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【第136回】 2015年2月24日 出口治明 [ライフネット生命保険(株)代表取締役会長兼CEO]
「年金は破綻しない」と言い切れる理由
別のブログで、「公的年金は破綻しない」と書いた。そのロジックは以下の通りである。
1.国債が発行できる限り、年金の支給を含めて予算を組むことができる(≒政府は破綻しない)。
2.公的年金がもらえない時は、国債が発行できない時、即ち国債が紙くずになっている時である。
3.国債をたくさん保有しているのは政府の一部門である日銀を除けば、わが国の金融機関(銀行、保険、証券など)である。
4.国債が紙くずになれば、金融機関は破綻する。従って市民の預けたお金は返ってこない。
5.即ち、国債を発行している近代国家においては、政府より安全な金融機関は存在し得ない(政府の格付けが下がれば、その国の金融機関の格付けも自動的にスライドする)。
これに対して、さまざまなコメントが寄せられた。そこで、もう1度、この問題を原点に立ち戻って考察してみたい。
キャピタルフライトをどう考えるか
Photo:denebola_h-Fotolia.com
最初に寄せられたコメントは、「外国の金融機関にお金を預けるべきだということですか?」というものだった。僕は読書と旅しか趣味がない。これまで70余ヵ国、1200都市以上を旅してきた。そして得た結論は「日本ほどすばらしい国はない」という確信である。
まず、何よりもご飯がおいしい。加えて、四季が本当に細やかである。そして、安全でとても便利だ。そう思えばこそ、キャピタルフライト(※)は良くないと考えている。過去の歴史を見れば、キャピタルフライトが起こって上手く行った国は1つもない。あらぬ誤解や心配を煽って、市民にキャピタルフライトを考えさせるような愚は、断固として避けるべきだ。
※資本逃避。資本や資産が一斉に海外へ流出すること。
もちろん、人間には移動の自由がある。グローバリゼーションが進んでいる現在、若い日本人には広い世界にもっともっと飛び出して行ってほしい、活躍してほしいという気持ちは、人並み以上にある。人が出て行けば、それにしたがって当然お金も出て行くだろう。しかし、それと同時にこれほど住みやすくすばらしい国なのだから、世界中からダイバーシティにあふれた魅力的な様々な人に、もっともっと来てほしいと願っている。誰も流入せず、人やお金が出て行くだけの国には未来がない。
負担が給付であるという事実をよく考えよう
「年金が破綻しない」と書いたのには、ほかにも理由がある。それは、「負担が給付である」という当たり前の大原則をよく考えてみれば、誰にも分かることだ。
政府の役割は、公共財や公共サービスの提供にある。そのために市民に租税や社会保険料などの負担を求め、配布基準を上手に設計した上で、市民に給付を行う。それが政府の基本的な仕事なのだ。即ち、負担が給付そのものなのだ。
左から入った負担が政府という箱を介して右から給付として出てくる。しかし、箱に特別な仕掛けがある訳ではないから、負担と給付は常に等しくなるはずだ。「政府の年金の設計の仕方がまずいのではありませんか?」というコメントも寄せられたが、およそマクロで見れば「無い袖は振れない」というしかない。左が少なく右が多ければ、全体としては工夫の余地はないのだ。
ところで、わが国の負担と給付の状況を見ると次の図のように現実は小負担・中福祉となっている。
これは何故か?過去のわが国が高度成長を続けていたからである。お隣の中国のように7%成長を10年続けると、経済規模はほぼ倍増する。500兆円が、1000兆円になるのである。すると、税収も倍増することが期待されるので、小負担・中福祉という構図が維持できたという訳である。
しかし、高度成長が止まれば、小負担・中福祉という構図がサステイナブルであるはずがない。わが国はこの差額を長期間にわたって借金(国債の増発)で埋めてきたが、その結果が1000兆円の借金である。これ以上借金に頼るべきではないことは、言を俟たない。そうであれば、ある程度負担を増やし、給付を切り下げる以外の解決方法は世の中にはあり得ないのである。「税と社会保障の一体改革」が叫ばれる所以である。
もちろん、ほんの少しであれば、事態を改善することはできる。みんなで選挙に行って投票率を上げ、少しでも分配が上手な良い政府を作ることと、仕事の生産性を上げて成長することである。成長すれば税収が増えて給付に充てる財源が増えるからである(それでも過去のような高度成長は期待すべくもない)。しかし、マクロで考えれば、当コラムでも以前に書いたように、「中負担・中福祉」か「高負担・高福祉」以外の選択肢は現実にはわが国には残されていないのだ。
高齢化社会の負担と給付の在り方
ところで、わが国は、人類未踏の高齢化社会に入りつつある。高齢化社会にあっては、負担と給付の在り方も、これまでとは根本から違ってくるのではないか。
これまでのピラミッド型社会では、労働人口が圧倒的に多く、いわばサッカーチームが1人の高齢者を支えているような状況だった。また高齢者の持つ資産もそれほどではなかった。このような社会では、誰が考えても多数の労働人口に所得税を負担させようという発想になる。
ところが、わが国の現状を見ると、サッカーチームから騎馬戦へさらには肩車へと労働人口が急減しつつある。しかも、一部の高齢者が金融資産の大半を持っているという状況にある。このような社会の変化を冷静に眺めれば、資産を持つ高齢者にも応分の負担を分かち合ってもらうことが必要であって、その観点からも所得税から消費税中心の税体系への移行は必然であろう。
また、資産課税という観点から見れば、高齢者の保有する金融資産の流動化が大きな課題となる。私見では、相続税率を100%とし、20代30代の若い世代に対する贈与税率を0%とする組み合わせが望ましいと考える。
「富裕層を優遇するだけではないか?」という声が聞こえてきそうだが、良く考えてみてほしい。わが国では、カップルと子どもの世帯は28%しかいないのだ。1人暮らしと子どものいないカップルの世帯を合わせると、50%を超えるのである。相手が20代30代であれば血縁のあるなしにかかわらず、贈与税率を0%とすれば、社会貢献に励むNPOやNGOにも十分な資金が流れると見るのは、楽観的に過ぎるだろうか。
次は給付である。これまでのピラミッド型社会では、極論すれば、年令だけが給付基準であった。定年になれば年金が出る、医療費負担も軽くなるという訳である。しかし、このシステムを放置すると、高齢化が進むにつれて年金や医療費の増大は不可避となる。到底、サステイナブルではあり得ない。
では、どうすればいいか。年齢基準を捨てて、年齢フリーとし、貧窮基準に差し替えるのである。まず、定年というピラミッド型社会を前提とした制度は止めて、年齢フリーで働きたい人はいつまでも働ける社会を前提とする。わが国は労働力が不足する時代に入りつつあるので、マクロで見れば、定年の廃止は整合的な政策となる。
そうすると年功序列型賃金はたちどころにもたなくなるから、自ずと同一労働・同一賃金へと向かわざるを得なくなる。公的年金の支給基準は例えば健康寿命に合わせて「70才以上かつ一定の資産や所得がない人」のみを対象とするように改める。医療も同様で、年令による優遇を一切なくして一律3割負担とし、逆に「一定の資産や所得がない人」に限って年齢にかかわらず1割負担とするのだ。
なお、年齢にかかわらずいつまでも働くということは、健康寿命の延伸につながる可能性が高いので、介護給付も削減できるのではないか。なぜなら「平均寿命―健康寿命=介護期間」だからである。
以上述べてきたように、我々は、高齢化社会に合わせた負担と給付の在り方を抜本的に構築し直す必要があるのではないか。
(文中、意見に係る部分は、筆者の個人的見解である)
http://diamond.jp/articles/-/67331
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