01. 2015年4月22日 19:48:53
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糾える縄の如しか http://gendai.ismedia.jp/articles/-/43005 2015年04月22日(水) 週刊現代 さよならソニー、愛してたのに。 すっかり変わってしまったけど、どうかお元気で(上)
〔PHOTO〕gettyimages ジャーナリスト 清武英利 やる気はあった。仕事も好きだった。でも会社は、彼らを「いらない」と言った。創業者がリストラを嫌ったソニーで、人を切るためだけの部屋に追い込まれた彼らは、自らの足で立つことを選んだ。 東大准教授として再出発 東京大学生産技術研究所は、東京の駒場キャンパスの一角にある。ここに「滝口研究室」を構える滝口清昭特任准教授(59歳)は、「準静電界」という耳慣れない分野の研究で注目された工学博士だ。 彼はJR東日本など複数の民間企業とともに、「準静電界通信技術」を応用した通信や遠隔個人認証の共同研究を続けている。フジテレビ系列のテレビ番組『超潜入!リアルスコープハイパー』でも、JR東日本などと取り組んでいる最新自動改札機「タッチレスゲート」が、「超ラクチン改札」と紹介された。 その彼には不思議な経歴があった。 滝口氏はソニー情報技術研究所のシニアリサーチャー(上級研究員)だったが、2007年に、東京・御殿山にあった「東京キャリアデザイン室」、通称「リストラ部屋」に追いやられたことがあるのだ。 ある日、上司からこう告げられた。 「君はうちでは仕事がない。ここでは要らない人間です」 滝口氏が「準静電界」に着目し、その実用化を夢見ていたころだ。交通システムやGPSの研究開発を手掛け、新たな分野に挑戦していた。 準静電界は人の体を包むように存在する微弱な電気力の空間のことだ。生物は脳からの指令を神経細胞を通じて伝え、筋肉を動かす際にこの電気的な力を発生させている。 「たぶん、人間は内耳にある有毛細胞で準静電界を捉え、脳に伝えているんだ」 そう考えた彼は、準静電界の存在を証明したうえで、人体を一種のアンテナとして機能させ、個人認証や会議通信などに応用しようと試みた。ところが、当時は全く知られていない準静電界の研究やそれに没頭する姿勢が、上司には理解してもらえなかった。 「準静電界なんてあるはずがない」 そう決めつけられ、それでも頑固に研究を続けていると、リストラ部屋行きを通告されたのだった。 そこには50人ほどのリストラ要員がいた。会社が「職場とミスマッチな人々」と呼ぶ社員である。だが、滝口氏がそうであるように会社に楯突いたり、異能、偉才であるがために上司に理解されなかったりした人材も含まれていた。 当時は各所に分散されて収容されていた。社員の一部はキャリアデザイン室を「ガス室」とさえ呼んでいた。サラリーマンの命である仕事や肩書を奪い、職場に戻って来ることができない部屋という意味だ。名刺も支給されない。時折、ため息や「アー」という奇声が漏れるほかは、静けさが広がる奇妙な空間だった。 ところが、3ヵ月後、彼はそこから研究開発の現場である技術本部に戻ってくる。「奇跡の生還」と言われた。 「しばらく死んだふりをしておけよ」 そう言われていたが、滝口氏はそれを振り切って、リストラ部屋に準静電界を応用した携帯音楽プレーヤーの試作品やハンダごて、ドリルなどの工作道具を持ち込んだ。 リストラ部屋の人々に期待されているのは、一刻も早く社内で次の仕事を見つけるか、辞めるか—である。だから、本来、滝口氏のようにリストラ部屋で研究開発をする行為は認められない。だが、彼は「自分の研究は、上司の理解を超えた内容なんだ」と頑なに念じ、先の見えない不安と戦っていた。 その姿をリストラ部屋の人事監督者が見ていて、「上層部に成果を披露したらどうか」と滝口氏にこっそり勧めた。鷹揚な人物もいたのである。やがて、リストラ部屋の研究成果を見た技術担当役員が彼の身柄を引き取る。周囲はそれを「救出」と呼んだ。 出るクイは打たれた その1年前、「御殿山テクノロジーセンター13号館」にあった別のリストラ部屋に在籍した人物がいる。ソニー海外営業本部課長だった斎藤博司氏(49歳)である。アフリカや中近東を駆け回る花形の海外営業マンであった。 当時、働き過ぎて鬱状態に陥っていた。こう書くと、斎藤氏に問題があるように読めるが、そうではない。 何とか体調を戻して課長職に就き、車載機器の海外マーケティング統括を任された時だった。新任の上司とそりが合わず、鬱々としていた。そのころ、ジャーナリスト出身のハワード・ストリンガー氏が会長兼CEOに就任し、社員から意見を公募した。 「誰が書いてもいい、CEO本人が目を通す」というので、直言する文書を英語と日本語で書いた。何ヵ月たっても会長室からは何の音沙汰もなかったので、彼は上司あてにメールを送った。 〈もし、ストリンガー会長にお話を聞いていただけるならば参上したい〉 ところが、斎藤氏は人事部に呼びだされて厳しく叱責された。 「お前は何をやっているんだ」というのである。 —建設的な意見を言った社員がどうして目の敵にされるのか。 そう思うと、やる気は失せ、会社に行くのがつらくなった。やがて、布団から起き上がることもできなくなった。休職と復職を繰り返し、上司から指示を受ける。 「君はいったん、キャリア室で体を治したほうがいい」 社内休職だった。斎藤氏に対する叱責が社内にもたらした教訓がある。 やっぱり、「出過ぎたクイは打たれる」のである。かつてのソニーには「出るクイは伸ばせ」という言葉もあったが、その時代は遠く過ぎていた。 彼のいたリストラ部屋は40人ほどの収容能力があり、20人弱が在籍していた。大半が終日、語学を勉強したり、ネットサーフィンや新聞や雑誌を読んだりしている。斎藤氏は業界情報や経済資料を集めたり、過去の営業情報をまとめたりして、メールで社内に定期的に流した。 「そうでもしていないと、気が狂いそうだった。会社に期待されず、やることがないことほど苦しいことはない」と彼は言う。 斎藤氏は9ヵ月間、リストラ部屋にいて、会社を辞めた。このまま会社にいてもイエスマンのヒラメ上司たちに迎合する人生しかない—。そう見切って踏み出そうとすると、不思議に元気が出た。 人間は追い詰められ、これ以上はないという窮地に立った時に、自分と真剣に向かい合う。その時に大組織を離れた自分が何者であるか、何をしたいのか、何ができるのか、を懸命に考え始める。そして、誰が本当の味方なのかもわかってくる。 彼の場合は妻と二人の子供だった。体を壊し、リストラ部屋に収容されて初めて、仕事人間を支える家族の存在や友人の温かさに気付いた。 午後5時半の退社時刻になると、斎藤氏らリストラ部屋の仲間たちは、五反田駅近くの公園に酒やつまみを持ちより、そこで飲みながら自分をさらけだした。家族にも相談できない不安をそこで打ち明け、息抜きと情報交換をしたのだ。 毎月一度、心を解放するその公園は、桜の名所である目黒川沿いだったから、「公園居酒屋」とか、「居酒屋目黒川」と呼んでいた。彼らはそのどん底から立ち上がったのだ。 まだ負けたわけじゃない 斎藤氏は自分の会社を起こす一方で、外資系企業で働くことを選んだ。年収もソニー時代の水準に戻った。海外を飛び回る傍ら、いまは妻と息子たちとの時間を大事にしている。 私はソニーのリストラ部屋の人々や、リストラに巻き込まれた社員の素顔をソニー凋落の軌跡に重ねあわせて、2年7ヵ月前から取材し、月刊誌『FACTA』で18回にわたって連載した。その連載を加筆・再構成したのが、『切り捨てSONYリストラ部屋は何を奪ったか』(講談社)である。 >>>続きは「すっかり変わってしまったけど、どうかお元気で さよならソニー、愛してたのに(上)」をご覧ください。 さよならソニー、愛してたのに。 すっかり変わってしまったけど、どうかお元気で (下) まだ負けたわけじゃない 斎藤氏は自分の会社を起こす一方で、外資系企業で働くことを選んだ。年収もソニー時代の水準に戻った。海外を飛び回る傍ら、いまは妻と息子たちとの時間を大事にしている。 私はソニーのリストラ部屋の人々や、リストラに巻き込まれた社員の素顔をソニー凋落の軌跡に重ねあわせて、2年7ヵ月前から取材し、月刊誌『FACTA』で18回にわたって連載した。その連載を加筆・再構成したのが、『切り捨てSONYリストラ部屋は何を奪ったか』(講談社)である。 広く知られていることだが、ソニーは創業者の井深大氏が「自由闊達なる理想工場」を目指し、もう一人の創業者である盛田昭夫氏が「ソニーはリストラをしな い」と国内外で宣言した企業である。その「理想工場」の夢と、リストラを19年('99年の経営機構改革から数えると17年)も続け、約8万人も削減したソニーの現実とは、あまりに開きがありすぎる。 しかも、厳しいリストラを実施するさなか、ストリンガー会長が年間8億円以上の報酬を受け取ったり、無配転落を発表した平井一夫社長の年収が3億円以上に増えたりして、社員の顰蹙を買っていた。その落差と、「理想工場」の今日を象徴する「リストラ部屋」周辺の人々の実態を、社員たちの目線から検証したいと考えたのだ。 追い出される人々は本当に「余剰」の人員なのか。それとも、やみくもな採用の末に無能な経営陣によって切り捨てられたのか、現場で確かめたいと思った。 調べてみて、私は「リストラ部屋」に収容された社員の数と、その人材の質の高さに圧倒された。 私が入手した内部資料によると、ソニーでは、2003年度からの8年間だけでも延べ2940人の社員がリストラ部屋にいた。管理職も含まれている。この8年間以外の収容人員を含めると、少なくとも延べ3000~4000人がその部屋に在籍したと推測できる。 リストラ部屋の人たちが無能でないことは、滝口、斎藤両氏の実例が示す通りだが、興味深いのは会社の非情をただ嘆くだけではなく、リストラ部屋でしぶとく食い下がったり、リストラ部屋を逆手に取ったりした社員がいたことだ。 「会社はモノ作りで挫けたが、俺たちは負けたわけじゃない」と彼らは言う。 商品設計部門外装設計部の課長だった長島紳一氏(57歳)は2012年9月、自らリストラ部屋行きを志願している。 「いまのソニーではもう好きな仕事はできない。このまま会社にしがみついていても、降格や減給、転出、解雇、叱責、白眼視と、おびただしい不安に包囲され続けるだけだ。独立しようと思い切れば、リストラ部屋も自分のキャリアとプライドを生き返らせる場になるはずだ」 そう考えての決断である。普通に早期退職すれば退職加算金は1500万円程度だが、リストラ部屋に入って早期退職制度を活用すれば、2倍の3000万円に跳ね上がる。そのうえリストラ部屋で再起のための自由な時間が手に入る。彼には自宅のローンや借金もあったから、実際に手に残る資金は多くはなかった。妻と一人娘、それに起業への強い思いがあって踏み切った独立である。 早期退職を後悔しないよう、長島氏はリストラ部屋で独立に向けた整理をしていた。退職金で当面、いかに食いつなぎ、起業につなげていくか。人生のバジェット(予算案)を作り、焦りを抑えた。 「理想工場」を信じていた 彼はいま、電子部品メーカーやITベンチャー企業と顧問契約を結んでいるが、いつかは妻とともに夢の木工工房を開きたいという。すでに第二種電気工事士やDIYアドバイザーの資格を取り、ホームセンターでアルバイト修業も重ねている。 その長島氏が退職してから2年半。ソニーでは依然、リストラが続いている。日立製作所、東芝、三菱電機、パナソニック、NEC、富士通の電機大手6社が、各社の労組を束ねる電機連合との間でベア額を3000円とすることで合意した直後の3月末、数十人のソニー社員が早期退職願を提出した。退職日は4月30日だ。その中には、製造部門のエンジニアや管理職クラスも含まれていた。彼らは上司から厳しい口調でこう告げられている。 「あなたには3月末までは仕事があります。しかし、4月以降は二つの道しかありません。一つは、社内の異動先を自分で探すことです。もう一つは、早期退職プログラムに応募することです」 ソニーでは4月1日から、全社員の4割以上もいた管理職を2割に半減する新人事・賃金制度「ジョブグレード制度」が始まり、降格や大幅な減俸が目に見えている。 「もう、これまでのような退職金や加算金はもらえなくなります。『少しでも有利に辞めるならばこれが最後のチャンスだ』という気持ちが、社員たちに早期退職を促したのです。3月に辞めた数も含めると、かなりの数に達しているのではないですか」と社員は言う。 「もし、この提案を断ったら、キャリアデザイン室に行かされるのですか」。人事部に尋ねた社員がいる。人事部員から明確な答えはなかった。ソニーではリストラ 部屋が強い批判を受けたため、リストラ部屋の在籍者を昨年秋から、PDF作成など単純作業に回しているという。エンジニアのプライドを折られ、朝から夕方の午後5時半まで、来る日も来る日もPDF作りだ。 本社から離れた場所で、新たなリストラ部屋が誕生しているのだ。 だが、そこにも会社がすくい上げられない人材がいる。「理想工場」と信じて入社し、職場復帰や再起を目指して歯を食いしばっている人々だ。 >>>「すっかり変わってしまったけど、どうかお元気で さよならソニー、愛してたのに(上)」はこちら 「週刊現代」2015年4月25日号より http://toyokeizai.net/articles/-/67152
ソニーは、なぜ延々とリストラを続けるのか 「切り捨てSONY」で描きたかったこと 清武 英利:ジャーナリスト2015年4月21日 ソニーは17年にもわたって"リストラ"を続けている。それは、なぜなのだろうか(写真:尾形文繁) 苦しくてもその仕事に目的や意味があれば、人は耐えることができる。残業や徹夜続きでも、サラリーマンは何とか我慢して生きていくものだし、時には、「楽しくてたまらない」という者も現れる。 では、「ここで君にはやるべき仕事はない。辞めるまで給料は出す」と上司に告げられたらどうだろうか。 「頑張る必要はない。努力するとしたら、この会社を出ていく努力だよ」と。 「リストラ部屋」の人々はそんな通告を受けて、「キャリア開発室」という名の部屋に収容されている。表向きは「社員がスキルアップや求職活動のために通う部署」と説明されていたが、実際は仕事だけでなく働く意味や目的を奪われ、会社から出ていくことを期待されている面々だ。 そんな彼らを訪ね、聞き取りを始めたのは2012年秋のことである。 「わが社はリストラをしない」 上の書影をクリックするとアマゾンの販売サイトにジャンプします ソニーの友人たちが次々にリストラの対象になっていくのを見て、私は不思議に思っていた。ソニーは、創業者の一人である盛田昭夫氏が、「わが社はリストラをしない」という趣旨の宣言をしていた会社だったからだ。
これは近著『切り捨てSONYリストラ部屋は何を奪ったか』にも記したことだが、志の高い大企業経営者が従業員に寄り添う時代があったこと、そして後継者はその創業者が亡くなると、時として十分な説明もなく終身雇用の方針を大転換することを思い起こしていただきたいので、あえてここにも書く。 盛田氏は欧米の経営者を前に、しばしば「経営者はレイオフの権利があるか」と訴えた。その講演の一部を、彼の著書『21世紀へ』(WAC)から引く。 「あなた方は、不景気になるとすぐレイオフをする。しかし景気がいいときは、あなた方の判断で、工場や生産を拡大しようと思って人を雇うんでしょう。つまり、儲けようと思って人を雇う。それなのに、景気が悪くなると、お前はクビだという。いったい、経営者にそんな権利があるのだろうか。だいたい不景気は労働者が持ってきたものではない。なんで労働者だけが、不景気の被害を受けなければならんのだ。むしろ、経営者がその責任を負うべきであって、労働者をクビにして損害を回避しようとするのは勝手すぎるように思える。われわれ日本の経営者は、会社を運命共同体だと思っている。だから、いったん人を雇えば、たとえ利益が減っても経営者の責任において雇い続けようとする。経営者も社員も一体となって、不景気を乗り切ろうと努力する。これが日本の精神なのだ」 これは2000年に、石原慎太郎氏や小林陽太郎元経済同友会代表幹事、キッシンジャー元米国務長官の推薦を受けて出版された本だ。小林氏はその後、ソニーの取締役会議長にも就いている。 だが、そのソニーは出版の前年の1999年3月から現在まで計6回、公表されただけで計約8万人の従業員を削減している。 若い新聞記者や忘れっぽい記者はリストラに寛容だが、少し前までは日本経済新聞でさえ、無計画な採用の末、人減らしに狂奔する大企業の姿勢を厳しく批判していたのだ。 なぜ、17年間も延々とリストラを続けるのか ソニーは「理想工場」を目指した会社として知られている。普通の感覚ならば、そんな会社がなぜ、17年間も延々とリストラを続けるのか、後継者たちは何をしていたのか、最近の経営陣が厳しいリストラの一方でどうして巨額の報酬を取れるのか、疑問に思わない者はいないのではないか。 リストラの渦に巻き込まれた中には以前、ソニー広報部からも「ソニースピリッツを持ったエンジニア」と紹介され、私自身が取材した社員も含まれている。「リストラをしない」はずの会社で、その会社のお墨付きを受けたエンジニアたちが早期退社していくのを見て、「なぜだ?」と問いかけをしない記者はいないに違いない。 ほかにも私を取材へと引き寄せたことがある。 私は、リストラ部屋の取材を始める前に、「辞めても幸せ」という、今から考えると何とも曖昧なテーマで、ソニーの元サラリーマンたちを取材していた。 会社を辞めてなお、「私は幸せに生きている」という元サラリーマンたちに、「あなたは会社のなかで何を支えに生き、組織を離れた後、本当に幸せに暮らしているのか」と聞き歩いていたのだった。ソニーを選んだのは、そこに友人が多く、実際に「辞めても幸せ」と答える人が多かったからだ。 そのうちに、彼らのトップだった人物にも聞いておかねばならないと思い、2012年9月、ソニーの6代目社長だった出井伸之氏にインタビューをお願いした。会長兼CEO(最高経営責任者)を務め、最高顧問を経て、ソニーのアドバイザリーボード議長を務める人物だ。彼は当時、東京・丸の内の東京銀行協会ビル16階にビジネス開発・支援会社「クオンタムリープ」を構えていて、そのオフィスで快く応じてくれた。率直で逃げない人である。 会社や人間社会はシェイクスピア 出井氏はソニー時代の思い出や引退後の生き甲斐だけでなく、リーダー論や社長時代の権力抗争についてもかなり長い時間を割いて語ってくれた。そして、「会社や人間社会は基本的にシェイクスピアで終わっていますよ」と言った。 「シェイクスピアの物語はよくできている。権力を持った人の物語が多いじゃないですか、裏切りとか、密告とか、人を殺すんだったら、首を抱いたまま、うしろから刺しちゃうとかね。会社も組織である限り、全部が清く正しく美しくなんていうことはあり得ないんですよ」 そして、トップというものは経験した者でないとその苦しみはわからないのだ、と力説した。 「清武さんが読売グループで経験されたようなことっていうのも、ソニーでは何度も起こっています。それは組織である限り、3人集まれば意見も違うし、権力を得る人もいれば、そうでない人もいれば、裏切り、密告もあるわけですよ。それに(社長として)10年も耐えていると、もういい加減、疲れてくるっていうかね。顔つきが悪くなりますよね。副社長なんか全然駄目だよね。トップはやっぱり一人なんですよね。辞めるとほっとするっていうか、顔つきが良くなりますよ」 顔つきが良くなったという出井氏はそしてインタビューから2カ月先の11月に、六本木ヒルズクラブで取り巻きが開いてくれる75歳の誕生パーティを楽しみにしているのだと言った。それまで毎年、誕生日ごとに7〜8組がパーティを開いてくれていたが、それをまとめてやるのだという。 私はがっかりした。そのパーティの模様をテレビで見て、もっとがっかりした。早稲田大学の同期生である森喜朗元総理を招き、ベンチャー起業家や元部下ら約200人に紹介していた。会場にNHKの取材クルーを入れ、大はしゃぎに見えた。パーティ開催には何の問題もないが、その時期は「管理職の3割削減」の号令のもと、ソニー本社の中堅社員までが大量にリストラされ、会社を追われた時期である。 私はこう考えた。トップにしかわからない苦しみはきっとあるのだろう。だが、そのトップが理解しようとしない社員の呻吟があるのだ。丁寧に取材してそれを描こう。 もう2年半以上も前のことである。 (講談社『本』5月号より) 東洋経済新報社 |