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愛知県営名古屋空港から離陸したMRJ=11日午前9時35分、愛知県(本社ヘリから、竹川禎一郎撮影)
世界で戦う覚悟決めたMRJ 「やってみろ」“血判状”で始まった第一歩
http://newsbiz.yahoo.co.jp/detail?a=20151113-00000502-biz_fsi-nb
SankeiBiz 2015/11/13 10:35
抜けるような秋空に、真新しい機体が弧を描いた。11日午前、愛知県営名古屋空港。歓声や拍手が沸き起こる中、三菱航空機初代社長を務めた戸田信雄は、興奮で手を震わせながら、小さくなる機体を目で追った。胸中に浮かんだのは、13年前の秋のことだった。「納入事業者(サプライヤー)から脱却しなければ、名航は生き残れない」。2002年。当時、三菱重工業名古屋航空宇宙システム製作所(名航)所長だった戸田は、こんな危機感を感じていた。
三菱重工で航空事業の中核と期待した支援戦闘機F2は、同年8月、財政悪化を理由に防衛庁が調達数の削減を決定した。三菱重工が得意とする航空機用の材料分野には、新興国勢が参入する動きもあり、価格競争の懸念もあった。「サプライヤーのままではもうからない。完成機メーカーになりましょう」。戸田らは小型ジェット旅客機の開発案をまとめ、取締役会に提出した。背中を押したのは航空事業への危機感と、経済産業省が03年度概算要求に掲げた「環境適応型高性能小型航空機」の開発計画だ。
だが、当時社長だった西岡喬(現相談役)の腰は重かった。西岡には、かつて米国で手掛けたビジネスジェット機「MU−300」で、1800億円の赤字を出し撤退した苦い記憶がある。03年春。渋る西岡に、戸田は一通の手紙を送った。和紙に毛筆で「自らの責任で、最後までやり遂げる」との旨を記し、署名・朱印を押した“血判状”だ。「やってみろ」。ついに西岡もこう決断した。MRJの開発は、こうして動き始めた。
経産省のプロジェクトに名乗りを上げた三菱重工は、富士重工業と日本航空機開発協会と共同で、03年5月から研究開発に乗り出した。機体の軽量化や新エンジンで燃費を2割程度削減し、システムの合理化やデジタル機器で操縦を容易にする−。当初の開発コンセプトは優れた経済性や環境適合性というMRJのセールスポイントとも共通する。戸田は「世界で戦うために、航空会社が魅力的だと感じる機体にすることを重視した」と振り返る。
特に燃費を2割削減するうえで、最も性能を左右するのはエンジンの選定だ。同プロジェクトの最終年度となる2007年夏、戸田は、腰痛で入院中だった西岡の病床を訪ねた。航空機用エンジンメーカー、プラット・アンド・ホイットニー(P&W)の新型エンジンを採用する承諾を得るためだ。P&Wの新型エンジンは燃費が他社製品に比べ20%優れるが、世界で初めての採用になる。戸田はベッドに資料を広げ、熱っぽく語った。他社が使っていない新型エンジンの搭載は、航空機開発のリスクでもある。だが、ベッドから半身を起こした西岡は「それで行こう」とうなずいた。
「年率5%程度の成長により、今後20年間で約4兆ドル(約500兆円)に上る」。自民党が昨年まとめた航空ビジネスの基幹産業化に向けた提言にこうある。航空機に使われる部品点数は約300万点に上り、自動車の約100倍に及ぶ。素材や部品、搭載機器など産業への波及効果も高い。日本の航空機産業は、炭素繊維をはじめとする独自技術や、精密な加工技術などで、長く欧米の“下請け”に徹してきた。MRJの成否は、航空産業をわが国の新たな基幹産業とするための第一歩だ。
着手から13年、08年の事業化から7年がかりで初飛行にこぎ着けたMRJは、約1時間半のフライトを終え無事着陸した。戸田は三菱航空機社長の森本浩通の元に歩み寄り、固く手を握ってこうねぎらった。「よく引き継いでくれた。最高のフライトだ」。
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