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ブーム発祥地・アメ横の驚異、一日十数万人を集客し続ける秘密 JRとの死闘と共存
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20150121-00010001-bjournal-bus_all
Business Journal 1月21日(水)6時0分配信
地方だけでなく、大都市圏の商店街でも一部がシャッター通りとなる中、昔と変わらず人出が途絶えない商店街がある。正月用の食材を求める買い物客が年末の風物詩となっている東京・上野のアメ横商店街は、その代表格だ。
ちなみに2014年12月30日における来客数は1日約57万人。同27日から31日までの5日間で200万人弱が訪れた。ただし、お客の財布のヒモは固かったという。
1月中旬の平日に訪れたアメ横は、さすがに年末の喧噪は落ち着いていたが、買い物客は多かった。今回は各店の紹介ではなく、商店街の事務局側にスポットを当てて紹介しよう。
●流行に乗り、話題性を発信し続ける
同商店街は東日本旅客鉄道(JR東日本)上野駅と御徒町駅を結ぶ線路沿いを中心に約430店が立ち並び、普段の平日でも十数万人の人出で賑わう。もともと太平洋戦争の空襲で焦土と化した上野に、戦後まもなく闇市ができたのが始まりだ。
「アメ横の名は、戦後に駐留した米軍の横流し品である払い下げ衣類などを扱うようになった『アメリカ横丁』と、戦火で焼け出され甘いものを欲していた庶民に芋飴などを売った『アメ屋横丁』の両方に由来しています」
こう話すのは、アメ横商店街連合会名誉会長で上野観光連盟会長でもある二木忠男氏。「二木の菓子」や「二木ゴルフ」などアメ横の人気店を創業し、初代の同連合会会長も務めた二木源治氏(故人)の息子である二木氏は、子供時代から同商店街の変遷を見てきた。
新宿や池袋、新橋などの闇市が戦後の高度成長とともに高層ビルの繁華街に姿を変えた中、アメ横はいまだに発足当時の名残をとどめつつ、高い人気を維持する理由を、同氏はこう語る。
「いい商品を仕入れて安く売るという商売が支持されてきたことが第一です。それに加えてアメ横は時代の波に乗って、その時々の話題を発信してきたことも大きいです」
例えば、近年の話題は、13年に国民的人気となった連続テレビ小説『あまちゃん』(NHK)との連携だ。同番組の第二部・東京編では、能年玲奈が演じた主人公アキが人気アイドルグループ「アメ横女学園」の二軍扱いである「GMT47」に加入するところから始まった。その活動の舞台として登場したのが、同商店街にあるアメ横センタービルだった。
「NHKからアメ横に話があり、上野観光連盟も含めて全面協力しました。ドラマで放送された楽曲『暦の上ではディセンバー』を歌うベビーレイズが出演して、上野公園で無料コンサートを開いたこともあります」(二木氏)
もともと衣料品や食料品などの販売店が入居する同ビルだが、放送が終了した現在でも、ビル内の劇場で全国各地のご当地アイドルのコンサートを開催している。
こうした話題性は、アメ横の歴史の始まりから今日まで受け継がれている。甘いものが貴重品だった戦後の食糧難時代に芋飴が話題となって多くの人々が押し寄せ、クチコミで評判が伝わり、メディアが報道するようになった。
●新しもの好きだが、急激な再開発は反対
戦後70年近い歴史の中で、アメ横は商店街の性質を徐々に変えてきた。そのため年代によって同商店街へのイメージが異なるかもしれない。かつては食料品店が大半で「店舗数も現在より多い500店ほどある中、約300店が食料品店でした」(同)。
衣料品店も商店街の看板の一つだ。戦後すぐに米軍の放出品を売り始めたDNAを受け継ぎ、この商店街からブームが始まった衣料品も多い。その代表が「MA-1」と呼ばれる米軍のフライトジャケットだ。ミリタリーショップとして有名な中田商店が売り出し、1980年代に人気に火がついた。
同時代にウエスタンブーツがはやった時期は、渋谷などではなくアメ横に買いに来るのが当時の若者の間で知られていた。
中年以上の女性では、欧米の輸入化粧品に思いを寄せる人がいるかもしれない。70年代や80年代、日本にいながらにしてこれらの化粧品が割引価格で買えたのはアメ横だった。
「常連客は、細い路地裏の店で掘り出し物を探す『宝探し』感覚で利用されていました」と振り返る二木氏。宝探し感覚は、現在の中古品人気にも通じるものだった。
こうした新しもの好きなアメ横だが、急激な再開発に対して反対運動を繰り広げてきた歴史は、あまり知られていない。特にバブル期に上野駅に持ち上がった高層ビル化計画では、「街に人が回遊しなくなる」と猛反発が起きた。「上野駅を高さ300メートルの超高層ビルに建て替える計画があったのです。この時は先輩商店主たちが猛反対をして、バブル崩壊とともに計画が立ち消えとなりました」(同)
その後、JR側も再開発方針を見直し、現在の上野駅構内には商業施設「アトレ」や「エキュート」がある。これにも警戒する声が上がったが、共存共栄の視点で受け入れた。
ただし、アメ横をはじめとする上野地区の各商店街とJRなど鉄道事業者とは、対立軸の関係ではない。「上野を支える三本柱の一つが『駅』ですから、定期的に関係者で会議を開き、本音ベースで課題や対応策を話し合っています」と二木氏は説明する。
その昔、70年にテレビ番組『新日本紀行』(NHK)でアメ横を取り上げた際のタイトルが「ガード下の商魂」だったが、現在もしたたかな商人魂は健在のようだ。
●「駅」と「山」と「街」の共存共栄
ここまで紹介した事例のように、アメ横商店街という「線」ではなく、上野地区全体という「面」で関わるのが同地区の特徴だ。地区の組織図でも二木氏が会長を務める上野観光連盟が一番上にあり、傘下に各商店街が位置し、各商店街の会長は連盟では副会長として支える。観光連盟に重きを置くのは、上野と浅草という二大繁華街を抱える台東区は年間約4000万人が訪れる巨大観光地だからで、先ほどの発言に出てきた三本柱とは、以下の意味だ。
上野の商店街幹部に振興策の話を聞くと、「駅と山と街の連携」といった言い方をする。「駅」とは上野地区にあるJR(上野駅、御徒町駅)や地下鉄(上野駅、上野広小路駅、上野御徒町駅など)、そして私鉄の駅(京成上野駅)のことを指す。「山」とは上野の山(上野公園)で、「街」とは上野の商業地区を指している。
各駅に降り立って上野動物園や博物館、美術館がある山(文化ゾーン)を訪れた人に、アメ横などの街(商業ゾーン)を散策してほしい、また買い物も駅ナカショッピングモールだけで済ませずに、地域を回遊してほしいとの思いもある。
時に利害関係が対立しながらも落としどころを探り、共存共栄してきたのもアメ横の伝統だ。先述したアメ横センタービルも、老朽化が進み、防災上の問題も関係官庁より指摘された際の解決策として、80年代に関係者の合意によって再建された歴史を持つ。
現在、商店街関係者が熱い視線を注ぐのは、3月14日に開業予定の「上野東京ライン」だ。JR宇都宮線・高崎線と東海道線が相互運転で結ばれ、新たな人の流れが期待できる。「上野やアメ横を紹介するポスターも作成され、新たな人の流れが期待される横浜地区の各駅に貼り出されています」と誇らしげに語る二木氏。
かつて、東北・上越新幹線の始発・終点を東京駅に「持っていかれた」上野駅にとって、関係者の期待は熱い。その思いは、上野公園の桜がつぼみとなる頃、一段と高まりそうだ。
高井尚之/経済ジャーナリスト・経営コンサルタント
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