08. 2015年3月18日 06:40:10
: jXbiWWJBCA
ギリシャ暫定合意は砂上の楼閣 交渉決裂すればチプラスはロシアへ2015年3月17日(火) 熊谷 徹 ギリシャ、ロシア、不況、移民、イスラム過激派…。欧州で様々な問題が噴出している。欧州が現在直面している難局は、EU加盟国が欧州の統合に関する様々な幻想を捨てて現実を直視し、成熟期に移行するべき時がやってきたことを浮き彫りにしている。 ギリシャ暫定合意で危機は回避されていない 日本の多くのメディアは、2月20日にユーロ圏財務相会合(ユーロ・グループ)の参加国が、ギリシャに対する支援プログラムを4カ月延長することを決めた時、「ユーロ・グループ、ギリシャ支援延長で暫定合意」と報じた。そこでは、「切迫した危機は回避された」という論調が目立った。しかしこれは現象面だけを見た皮相的な分析であり、現実には病の根源は全く解決していない。それどころか、ここヨーロッパでは20日の合意後も、「EUとギリシャの正面衝突」という雰囲気が続いている(関連記事「ギリシャとEUが正面衝突?」)。危機回避とは程遠い状況だ。 チプラス政権の二枚舌 その最大の原因は、ギリシャ政府のチプラス首相とバルファキス財務相の二枚舌である。バルファキスは2月20日にユーロ・グループに対し6ページの文書を提出した。文書の1ページ目でバルファキスは、「ギリシャ政府はヨーロッパのパートナーや諸機関、国際通貨基金(IMF)と緊密に協力し、国家財政の健全化、金融システムの安定化、経済復興の促進のために努力することを約束する」と述べ、署名した。 文書の中でギリシャ政府は、徴税システムの強化、脱税者の追及、年金制度の近代化、国家財政の監視強化、銀行システムの近代化、汚職に対する取り締まり強化などを約束している。 しかし文書の内容は総花的で、具体性を欠いていた。ユーロ・グループが求めていたのは、「X年X月までに公的債務を国内総生産のXX%まで減らす」とか、「X年X月までに公務員の数をXX人減らす」「国営企業の民営化によって、歳入をXXユーロ増やす」といった具体的な数値目標だった。文書には、そのような数値目標は書かれていない。 また文書には、「前政権がEUに対しこれまで約束した緊縮策を実行する」とも書かれていない。「借金や利子をきちんと払う」ことも約束していない。政治家の所信表明演説のように、美辞麗句がちりばめられているだけだ。このためユーロ圏加盟国の財務相たちは、4月末までにチプラス政権がより詳細な施策のリストを提出するという条件で、支援プログラムの延長を認めた。 ユーロ・グループは3月9日にもブリュッセルで会合を持った。この場でもギリシャ政府は具体的な提案を示さなかった。ユーロ・グループの議長であるオランダの財務相、ダイセルブルームは、「ギリシャが具体的な提案を示さず、緊縮策を実行しようとしないので、貴重な2週間がむだになってしまった」と苦言を呈している。 ユーロ・グループは、ギリシャ政府に対し、EU、IMF、欧州中央銀行(ECB)の調査団とブリュッセルとアテネで引き続き協議することによって、具体的な数値目標を盛り込んだ改革案を提出するよう求めている。 しかし、チプラス政権がEUへの約束を100%履行できるわけがない。この政権は、「EUと約束した緊縮策を拒否し、債務を減らすこと」を約束したゆえに、国民に選ばれたのだ。 バルファキスは、2月20日の合意後、複数のメディアとのインタビューの中で、「ギリシャ政府はユーロ・グループに対し債務の削減を求めていく」と発言し、他国の財務相たちを唖然とさせた。彼は、「ユーロ・グループとの合意文書は、ギリシャ支援に批判的な国々を合意させるために、わざと曖昧にした」とすら語っている。 またチプラスも「ユーロ・グループとの交渉では、スペインとポルトガルの財務相が、債務削減をめぐってギリシャを降伏させようとした。これらの国々の政府は、ギリシャで起きたような反EUの動きが自国に飛び火することを恐れているのだ」と発言。スペインとポルトガルは、この発言についてEUの政府に相当する欧州委員会に正式に抗議した。 国民投票や戦時補償も持ち出す つまりチプラスとバルファキスは、EUからの融資を引き出すために、他国の財務相たちの交渉では「経済改革を実施する」と約束しながら、自国民に対しては「EUから攻撃を受けているにもかかわらず、選挙前の公約つまり緊縮政策の拒否と、債務削減の要求は維持する」というメッセージを送っている。ギリシャ国内では、左派勢力が「チプラスとバルファキスはユーロ・グループに譲歩した」と抗議するデモをすでに起こしている。チプラスとバルファキスは、ユーロ・グループと有権者の間で板ばさみになっているのだ。 さらにバルファキスは、「ユーロ・グループがわが国への融資を行わないのならば、国民投票や再選挙によって、緊縮策を続けるかどうかについての民意を問う」と発言し、他国の財務相たちの神経を逆撫でした。もしも国民投票や再選挙が実施されれば、有権者の圧倒的多数が、緊縮策の廃止や債務削減を要求することは確実だからだ。 EU、特にドイツに対するギリシャの舌鋒は鋭くなる一方だ。チプラス政権の国防相で、連立政権のパートナーである右派政党の党首も務めるカメノスは、「もしも他の国々がギリシャを支援しないのならば、我々は、渡航に必要な書類を渡して、ベルリンに難民を送り込む。大量の難民の中に、テロ組織『イスラム国(IS)』の戦闘員が混ざっていたとしても、それはヨーロッパの責任だ」と脅迫めいた発言を行っている。 またギリシャ政府の司法相は、3月に入って、ナチスドイツがギリシャで行った虐殺や占領時に生じた経済損害について、数10億ユーロの補償金を支払うようドイツ政府に改めて要求。ドイツが応じない場合には、アテネにあるドイツ語学校ゲーテ・インスティトゥートやドイツ人学校の建物など、ドイツが所有する不動産を差し押さえる方針を明らかにした。ギリシャは、ドイツ人にとって最もデリケートな「ナチス時代の過去の清算」の問題まで持ち出して、彼らの神経を逆撫でしているのだ。 「チプラス政権は反則」 ドイツでは、ギリシャ政府に対する批判が強まっている。3月2日にドイツ連邦財務省の広報官、イェーガーは、「ギリシャ政府の振る舞いは、反則(ファウル)だ」と厳しい口調で非難した。ファウルという言葉は、ふつう外国政府を批判する時には使わない、強い表現であり、ドイツ財務省の怒りがこめられている。 イェーガーは、「チプラス首相がスペインとポルトガルを名指しで批判したことは、ユーロ・グループのルールに違反する。ここ数週間のギリシャ政府の発言で、信頼が大きく損なわれた。特にバルファキス財務相はあまりにも様々なことについて発言しているので、何が本当のことなのかわからなくなっている」と述べた。 チプラス政権とメルケル政権の対立は、感情的な泥仕合になりつつある。バルファキスは、「ショイブレは私のことを“愚かで経験が不足している”と侮辱した」として、ベルリン駐在のギリシャ大使を通じて、ドイツ政府に抗議した。ショイブレは「そんなことは言っていない。通訳のミスではないか」とはねつけた。一方ドイツ政府の中では、バルファキスについて「ごろつき(Halbstarke)のように振る舞う男」という言葉がささやかれている。もちろんドイツ政府が公式にバルファキスをそう呼んでいるわけではないが、これは非公式なレベルでも、本来は一国の財務相に対して使われるべき言葉ではない。 これまでチプラス政権は、EU、IMF、ECBの調査団がギリシャの財政状態についてアテネで調査することを、原則として拒否してきた。このためEUなどは、ギリシャの財政状態がどの程度悪化しているのか、現状を把握できなかった。だが同国の財政状態は急激に悪化しているようだ。 3月6日にチプラスは、EUの政府に相当する欧州委員会のジャン・クロード・ユンカー委員長に電話し、緊急援助について会談を申し込んだが、ユンカーはスケジュールが合わないとして拒否した。チプラスはこの日、ギリシャ国立銀行の総裁や前財務相のヤニス・ストルナラスらとアテネで会議を行った。会議では、財政状態の悪化を食い止めるための対策が話し合われた模様だ。 ギリシャ政府が今年3月から12月までに返済しなくてはならない債務と利息の総額は、174億ユーロ(約2兆2000億円)。3月だけでも17億ユーロ(約2000億円)を返さなくてはならないほか、7月には48億ユーロ(約6000億円)もの返済が待っている。しかしギリシャ政府の金庫はすでに事実上からになっており、公務員の給料すら払うのが難しい状況になっている。 このためEUは、ギリシャ政府が債務不履行に陥るのを防ぐためには、今年だけでも200億ユーロ(約2兆5000億円)の追加融資、今後5年間で400億ユーロ(約5兆円)の追加融資が必要になると見ている。正に、底が抜けたバケツだ。 特に深刻なのは、この国の銀行業界をめぐる状況だ。ギリシャの銀行は、ここ数カ月間に約200億ユーロ(約2兆5000億円)の預金を失った。市民がギリシャのユーロ圏脱退を恐れて、預金を引き出したからである。私の知っているギリシャ人も、預金をギリシャからドイツに移した。ギリシャが通貨をユーロからドラクマに切り替えた場合、ユーロに対するドラクマの交換レートは暴落すると予想されている。 ギリシャの銀行の唯一の生命線は、ECBによる緊急流動性支援(ELA)だ。1月だけでその融資額は820億ユーロ(約10兆4000億円)にのぼっている。ギリシャ国立銀行など主要4行が抱える不良債権の総額は、898億ユーロ(約11兆4000億円)に達する。これはギリシャの銀行が国内の債務者に対して貸し出している融資総額の33%に相当する。ECBがこの緊急融資を打ち切った途端に、ギリシャの銀行は支払い不能状態に陥る。 ELAは本来、緊急事態に実施するもの。ギリシャのように銀行がELAに恒常的に依存している状態は、ELAの本来の目的に反するものだ。ドイツのIFO経済研究所のハンス・ヴェルナー・ジン所長は、「ECBはELAを供与することによって、ユーロ圏の納税者に負担させて、ギリシャの銀行の倒産を先延ばしにしている」と批判する。 しかもユーロ・グループの財務相たちの間では、ギリシャ政府が2月20日に約束した改革をどのように実行するのかについて、具体的な提案を全く行っていないことについて、不満の声が高まっている。 ユーロ・グループは、チプラス政権が具体的な改革案を提示しない限り、ギリシャに緊急融資を実施しない方針である。いわんや、ギリシャ政府が債務削減を求めたり、国内の有権者に約束したように、緊縮策を停止したりした場合には、EUがギリシャ政府の口座に1ユーロでも振り込むことはないだろう。 対ロシア政策でも不協和音 さてEUとチプラス政権との対立は、EUの外交政策にも影を落とし始めた。3月7日にリガで開かれたEU外相会議で、ギリシャの外相、コツィアスが、「EUが対ロシア経済制裁を実施しているために、ギリシャの農民たちはロシアへ農産物を輸出できなくなり、損害を受けている。我々はEUによる対ロシア制裁について拒否権を発動するつもりはないが、少なくともEUに損害を賠償してほしい」と語った。 EU諸国の間で、対ロシア制裁をめぐって足並みの乱れが生じたのは、今回が初めてである。前回このコラムでお伝えしたように、チプラス政権はロシア・カードをちらつかせ始めている。チプラス政権の要求をEUが完全に拒否した場合、ギリシャがロシアに急接近することは、火を見るよりも明らかだ。ウクライナ危機をめぐってEUとの対決色を深めているロシアの大統領プーチンは、チプラス政権と手を結ぼうとするだろう。 私はユーロ危機を、ギリシャの債務危機が表面化した2009年12月から観察し、約5年間にわたってこのコラムで詳しく報じてきた。ヨーロッパでの不協和音が今ほど大きくなったことは、一度もなかった。 ギリシャがドイツを非難し、ドイツがギリシャを罵倒する。ドイツの言論界からは、「こんな状態を生むために、我々ヨーロッパ人は、通貨同盟を作ったのだろうか」という慨嘆が聞こえてくる。 傷つけられた誇り・爆発した感情 私は仕事でギリシャに何度も訪れており、ギリシャ人はヨーロッパで最も優しい人々だと思っている。彼らの「おもてなし」は、日本以上だと思う。アジア人である私は、ドイツで会社のオフィスを訪れたり、商店に客として入ったりすると、人々から「どこの馬の骨だ」という感じの冷たい表情で見られることがある。だがギリシャでは、笑顔で迎えられることが多かった。 ギリシャ人のホスピタリティー(客を温かくもてなす態度)には、定評がある。あるドイツ人が、ギリシャの田舎を旅行中に病気にかかって入院したところ、その病院は治療費を取らなかった。あるギリシャ人のビジネスマンは、外国からの客と車でレストランに行こうとしている時に、交通違反のために警察官に制止された。そのギリシャ人は警官に「いま外国からの大事なお客様を連れてレストランに行くところなのだから、勘弁してくださいよ」と説明した。警察官は、交通違反のチケットも切らずに、見逃した。法律が重視されるドイツではあり得ないことである。 つまりギリシャ人にとっては、外国からの客に対し親切にすることが、当たり前になっているのだ。多くのヨーロッパ人が、似たような経験を持っている。国としての経済的パフォーマンスには大いに問題があるが、一人ひとりは大変優しい人々である。私は個人的に、大好きな国民だ。 だが彼らは国家に強い誇りを抱いており、ヨーロッパ北部の人々に比べると感情的だ。このため、誇りを傷つけられたと思うと爆発することがある。今ギリシャがほとんど理不尽な振る舞いをし、EUに反抗しているのは、2010年以来、EU特にドイツに首根っこを押さえられ、鬱屈してきた感情がついに爆発したためである。したがって、現在ギリシャとEUが陥っている袋小路からの出口を見つけるのは、容易なことではない。 「財政規律は自然に収斂する」という幻想の崩壊 ヨーロッパの言論人の間では現在、2015年が欧州統合にとって端境期となるという意見が高まっている。1989年のベルリンの壁崩壊以降、欧州統合は猛スピードで進んできた。EU官僚、そして各国の政治家や財界関係者、知識層など欧州のエリートたちは、「欧州の統合はスムーズに進み、統合市場の経済力は高まっていく」と考えていた。各国の財政規律に対する考え方には大きな違いがあったが、ユーロという共通通貨を導入すれば、そうした違いは解消されて、財政状態が自然に収斂すると信じたのだ。 一方、ドイツ連邦銀行や一部の経済学者たちは、すでに1990年代の初めに「政治同盟を持たない通貨同盟は失敗する」と警鐘を鳴らしていた。彼らは、「財政規律に関する姿勢が水と油のように異なるドイツとギリシャが同じ通貨を使って、問題が起こらないわけがない」と主張していたのだ。だがその言葉に90年代に耳を貸す者は、ごく少数だった。大半の政治家、経済関係者たちは、共通通貨導入を称え、「ヨーロッパの時代がやって来た」と信じた。 今日のギリシャ危機の萌芽は、14年前に生まれていた。ギリシャがユーロ圏に加盟したのは2001年。その3年後の2004年11月に、ギリシャが公的債務に関するデータを粉飾してEUに報告し、通貨同盟に加盟するための条件を満たしていなかったことが発覚した。本来、ギリシャはユーロ圏に入る資格がなかったのだ。いわば、「不正入学」である。データを改竄してユーロ圏に入る方法については、米国の大手投資銀行がギリシャ政府に助言したと言われている。 だが当時、ユーロ・グループはギリシャの加盟を無効にしたり、制裁措置を取ったりすることはなかった。興味深いことに、ドルなどに対するユーロの交換レートやギリシャ国債の利回りが大きく変動することもなかった。金融市場は、「EUの政治力学を考えれば、ギリシャが嘘の数字を使ってユーロ圏に入ったことは、大きな問題にはならない」と判断したのである。実際、この問題は欧州政界や経済界で忘れ去られた。 だがギリシャは、ユーロ導入によって国債を発行するコスト(利回り)が、通貨がドラクマだった頃に比べて大幅に下がったことを利用して、大量の国債を発行。借金によって社会保障の拡充やインフラ整備を行った。ギリシャ政府の詐欺的行為について「臭い物にフタ」という解決手段が2004年に取られた後も、ユーロ圏の地下では、債務危機を引き起こすマグマが膨れ上がっていたのである。 2009年の末にそのマグマが地表に現れた時に、「各国の財政規律は、ユーロを導入すれば自然に収斂する」という、EUの政治家、官僚たちの幻想は打ち砕かれた。その危機は、「噴火」から5年経った今も収束するどころか、極左・極右が手を組んだポピュリスト政権がギリシャに誕生することにより、一段と悪化した。チプラス政権とユーロ・グループは、相手の発言をお互いに信用できなくなっている。ユーロ圏加盟国の間で信頼関係が崩壊していることは、極めて深刻な事態である。 「ユーロはハード・カレンシー」という幻想の崩壊 さて3月9日、ECBは欧州史上最大の金融緩和作戦に踏み切った。ドラギ総裁は、総額1兆1400億ユーロ(約145兆円)を投じて国債を購入する量的緩和を開始したのである。ECBとユーロ圏加盟国の中央銀行が毎月買い取る国債の額は、600億ユーロ(約7兆6000億円)に達する。 ECBは量的緩和の目的について、物価上昇率を目標値である2%前後まで引き上げて、ユーロ圏のデフレ傾向に歯止めをかけることだと説明している。だがECBが絶対に公言しない本音の部分には、市場を流動性(カネ)でじゃぶじゃぶに満たすことによって、他の通貨に対するユーロの交換レートを引き下げ、輸出産業を後押しすることによって景気の回復を狙うという意図もある。 実際、ドルに対するユーロの交換レートは、今年3月11日に1ユーロ=1.0578ドルまで下がり、過去11年間で最低の水準となった。米国が量的緩和を終えて、利上げに踏み切る可能性が強まっていることから、ヨーロッパの外国為替市場関係者は、1ユーロ=1ドルまで下がる可能性もあると指摘している。ドイツのある大手銀行は、米欧間の金利差のために、現在大量の資本がヨーロッパから米国に流れていることから、1ユーロ=0.85ドルまで下がるかもしれないと予想している。 ユーロに対して、ドルの交換レートは31.6%、韓国ウオンの交換レートは24.9%、英国ポンドの交換レートは18.9%も上昇した(2014年3月との比較)。これらの国に対して、ユーロ圏の輸出企業の価格競争力は、大幅に高まったことになる。 物づくり大国・貿易立国であるドイツは、ユーロ安によって短期的には潤う。現在この国の株式市場が、連日のように最高値を更新しているのは、そのためである。だが経済学者らの間には、ユーロ安への誘導は、長期的に見れば各国の間で「通貨戦争」を引き起こす危険があるので、楽観できないという慎重論もある。たとえばドイツ卸売・貿易・サービス企業連合会(BGA)のアントン・ベルナー会長は、「ECBが始めた措置は、通貨戦争につながる危険がある。この措置は、安定通貨への信頼を切り崩すものだ」と警告している。 保守系日刊紙フランクフルター・アルゲマイネ紙(FAZ)のヨハネス・ペンネカンプ記者は「量的緩和は、ユーロ圏加盟国に対するドーピングであり、不健全だ。このドーピングのために、ユーロ圏加盟国は自力で労働生産性を高め、競争力を回復するための努力を怠るようになるだろう」と述べ、ECBの措置を厳しく批判している。つまりユーロ安は、スポーツ選手がトレーニングと節制によって身体を鍛えることで競争に勝つ力を付けるのではなく、薬物によって一時的に瞬発力を強めるのと同様であるという主張だ。 私は1990年から欧州通貨同盟の創設に至る議論をウォッチしてきた。当時のコール政権は、マルク放棄に消極的だったドイツの経済界と市民に対し、「欧州共通通貨はマルクと同じように安定性の高いハード・カレンシーになります。ECBがドイツ連邦銀行と同じように、政府から独立した通貨政策を実施するので、欧州共通通貨がソフト・カレンシーとなることはあり得ません」と訴えてきた。 つまりECBは、量的緩和を実施したことで、当時のドイツ政府の公約を破ったことになる。マルクをしぶしぶ放棄したドイツ人たちは、いまユーロが乱高下するソフト・カレンシーになりつつあることについて、強い危惧を抱いているはずだ。 「ロシアは敵国にならない」という幻想の崩壊 ヨーロッパ人たちが抱いていたもう1つの幻想は、「ベルリンの壁崩壊後、ヨーロッパは1つの大きな家のような、誰もが安心して住める場所になり、ロシアが敵国になることはあり得ない」という考えである。去年3月にロシアがクリミアを併合、その後、ウクライナ東部の内戦に介入したことによって、この幻想は打ち砕かれた。 EUの官僚たちはソ連崩壊以降、あたかも事務作業を行うかのように、中東欧諸国をEUに加盟させ、ロシアの影響範囲を狭めてきた。その際に、ロシアには帝国主義的な発想を抱く勢力が残っていることに十分な配慮をしなかった。ヨーロッパのエリートたちが、過去25年間に地政学的な発想を疎かにしてきたことには、驚くばかりである。EUの東方拡大の試みが、かつてソ連に属していたウクライナに至った時、ロシアは冬眠から覚めた。 ヨーロッパは、事実上ロシアとの新しい東西冷戦時代に突入した。プーチンがどこまで勢力範囲を拡大すれば矛を収めるのか、欧米諸国は読みきれていない。かつてソ連の勢力範囲に編入されていたバルト3国やポーランドでは、ロシアの将来の動きについて、不安が強まっている。北大西洋条約機構(NATO)は、不測の事態に対応できる緊急展開部隊を編成。さらにEUも、欧州への軍事介入を米国が拒否した場合にも、独自に危機管理作戦を展開できるように、「EU軍」の創設を検討し始めた。これまで防衛費の削減を続けてきたドイツ連邦政府も、2017年以降は防衛費を増やす方針だ。同国は旧式になったレオパルド戦車を廃棄する方針を撤回し、温存することを決めた。これも、東欧諸国での不測の事態に備えるためである。 東西間で高まる緊張を象徴するのが、ロシアが今年3月11日に「欧州通常戦力条約(CFE)」の解消を正式に宣言したことだ。CFEは、NATOと旧ワルシャワ条約機構それぞれの加盟国が、欧州の通常兵器(戦車や装甲車、野砲など)の均衡を維持するため1990年に調印したもので、東西間の雪どけを象徴する軍縮条約だった。 日本では大きく報じられなかったが、戦車など通常戦力に関する軍縮条約をロシアが正式破棄したことは、欧州の安全保障担当者に衝撃を与えた。写真は、冷戦の時代にソ連が製造したT72型戦車(筆者撮影) ロシアは2007年に「西側諸国がCFE条約を守っていない」として一方的に条約を履行しない方針を発表したが、今年3月まで脱退はしていなかった。だがプーチンが今年、この条約を正式に破棄したことで、国際的な合意に縛られることなく、ヨーロッパで通常戦力を増強することができる。日本のメディアはロシアがCFE条約を正式に破棄したことを大きく報じていないが、ヨーロッパの安全保障体制にとっては、重要な出来事だ。このことは、ヨーロッパが1980年代に逆戻りしたことを意味している。
青年期から成熟期へ EU諸国は、ある意味でベルリンの壁崩壊以降、幸福な「青年期」を謳歌してきた。ユーロ導入や東方拡大、EUの政府に相当する欧州委員会の権限拡大は、東西分断から脱却したヨーロッパが、求心力を強めたことの象徴である。当時、EUの前途には、明るい未来だけが待っているかに見えた。 人間は青年期には、非現実的な幻想を抱くものだ。青年は、中高年層に比べると病気や死への不安を抱かないので、定期的な健康チェックなどを疎かにしがちである。EUが過去25年間に、地政学的な事情や各国の財政規律に関する違いなどについて、深い配慮をしてこなかったのはそのためだ。欧州では今、ギリシャの反乱、ユーロのソフト化、ロシアの敵国化を通じて、EUのエリートたちが過去25年間に抱いてきた様々な幻想が打ち砕かれつつある。 EUはこれらの幻想に早急に別れを告げ、青年期から成熟期への移行を果たさなくてはならない。ヨーロッパが今直面している急激な変化は、この地域が成熟期を迎えるための、産みの苦しみである。 http://business.nikkeibp.co.jp/article/world/20150316/278748/?ST=print |