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東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)の西村英俊・事務総長。
「アジアの夜明け」ASEAN経済共同体は世界経済を救うか
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150126-00014425-president-bus_all
プレジデント 1月26日(月)14時15分配信
今年12月、アジアに人口6億人の巨大市場が誕生する。ASEAN(東南アジア諸国連合)の10カ国による「ASEAN経済共同体」が発足するからだ。ASEANが統合し、1つの経済共同体となれば、その隣国には中国やインド、さらに海を隔てれば、日本やオーストラリアが存在する。周辺各国との貿易も活発化し、巨大な市場が形成される。これを陰で支えてきたのが、東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)である。同センターが設立された2008年から事務総長を務める西村英俊氏に、この間の動きと意義を聞いた。
■戦争を避ける知恵としての「ASEAN」
――東南アジア各国の結束が加速している。
【西村】ASEANは1967年にインドネシア、マレーシア、フィリピン、シンガポール、そしてタイの5カ国で発足している。その当時、東南アジアをめぐる政治は非常に緊張しており、一触即発といってもいい状況が続いていた。戦争を避けるために話し合いを持つ。それが各国指導者の間で最も必要とされていたことだった。それがいま、地域の経済成長を謳えるまでになっている。比べてみると、隔世の感がある。
当初は、外相レベルの顔合わせからスタートし、信頼醸成を確実なものにしていくことに力点が置かれた。いくつかの分野に分けた委員会が100を超える政策提言をするといった地道な努力を重ねた結果、76年2月にインドネシアのバリで第1回のASEANサミットが開かれている。ここで共同声明が採択されているが、実はそこに「ASEAN共同体」という言葉が登場する。これに先立ち、75年には外相会議と並んで経済大臣会合も設置された。
――首脳会談まで10年の歳月が流れているが、その間は順調だったのか?
【西村】いや、73年に勃発したオイルショックは、東南アジア各国も混乱に陥れた。エネルギー危機は、そのまま食糧危機にもつながることから、経済閣僚レベルで対応すべき課題が列挙された。すなわち、ASEANの競争力を高めていくための大規模な工業化、域内貿易拡大といった取り組みだ。これは「集団的輸入代替重化学工業化戦略」と呼ばれた。しかし、外資に対する制限を加えたこともあり、この政策はうまくいかず、ASEANにおけるいわゆる“空白の10年”に入っていく。
この間、日本は2度の石油危機を乗り切って、高度経済成長を維持した。「Japan as No.1」といわれたのもこの頃だ。一方、中国も文化大革命の失敗を糧とし、トウ小平体制下での「改革・開放」へと舵を切る。さらにインドも、インディラ・ガンジー首相が80年までの社会主義下の計画経済と訣別し、民間企業の発展と規制緩和を行った。とはいえ、中国、インドとも社会主義の負の遺産は依然として根強く残っていた。
■東南アジアの発展に果たした日本の役割
――ただ、日本の急激な成長は欧米との貿易摩擦を引き起こし、85年のプラザ合意で、円高が一気に進んだ。
【西村】プラザ合意による為替相場の大胆な変更を通じて、日本からの海外投資がASEAN、中国、インドなどに向かう下地ができた。東南アジア諸国も困難を何とか克服して87年12月、第3回ASEANサミットの開催にこぎ着ける。そしてここで、積極的に海外投資の導入に踏み切ることを鮮明にした。それは「集団的外資依存輸出指向型工業化戦略」といわれた。
このASEAN工業化、産業高度化政策を支援したのが日本にほかならない。とりわけ、JODC(海外貿易開発協会)の派遣技術者たちが、単身で東南アジアに渡り、ものづくりの重要性や醍醐味を献身的に伝えたことは特筆に値する。私は彼らのことを“匠道の群像”と尊称しているが、そのDNAを受け継いだアジアの人々が自動車などを生産している現場を見るにつけ胸が熱くなる。その功績は忘れるべきではない。
これらを含めて、世界銀行が報告書で「東アジアの奇跡」と呼ぶほどの目覚ましい経済成長を遂げた。やがてASEANには、99年までにベトナム、ラオス、ミャンマー、カンボジアが加盟し、10カ国の陣容となる。97年には、タイのバーツに端を発する通貨危機があったものの、発生から半年後には、その克服を念頭に「ASEAN Vision 2020」を採択。それまで進めてきた域内貿易投資自由化を核とする市場統合を加速させるのである。
――こうした歴史がERIAの設立につながっていく。
【西村】このビジョンの動きを早めたのが、2001年の中国のWTO(世界貿易機関)への加入だった。その条件として中国は、非常に多くの法令を整備。さらに国内の流通を自由化させ、その成果は5年間でGDPの倍増をもたらした。これを目の当たりにしたASEANでは、05年の第11回ASEANサミットで15年までに「ASEAN経済共同体」を完成させることが議論され、07年1月、フィリピンのセブ島における第12回ASEANサミットで正式に声明した。
こうした時代の流れを受けて、2006年には二階経済産業大臣が東アジア版OECDとして期待されるERIAをグローバル経済戦略で提唱した。そして、第3回東アジアサミット(07年11月)において、日本の福田康夫首相のERIA設立提案に参加全首脳が合意した。位置づけは、東アジア経済統合実現へのロードマップの策定、同地域のエネルギー安全保障の研究を担うシンクタンクというものである。08年6月、ASEAN事務局において、ASEAN10カ国に日本、中国、インド、韓国、オーストラリア、ニュージーランドを加えた東アジア16カ国の理事の参加を得て、設立理事会が行われ、研究活動が本格化する。
■「アジアは一つ」という本当の意味
――その約3カ月後、リーマンショックが起きたことは記憶に新しい。
【西村】アジア通貨危機を経験し、それを受けてのVISION2020の実現を加速させようとしていた矢先の出来事だ。ERIAは、リーマン危機対応の先兵として出動することを命じられ、ASEAN自立を視野に「アジア総合開発計画」をまとめていくことになる。それまでにも、アジア開発銀行が推進してきた「大メコン圏地域開発」などはあった。それらを一本化し、経済統合の深化と開発格差の縮小をめざした。
具体的には、交通、電力、港湾といったハードインフラの整備と関税手続のようなソフトインフラの改善によって、ASEANに存在する生産ネットワークを拡大、深化、高度化させ、各都市のGDP、産業、人口の拡大に資していくというものだ。これらは民間事業者の資金とノウハウを活用する官民パートナーシップ(PPP)も活用して実施していくことにしており、総額40兆円にものぼる695ものプロジェクトを選定した。すでに、その半分は動き出していて、ERIAが詳細をチェックし、分析・評価してきた。
いわば必然的な形でERIAはアジアの歴史の中に登場してきた。すでに、東アジアエネルギー政策に対する全面的貢献やASEAN中小企業政策インデックスの形成、ASEAN連結性マスタープランの完成とその推進といった分野で業績を上げている。さらに「アジアコスモポリタン賞」は12年と昨年に、政治家、経済・歴史学者、映画監督などの受賞者を発表している。
――昨年は平城遷都1300年を記念したイベントだったというが、その狙いは?
【西村】この賞は2年に1度、東アジア域内における経済面と文化面での貢献度が高い個人および団体に対し、国籍を問わず授与される。「ASEAN経済共同体」は、「ASEAN社会文化共同体」とは密接不可分だからだ。アジア発展の大義のために、みんなが努力することが大切だと考える。昨年は「奈良フォーラム」という形にしたが、平城京はシルクロードという古代のコネクティビティの終点に当たる。かつてはユーラシアの人と文化が集まった国際都市だった。だからこそ、アジアコスモポリタンの名にふさわしい。
明治に活躍し、日本美術の父といわれる岡倉天心はかつて「アジアは一つ」と述べた。もちろん、当時もアジアには多様性があり、日本もその中の小国に過ぎなかった。けれども、文化には共通のものがあり、同じ価値を創造できる。そうしたアジアの伝統と英知に、この半世紀の経験値を加味できれば、ASEANが進むべき道は見えてくるはずだ。私はそれを“Responsive ASEAN”、すなわち感動するASEANと呼びたい。
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ERIA事務総長 西村英俊
1952年大阪府生まれ。東京大学法学部卒。1976年通産省入省。海外貿易開発協会アジア太平洋代表、通商政策局南東アジア大洋州課長、愛媛県理事、中小企業庁経営支援部長、日中経済協会専務理事、日中東北開発協会理事長等を経て、2008年6月より東アジア・アセアン経済研究センター(ERIA)事務総長。2013年4月1日より早稲田大学客員教授、2013年10月よりインドネシア・ダルマプルサダ大学客員教授。
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ジャーナリスト 岡村繁雄=取材・文
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