取り入れたものだ。
「飛行機に求められる認定基準は年々厳しくなっている。10〜20年前に認定された機体とは性能も安全性も大きく違う」。23日記者会見したジェット機子会社ホンダエアクラフトカンパニーの藤野道格社長は先行組との競争に自信を見せた。既に米国を中心に100機以上を受注している。
ホンダがジェット機開発に着手したのは86年。後発でも「他社のマネはしない」という創業者・本田宗一郎氏の哲学を受け継いで独自開発にこだわったが、その分、失敗の連続だった。93年に実験機が初飛行したが、エンジンは米国メーカーの製品を取り付けたものだった。開発チーム縮小や撤退の危機もあった。
■意地が生んだ常識破り エンジンを主翼の上に取り付ける常識破りの設計は「このままでは終われない」という藤野氏ら技術陣の意地の結晶だ。「これなら客室にゆったりしたスペースを取れる」と考えた。米航空宇宙局(NASA)の友人には「成功例がない」と反対されたが、米ボーイングの施設を借りて実験を繰り返し、実現した。
ホンダはまずは年50機で生産を始め、2017年には最大100機に引き上げる。南米や欧州、アジアにも供給する。価格は1機450万ドル(約5億4千万円)で、年間売上高は540億円程度になる。完成機を販売するだけでなく、中古機の整備会社などへのエンジンの外販も手掛け、収益を高めていく。
ホンダは足元では本業の自動車で苦境に陥っている。87年に日本車メーカーで初めて採用したエアバッグではタカタ問題で批判の矢面に立つ。ハイブリッド技術に欠陥が見つかり、小型車「フィット」でリコールを繰り返した。15年3月期の連結営業利益は前期比4%減となる見通しだ。トヨタ自動車などが最高益を見込むなか「一人負け」とも言える。
ジェット事業自体は「5年後を目安に単年度黒字化をめざす」(藤野氏)。すぐに収益に寄与するわけではないが、「技術のホンダ」復権ののろしとなる期待を乗せて空を駆けることになる。
(ニューヨーク=杉本貴司、中山修志)
[日経新聞4月24日朝刊P.15]
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失われた30年の壁 三菱重工、「名門破壊」の先
2015/4/27 6:30
三菱重工業で大ナタが振るわれた。波乱が続く「日の丸ジェット」の開発計画で事業トップを突如として交代させ、祖業の造船事業を切り離すことも決めた。社内が少々きしむこともお構いなしだ。日本を代表する名門メーカーで何が起ころうとしているのか。
■MRJ、突然のトップ交代
街の顔は、県営名古屋空港と三菱重工の航空機工場という愛知県豊山町。そんな飛行機の街が3月中旬、ある企業の人事に揺れた。
三菱航空機のトップ交代――。国産ジェット旅客機「MRJ(三菱リージョナルジェット)」を開発中の三菱航空機で、エンジニア出身の社長が3月末で退き、後任の社長に親会社の三菱重工から常務執行役員が送り込まれると発表されたことがきっかけだった。
MRJは約50年ぶりの国産ジェット旅客機で、2017年の初号機納入を目標に開発を急いできた。当然ながら、三菱航空機の社長は今まで三菱重工の航空・宇宙部門出身者がつとめてきたが、今回、三菱重工が送り込む新社長は電力設備事業の営業出身。それも、航空機ビジネスの経験はほぼゼロだったのだ。
「航空機事業の経験のない人間に取り仕切れるものなのか」「なぜ社長交代が必要なのか。不可解だ」。驚きと不安の声は社内や取引先だけではなく、三菱重工のOBからも上がった。
無理もない。今回の人事は人選だけでなく、タイミングも異例中の異例といえたからだ。
当時は「5月末にMRJが初めての試験飛行にのぞむ」というスケジュールが内々に決められており、試験飛行に向けた準備作業は佳境を迎えていた。それにもかかわらず、トップ交代がなぜ決行されたのか。ある三菱重工幹部は、こう解説する。
「三菱航空機は今まで何度も開発スケジュールを延期してきた。そうした流れをなんとしても断ち切りたかったんだろう。宮永さんはためらわなかった」
宮永さんとは、2年前に三菱重工の社長に就任した宮永俊一。技術系出身者の社長が続く三菱重工の歴史にあって、極めて珍しい事務系出身のトップだ。その宮永が異例のトップ人事の判断を下したというのだ。
■門外漢起用の理由
三菱重工が三菱航空機のトップ交代を正式決定したのは3月に入ってからだったが、関係者によると、宮永はMRJを巡って三菱航空機で起きていたトラブルを知り、トップ交代を内々に決めていたフシがある。
トラブルとは、三菱重工のみならず、国内外の関係者が期待していた試験飛行の延期だった。三菱航空機は当初、今年4〜6月と公表していたが、4月10日になって、結局、試験飛行の時期を9〜10月に延期すると発表した。6月にパリで開かれる世界最大の国際航空ショー「パリ エアショー」を前にMRJを大空に飛ばし、商談につなげたかった営業現場の期待はしぼんだ。
そんな不始末を見越した宮永が三菱航空機のトップ人事に動いたという。
そもそも、MRJは、三菱重工にとっても宮永にとっても期待の新規事業である半面、悩みのタネでもあった。宮永の社長就任前から開発の遅延問題が社内外で騒がれており、これ以上、トラブルが続くと信用問題にもつながる。
「三菱航空機はエンジニア中心の会社。宮永さんは、航空機技術に門外漢でもビジネス感覚を持つ経営トップを送り込むことで、ネジを巻き直すつもりだ。三菱重工は三菱グループで『おとなしい長男坊』だったが、宮永さんは予想外の行動に出る。今の重工は何をするか分からない」
ある三菱グループ企業幹部は「宮永重工」について、こう評する。
■火だるまの「海のホテル」
宮永が社内外で知られる存在になったのは、社長就任から10年以上前にさかのぼる。出身母体の製鉄機械事業で重機械部長をつとめていた2000年、日立製作所と製鉄機械の事業統合の旗振り役となったときだった。
製鉄機械事業の日立との統合は当時、ライバル企業を「あのプライドの高い三菱重工が他社と手を組むとは……」と驚かせた。この統合会社は、後にIHIとも事業統合していく。そのときも、今も、宮永の持論は変わらない。
「三菱重工がこだわってきた自前主義は変えないといけない」
経営首脳やOBたちから、宮永が一目置かれるようになったのも、古い企業風土を壊すことをためらわないことを実証してきたからだ。しかし、三菱重工の病巣はすぐにえぐりとれるほど小さなものなのだろうか。
巨大な造船ドッグが並ぶ三菱重工発祥の地、長崎造船所(長崎市)。全長300メートルという巨大な豪華客船の建造作業が進んでいるが、その船は、口さがないライバル企業からは、こう呼ばれている。
火だるまの「海のホテル」――。発注者は、クルーズ客船の世界最大手。順調に建造が進めば大きな利益が見込めるはずだったが、度重なる内装などの変更要求に振り回され、工期がずるずると遅れた結果、損失がどんどん膨らんでいったからだ。
損失額は船の受注額に匹敵する約1000億円にのぼり、ただ働き以下のビジネスになっている。祖業である造船部門は、不振のシンボルに変わり果てていたのだ。
「同業他社には、利益をしっかり出している会社もあるじゃないですか。なぜ、ウチはできないのですか」
宮永は昨秋、長崎造船所に顔を出して、担当幹部らに対し、事業改革について直接詰問したこともあるが、それ以降も抜本的なアイデアは出てこない。業を煮やしてか、半年もたたないうちに自ら結論を下す。それは、まず造船部門を特別扱いしないことだった。
■横ばいだった30年
三菱重工の長崎造船所は戦前、超巨大戦艦「武蔵」を建造したことでも知られる。戦後は自衛隊の護衛艦のほか、タンカーや客船などをつくってきたが、祖業であるだけに三菱重工の社内では聖域として扱われてきたという。そんな歴史に宮永は終止符をうったのだ。
宮永自身が製鉄機械事業で実証したように、造船事業も再建の第1段階は「分社戦略」。今年2月、造船事業のうち、民間向けの商船事業を10月に分社すると決めた。今後は他社と手を組むことも検討するという。
三菱重工は戦前に生まれ、船や飛行機ばかりか、潜水艦やロケット、工作機械、そして原子力発電プラントまでつくってきた。製造する品目の数はグループ全体で約700ともいわれるが、事業の幅が広いがゆえに、社内の事業部門が互いにもたれあう甘えの構造が生まれやすくなっていた。
「失われた30年だった」――。宮永の前任の社長で現会長の大宮英明はかつて、こんな言葉で三菱重工の経営の難しさを吐露したことがある。
大宮の脳裏に浮かんでいたのは、売上高の数字だった。その推移は1980年代から3兆円前後で横ばい。つまり、この30年間、三菱重工は成長できていなかったのだ。
良い意味でも、悪い意味でも、三菱重工は「ものづくり大国ニッポン」の代表であり、日本とともに歩んできた。日本経済そのものの成長力が衰え、公共事業が右肩下がりに転じたとたん、船や橋梁といった主力事業が苦しくなった。そして、三菱重工の成長もぴたりと止まる。
■日本の雄は世界でマイナープレーヤー
官需の落ち込みを国内の民需や海外市場の開拓で補えない。それが停滞の原因だった。問題は根深く、いたるところに残っており、宮永ら現役の経営陣も分かっている。
ある三菱重工幹部は「歴史は尊重するが、だからと言って何もしないのは経営の放棄だ」と宮永時代の改革路線の必要性を強調する。しかし、それは改革の実績が上がっていてこそ、説得力をもつ。失点があれば、社内はおろか、OBからも批判を浴びかねない。宮永は目に見える形で成果を示せているだろうか。
昨年6月、東京・品川の三菱重工本社。若手社員からベテラン社員まで、ネット中継が流れるパソコン画面を食い入るように見つめていた。
画面に映っていたのは、宮永が出席していた記者会見の様子。場所はパリ。フランスの重電大手アルストムのエネルギー事業を巡る買収合戦で、ライバルの米ゼネラル・エレクトリック(GE)より「すぐれた買収提案である」と世界中にアピールするため、宮永は必死だった。
三菱重工は独シーメンスと組み、仏アルストムの買収合戦に挑んだ(左が宮永氏、2014年6月、パリで)=ロイター
結局、買収合戦はGEに軍配が上がった。三菱重工が世界に打って出るためのM&A(合併・買収)戦略は空振りに終わったが、負けたはずの宮永は意外にサバサバした表情を浮かべた。
日本の製造業の雄であっても、世界ではマイナープレーヤー――。そんな三菱重工の現実を追認するだけだった三菱重工の社員たちを鼓舞する「カンフル剤としての効果」は大きかったと考えていたからだが、負けは負けだ。
■外した「三菱」
GEはかつての稼ぎ頭だった金融事業を大幅に縮小しながら、重電事業に経営資源を一気に振り向けている。そんな経営のダイナミズムを三菱重工がまだ手にしていないことに、宮永本人はじくじたる思いもあるのかもしれない。
「プライメタルズテクノロジーズ」。こんな横文字だらけの社名の会社が今年1月、発足した。実は、この会社は宮永流の事業再編の原点といえる製鉄機械事業子会社の「三菱日立製鉄機械」が独シーメンスと事業を統合してできた会社だ。
日立、IHI、そしてシーメンス。三菱重工は事業統合を重ねた結果、製鉄機械ビジネスで世界トップ級の規模となったが、とうとう社名から「三菱」の文字を外してしまった。
宮永が社長に就任して以降、日立製作所との火力発電システム事業の統合などの事業提携が実現し、三菱重工はようやく売上高3兆円の呪縛から抜け出し、2015年3月期の売上高は4兆円に達するもようだ。
宮永はゴールデンウイーク明けの5月8日、社長としてはじめてつくった中期経営計画を発表する。名門メーカーの旧弊を壊した先の将来は記されているのだろうか。
三菱重工の社長の在任期間は通常、4年。宮永改革は後半戦に入る。
=敬称略
(西岡貴司)
http://www.nikkei.com/article/DGXMZO86048910T20C15A4000000/
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