1. 2015年12月22日 12:47:49
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このままでは社会も個人も限界だ!認知症の介護問題 在宅介護が抱える闇、介護施設の人手問題 2015.12.22(火) 桃井 隆 前回は認知症とはどのようなものか、これから高齢者社会を迎える日本にとって、認知症が決して他人事でない現状について述べた。 今回から複数回にわたり、認知症の人たちとこの社会に私たちはどう向かい合おうとしているのか? という視点から、介護の実態について述べてみたい。 認知症と介護問題 人はいずれ寿命を迎える。これほど確かなことはない。死因の第1位は癌、2位は心疾患、3位は肺炎であるが、いずれにしても「死」は本人はもちろん、家族や関係者にとっても、不条理な、受け入れがたいものである。しかし、死を受容し、死者との別れの時間を経て、時が悲しみを癒してくれる。 それに対し、認知症は直接死に至る病ではない。介護を必要とする疾患をみてみると認知症は第2位であり(図1)要介護の疾患には、認知症とそれに関連する疾患が多数を占めている。 図1. 介護が必要となった主な原因の構成割合、上位6要因(数値出典:厚生労働省「平成22年国民生活基礎調査」/グラフ:健康づくり推進本部ワーキングチーム1 『高齢者の介護予防等の推進』のこれまでの検討状況まとめ 資料1-1より一部抜粋して使用) 拡大画像表示 高齢者の脳血管疾患や骨折転倒は約3カ月にわたる長期入院の間に、認知症になる可能性が非常に高い。認知症が直接的な死因にはならないものの、次第に症状は悪化し、介護が必要な状態は続いていく。場合によっては亡くなるまでの期間、10〜20年にわたり認知症の介護が続くこともある。 個人的な話で恐縮だが、筆者の母方の祖母は乳癌のため56歳で亡くなった。だから母も自分は50〜60歳にして乳がんで亡くなると思って生きてきたようだが、なんとやすやすとその年齢を越えて、来年1月には94歳を迎える。 そんな筆者が「大魔女」と呼ぶ母も2年ほど前、犬の散歩中に犬の動きについていけず転倒し、大腿骨を骨折した。3カ月間の入院を余儀なくされた。 前述の通り、大腿骨を骨折した高齢者は入院中に認知機能が衰え、認知症の症状を示すことがよくある。通常は急性の患者でないことから、3カ月経つと回復期病棟へ移され、リハビリを行い、通常生活への復帰を図るのだが、母は移動を断り、自宅をバリアフリーに変え、自宅からの通院でリハビリを続け、回復するに至った。 今では、認知機能も骨折前よりもシャープであり、杖をつくものの、近くでの買い物や散歩、食事に不自由さを感じていないようだ。認知症を遠ざけるうえでも、強い意思を持ってリハビリに励み、他人の世話にならないとする“生への執着”が大切なのだと感じる出来事だった。 在宅介護が抱える闇 今年は、介護にする大きなニュースが相次いだ。 記憶に新しい人も多いかと思うが、今年11月23日、47歳の娘が老夫婦(81歳の母と74歳の父)を車に乗せ、利根川に車で突っ込み、無理心中を図った悲惨な事件が報道された。母親を死亡させ、父親の自殺をほう助したとして娘は逮捕された。毎日新聞によれば逮捕された娘は「生活が苦しく、認知症の母の介護に疲れた。父親が『死にたい』と言ったので3人で川に入った」と供述しているという。 もしこれが事実とすれば、まさに現代版の『楢山節考』(深沢七郎著)である。違いがあるとすれば、楢山節考では山村の貧しい生活の中、高齢者は自らの食い扶持を減らすことで、家族の生活を守ろうとしたのに対し、現代版・楢山節考では、いつ終わるとも知れない認知症の介護に疲れ、心中の道を選んだことである。 日本の社会は大家族制が崩壊し、親の家で子供たち、孫たちが一緒に生活を共にし、爺さん、婆さんの老後を面倒みるという姿、いわゆるサザエさん的な家庭の姿が見られなくなった。少なくとも都会からは消えつつある。 もし、遠隔地に住んでいたとしても親や、夫や妻に長期の介護が必要となれば、介護離職せざるを得ない状況も起こる。年齢的にも1度、離職をすると、介護が終わったとしても、元の職場への介護前のような条件で復帰することは難しく、非正規、バイトの職を余儀なくされる。これまで本人が築き上げきたキャリアを捨てることになるケースも多い。 見かけ上は豊かに見えるこの社会で、長生きは必ずしも人々を幸せにしているとは言いきれないのは、情けない。 無届け介護ハウスで起きた事故の背景 介護に関する2つめの大きなニュースは、無届けで運営されていた介護有料老人ホーム、いわゆる「無届け介護ハウス」で起きた火災による高齢者の死であった。 介護老人ホームには、特別養護老人ホームと介護有料老人ホームの大きく2つがある。特別養護老人ホームには行政の補助が出ている。基本的には「要介護度1以上の65歳以上」の高齢者が対象だが、60〜65歳でも「初期認知症の状態にある」人は入所可能である。 月額の費用はおよそ13万円以下と比較的安価でサービスを受けられるものの、平成26年3月の集計では全国で約52万人が入所を希望している(厚労省老健局高齢支援課より)。 入居希望者が多いほど、当然待機期間は長くなる(ただし、待機者数の集計には問題も指摘されており、実際に待つ人はこの1割くらいではないかとの指摘もある:高齢者住宅新聞 2013年7月3日より)。 一方、介護有料老人ホームは介護度に関係なく入れるが、行政からの補助が出ない分、費用は高い。 初期入居一時金は不要の施設から、数百万、数千万円の施設まである。月額利用料は平均25万円前後で、その内訳は管理費、食費や光熱費、おむつなどの消耗品費やその他雑費、介護保険1割の自己負担分だ。加えて、医療機関を受診した際には医療費なども必要となる。 つまり、高齢者が年金だけで、介護有料老人ホームに入居するのは無理なのである。そこに無許可の介護老人ホームが入る余地がでてしまう。 無届け施設の多くは、費用は月々食費込みで15万円ほど、有料老人ホームの平均より10万円ほど安く、介護度に関係なく入居可能だ。しかし、認可に必要な個室環境でなく、保安、防火システムが完備されない施設が多い。 行政も申請がないことから、こうした無許可介護老人ホームの実体を把握しておらず、結果として、火災により多くの方が亡くなった。痛ましい話である。 厚労省や地域市町村の行政は、闇の世界が入り込まないように、行政と地域が連携し、地域に開かれた介護の仕方、施設の在り方のシステム構築が急がれる。 入所待ちの人たちの受け入れ施設が足りないばかりではない。むしろ、施設よりも、介護の担い手不足の方が大きな問題かもしれない。受け入れスペースはあっても、人手不足のために受け入れられない施設も多いのが現状だ。 その労力の割には、常勤でも月給は全国平均で22万円ほど。これは全産業平均より11万円も低く、離職率は17%、有効求人倍率は1月の段階で2.60倍と全産業平均の1.14倍を大きく上回る。 賃金が低いのは、介護報酬が公定価格で、要介護度に応じ、サービス内容と介護報酬が決まっているためだ。施設介護では介護報酬の6〜7割が人件費。政府は4月から介護職の賃金を1万2000円上げたようだが、入浴、排せつの介助、夜勤を考えると、まだ不十分ではないだろうか。 待ったなしの高齢化社会、高齢者、認知症の人にやさしい社会にするには、まずは介護士の給料を上げることや、ケアマネージャー以外に医療の一部を行える職種を設けるなど、さまざまなことを考えるべきではないか。 また、40〜60歳の少し人生の半ばを超えた時点で、介護をサポートすること(シニア介護システム)を条件に、将来的にその人が優先的に施設に入所できるようにするのもいい考えのように思えるが、いかがであろうか。 一人歩きする「認知症」という言葉 認知症の方は認知症と診断されたことをどう考えているのだろうか? これまであまり取り上げられてこなかった認知症の人の生の声に耳を傾ける番組が、12月13日にNHKで放送された。 認知症の問題を考える場合、固定化した「認知症」という言葉に、十分気をつける必要がある。厚労省や医学会、マスコミが流布する「認知症」という言葉の固定観念、そして一部事件やドラマとして紹介される「認知症の方とその介護の実態」は、認知症の人とその家族に大きな不安をもたらしているようである。 「認知症と診断されると、記憶がなくなり、徘徊し、暴力をふるい、脳機能全てが喪失すると思い、不安で仕方がなかった」と、認知症の方が話していた。 前回の記事でも書いたように、認知症の原因、症状はさまざまであり、また認知症と診断されてもその段階によって症状も異なる。 認知症と診断された人の苦しみを理解し、人間関係を構築し、一人ひとりにあった介護、治療をしていくことが求められている。 政府、厚生労働省は地域包括ケア、在宅介護の新オレンジ計画を推奨している。高齢者、初期の認知症の人たちの「Quality of Life」を考えて、公助だけに任せるのではなく、自助、互助、共助で介護しましょうと、「7つの柱」からなる地域包括介護システムを提唱している(認知症施策推進総合戦略より)。 介護の仕方も個々の置かれた環境や状態に応じて、多様であるべきではないだろうか。果たして、新オレンジ計画が認知症の固定観念を破り、それぞれの症状に応じた介護の仕方を提供し、認知症の人たちと共有する社会を構築することができるだろうか? 次回は、新オレンジ計画の具体的な内容と介護の現場で展開し始めたさまざまな地域支援の形について取り上げたい。http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/45581
発症を5年遅らせれば認知症患者数は半分以下に 国立長寿医療研究センター鳥羽研二理事長に聞く 2015年12月22日(火)片山 さつき 超高齢化社会に入った課題先進国、日本。人生の最期を「寝たきりや介護を受けて暮らす」人が相当数いる国とも言えます。 この課題に挑もうと提唱されたコンセプトが、IoHH(Internet of Human Health=インターネット・オブ・ヒューマンヘルス)です。IoT(モノのインターネット)のコンセプトと技術を活用し、人の健康状態や健康管理をオンタイムで可視化して予兆をつかみ、「未病」の段階で成人病や認知症を含むリスクを明確化して対応していこうという構想です。 「一億総活躍社会」の大前提といえるこのコンセプトを踏まえ、提唱者である片山さつき参議院議員が、キーパーソンと徹底討論したのが書籍『未病革命2030 予兆をつかめば社会とビジネスが変わる』。このコラムでは同書から対談の一部を抜粋して掲載します。 今回は、国立長寿医療研究センターの鳥羽研二理事長と、認知症とその予防について討論します。 片山:現在、日本の認知症の患者数は約460万人ですが、これからさらに激増していくことが予想されています。将来的にどうなると予測されているのか、それが社会に対して与えるインパクト、影響といったことからお話ししていただけますか。
鳥羽研二(とば・けんじ)氏 国立長寿医療研究センター理事長。1951年長野県生まれ。1978年東京大学医学部医学科卒業。1996年東京大学医学部助教授。2000年杏林大学医学部高齢医学主任教授。2006年杏林大学病院もの忘れセンター長兼任。2010年独立行政法人国立長寿医療研究センター病院長。2015年より国立研究開発法人国立長寿医療研究センター理事長。主な著書に『まちがいだらけのアンチエイジング』(朝日新書)、『認知症の安心生活読本』(主婦と生活社)ほか多数。(写真:陶山 勉、以下同) 鳥羽:片山さんが言われたように、約460万人の患者がいますが、予備軍もほぼ同数いるのが現状です。認知症の予防をしっかりやっていかない場合、ピークとなる2040年頃には、患者数が約900万人、予備軍も同数ということで、合わせて2000万人近くが存在することになると予測されています。社会保障では高齢者1人を何人の働く人で支えるのかという表現をよくしますよね。それで言うと、このピークのときには、3人の働く人で1人の認知症の人を支える社会が来る、というのが一番わかりやすい表現だと思います。
片山:予備軍を合わせると約2000万人になり、働く人3人に対して1人の割合になるというのはかなりインパクトのある数字で、社会に及ぼす影響も相当なものがあるでしょうね。中でも働く人3人に対して1人の割合にまで、認知症と予備軍の人が増えた場合、誰がどうやって見るかという医療と介護の問題は当然ですが、社会としてその人たちをどうやって受け止めて共生していくかという点について、早急に考えていかなければならないと思うんですが。 鳥羽:そうですね。認知症の人が踏切でひかれたとか、商店街でトラブルを起こしているというようなことはすでに起きていますが、それがより日常的に見られるような状況となった場合、社会としてそれをどうやって防いだり、うまくやっていくかということが求められるようになります。それが一番大きなインパクトかもしれません。 片山:日本の認知症の割合がこれだけ大きくなるというのは、世界的に見て特殊なケースなんですか。それとも先行事例と考えるべきなんでしょうか。 鳥羽:それは間違いなく先行です。高齢化率25%超、認知症の診断率は世界一の国ですから、どこかに範を取って、それをまねてやっていくというアプローチは難しいでしょう。 今、世界の認知症患者数は4700万人と言われています。ですから、世界的に見ると認知症の10人に1人は日本人なんですよね。ただ、欧米は進んだ人しか認定をしないので、実際には総数はもっと増え、日本の比率は下がるのではないかと思いますが、それでもかなりの割合であることは間違いありません。 ですから、医療・介護を含めた社会の体制を世界で比べても、日本は一番頑張っていると思います。ただ、そうした政府とか国全体としての取り組みを世界へ発信するという面では、残念ながらちょっと弱いと言えるかもしれません。「ディメンシア・フレンドリー・シティ(認知症にやさしい都市)」というのは世界保健機関(WHO)などでもキーワードになっており、そうしたことについて、イギリスをはじめOECD諸国の中には、日本より積極的なメッセージを出しているところもあります。 片山:医療費とか介護費への影響も大きいはずですが、どのように見ていますか。 鳥羽:介護については、寝たきりのうちの3分の1くらいを認知症が占めてきますので、相当大きなウエートになるでしょう。また、直接的な医療費というのはそれほど大きくないんですが、高齢者の急性期疾患という形で現れてくる部分は結構大きいと思います。 今、救急車の半分くらいはお年寄りが使っているんですが、中には本当は必要ではないケースがかなりあります。軽い方と中くらいの方、本当に重い方をきちんと分けて、中程度の方まではコミュニティーで診られる体制ができていれば、救急車の利用率はかなり下がるはずなんですが、実際にはそれが激増しているんです。 それに、救急車で大学病院をはじめとする高度急性期病院に行きますと、手厚い先進医療を受けるものですから、その医療費というのもうなぎ上りに増えてしまうわけです。 予防は難しいが、発症は確実に遅くすることができる 片山:認知症については、医療面、科学面、いろいろな取り組みが日本でも世界でも行われていると思いますが、予防あるいは発症を遅らせるということはできるものなんでしょうか。個人的な意見で構いませんので、お聞かせいただけますか。
鳥羽:平均的に見ると発症率は、60歳から5歳ごとに指数関数的に倍々ゲームで増えていき、90歳の時点で85%、100歳の場合に90%の人たちが認知症および予備軍になってしまいます。結核のように予防できるかというと、なかなかごく一部を除いては難しいんですね。 ただ、確実に発症を遅くすることはできるというデータがいろいろ出てきています。5年間遅らせられれば、発症せずに亡くなる方が増えますので、認知症患者の数自体は半分以下になるんです。 片山:発症を遅らせられるというのは、最近わかってきたことなんですか。それともかなり以前からわかってはいたことなんでしょうか。 鳥羽:予防の取り組みに対するエビデンスというか証拠が、最近になってだいぶ揃ってきたというふうに思いますね。例えば、カリフォルニア大学サンフランシスコ校のクリスティーネ・ヤッフェ教授の研究で、認知症の6割を占めるアルツハイマー型の発症に、どのような環境あるいは生活習慣の要素が関与しているかを解析したものがあります。 これによると、糖尿病と中年期の肥満は2%くらい、中年期の高血圧は5%くらい危険因子を増やします。さらに、危険因子を10%以上増やすものが、うつ(10%)、身体活動の不活発(13%)、高齢・現在の喫煙(14%)、それから知的活動の少なさ・教育歴の短さ(19%)となっています。最後の教育歴の短さは、認知症の発症にも関与していると言われてるんですが、子供から青年期の教育歴が短いと言っても修正しようがないことですから、これはちょっと問題ですね。 逆に、それ以外の糖尿病や高血圧の治療、あるいは社会との交流を増やしてうつを防いだり、運動して体を動かしたり、頭を使ったような知的な刺激を与えたりすることについては、認知機能の低下を防ぐという論文がたくさん出てきています。 片山:感覚的に「それはいいんだろうな」とみんなが考えていたことが、科学的に立証されてきたわけですね。病気の治療以外は、それぞれが関係している部分があると思うんですが、そういう相乗効果みたいなことはあるんですかね。 鳥羽:今年3月には「ランセット」というイギリスの医学雑誌に、糖尿病や高血圧の治療、あるいは体操や頭を使うといったことをばらばらにやるのではなく、いいものを全部一度にやったらどういう効果があるかという研究の論文が掲載されました。数千人規模で2年間観察したところ、そのようなことをやったグループは認知機能全般の低下が少なかったという結果が出ています。ただ、どういう人に効くか、その人たちをずっと長く見ていったら本当に認知症が減るのか、というところまではまだ検証されていません。 また、学問の領域としては検証できても、実生活の中で運動療法士や知的なことを励ます人とかたくさんの人がかかわってサービスするということを10年、15年にわたってやっていくのはほぼ不可能です。したがって、その知恵を実際の社会で活用して、どういうふうにやっていくかということが、一番私にとっては関心があるところですね。
片山:日本の場合、人口推計でいくと75歳以下の人数はそんなに増えないんです。いわゆる後期高齢者が爆発的に増えるんですが、そこの発症率が圧倒的に高いわけですよね。だから、鳥羽さんがおっしゃるように5歳でも発症を遅らせることができれば、10年後の2025年に最大730万人と予測されている認知症の人数を相当減らせるでしょう。 そのためにも、できるだけ早い段階で予兆をつかみ、リスクのある人には警告を発するということを社会的に進めていくことが必要だと考えているんです。 鳥羽:予防あるいは発症を遅らせるための取り組みは、40歳くらいからやった方がいいとは思うんですが、その年代の人たちが何のきっかけもなく物忘れ予防を自分の生活の中に取り入れることは、なかなか考えられません。 ですから、片山さんがおっしゃるように予兆というか、こういうことが起きたときにはそろそろ気を付けていった方がいいという警告のシグナルを見つけて、世の中に知らしめていくのは大切ではないかと思います。 原因物質がたまっても発症するとは限らない 片山:例えば、認知症の割合として最も多いアルツハイマー型についてなんですが、これは脳にアミロイドベータというタンパク質がたまり正常な神経細胞が壊れ、脳萎縮が起こることが原因とされています。 アミロイドベータは、軽度の認知症が出始める15年から20年前からたまり始めると言われていますが、それは何らかの形でわかるんですか。つまり、アルツハイマーの予兆はつかめるのかということなんですけど。 鳥羽:アミロイドがたまっているかどうかは、わかります。PET(陽電子放射断層撮影装置)を使った「アミロイドイメージング」といった方法などを使って調べるんですが、最近では私たちのところをはじめ、バイオマーカーを利用した血液検査でわかる方法が何種類も出てきていますので、従来よりも簡単にわかるようになっていくでしょうね。 片山:そうであれば、50歳とかになったら検査を義務付けて、発症のリスクを少しでも下げるべきですね。アミロイドがたまるのは仕方ないですけれども、発症のリスクを下げられる可能性があるならば、そこは徹底的にやった方がいいですよね。血液検査ならば、そう高額にもならないでしょうし。 鳥羽:アミロイドがたまって十数年してタウというタンパクを変性して、アミロイドとタウというタンパクが神経の毒性を持って細胞を壊して、一定以上細胞が壊れたときに記憶力とかの問題が出て認知症と診断される。これは間違いないんですけれども、アミロイドイメージングで調べると、健常な何の症状もない人でも20%くらいたまってるんですね、中高年では。予備軍の人は70%くらいで、アルツハイマーは100%なんですが、たまったからといって亡くなるまでにアルツハイマーになるとは限らないんです。 つまり、コグニティブリザーブ(認知機能の予備能)と言われる、ある一定の残った部分で記憶力や生活障害を賄えなくなったときに認知症とされるわけなんです。コグニティブリザーブが大きい人は病理解剖して頭の中にアミロイドがいっぱいたまっていても、死ぬまでアルツハイマーを発症しないんです。 シカゴで70歳以上の人を全部解剖するプロジェクトを行ったところ、35%の人がアルツハイマー型だったのですが、実際発症していた人は7%しかいませんでした。 片山:そうすると、アルツハイマー型の予防としては、アミロイドがたまらなくなるような薬を開発するといったもとを絶つことと、残った脳の機能を大切にして活性化させてアミロイドがたまっても認知症にならないようにするという、両方のアプローチが必要ということになりますね。 鳥羽:そうです。現時点での対応としては、もとを絶つ先制治療薬の開発などを進めつつ、残った脳の機能をいかに大切にして活性化させるかということに力を入れていく形でしょう。ですから、予防という意味でも予知という意味でも、残った部分が少なくなるわかりやすい予兆や徴候となる症状は何か、ということが一番重要になってくると思います。 それから、この問題で一つ注意しなければならないのは、たとえアミロイドの蓄積がわかったとしても、確実な予防法のメニューがない限り、その情報の扱いを慎重にしないと差別につながる可能性があるということです。 例えば、同年齢の重役候補が2人いて、Aはアミロイド陽性だけどBは陰性なのでBを選ぼう、みたいなことが起こり得ますからね。 「フレイル」は老年医学を考えるうえでの重要な概念に 片山:アルツハイマー以外のというか、認知症全般について予兆という観点で見た場合、今どのくらいのことがわかっているんですか。 鳥羽:わかりやすく言うと、足腰の弱った人はぼけやすいかという話なんです。実際に、転ぶ人はぼけているかということを数千人規模で調べたところ、やはり普通の人の1・5倍くらい認知症の人の方が多いんです。ですから、転んだり歩く速度が遅くなったりというのは、認知症の予兆にもなるということなんです。 片山:足腰が弱って、歩く速度が遅くなったというのは、最近、言われるようになった「フレイル」の概念に重なると思うんですが、つまりはフレイルが認知症の予兆とか前段階、あるいはその一部であるということなんですか。 鳥羽:フレイルというのは、今の老年医学を考えるうえで大変、重要な概念なので、まずその説明をしておきましょう。これは健常と要介護の中間にあり、足腰や頭などがおぼつかない状態のことです。これまでは老化、加齢による能力低下として放っておかれた部分でもあるんですが、科学的研究が進んだことで手をかけてあげれば健常な方へ引き戻せるんです。 (対談の続きは書籍『未病革命2030』でお読みください) (本文構成/永瀬恒夫) このコラムについて IoHHが日本を救う IoHHとは、Internet of Human Health(インターネット・オブ・ヒューマン・ヘルス)の略で、参議院議員の片山さつき氏が提唱する新しい考え方です。IoT(Internet of Things)は「モノのインターネット」のことですが、IoHHはインターネットを利用して人間の健康状態を把握し、病気を未然に防いだり、健康寿命を延ばしたりしようという考え方です。このコラムでは片山氏の近著『未病革命2030 予兆をつかめば社会とビジネスが変わる』に収録した対談から、一部を抜粋して掲載します。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/112400015/120300002/?ST=print
介護離職の先に待つ「悲惨な現実」
負のスパイラルが生む「孤独死」「老後破産」「下流老人」 2015年12月22日(火)河合 薫 2015年が、終わろうとしている。「マーティとドク」は、アメリカの人気深夜トーク番組に登場し“スマホ”に興奮してたけど、“デロリアン”から見た2015年とは、ちょっとばかり違う2015年だったように思う。
京都で61年ぶりとなる20センチもの積雪からスタートした2015年は、とにかく重かった。 フランス風刺週刊紙「シャルリー・エブド」襲撃事件、イスラム過激派組織「イスラム国(IS)」による日本人殺害事件、チュニジア首都チュニスのバルドー博物館銃撃事件、安保法案成立、東芝の不正会計問題発覚、タイ首都バンコクで連続爆破テロ事件、国内最大の指定暴力団「山口組」が分裂、フランス・パリ中心部で連続テロ事件、etc、etc……。 どれもこれも、“重い事件”ばかりだ。 中でも、“家族の重さ”を痛感させられる事件が多かった。 つい先日も、70代の男が「介護に疲れて首を絞めた」と、妻とみられる女性の遺体を車に乗せて出頭。先月には、介護状態にあった高齢の両親をクルマに乗せて無理心中を図ったとして、47歳の女性が逮捕。個人的にも、“親の変化”で……、うん、……重かった。 「夫婦別姓」に対する最高裁の判決も、家族の重さか? 現実には、旧姓で仕事を続け、出産、育児、介護と、家族としての役割を果たしている人たちはたくさんいる。 中には、離婚したあとも夫の姓を使い続ける女性たちもいる(離婚した場合、旧姓に戻すか、夫の姓で新たな戸籍を作るかが選択可能)。 理由は、仕事上の都合だ。 長年、仕事をしてきた女性が、離婚したからと旧姓に戻せば、めんどくさいことになる。 離婚したことをわざわざ他人に言いたくもなければ、「結婚おめでとう!」なんて勘違いもされたくない。私は、私。 「夫婦=家族」という、横の家族は壊れても(=離婚)、姓は一緒。 「親子=家族」という、縦の家族は、姓が異なっても家族は家族、だ。 職場は、家庭との戦いにおいて、圧倒的優位を占めているにもかかわらず、なぜ、こういうときだけ、リアルとそぐわない家族レジームを押し付けるのか。いや、押し付けているのは、企業ではなく、国だ。 「家族と仕事」ーー。なぜ、だろう。「ワークライフバランス」って書くとポジティブな感じがするのに、日本語にした途端、重たくなる。 育児と仕事、介護と仕事、病と仕事…………。 どれもこれも、とてつもなくしんどい。 とりわけ「介護離職」の先にあるモノの姿が、おぼろげに見えてきた、2015年だった。 そこで、今年最後のコラムは、「家族と仕事」について、介護の窓からアレコレ考えてみます。 74歳の父親が一家の生計を担う 「働きたいけど、介護があるから難しい。死ぬまで面倒をみる」ーー。 先月、埼玉で起きた心中事件で、逮捕された女性は(47歳)、いつもこう話してたそうだ。「やさしくてね、とても親孝行だったよ」と、近所の人は口を揃える。 母親は10年前から認知症で、女性は付きっきりで介護。一家の生計は、新聞配達をする74歳の父親が担っていたが(月収18万程度)、体調を崩し退職。 女性は警察に「母親の介護に疲れた。貯金も収入もなくなり、父から『一緒に死のう』といわれた」と話している(一部報道によると生活保護20万の支給が決まっていたらしい)。 恐らく多くの人たちが、この事件を知ったとき、せつなさと、むなしさと、他人ごとではないなぁ、という気持ちになったのではないだろうか。 かくいう私は……、なんか無性に苦しかった。74歳の父親で生計を立てていたって……。暑い日も寒い日も新聞配達をするのは、本当に大変だったと思う。 警察庁によると、介護疲れによる殺人は年間50件。毎日新聞が、介護している自分の家族を殺害した「介護殺人事件」44件を調べたところ、半数近い20件で加害者が昼夜を問わない過酷な介護生活を強いられていたことが分かった。 また、東海大学医学部の保坂隆教授らが2007年に、在宅介護者を対象に行った調査では、回答した8500人中、約4人に1人がうつ状態で、65歳以上の約3割が「死にたいと思うことがある」と回答している。 介護⇒離職、離職⇒貧困、病気⇒貧困、介護⇒孤立、介護⇒うつ、孤立⇒うつ……。これらが負のスパイラルを作り出す。 高齢者に起きる“変化”は、次から次へと予告もなしに突然に、しかも想像を遥かに超えるカタチで起こるので、“介護初心者”はうまく対処するのができない。 「良かった、もう大丈夫!」と安堵する日と、「嗚呼、どうしたらいいんだろう」と途方に暮れる日が入り乱れ、四六時中、物理的にも精神的にも振り回され、出口の見えない孤独な回廊で次第に孤立していくのである。 「うまくサービスを使いましょう!」 「介護の知識を知っておきましょう!」 「困ったときは、相談しましょう!」 介護疲れが問題になると、誰もがこう口を揃える。 だが、どんなに「相談窓口」を作ろうとも、しんどい状況に置かれている人ほど、利用できない。相談に行く時間も、金銭的余裕も、全くないのである。 おまけに、人間の“慣れる”という適応する力が負に作用し、「相談しよう」という気持ちすら湧いてこない。 ストレスには慢性的なものと急性なものがあり、介護に日常的に関わっている人に降り注ぐのは、慢性的なストレスの雨。 慢性の雨の降り始めは、冷たい。だが、シトシトと冷たい雨に濡れ続けてると、その雨の“冷たさ”に慣れ、「自分が雨に濡れている」ことを忘れてしまうのだ。 そして、何らかの急性的なストレスの雨に遭遇した途端、一気に弾ける。心の疲弊度が閾値を超え、うつになってしまったり、尋常でない行動をとってしまったり……。取り返しのつかない状況に追い込まれる。 「もう、いっか」とすべてをリセットしたくなる 周りから見たら「いつもと変わらない」ようでも、突然の雷雨に、「もう、いっか……」という気持ちになり、すべてをリセットしたくなってしまうのだ。 件の事件も、「父親の退職」が、“急性の雨”だったのかも?などと思ったりもする。「もう十分やったよ。もう、いっか」……と。介護、離職、貧困。それらすべてが、「もう、いっか」で。深い闇に足を踏み入れてしまったのだろう。 日本型福祉社会ーー。 これは1970年代後半、自民党が掲げた政策方針で、現在の“日本の福祉のカタチの原点”とされている。 日本型福祉社会では「社会福祉の担い手は、企業と家族」で、北欧に代表される「政府型」や、米国に代表される「民間(市場)型」とは異なる。 「日本は、日本らしく、独自路線で行こう! 政府でもない、民間でもない、とにもかにくも、“家族”でよろしく!」と、独自路線の福祉政策を進めたのだ。 大平正芳首相(当時)は、「家族基盤の充実」や「田園都市構想」を目標に掲げ、ことあるごとに、「家族の大切さ」を訴え続け、「家庭は社会の最も大切な中核。落ち着きと思いやりに満ち、充実した家庭こそ国民のオアシスであり、日本社会の基礎構造を作るものである」と、家族至上主義を国民に刷り込んだ。 1979年1月の国会施政方針演説では、次のように述べている。 「日本人の持つ自助・自立の精神、思いやりのある人間関係、相互扶助の仕組みを守りながら、これに適性な公的福祉を組み合わせた公正で、活力ある日本型福祉社会の実現に努めたい」と。 ふむ……。つい最近、どこかで聞いたような印象を受けるのは気のせいだろうか。 “日本型福祉社会”、家族基盤の充実、田園都市構想……、ナニかに似てる……。 ちなみに、当時の政府は日本より自殺率の高かった、スウェーデンの福祉政策を、痛烈に批判。 「スウェーデンのように国が福祉を担うと、ろくなことがない。家族のきずなが薄れ、孤独な老人を量産し、自殺、犯罪を増加させる!」 なるほど……。“デロリアン”があったら、見せてあげたかった。 数々の介護殺人事件、孤独死する高齢者、下流老人、老後破産……。 そして、教えてあげたかった。 スウェーデンの自殺率が1970年以降、順調に低下した一方で、日本は上昇し続け、2000年代に、日本はスウェーデンの2倍近くにまでなってしまったということを、だ。 実は、「日本型福祉社会」が掲げられる前、日本政府は一時的に“バラマキ大作戦”をやっている。 バラまいたのは、田中角栄。 田中角栄内閣は、1973年を「福祉元年」と命名し、「日本の社会保障を欧米並みに充実する」と宣言。 老人医療費無料制度の創設(70歳以上の高齢者の自己負担無料化) 健康保険の被扶養者の給付率の引き上げ 高額療養費制度の導入 年金の給付水準の大幅な引き上げ、物価スライド 賃金スライドの導入 などなど、離陸した飛行機がジェット気流に巻き込まれるとも知らずに、国民がうわっと飛びつく政策を実行した。 そうです。1970年代前半といえば、71年のニクソン・ショック、73年の石油ショックと、「戦後の黄金時代」が終焉を迎えた時期。 日本の福祉国家は、ただちにジェット気流に巻きこまれ、にっちもさっちもいかなくなった。 家族のつながりに育児・介護を依存 そこで「政府が無理なら、家族だ!」と、家族のつながりに育児・介護を依存する、日本型福祉社会へと舵を切ったのである。 恐らくそういった事情も関係しているのだろう。日本の社会保障レベルは、超高齢化が進んだ今でも、OECD(経済協力開発機構)諸国で最低レベル。唯一、充実しているのが「高齢者年金」だけ。 1980年以降、各国が介護・子育てなどの「家族向け支出」を伸ばす中で、日本だけは高齢者向け社会支出(年金)が突出して伸び続けた。 現政府が進める、「三世代同居政策」。 「なんでやねん!」と誰もが突っ込んだ「低額年金受給者への3万円給付」。 「これはどっち?」とワイドショーで繰り返される「軽減税率」。 どれもこれも合点いかない。「田中元首相+大平元首相=安倍首相」。うん、そういうこと。日本の福祉政策は、最初から“外”ではなく、“内”に向いた、“内”のための政治のための政策なのだ。 現在、要介護の認定を受けている人は614万人(2015年7月末時点)と、10年前に比べて1.5倍。介護職員でつくる労働組合のアンケートでは、“介護のプロ”たちの6割が、「介護と仕事を両立できると思わない」と回答した。 「職場が家庭との戦いに優位を示す」働き方が、改善される見込みもなく、介護離職する人が増えつづけ、「介護離職ゼロ」も絵に描いた餅にしか見えずーー。 なんかおかしい。とんでもなくおかしい。 「政府型」と「民間型」のミックスを 聞こえるのは、 介護⇒離職、離職⇒貧困、病気⇒貧困、介護⇒孤立、介護⇒うつ、孤立⇒うつ…の、負のスパイラルの足音だけ。 なんだが書いているだけで、具合が悪くなってきてしまったのだが、今、変えなくていつ変える? いまこそ、否定してきた北欧に代表される「政府型」と、米国に代表される「民間(市場)型」をミックスすればいいと思う。 例えば、お金のある人であれば、介護保険適用外の高額のサービスを受けることができる。 個人でヘルパーさんを雇ったり、高齢者向けマンションに転居すれば、仕事と介護の両立が可能だ。 実際、弁護士の知人は、父親を介護するのに24時間のお手伝いさんを雇っていたし、資産のある78歳の老夫婦は、「子どもには迷惑かけたくない」と、海の見える高級高齢者施設に引っ越した。 つまり、高所得者は介護離職するリスクが低い。 ならば、低所得者が優先的に、介護施設などの介護保険のサービスが受けられたり、より細かい自宅介護のサービスが受けられたりすれば、介護離職も、孤立化も、防げるのではあるまいか。 一方、所得の高い人たちが利用できる、「混合介護」施設やサービスをもっと広げていけば、介護する人にとってもありがたいし、介護職員の賃金向上も期待できる。 少なくとも「施設をただ増やす」よりも、まし。介護離職を少しだけ減らせるんじゃないだろうか。 そして、もうひとつ。企業は、これまでの「バリバリ元気で、いつでもどこでも働ける人」スタンダードをやめた方がいい。 そして、「ここを配慮してくれれば、ちゃんと働けるよ」というアメリカ障害者法の中核概念である「合理的配慮(reasonable accommodation)」を、ワークライフバランス政策として、用いるべき。2016年。光はあるのか? あってほしい。ただただそう願う、年の瀬でありました。 今年も1年間、ありがとうございました。 また、来年! よろしくお願いいたします。 このコラムについて 河合薫の新・リーダー術 上司と部下の力学 上司と部下が、職場でいい人間関係を築けるかどうか。それは、日常のコミュニケーションにかかっている。このコラムでは、上司の立場、部下の立場をふまえて、真のリーダーとは何かについて考えてみたい。 http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/opinion/15/200475/121800026/?ST=print |