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「宗教崩壊」
寺は「時代遅れ」でもいい
芥川賞作家・玄侑宗久さんの仏教的視座
2015年2月4日(水) 鵜飼 秀徳
宗教崩壊は起こらない――。芥川賞作家で臨済宗僧侶の玄侑宗久さんが、寺や僧侶の存在意義を問い直す。「経済」の本当の意味とは。布施とは何か。寺が尊い理由は? 玄侑さんとの対話を通じて、寺や僧侶のあり方、関わり方が見えてきた。
(聞き手は、鵜飼秀徳)
玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)氏
1956年、福島県三春町生まれ。慶應義塾大学中国文学科卒業後、様々な仕事を経験し、京都・天龍寺専門道場に入門。2001年、『中陰の花』で第125回芥川賞を受賞。2008年2月より、福聚寺住職に就任。2011年3月11日の東日本大震災後の政府による「復興構想会議」のメンバーに選任。近著に『お寺からの賜り物』(大法輪閣)など多数(福聚寺で。写真:大高和康、以下同じ)
地方都市の寺で「寺の運営が厳しい」「檀家が離れて存続の危機だ」という声があがっています。玄侑さんが住職を務める寺(福聚寺・臨済宗妙心寺派)は福島県三春町にありますが、寺を取りまく環境の変化をどう感じていますか。
玄侑宗久氏(以下、玄侑):福島県三春町は今のところ世帯数こそ横ばいですが、過疎化はいずれ直面せざるを得ない問題です。では、うちの寺がそうした地方特有の構造的問題に飲まれ、存続の危機に瀕しているかと言えば、全くそうではありせん。
この辺りは田舎だからこその、「地縁」や「血縁」が色濃く残っていて、檀家さんや地域の人がしっかりと寺を支えてくれています。
市場経済とは折り合いがつかない「地方の寺」
都会の人はこう言うと驚くかもしれませんが、例えば私が毎日食べるものについても、貨幣経済を通して手に入れているわけではありません。8割以上が檀家さんからの頂き物なのです。収入の大きな柱も頂き物である「お布施」です。
そのお布施も、経をあげるための「対価」ではありません。われわれも檀家さんに対して「布施」をしている意識です。
また、特別な用事もないのにふと、寺にお茶を飲みにくる人がいます。都会であれば、お茶を飲むということすら経済行為になり得ますが、田舎ではそんな下心はない。お互い、見返りのない「気持ちの交換」で接しているのです。
われわれは極めて純粋な「贈与」を受けながら生活を支えてもらっています。市場経済の原理でモノを見ている人は、僧侶は特権的だと腹立たしく思う人もいるかもしれませんが、こういう経済のあり方が日本に存在するということを知ってもらいたい。
そもそも、「経済」の言葉の語源は「経世済民(けいせいさいみん)」です。「世を治め、民を救う」という意味です。「経済」とはもともと、非常に豊かな意味を含んだ言葉なんです。
それが最近、「市場経済」だけに限定され、「経済」が含み持つ意味が細ってしまっています。
哀しいかな、都会と地方の寺とは切り離して考えなければいけない時代なのかもしれません。東京の一部の寺では大企業に土地を貸して、地代で食べているところもあると聞きますが、われわれのような地方の寺はそうした都市経済とは折り合いがつかないものだと思っています。
大事なのは檀家や地域と関係を築くこと
市場経済に飲まれ、寺が淘汰されていく時代は避けられないような気がしますが、玄侑さんはそうした、見返りを求めない経済が地方に残っている限り、地方の寺は残っていけるとお考えなのですね。
玄侑:そう。私は、寺が淘汰されていくという話はピンと来ないんです。ただし、寺の跡継ぎ問題は深刻だし、跡継ぎがいなくて無住寺院が増えていることは、全宗派的な課題と言えるでしょう。
うちの臨済宗妙心寺派も全国に約3500カ寺ありますが、そのうち1000カ寺近くが無住状態です。私も地域にある2カ寺の無住寺院の住職を兼務しています。でも、それは明治時代から続いている兼務であって、最近、2つの寺が潰れたからうちの寺が面倒を見ているというわけではないんです。100年も前からの兼務ですから、兼務先の寺の檀家さんも半分うちの寺の檀家さんみたいなものです。
当然、同じ寺でも裕福なところ、貧しいところはあるでしょう。しかし、収入があれば寺は存続できるという考えも誤りだと思います。住職の中には、寺だけでは食べていけないから、別のビジネスを収入の柱にしている人も多いでしょう。
1960年代、米国でこういう運動がありました。宗教が純粋にドネーション(donation)、つまり義務的でない体制(寄付や寄進によって維持していく本来の宗教運営のあり方)を維持するためには、宗教者は別におカネを得る手段を持つべきだ、という考えです。
私も若い時、そうした考え方に共鳴していました。しかし、今ではそれは違う、と思っています。宗教者自身が生活の全てを賭けなければ、仏教教団はどんどん弱ってしまう気がします。
住職が平日、どこかに勤めていて、休日しか寺にいなければ、檀家さんの菩提寺に対する見方も変わってしまいますよ。寺が衰退しているというのであれば、そうしたことが要因の1つになっているのかもしれません。
でも、僧侶だからと言って、あえて貧しさを目指せと言っているのではありません。私は、おカネは淀んではダメで、流通することはむしろ、いいことだと思っていますから、僧侶もカネに対して気兼ねする必要はない。
大切なのは、収入を得る手段よりも檀家や地域との関係性を、僧侶がどう築けるか、だと思います。
お寺が大きくなればなるほど、檀家さんの顔や生活が見えなくなり、葬儀や法事も事務的になってくる。すると、寺も葬儀屋も変わらない状態になれば、一見限りの葬儀屋でもいいということになります。
おらが寺の和尚さんに、「送ってもらいたい」と檀家さんに思っていただけるか。そこが寺の生命線です。
私のいる地域にはそれがまだ強く残っています。私は作家という仕事柄、講演に出たり、この地を離れることも多いですが、留守中、急に檀家さんが亡くなっても、「和尚さんが戻るまで待つ」と言ってくれます。
だから特にこういう田舎でも、檀家さんの顔が見えている限り、寺がなくなることはないと考えています。
お布施とは何か
現代人の宗教に対する反発をどう思いますか。特にお布施に対する不透明さに納得がいかないという若者は多いです。
玄侑:若い人は特に、全てを数字に還元したがるでしょう。換金主義とでも言いましょうか。数でしか価値を測れなくなっているなと感じています。だから「お布施と言われても困る」のでしょう。
お布施とは何なのか。
贈る側が金額を決める。これが布施なんです。頂く側が、決めるわけではない。
余談ですが私が書いている原稿は出版社が原稿料を決める。普通の商売はモノの値段は売り手が決めるのに、なぜか物書きの世界は、買い手が決めるという不思議な慣習があります。私の原稿料は言わば、お布施なんですよ。それに対してやはり私も、お布施の気持ちで原稿を書いています(笑)。
先ほども言いましたが、市場経済ではない、お布施の経済も存在するんです。それは「縁起」と言いましょうか、無限の計り知れないネットワークが長年かけてつくりあげたもの。そうしたことを実感できるようになるには、やはり年を重ねるということが必要なのかもしれません。
バラバラになった人を集められるのは寺や神社だけ
4年前、東日本大震災がありました。それがきっかけで「縁起」への認識は人々に芽生えたのでしょうか。寺の役割は果たせたのでしょうか。
玄侑:ここ三春町から福島第一原発まで45kmほどしか離れていません。2011年3月の原発事故のあった時期は、寺にとっては多忙な、春の彼岸入りの直前でした。私もお墓参り用の塔婆を書いて檀家さんを訪問する準備をしていました。
そうした最中、地震と原発事故が起きた。放射性物質が降ってきて、お墓参りどころではない状態でした。行政からも不要不急の外出は避けるように、との通達があり、どうしても外出せざるを得ない時は、帽子をかぶり、ジャンパーを着込み、マスクをして、放射線を防ぐ周到な準備をしなければいけないような局面でした。
ところが彼岸入りすると、次々と檀家さんが、「塔婆を取りに来ました」と、当然のような顔をしてやって来ましたよ。「えっ、墓参りは不要不急じゃないでしょ」と内心、驚き、戸惑いましたが、檀家さんは「お彼岸にご先祖さまに塔婆をあげないと落ち着かない」と言うんです。
それが寺という存在なんです。
バラバラになった人に対して再び、「集まろうよ」と言って、祭りや、正月、お盆、お彼岸などの年中行事を通して、きっかけを提供できるのは寺や神社だけです。
そう思えば、地域の紐帯として、寺や神社の存在は本当に重要だと思います。残念なことに、そうしたことは人々が危機的な状況にならないと見えないんだと思います。
都会の寺に地域の紐帯としての役割は残っていないのかもしれませんが、田舎ではそういった意識が強くあります。東北とか、九州とか、そういう僻地と都市部とは隔絶してきている印象がありますね。
「絆」とは束縛そのもの
都会ではそうした「付き合い」すら面倒だと思っているということでしょうか。
玄侑:地域独特の「余計なこと」ってありますよね。人付き合いとか、お墓参りとか、しきたりとか、季節の行事とか。われわれは合理的な考え方でどんどん「余計なこと」を省いてきたのでしょうが、浅慮だったとしか言いようがないです。
地域の「余計なこと」こそ、深い意味合いを持っている。確かに地域の中で生活するのは厄介ですよ。隣近所と関わらないでやれるならそれに越したことはないという人も多いでしょう。現代人は面倒なお付き合いを避けがちですよね。
でも考えれば面倒なお付き合いこそが、「絆」なんです。絆って、語源は馬の鼻づらをつなぐ綱のことですからね。絆は、束縛そのものなんです。
その束縛を、面倒と考えるか、貴重なネットワークと考えるか。それはその人の考え方次第なんじゃないでしょうか。
仕事に忙殺されてしまうと、寺との付き合いなど、ビジネスパーソンにはなかなか気が回らないのかもしれません。
玄侑:生産性と効率性の中に浸かっていると、どうしてもね。私も若い頃、住職である父親に向かって「お寺の仕事とは何」と尋ねたことがあります。父は「交際業だ。間違ってもサービス業ではない」と教えてくれたことを覚えています。うまいこと言うなあと思いましたよ。
「交際」が寺の仕事だ。しかし、モノやサービスを売る「サービス業」になってはおしまいなんです。私も年末年始は、檀家さんへの挨拶だけで忙殺されます。1軒1軒、家庭を訪問してカレンダーを配り、年始も挨拶だけで何日もかかかります。
確かに、お互い面倒です。しかし、家を1軒1軒回ると、その方の様子がよく分かる。お坊さんは人が死んだ時に送らなければならない立場です。生きているうちからその人のことを知っておかなければいけないのは当然でしょう。それが寺にいる者の、基本的な務めです。
「無意識」を引き出せるのは僧侶だけ
お寺との関係性で言えば、葬儀をお寺でするということがめっきり減ってきています。
玄侑:確かに減ってきていますね。葬儀屋さんは明治期、九州で始まります。かつて葬儀は山伏が代行してやっていた時代がありましたが、その段階はまだよかった。しかし、葬儀屋さんが全てを取り仕切り、地域の共同体がやらねばならないことまで肩代わりし、それに対して遺族がカネを払う形になっていることへの違和感はありますね。
この辺りでもですか。
玄侑:田舎だからこそ、危機感を強く持ちます。隣組の制度はきちんと残っていて、自分たちである程度、葬儀を取り仕切る体制にあるのに、肝心の喪主の息子が地元にいないわけです。葬儀のお返しも何もできないので、結果的にカネを払って全てを葬儀屋さんに任せるということになる。だから、亡くなった両親が持っていたコミュニティーを反映しない無機質なお葬式にもなります。
子供や孫が故郷に住んでさえいれば、そんなこともないのでしょうが、そうもいかない。過疎化、都市化の弊害だと思います。
僧侶の役割とは何なのでしょうか。
玄侑:宗教的な叡智をきちんと示せるかどうかだと思います。要するに、宗教が担っているものが何なのかということでもあります。それは「頭のもう1つの使い方」なのだと思います。
人は頭を使って年相応に知識を増やしていって、ロジカルに考える能力を高めていきますね。「分析的な知」と言ってもいいかもしれません。
「分析的な知」に対し、われわれ僧侶がやっていることは、真逆です。
例えば、僧侶はお経を唱えるでしょう。経文を丸暗記して再生するという繰り返しをわれわれはしている。何の意味があるのかと、思う人もいるかもしれません。
読経の際には、無意識状態で、瞑想と言える境地に入ります。すると、感覚だけが研ぎすまされ、遠くの物音や空気の流れる様子すら感じられるようになる。視野も広くなります。
同時に正座をしていますから、自然と腹式呼吸になって、下腹部が鍛えられます。すると副交感神経が優位になって、右脳の働きが良くなる。右脳がよく働けば、相手への思いやりや愛と言った、「情感」が養われます。
「情感」とは、分析的に解る、ということではなく、直観的に分かるものです。
「意識よりも無意識のほうが本当のことを知っている」と私は思っています。人間が目や耳などの感覚器で把握しているのは、本当に狭い世界です。見えない世界や霊的な世界に想像を巡らせることが、どれほど大事なことか。
この無意識の力を引き出すのが僧侶の役割なのです。宗教的な技術をもって、阿頼耶識(※)に入っているありとあらゆるものを引き出す技術は、僧侶以外には不可能なことです。
こうした宗教的な叡智を僧侶が広く提示できるかどうか。提示できていないから、「葬式仏教」とか言われるんです。
※あらやしき=人間の深層心理のこと。仏教ではこの心の働きが全ての根本になっていて、今ここに生きる人間の姿形や心までを形成していると説く
寺は社会の変動を受けてはいけない
直葬や散骨、樹木葬など葬儀の簡略化が進んでいますが、それは自分の死後をおろそかにしてしまっているということでしょうか。
玄侑:というよりも、「連続性をおろそかにしてしまっている」ということなんでしょうね。私はこの寺の35代目の住職ですが、34代と36代の「つなぎ」という意識をとても強く持っています。たかがつなぎ、なんですが、されどつなぎ。脈々と伝わってきた連続性が、つなぐことで守られるという安心感を私に与えてくれます。
自分の死後、どういう状態で、どこに埋葬されようが別に構わないというのは、こうした連続性が意識できなくなっているのかも。先祖や地域など、多くの連続性を感じるということを、生き甲斐として感じて欲しい。
さらに言えば、寺や仏像はなぜ尊い存在なのか。それは何百年もの間、寺が修行の場であり、仏に対して僧侶や信者が仏餉(ぶっしょう)をはじめとするお供え物を綿々と続け、手を合わせ続けてきたからに他ならなりません。
連続性さえ大事にすれば、「死後、自分がどこに埋まるのか」ということも含めて、理屈では説明しにくい安心感をもたらしてくれると思います。
僧侶は社会の波に揺られてもいい
50年後、100年後の日本の宗教はどうなっているんでしょうか。
玄侑:社会とか経済の変動を、早々に受けてはいけないのが宗教だと思います。社会の変化に敏感に対応しなければいけないものが世の中にはあるけれど、変化の激しい経済とか政治の影響を受けない存在も、われわれの暮らしには必要なんです。それは宗教、哲学、道徳などです。
寺が社会の動きを察知できていない、反応が鈍いから社会に置いていかれているんだという批判は見当外れだと思います。
僧侶は、そうした社会の波に、揺られてもいい。私はそれを「風流」と言っています。諸行は無常です。それをしっかりと認識すれば、世の中、初めてのことばかりです。時流に揺られながら、その時々で判断していくというのが、最も仏教的だと思います。
「寺」という言葉の意味をご存じですか。「同じ状態を保つ」という意味です。「ぎょうにんべん」を付ければ、同じ状態で佇むことを意味する「待つ」。それが、主君を守備する「侍」の勤めでもあります。もっと言うと、「やまいだれ」を付ければ、なかなか治らない「痔」ということですよ(笑)。
このコラムについて
宗教崩壊
多くの寺や神社が存続の危機を迎えている。少子高齢化や地方の過疎化、後継者不足など、ありとあらゆる要因が大波となって宗教界に押し寄せている。「このままでは10年後、日本の寺や神社が半減する」。危機感を抱いた一部の仏教教団は、対策に乗り出している。だが、抜本的な策は見えてこない。「宗教崩壊」は一般庶民に何をもたらすのか。また、社会全体として、どんな影響が出るのだろう。寺や神社が消えることでの「物的崩壊」は既に進行中だが、同時に「心の崩壊」へと広がっていく危険性もある。日経ビジネスオンラインでは、「宗教崩壊」の現場に足を踏み入れ、実態を調査。各宗教教団本部にも取材し、複数回にわたってリポートする。いざという時に役立つ仏教知識、教養も得られるような構成にしてあるので、参考にして頂きたい。
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